第4話
ミーコの戯れる姿を眺めながら、母と二人で食事をする。
『次のニュースです』
テレビをつけたままでも、ミーコは嫌がらない。むしろ、映るものによっては興味津々だ。
『今日、』
ミーコがでんぐり返りをする。その愛くるしい動きを見て、私と母は笑った。
『――を、詐欺の疑いで逮捕しました』
途端、母の顔が強張った。母の体は銅像の様に固まったまま、視線だけがゆっくりと私に流れた。
私の顔も、強張っていたのだろう。母が何も言わないのが証拠のような気がした。
私は黙ってチャンネルを変えた。ただ画面を切り替えたかっただけなので、ボタンを一つ押しただけですぐにリモコンを手放した。
でも、それはあまり意味がなかったようだ。
『いやー、それにしても酷いですね』
『そうですね。中には、一千万円もの被害に遭われた方もいらっしゃるということですから、女性の幸せを奪った罪は重いのではないかと怒りが収まりません』
憤る二人のコメンテーターに、神妙な面持ちで頷く他の面々。二人の後ろにあるモニターには、誰か、男の顔。
『でも、この男の何が良かったんですかね。俺の方がずっとイケてるでしょ。それなら俺に貢いでよーってね』
あるコメンテーターが少しでも場を盛り上げんと思ったのだろう。理解はできるけど――。
(この人、炎上だな)
前々から、あまり好きなコメンテーターではなかった。もとは売れっ子の芸人だったらしい。知識が豊富で口が立つところを買われてコメンテーターに転向したみたいだけど、とにかく意見が浅はかで嫌いだった。
私はテレビを消した。
賢明に遊ぶミーコの声が、より鮮明な音となって聞こえた。
「あんた」
母が、恐る恐る私を呼んだ。
「……警察に行ってきたら?」
「別にいい」
私はピシャリと話題に蓋をした。でも、母は私の心情を汲んではくれなかった。
「でも、あんただって――」
「さっきの、ワイドショー観たでしょ? 中には一千万も取られた人がいるって。私はたったの百万円。わざわざ出向いたところで、適当に追い返されるに決まってる」
「でも、百万だって大金よ。あんただって被害者なことに変わりはないじゃないの」
「そうだね。でも、もういい」
「そんなこと言ってどうするの」
「お母さん」
「……なに?」
「私、どんな子供だった?」
いきなり何の話が始まったのかと、母はたじろいだ。
「どうしたの?」
声から、慎重に出ようとしているのが分かる。
「私さ、小さいころからお年玉ずっと貯めてたよね」
「ええ」
「お小遣いもさ、無駄遣いって言えるような使い方したことある?」
ないよね、と確かめると、母は口を噤んだ。
「お金はね、勝手に貯まるの」
小さなころから物欲が乏しくて、貰う以上の欲望はなかった。お金は自然に貯まっていった。
「だから」
これは、あまり言いたくない。でも今、母には絶対黙ってもらいたい。
「仏壇だって買えたし、お墓だって、建てられたよね」
『だから、もうそれ以上口出ししないでね』
そう言わなくても、母は分かったようだ。母はそれ以上、何も言わなかった。
(やっぱり、少し言いすぎたよね)
程々の睡魔に襲われながら机の前に座り、ぼんやりと後悔した。机は、小学一年生の時に買ってもらったものだ。私は未だに、その机を使っている。
私は引き出しから、小箱を取り出した。白い、本当に小さな箱。二枚貝みたいに蓋を開けると、中から銀色の細い輪が顔を覗かせた。上には小さな宝石が一つ。
綺麗な輪っかだった。これを初めて目にした時、私は世界にこれ以上の綺麗な輪っかがあるのだろうかと、本当に感激した。私が世界の主役なのだと、……勘違いした。
(でも、もう思い出したくもない)
私はすぐに蓋をしてしまうと、追い立てるようにして小箱を引き出しにしまった。いつか、お金にでも換えてしまおう。それこそ、お金が入用になった時にでも。
もう寝てしまおうか。立ち上がり、電気を消す。ぐっと伸びをしてベッドに横になった。ベッドも高校の時に買い替えてもらってから、そのままだ。
(お父さんと一緒)
父も物欲のない人だった。良く言えば一つのものをいつまでも大切に、悪く言えばその物の様相が変わろうとも無頓着に使い続ける。そんな人だった。
でも、私とは少し違う。父は形のない楽しみを好んだ。食事、映画、旅行。良く言えば経験、思い出というお金には代えられないものに、悪く言えば残らないものにお金を使ってしまう人だった。
そんな父のことだ。父はお墓の建立を考えていなかった。
『死んだ後に、金を使ってどうする』
それが口癖で、死後には最低限の葬儀代しか残していなかった。でも父が亡くなった後、母があまりにも消沈するものだから、私はお墓の建立を勧めたのだった。費用は私が出すから、と。母は専業主婦で、私財といえるだけのお金を持っていなかった。父は葬儀代とは別に母の生活費となる財産を遺したが、それをお墓の建立に使ってしまうのは父の遺志にも反するだろうし、現実的にも理想的ではないだろう。そうして、私の勝手に貯まっていたお金はいくらか減ったのだった。
溜め息が漏れる。肺の中の空気が出てしまうと、私の体は自然に丸くなった。猫みたい、と、自分の姿を俯瞰で想像する。
もし、私が警察に被害を訴えたら、警察はちゃんと私の声に耳を傾けてくれるだろうか。
小学生のころの記憶が蘇る。転がるサッカーボール。散らばった花瓶の残骸。濡れた床に投げ出された赤い花。何の花だったのかは覚えていない。
花瓶を割った犯人は、クラスのガキ大将ということになった。
でも、私は見ていた。確かにガキ大将は教室の中でサッカーをしていたけど、サッカーボールは花瓶に当たらなかったのだ。本当は、花瓶の水替えをしようとしていた女子が誤って落としてしまい、割れたのだった。
あれはタイミングが悪かった。女子が花瓶を落としたところに、ガキ大将が蹴ったサッカーボールがその女子近くのロッカーに当たったのだから。
状況を見ていなかった先生は、ガキ大将が女子の持っていた花瓶にサッカーボールを当てたのだと勘違いした。ガキ大将は違うと訴えたけど、先生は聞き入れなかった。
私は、二回、……三回ぐらい、『先生』と声を放った。
『サッカーボールがロッカーに当たったのは、花瓶が割れた後です』
それを伝えたくて、真実を伝えなければと思って、私は声を放ったのだ。
でも、先生が私の声に耳を傾けることはなかった。激昂する先生はパニックになっていて、割れた花瓶とサッカーボール、ガキ大将しか見ていなかった。
(少し、声が小さかったかなとは思うけど)
それでも、三回投げて受け取ってもらえないと分かれば、意志は砕けた。
そうして、花瓶を割った犯人は、ガキ大将に決まった。
もし私が、もう少し大きな声で先生に話しかけていたら、あのガキ大将の運命は変わっていたのかもしれない。やんちゃな子だったから、そんなもの次の日には忘れていたかもしれないけど、私は未だに覚えている。
(って、何思い出してるんだろ)
そもそも、花瓶を割ったあの子がきちんと説明しないからあんなことになったんじゃない。私は悪くないわよ。
何だかよく分からない話になってきたな、と、私は自身の思い出に蓋をした。
一度、寝返りを打つ。
もう犯人は捕まったんだから、わざわざ私が行くことない。たった百万の被害で済んだんだから。下手をすれば、今住む家――両親と暮らした思い出の場所――だって手放さなければならなくなっていたのかもしれないし。
(被害者が凡人なら、金額も並)
行ったところで、無駄足。きっと、私の声なんて届かない。
暫くは、こんな経験もないだろう。大人しくしていれば、平穏な毎日が戻ってくる。
私はミーコみたいに、より強く体を丸めた。