第2話
「うん、大きな怪我はしてないよ」
獣医さんの声に、私は胸を撫で下ろした。詳細を尋ねたところ、毛をほんの少し毟られた程度だと言う。
「でもまだ小さいからね。もしこれから飼うなら、細心の注意が必要だよ」
つまり、カラスに突かれていなくても、あのまま放っておけば消えてしまう命だったのだ。それを知った体がまた冷えた。
ひとまず問題はないということで、私は病院が用意してくれた箱に子猫を入れ、病院を出た。
私の後ろを、相変わらずカラスが付いてきていた。なんか、家を知られるのが少し怖いなと思いつつも、約束は約束だと自分に言い聞かせ歩く。
病院のスタッフさんによると、子猫の治療中、カラスはずっと病院のドアの前に立っていたらしい。電線の上とかで待てば良かったのに、カラスはずっと病院の中を見ていたそうだ。監視していたのだろうな、と私は判断した。
もしかしたら、私と子猫が別のドアから逃げてしまうのではないかと訝しんだのかもしれない。
(人を信用していないんだ)
そうだよね。野生動物だもの。人なんか信用しちゃ駄目だよ。痛い目に遭うだけだから。
私は子猫の収まる箱をぎゅっと抱きしめた。そうすると、中にいる子猫の温かさが手に伝わってくるような気がした。
家に帰ると、母が玄関で出迎えてくれた。母は私が大事そうに抱えている箱を見て、何やら勘を働かせたようだ。
「どうしたの、それ」
その口調が、何らかの事情を察しているようだった。
「うん、帰り道で、……拾っちゃったの」
勢いのまま連れて帰ってきてしまったけど、私は同居人である母から何の承諾も得ていなかったことに、今になって気づいた。
母は私の申し訳なさそうな態度を眺めると、奥に引っ込んだ。優しい母でも、これはマナー違反だと呆れたのだろう。いくら親子で、実家とはいえ、大人同士の同居にはそれなりのルールとマナーが必要だ。私はまだすまない気持ちのまま、リビングに向かった。
だが、それはありがたいことに、私の思い過ごしで終わった。
「これなんかどう?」
母は畳んでまとめていた段ボールから、いくつか見繕って戻ってきた。
「子猫を入れるならこれで十分ね」
「凄い……」
私の口から自然に言葉が零れた。私、子猫だなんて一言も言ってないのに。
驚く私に、母は穏やかな笑みを湛えた。
「分かるわよ」
そうして母は、段ボールを組み立てはじめた。
中にタオルを何枚か敷いて、簡易の猫ハウスが出来上がった。
「ひとまずはこれで大丈夫でしょ」
中に入れてみなさい。そう促す声が逸って聞こえた。
私はできるだけ音を立てないように、箱を開けた。良かった、生きてる。
安堵する私の傍から、にゅっと母の手が伸びた。慣れた手つきで子猫を掬い上げ、ふわりとタオルの中に置く。それから洗面所、奥の部屋へと移動し、財布を持って戻ってきた。
「見ててあげるから、必要なものを買ってきなさい」
財布から一万円札を一枚、私に差し出す。
「いいよ、そんな」
私は困惑しながら、母の心遣いを断った。
「まだ、貯金は残ってるし」
困惑の顔を作ったまま伝えたかったのに、少しばかり不快感を滲ませてしまった。
「それに、お金なんて暫く使うことないだろうから」
余計なことを言ってしまったと、すぐに口を噤んだ。こんなことを母に訴えて何になるんだろう。子供じみた真似をしたと、私は自己嫌悪に陥った。
「そんなこと言わないの。何が起こるか分からないんだから」
母は引き下がる様子を見せない。それでも受け取ろうとしない私。母は少しばかり顔を曇らせると、視線をゆっくり下ろしていった。
「こんなもので、誤魔化して悪いけど」
母の声にはっとなり、私は思いっきり頭を左右に振った。『とんでもない』といった心情を、十二分に分かってほしかったのだ。
「……ありがとう」
私はその一万円札を受け取った。母にこれ以上気遣わせるのは如何なものか。それでなくても今、母の精神状態はあまり良いものではないのだ。あまり母の気を煩わせたくない。それに加え、子猫のことを考えると一刻も争えないことが決め手となり、私は母の援助を受け入れた。
ペットショップで先程獣医に勧められた一式を購入し、家路に就いた。
段ボール箱の中を覗くと、母が湯たんぽを中に入れてくれていた。随分、手際がいい。子猫が体温調節できないことを知っていたのかと驚いた。
すぐにミルクを用意して飲ませた。子猫はぐんぐんという音が聞こえるのではないかと思うほどにミルクを吸い込んでいった。
(逞しいな。あんなにか細い声で鳴いていたのに)
彼女から、『生きてやる』という声が聞こえた気がした。
お腹が樽の様になった子猫は、すぐに寝てしまった。やっと、一息つく。母と一緒に、安心しきった様子で眠る子猫を眺めた。
「これからが大変だよ」
「うん」
これから二、三時間おきにミルクと排泄の世話だ。休職中で良かった。
「でも、お母さんも手伝うから、気負わなくてもいいわよ」
頼もしい声。久しぶりに、生気が籠もる母の声を聞いた気がした。
「うん、ありがとう」
私も母の声に応えるように、穏やかながらも強く返事をした。
子猫の顔を眺めほっこりする。コツン、と掃き出し窓に何かが当たる音が聞こえたけど、気にせず子猫の寝顔を眺めた。
以前、母に夕食を作った。母ほど上手には作れなかったけど、どうしようもなく不出来なものでもなかった。適当に形が揃う程度のものを作って、私は部屋にいる母を呼びに行った。
「ご飯できたよ」
でも母は、部屋の奥でぼんやりしたまま。
「ご飯、できたよ」
同じ音を零せば、母はゆらりと私に顔をやった。
「ええ、またね」
その返答に、体が強張った。もしかしたら母は、ふさぎ込むあまり若年性の認知症になってしまったのではないか。その発想に、恐怖を覚えたのだった。
私は母の顔を覗った。母も穏やかな眼で子猫を眺めている。
良かった。あの時は本当に肝が冷えたけど、母はだんだんと良くなっている。
その微睡むような心地よさを、警告音の様な声が裂いた。
「カー!」
窓に目をやれば、一羽のカラスが睨んでいた。さっきの何かが窓に当たる音は、カラスが突いていたからだったのだ。
忘れてた! ご飯をあげる約束をしていたんだ!
「ごめんね!」
私は慌ててキッチンに走り、すぐにカラスのご飯の準備にかかった。
私は冷蔵庫から様々な食材を少しずつ頂き、豆腐の入っていたプラスチックの容器に盛り付けた。カラスって何でも食べるっていうイメージがあるけど、大丈夫かな。ゴミを漁って食べるのは自己責任だけど、私があげたご飯で体調不良を起こされたら私の責任のような気がして、不安なのは否めない。
庭で待つカラスの前に、警戒しながら容器を置いてみた。するとカラスは『おせーんだよ』と言わんばかりに、乱暴に容器の食材を突きはじめた。
カラスは程々に食い尽くしてしまうと、すぐに飛び去ってしまった。多分、明日も来るんだよね?
「あんた、何してるの?」
後ろから声がした。
「カラスに餌をあげていたの」
「カラスに⁉ 駄目よ、そんなことしたら」
「うん、分かってるんだけど」
私は母にこれまでの成り行きを説明した。母はあまり良い顔をしなかったけど、ひとまず「そういうことなら」と納得してくれた。もしかしたら、後々問題が生じた時にまた考えればいいと判断したのかもしれない。私はまた母に礼を言った。