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第1話

 市役所に勤めはじめて、五年が経った。ある小さな町で生まれて、近所の幼稚園に入って、同じく近所の小学校に入学。そのまま流れるように地元の中学、高校へと進み、その後、家から通える公立大学に進学した。家族仲は良く、外での人間関係もそれなりで。平凡だなと思いながら今まで欠伸の出るような人生を歩んできたけれど、いざ事が起これば凡人の私はその非凡に万全の対処ができず、平凡のありがたみを知ることとなった。


 非凡が人を非凡にさせるのか、非凡な人には非凡な運命が待ち受けているのか。どちらが卵でどちらが鶏なのか分からないけど、私は自分が凡人であってほしいと願う。




 今、私は少し訳あって、休職中の身だ。平日の街をぶらりと散歩する。途中、スーパーに寄って気になったお菓子をいくつか買い、また街を歩いた。歩調に合わせて白いビニール袋が揺れる。私がいつも無機質な箱の中で働いている時、世間はこんな色をしているのかと気に留めながら、街を歩いたのだ。




「カー!」


 家までの帰り道に、カラスがいた。一羽のカラスが何かを懸命に突いている。どうせ、ゴミだろう。この辺もカラスが増えた。どこかのゴミ捨て場から引っ張り出してきたのか、マナーの悪い人が落としたものなのか。どちらにせよ、あまり気持ちの良い光景ではないと捉えつつ、私はカラスの邪魔をしないように傍を通り過ぎることにした。


 突いているのは何だろう。何かべちょべちょのティッシュや布みたいに見えるけど。


 私の両目がこれでもかと言わんばかりに開いた。カラスが懸命に突くのは、ティッシュじゃない。「ミー、ミー」と、今にも消え入りそうな細い音が塊から漏れている。


(猫だ!)


「ちょっと、やめて!」


 白い塊の正体を認識するや否や、私はカラスに強い声を放っていた。


 時既に遅し。私はそのカラスにしっかりと睨まれた。


『なんだ、てめぇ。人の食事を邪魔しようってのか』


 目が確実にそう言っている。どうしよう。このままサッと子猫を拾い上げて逃げてしまおうか。……でも私、運動音痴だし。そんなのできそうにない。拾い上げるのを失敗してそのまま転んで、子猫をプチって……。


(あー、そんなの駄目!)


 頭の中で絶叫する。でも、このまま子猫を放っておけない。


『お食事中すみませんでしたー。ごゆっくり』


 ――なんて、通り過ぎるわけにはいかない。


 私は必死に自分を奮い起こした。


 相手はカラス一匹じゃないの。ヤンキーの群れじゃないんだから。今手に持っている鞄を振り回せば、カラスを撃退できるんじゃない?


(いや、それは無謀すぎる)


 下手にカラスを刺激して、頭をエンターキーかスペースキーの様に突かれて。血まみれで家に帰るなんてあまりに無様だ。


「カァー」


 カラスが唸った。カラスは鼻で笑うように一度(くちばし)を揺らすと、また子猫を突きはじめた。


『用がないなら、とっとと消えろ』


 そう言わんばかりに、私を自分の世界から消してしまったのだ。


「ミ、ミ……」


 嘴で小突かれて、震えながら声を上げる子猫。その短い音が『助けて』と言っているみたいに響く。


 でも、駄目。いくらカラス相手でも、私喧嘩なんてできないわよ。私、本当に、平凡に生きてきたんだもの。肉弾戦なんて勿論経験がないし、反対に絡まれたこともないのよ。肉体的には被害者にも加害者にもなったことがないの。こんな私にとっては、カラスだってヤンキーレベルよ。


 私が手を差し出せば、カラスの嘴は私の手に向くだろう。あの鋭い漆黒の凶器が、私の手の甲にめり込む光景が浮かぶ。思わず脳が震え、私の手の甲が妙な痙攣を起こした。


 でも、このまま放っておけば、脳の光景にある私の手が、猫に変わってしまうだけだ。


 子猫がこちらを見ていた。まだ目は開いていない。つまり、子猫は私に顔をやっただけで、物理的には見えていないのだろうけど、私は子猫に『見られた』という心境に陥った。


(生まれたてじゃないの?)


 私の心臓がますます縮こまった。駄目だ、やっぱり駄目。放っておけない。ああ、もう、どうしたらいいの⁉


 頭の中にカラフルな抽象画が広がって、ぐるぐる回りだす。ああ、どうしたら。


「あなたも家にいらっしゃい!」


 私の口から飛び出た音だったのだろう。その音と同時に、私はカラフルな抽象画の世界から帰ってくることができた。私の背を、冷たい水滴が伝い落ちる。


(私、何言ってるの?)


 カラスは飼えないのよ。それくらい知っているでしょ。改めて自分を諭し、私は自身の声に頷いた。


「えっと、だから。あなたにもご飯をあげるから、その子を私に譲って」


 少しまともな交渉となってきた、と手応えを感じる。


 カラスはまたもや私に視線を寄越した。じっと見つめてくるので、私もじっと見つめ返す。するとカラスは二、三歩後ろに跳び、子猫から離れた。


『その話、乗った』


 そういうことなのだろうと判断し、私は子猫を拾い上げた。やはりそのとおりだったようで、カラスは私に攻撃的な姿勢を見せなかった。


 小さな体が、私の手の中で震えていた。本当に小さい。


(これはまず、動物病院に行かなきゃ)


 近くにあるだろうか。私は子猫を片手に、もう片方の手でスマホを操作した。


(あった。ここからなら、歩いて五分か)


 私は地図を頭に叩き込み、スマホを鞄にしまった。


 無言で歩き出したのが良くなかったのだろう。


「カーッ!」


 突如、カラスの鋭い鳴き声が私の背を殴りつけた。その反動で、私の体は電流を通されたかのように跳ねた。


「どうしたの?」


 恐る恐る振り返る。カラスが睨んでいる気がした。


『詳しい話がまだなんだけど?』


 目が、そう訴えている。通じるものなのだろうかと半信半疑のまま、私はカラスに事情を説明した。


「まずは、動物病院に行きましょう。そこでこの子を治療してもらって、それからご飯。分かった?」


 するとカラスは大人しくなり、私の後を付いてきた。どうやら、分かってくれたみたい。カラスは賢いって聞くけど、本当なのね。


 そうして私たちは、一番近い動物病院に向かった。




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