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狼の贄~念真流寂滅抄~  作者: 筑前助広
第四章 穢土の闇
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第三回 血の病①

 蕎麦は、夜須の方が旨い。

 そんな事を考えながら、清記は出された蕎麦を啜っていた。

 鉄砲洲の本湊町ほんみなとちょう。〔蕎麦六そばろく〕という名の店の二階だった。五畳一間の小さなもので、昼を過ぎたからか他の客の姿は無い。

 清記は、蕎麦六の自慢である天麩羅蕎麦を汁まで飲み干すと、窓の外に目を向けた。

 左の前方の眼下には、阿波屋の屋敷がある。阿波屋は船荷問屋で、主人は嘉兵衛という男である。その男の名も、梅岳に渡された名簿の中にあった。


「今日も動きはないな」


 向かいに座っていた乙吉が、卵を落としただけの月見蕎麦を啜りながら言った。清記も乙吉も、浪人風の変装をしている。


「用心深い男だ」

「左様。動かないのなら動かすまで、とはいかぬ」


 乙吉は、喋り方まで浪人風に変えていた。この辺りは抜かりはない。


「下手をすれば、返り討ちか」

「それもあり得るな。それに、こちらが何処の誰であるか、悟られてはならん」

「ふむ」

「しかし、これも想定の内だ」


 阿波屋嘉兵衛あわや かへえは、今までの標的マトに比べて格というものが違った。踏んできた修羅場が違うというべきか、備えは万全で隙を見せないのだ。調べてみると、今でこそ船荷問屋であるが若い頃は海賊の真似事もしていたのだという。悪事で磨いた五感が、清記を寄せ付けないのかもしれない。


「江戸の裏でも、ちょっと知れた男だ」

「〔赤鬼の嘉兵衛〕か」


 乙吉が頷いた。

 赤銅色しゃくどういろに潮焼けした顔を赤鬼に例えられて、そう呼ばれている。しかし孫娘が鬼は嫌だと言うので、そう呼ぶと嘉兵衛は怒るという噂だった。

 歳は今年で五十九と聞いている。店の差配こそ長男の又平に任せてはいるが、未だ商いの全体を嘉兵衛が見ていて、譲るという気はないらしい。


「若い頃は猪突猛進。だは今は、年相応の慎重さと猜疑心を持っている」

「それなりの男というわけか」

「此度が山だ、平山殿」

「わかっているよ」

「しくじりは許されん」


 清記は、腕を組んで深い溜息をついた。こうも引っ込んでしまえば、手出しのしようが無い。外出時には、勘の良い護衛を必ず引き連れている。

 名簿にある名前は、あと二人だった。


「やはり、あれをやるしかないと思うが?」


 乙吉が確かめるように訊いてきた。

 それは、乙吉が立案した計画だった。それは清記にとって、選びたくはない選択肢だった。しかし、だからとて他に名案があるわけでもない。しかも、菊原に急ぐように言われたばかりなのだ。


「やるしかないか」


 絞り出すような声で、清記は応えた。

 畜生の所業だ。それを阻止しようと思ったが、何も出来なかった。そして迫られた決断。口惜しさよりも無力感しかない。


(自分は畜生だ)


 そう言い聞かせる。今さら何を迷う事があるだろうか。これが役目なのだと、割り切るしかない。役目を終えれば夜須に帰る事が出来るかもしれない。


「では、これから私は準備を始める。全てが整えば、声を掛ける。穴水殿にも」

「いつほどになるだろうか?」

「三日、いえ二日後かな。だが、全てはあちら次第だ」

「そうか」


 店を出た清記は、阿波屋の前で足を止めた。

 十代の奉公人が頻繁に出入りし、女中が店の前を掃き清めている。活気のある、いい店だった。元は海賊。そして裏の顔もある。しかし、それに加わっている者は一部に過ぎない。その一部を始末する為に、この店で生きる者の全てを潰すのだと思うと、気分が暗くなった。

 清記は溜息をついて、夜須藩邸へ向かって歩き出した。

 憂鬱な気分が続いていた。中西道場へ行けば多少気は晴れるが、それでも息が詰まる日々から逃れる事は出来ない。江戸の全てが合わないのだろう。


(此処には嫌な記憶しか残らなさそうだな……)


 清記は自嘲して鼻を鳴らした。

 今回の阿波屋の殺し。暗殺は難しく、そして菊原が急いている。そこで乙吉が一策を提案してきた。盗賊を装って阿波屋へ忍び入り、全員を殺す。しかも、本当に銭を盗み出すのだという。暗殺を疑われない為に、盗賊の畜生働きをするのだ。

 それを避けたくて、三日と半日あまり嘉兵衛を追っていたのだが、暗殺の機会は全くと言っていいほどに無かった。


(仕方ない、と思えたらどんなに楽だろうか)


 人の命を奪うのだ。仕方ないで済まされないという事も、嫌というほどわかっている。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「待ちなよ」


 八丁堀を過ぎて真福寺橋しんぷくじばしの中頃に至った辺りで、背後から声を掛けられた。足を止めると、着流しに深編笠の男が懐手に立っていた。


「お前、江戸前の蕎麦を食べ歩いているのかい?」

「私は夜須の蕎麦の方が好きですね」

「その割には、長いこと店にいたようだが。俺はてっきり、蕎麦湯で一杯傾けていたのかと思ったぜ」


 と、右手で猪口を傾けるような仕草を見せた。


「私を張っていたのですか?」

「たまたまさ」

「あなたというお人は」


 清記は呆れ気味に言った。

 深編笠の男。声色ですぐにわかった。男が庇を上げると、帯刀の笑みがそこにあった。


「久し振りというほどでもねぇか」


 顔を合わせるのは、右京が暴れたあの日以来である。


「お元気そうで」

「そうかい? 相変わらず、ふらふらとしているだけよ。だから、疲れもしねぇ」


 帯刀は生まれも育ちも江戸で、若宮庄に戻る事は殆どない。誰に聞いて何もしていないというので、その言葉はあながち間違いではないのかもしれない。

 帯刀は真福寺橋の欄干に、背を預けた。此処で話そうというわけか。清記も帯刀に並んだ。


「そういえば、お前は蘭学にも興味あるのかい?」


 蘭学。そう聞いて浮かぶ顔は、一つしかなかった。

 しかし、帯刀がどうして蘭学と言い出したのか? 自分と蘭学を結ぶものは、あの男しかいない。


「学問は嫌いではありませんよ」

「安川平蔵にも、色々教えてもらったかい?」


 やはり。清記は、動揺を隠そうと目を軽く伏せた。

 帯刀は、確実に知っている。梅岳の命を受けて、江戸で何をしているのかを。

 しかし、帯刀が知っていた何がどうなるのだ? とも思う。そもそも、今回のお役目がどんな理由で行われているのかすら、清記にはわからないのだ。


「さて、何の事でしょう」

「おっと、そう来たか」


 帯刀が振り返り、欄干から川を見下ろすような恰好になった。清記も目をやったが、橋の下では猪牙舟が何艘も行き来をしている。

 帯刀が、何故探っているのか? 探っているという辺り、味方ではないのは確かだろう。ならば敵か? だが、それにしては無防備過ぎる。


(やはり、この男は度し難い)


 根っからの風来坊という評判通りの男である。


「まぁいいさ。これから蘭学は重要になる。兄貴は有望な若者を長崎に遊学させると言うし、お前が学ぶのは悪くねぇよ」

「何をおっしゃるのですか。蘭学には興味ありますが、今は剣です」

「そうだったな。噂で聞いたぜ? 剣ではどうにもならぬ世だというのに、道場に通って剣に励んでいると」

「有り難い事に、これがお役目ですので」

「そうだった、そうだった。剣術修行だったな、お前が江戸に来た〔名目〕は」

「〔名目〕ではありませんよ、それが本分です」

「好きなんだねぇ、剣が。まぁ、親譲りかな」

「江戸に来て、そう思えるようになりました」

「国元では無理か」


 夜須で血を吸い過ぎている。その言葉が喉まで出かかり、口を塞いだ。


「平山、今から俺に付き合ってくれ」

「それは構いませぬが、何処へ?」

「下屋敷だ。野暮用がある」

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