87 月下
黒枠の円。
その黒枠の円の中も、真っ黒で、何も見えていない。
やがて、僅かに風が漂ってくる。
その風に、夜の空の覆っていた雲が流されて、満月が顔を出した。
それと同時に、黒枠の円の中に、月光をあびた廃村の姿が浮かび上がってくる。
「月が……、でてきたな」
海賊映画にでてくるような筒状の小さな望遠鏡を片目で覗き込んで、少し離れた丘の上から廃村を見つめる男が呟いた。
月光を浴びて、うっすらと暗闇に浮かぶ廃村を、眺める者
それは、グルキュフだった。
彼の後ろには、『水と炎の旅団』のメンバーも揃っている。
グルキュフは、更に、じっと月明かりに浮かぶ廃村を見つめ続ける。
その後ろ姿にむかって、クラウディアが少し苛立った感じで声をかける。
「グルキュフ、本当にいいのか?
あのキンとか言うサル顔の差別野郎にエイシャ様を任せてしまって、廃村を出てきたが。
今後、どうするつもりなんだ?」
だがグルキュフは答えない。
ただ、じっと、月光を浴びて浮かび上がる廃村を見つめ続けていた。
――――――
「ここか」
『月下の戦士団』リーダーの、ルードが呟く。
そこは廃村の門の前だった。
廃村は、周りを丸太の杭で構成された壁で周りをぐるりと囲まれており、入り口はこの門しかない。
この村の守りの要とも言うべき、その門は開け放たれたままで、その周辺にも誰も立っていない。
門の左右には、多少崩れかかっているが、まだまだ十分に使用可能な物見の塔が立っているのだが、そこにも人はいない。
ただ静寂だけが、廃村を包んでいる。
だが、解るぜ。
ルードは、呟く。
この廃村の中で、ひっそりと息を潜めて……
待ち構えているのが、俺には、解ってるぜ。
ルードは鼻をヒクヒクとさせて、廃村の中に漂ういくつもの臭いを窺う。
積もった誇りの臭いに混じって、廃村には無いはずの、食事の後の臭いや、酒の臭いや、残り火の臭いや、油の臭いが、僅かに漂っている。
そして、百人程の人の、汗くさいにおいが、吐き気がする程に強く臭ってくる。
ただ……、若干、予想とは違うな。
ルードは眉をひそめる。
たしかに、エイシャらしき処女の臭いはある。
昔、ダーヴァの街の公爵の依頼を受けて魔物を倒した時に、晩餐会にゲストとして呼ばれたことがある。
その時に、一度エイシャ様に会った事があり、臭いを嗅いだ事があるのでたぶん間違いない。
廃村の奥から、僅かにその臭いが漂ってきている。
だが、昔から知っているグルキュフの気障ったらしい臭いが、無い。
エイシャとか言う小娘はいるのに、グルキュフはいない? 別の所に居るのか?
『水と炎の旅団』のかわりに、百人程の人種が守りについているのか?
それに、こんな門を開け放って、中に誘うなんて、罠にしても露骨すぎるだろう?
どういうことだ?
グルキュフは、俺達『月下の戦士団』相手に、隠れても無駄なことくらい知っているはずなのだが。
彼はもちろんグルキュフと、キンとの間であった、やり取りを知らない。
"サル顔の差別主義者"キンと、彼が率いる百人程の槍兵の存在自体、完全に想定外の出来事だ。
彼らの存在すら知らなかったし、ぎゃくにキンの方も、『月下の戦士団』の事を知らない。
ふん。まあ、いい。
考えるだけ無駄だ。
全員ぶっ殺して、エイシャとか言う小娘を奪えばいいだけのことだ。
元々、魔物退治の専門家である彼は、あまり策略というものが得意ではない。
「いくぞ、ライカール、バスデン。一応用心しろよ。
特にバスデン。いい加減、パンケーキを食うのを止めろ」
後ろの兄弟たちに声をかける。
次男のバスデンは、『まかせろ』と、必要以上に鼻息荒く気合を入れて
三男のライカールは、あわてて食べかけのパンケーキを、そのまま、腰の皮袋へと突っ込んだ。
兄弟たちの後ろには、さらに三人の奴隷女剣士が付いて来ている。
だが、ルードはもちろん、彼女達に声など掛けはしない。殆どその存在を無視するかのような扱いだった。
月下の戦士団が、廃村の中へと入っていく。
廃村の真ん中を貫く"表通り"とでも言うべき道を、警戒しながらゆっくりと歩く。
道の脇には商店らしき建物や、元酒場らしき建物が並んでいる。昔はそれなりに栄えた村だったのだろう。
辺りは静かだ。動物の鳴き声も、風の音も殆どしない。
捕食者が、静かに息を潜めて獲物を待つ。そのことを感じさせる不自然な程の静けさだった。
それでも月下の戦士団は、進み続ける。
突然。
表通りを半分ぐらい進んだ所で、前方に、左右の建物から兵が姿を表す。
五十人程の兵士が、すぐさま肩と肩が触れるくらいの密集隊列を組み、槍を構えていく。
簡易的ではあるが長槍密集陣形を作り上げられた。
前方だけで無い。
後方にも兵が姿を表す。
そして、やはり簡易的ではあるが長槍密集陣形を作りあげた。
左右は廃墟ながらもしっかりした木の建物に挟まれている。
前後を長槍密集陣形に挟撃された形だ。
ほう、これが長槍密集陣形か。
ルードが呟く。
魔物退治の専門家であるルードは、軍隊が集団でつくり挙げる長槍密集陣形と、実際に対峙するのは始めてだ。しかし、その陣形の強固さを知識として知らないはずはない。
それでも、ルードはまったく慌てた様子がない。
「おい、女共」
ルードは三人の奴隷女剣士達に声を掛ける。
声を掛けられた彼女達は、ビクリと体を震わせた。
「とりあえず、あの長槍密集陣形が、どの程度の強さか調べて来い」
「……調べるというのは、……どの様にして調べればよろしいでしょうか」
女奴隷の一人が、無表情に、感情も押し殺したような声で質問をする。
その質問にルードは冷淡に答えた。
「決まってるだろう。
いつもどおり、まずお前らが切りかかって様子を見るんだよ。さっさと行け」
ルードにとって、女奴隷剣士達は、使い捨ての駒、兼、遠征中の性処理相手でしかない。
今までも、新しい魔物と出会った時は彼女達に先に戦わせていた。
知っている魔物というのは、その特性に合わせ、ちゃんと対処方を行えば、比較的簡単に勝てるものだ。
毒を使うなら毒消しを、魔法を使うなら抵抗魔法を、特性があるならばその特性に合わせた攻撃を、それぞれ準備さえすれば殆ど問題なく勝利できる。
逆に知らない魔物と戦う場合、不意に思いもよらぬ攻撃で、あっさりと殺されてしまう事は冒険者たちには良くあることだった。
だから、とりあえず女奴隷を戦わせる。
女奴隷達が、魔物に勝とうが負けようが、それはあまり重要ではない。
その魔物がどれくらい強いのか、どんな戦い方をするのか様子を見るために戦わせるのだ。
結果として、女奴隷が魔物に負けようがどんな酷い目に会おうが、とにかく生き残れば、また連れて行って道具として使う。
死んだらそれまで。また別の戦闘奴隷を買うだけだ。
その様に今まで、何十人という戦闘奴隷を、使い捨てしてきた。
酷い扱いのように感じるが、だが、これがほぼ一般的な戦闘奴隷の扱い方だ。
冒険者にとっての戦闘奴隷とは、"使う捨てできる戦力"に、他ならない。
パーティーの中で、奴隷身分の者を同等に扱う、勇一やグルキュフの方が例外なのだった。
この女奴隷三人は、かなり強い。
何度も未知の魔物相手と戦わせられながらも、今までかなり長い期間を生き伸びてきている。
元々値段も高い、剣の実力のある戦闘奴隷であったし、さらに何度も死地をくぐるような経験をつみ、生半可な剣士では歯が立たない程の実力となっている。
そんな、彼女達だからこそ解っていた。
たった三人の剣士が長槍密集陣形を組んだ槍兵相手に何も出来ぬ事を。
だが、もちろん彼女達に選択肢など無い。
剣を構え、槍兵が組む長槍密集陣形へと向かって一歩進み出る。
先頭にいた女奴隷が、ルードには聞こえぬように、他の二人に向かって小さく呟いた。
「奴隷の娘として生まれ……ずっと奴隷として生きてきた私の人生は録でもないものだった。
だが、ルールン、リルア、お前達二人と一緒に戦い、一緒に死ねる事だけは、誇りに思う」
ルールン、リルアと呼ばれた二人の奴隷も小さく頷く。
もちろん彼女達も思いは一緒だった。
「何してる、さっさと行け」
御主人様からの命令が、後ろから聞こえてきた。
うおぉぉおおおおおおおぉおおお。
三人の奴隷剣士は雄叫びを上げる。
長槍密集陣形を組んだ槍兵へと突っ込んでいく。
「前方へ!」
キンが、猿のような顔を真っ赤にして叫ぶ。
「「「ライ、ライ、ライ、ライ」」」
長槍を構えた兵士が、掛け声に合わせ足幅をそろえて前方へと歩みだす。
何十本という長槍が、女奴隷達の突撃を迎え撃つ。
彼女達の実力なら、1~2本くらいの槍なら、かわせるだろう。だが、何十本もの槍をすべてかわすことなど不可能だ。
彼女達の体に、槍が突き刺さり、その突進を止める。
それでも彼女達は、必死に剣を振って切りつけようとする。だが、その剣先は 槍兵に届きもしない。
次々と長槍が、無情に彼女達の体を貫いていった。
かなりの腕前だった女奴隷剣士三人を、一人一人はとても強いと思えない槍兵の集団が、一方的に刺し殺す。
その光景に、ルードは思わず感嘆の思いが湧いてきた。
ほう。
話には聞いて解っていたつもりだが、改めてこうやって見てみると、本当に長槍密集陣形は、強いんだな。
くくっくっくっく
キンは笑いが止まらない。
差別すべき下賎の身の冒険者を、力でねじふせ、自分こそが上だと言う確認する行為に、彼は興奮している。
さらに、美しい女奴隷達の肉体が、自分の槍兵達に貫かれ無残に死んでいく様を見て、ひそかに歪んだ性的興奮も感じていた。
今まで感じた事のない程の、かりそめの無敵感と性的興奮が、彼を包み込んでいる。
猿のような顔を歪めながら、叫んだ。
「長槍密集陣形を組んだ槍兵相手に、突破できるはずがなかろう。
たかが数人の冒険者風情が!
下賎なるその身の程をわきまえながら、死ね!!」
がはははっはははははは
ルードも大笑いする。
「必死になって知恵をしぼって考えた結果が、そのハリネズミの真似事か。
たかが弱っちぃ人種風情が!
下等生物らしく、震えながら、死ね!!」
不意にルードの体が変化しだした。
其の体がムクムクと膨れ上がり服をつきやぶり、さらけ出した皮膚を無数の体毛が覆っていく。
口が大きく裂け、前方へせりだし、牙が伸びる。
ぐぉおおおおおおおおぉおおおおおお!
ルードが吼える。
空に浮かぶ満月に向かって雄叫びをあげる。
月光に浮かぶ、そのシルエットは、すでに人の形をしていない。
彼の真の姿。
それは狼男だった。
もちろん変化したのはルードだけではない。
その後ろにいる、ライカールとバスデンも、その姿を変化させている。
眼は血走り、口を大きく開き、牙を剥き、咆哮をあげる。
その姿を見てキンは眼が飛び出さんばかりに驚愕する。
「ば、化物! くそ、ひ、怯むな。進め、進め、槍で貫け!
前方へ!!」
たとえ、化け物とて、長槍密集陣形は突破できないはず。
仲間達と肩が触れ合うぐらいに密集し、槍で作られた壁の中のいる限り大丈夫だ。
そう縋るように信じて長槍を構えた兵士が、恐怖を押し殺して、掛け声に合わせ足幅をそろえて前方へと歩みだす。
「「「ライ、ライ、ライ、ライ」」」
その希望的観測を打ち破るように、狼男と化したライカールとバスデンが 横の建物に飛びつき、壁に爪を建て、スルスルと登っていく。
建物の屋根の上へと到達したかと思うと、そのまま屋根沿いに移動していった。
あれよあれよと言う間に、ライカールトが前方の槍兵達の後ろへ、バスデンが後方の槍兵達の後ろへと、飛び降りた。
あっという間に、後方へ回られた槍兵達は、混乱に陥る。
長槍密集陣形は前方に対しては、非常に堅個な構えである、
だが、5mもある長槍をかまえ、肩が触れ合うほどに密集した兵士達は、後ろへ振り返る事すら難しい。
無防備な背中を、狼男と化したライカールとバスデン、いや、強大な化物に晒してしまう。
毛むくじゃらで長い爪の生えた太い腕が、振り下ろされるたびに、兵士達が切り裂かれていく。
ぐおおおおおおおおぉおおお!
ルードが咆哮を挙げる。
槍兵達が混乱して、僅かに陣形が崩れた所へ、正面から突っ込んできた。
『まさか!』
槍兵達が驚愕する。
わざわざ正面から突っ込んでくるなんて?!
あわてて兵士達は、突撃する化物へと何十本という槍を突き出す。
だが、無駄だった。
その化物は、巨大な爪の生えた太い腕を一振りして、槍をバキバキと叩き折る。
すべての槍を叩きおれた訳ではなく、数本は、その体に突き刺さろうとした。だが、堅く深い体毛の覆われた体に、槍は簡単には突き刺さらない。僅かに化物の体に傷をつけた槍もあったが、もちろん、そんなかすり傷程度、突進は止められない。
ルードは、更に一歩踏み込み、太い腕を振るい、前方の兵士を吹き飛ばす。
圧倒的な強さ。
半獣半人の狼男。
その身体能力は、一般的な人種を、大きく上回っていた。
種族としての根本的な強さが、違いすぎる。
その上、ルード達は経験も豊富で、戦う技術も兼ね備えている。
化物の力を持ち、人の知恵を持つ、冒険者パーティー『月下の戦士団』
リーダーのルード・ダン・フリット
次男のライカールト、三男のバスデン。
月光の下で、彼らは無類の強さを誇る、最強の戦士と化すのだった。
キンの率いる槍兵達は、あくまで軍隊としての訓練しか受けていない。
軍勢として、一人一人の個性は消し去り、すべての兵士が同じ槍を構え足並みを揃え一つの塊と化すことによって強さを発揮する。
そして、今までは、この戦術で、敵に勝ってきた。
だが、もちろん長槍密集陣形はあくまで対人の戦術であって、こんな人並み外れた強さと速さを持った化物を相手にすることなど想定していない。
密集しているが故に自由が利かず、物凄い速さで動きまわるルードについてゆく事すら出来ていなかった。
次々と、兵士達が打ち倒されていく。
もはや、戦いになっていない。
それは、強者が弱者を狩る、一方的な"狩り"だった。
――――――
そろそろ、だな。
その様子を、遠くから見ていたグルキュフが念話魔法で指示を出す。
『やれ』
紅蓮の炎が走る。
浮遊術で空中に浮かんでいたリィの、その指先から、紅蓮の炎が噴出された。
更に、他の『水と炎の旅団』のメンバーが、続々と火矢を打ち込んでいく。
その炎が、廃村の建物に次々と引火する。
さらに、廃墟の中に用意しておいた油の入った壷にも、引火していき、あっと言う間に業火となり、廃村全体を包み込む。
な?! なんだぁ?
ルードが驚愕する。
いや、ルードだけではない。
槍兵達も、そして、キンも猿のような顔に驚愕の表情を浮かべる。
周りすべてを、紅蓮の炎に囲まれている。
廃村の建物はすべて炎をあげ、燃え盛る。
村を囲むようにつくられた木の塀も燃えて、炎の囲いと化している。
すでに建物の近くにいた兵士達には、火が燃え移り、絶叫と共にその肉体を焼かれていっている。
ルードは、自分たちを取り囲む業火を見回し、混乱する。
何を考えている?!
火の回りが早い。
このままでは敵も味方も、すべて焼け死んで全滅してしまうぞ。
いや、それどころかエイシャとか言う小娘とて、焼け死んでしまうだろう。
この炎を放った奴は、いったい何を考えているんだ?!!
異様に火の回りが早いのは、廃屋の中に置かれていた油壷によるところが大きい。
実はルードは、油壷には、臭いで存在には気付いてはいた。
だが、気にしていなかった。
そもそも、『火責め』と言うのは、"攻撃側"が、相手を全滅させても構わない時に使う手だ。
今回のエイシャ様のように、奪還する目標がある場合などは使用しない。
まして"防御側"が使うなど、聞いた事も無い。
実際に目の前にいる、"防御側"であるはずの槍兵達も、炎に巻き込まれて次々と焼け死んでいっている。
キンも、実は油の壷の存在は知っていた。
その油の壷は、キンと槍兵達がこの廃村に来る前に、『水と炎の旅団』が用意しておいたものだ。
昼間にここに到着後、夜になるまでの時間。
この廃村の中を調べて地形を把握するだけで手一杯で殆ど終わってしまっていたが、その際に油の壷は発見していた。
だが、今は移動させる時間も無いし、エイシャ様奪還を狙う敵も『火責め』に使うとは思えないので、置いておいても問題は無いだろう。そういった判断から、油の壷についての対応は後回しにされ、そのまま放置されていたのだった。
その油に引火し、廃墟は物凄い勢いで燃え上がり、兵士達も次々に焼かれていく。
ライカールも、バスデンにも紅蓮の炎がせまる。
狼男へとその身を変化させている彼らは、その獣としての本能ゆえに炎が苦手であった。
その動きは明らかに鈍い。体に火がつき逃げ惑う兵士相手に周りを囲まれ、上手く動きまわる事すら出来ない。
そんな彼らに、更に空中から紅蓮の炎が、浴びせかけれた。
ダーヴァの街最強の魔法使い、"呪われた双子"の片割れ
リィ・ラ・ドー
彼女は飛翔魔法でフワフワと空中を飛翔しながら、ライカールとバスデンへとむけて、紅蓮の炎を浴びせ続ける。
その姿に気が付いたルードが、足元に転がっていた槍を拾いあげた。
くらえ!
リィに向けて、その槍を投げ放つ。
狼男の豪腕によって放たれた槍が、物凄い勢いで、リィに迫る。
だがしかし、普段から槍投げをしている訳でも無いルードの狙いは正確さを欠き、リィの横の空間を素通りしてしまう。
「降りて来い! 俺と戦え!」
そう叫んでも、リィは無視する。
まるであざ笑うかの様に、どこかへと飛んで行ってしまった。
紅蓮の炎が、迫る。
家具たちが燃え、業火が建物の中を焼きつくそうとしていた。
石で出来た元教会の建物の中は、他の木で出来た建物に比べればマシかもしれないが、それでも、視界はすでに真っ赤な炎に埋め尽くされている。
その業火の中で、エイシャ様は動かない。
何かを決意した表情で、口をぎゅっと真一文字に引き絞り、じっと動かない。
彼女は信じていた。
まったく欠片も、迷いが無い。
『彼は、来てくれる』
そう、頑なに信じている。
迫る業火の熱が、すでに皮膚の表面の水分を蒸発させる。
呼吸すると、肺の中が焼けるように熱い。
一応、彼女の警護役の兵士が三人程いたが、彼らは炎を避けるようにこの教会から逃げ出してしまった。
多分、もうすでに、どこかで焼け死んでいるだろう。
このまま建物に中にいても、その運命は変わらない。迫る炎に其の身を焼かれてしまうだろう。
それでも、彼女は動かない
この炎と混乱の中で下手に動いたら、行き違いになってしまう。
そう考えて、じっと動かない。
彼女の信念は、まったく揺るがない。
『彼が、私を助けに来てくれる』
それは、彼女にとって、朝になれば谷あいから朝日が昇る事以上に、"確実"で"絶対"で"疑いようの無い事"なのだ。
水が上から下に落ちるように、雲が風に流されるように、
物語の中の恋人たちが苦難を乗り越え最後には必ず結ばれるかのように、
それは当然の帰結として、当たり前の事の様に、成される出来事のはずなのだ。
そして、
夜になると星が輝くかのごとく、当然のように、
彼女の信念に答える為に……、
彼は、現れた。
「エイシャ様、お迎えに上がりました」
燃え上がる業火の中。
魔法使いルゥが作り出す水の保護球体を身を纏い、彼が、現れた。
その者は、もちろん、エイシャ様の思い人。
『水と炎の旅団』リーダー。
グルキュフ・ヨーグ・ラーティンだった。
――――――
「よくぞ、やってくれたな グルキュフ!」
「ほう、あの業火の中を生き延びたのか。
さすが、人ならぬ"化物"だな」
廃村の外で、『水と炎の旅団』のメンバー全員と、エイシャ様が合流した所。
そこへ、燃え盛る廃村から唯一自力で脱出できたルードが現れた。
体中を覆う体毛の多くは焼け焦げて、更にその下の皮膚と肉の一部も重度の火傷を負っていた。
それでも、其の強大な体には力が溢れ、獣のような目には、圧倒的な殺意が篭っている。
「下等な人種のくせして、小ズルイ策を使って、よくも我が兄弟達を殺してくれたな。
万死に値するぞ グルキュフよ!!
その首を引き千切り、鼠どもに齧らせてやるわ!!」
ルードが、その巨体で勢いをつけて突っ込んでくる。
丸太のような腕が、振り上げられ、グルキュフへと迫る。
だが、グルキュフの前に。クラウディアが飛び出した。
強大な盾を使って、その巨体の突撃を、弾きかえす。
たたらをふむルードを、紅蓮の炎と、水の刃物が襲いかかる。
リィの炎が体毛を焼き、さらにルゥの水の刃物が足を貫く。
更に、ヤヌザイが懐に飛び込むと同時に、大剣で切りつけ、モヒカンの男が投げたナイフが、目に突き刺ささり、ルードの動きは完全に止まってしまった。
それぞれが、個の力を最大限に発揮し、強大な力を持つ狼男を完全に圧倒する。
『水と炎の旅団』は、冒険者だ。
化物退治は、彼らが最も得いとするところであった。
動きが止まったルードの眼前に、グルキュフが、悠々と進み出る。
「死ね」
小さく呟いて、レイピアを狼男の額へと突き刺した。
渦が。
額から発生した渦が、ルードを巻き込んでいく。
その強大な肉体も、バキバキと骨の折れる音を立てながら、渦へと飲み込まれていく。
「た、たがが、人種に、この俺がぁああああああ、
グ、グルキュフゥウウウウウウゥウウ」
もう、ルードには恨みを込めた叫び声を発する事しか出来ない。
そして全身が、渦に巻き込まれていく。
パン、という軽快な音と共に、最後は散り散りに四散したのだった。




