第9話 結末。そして始まり
一心がエインセルの研究内容と家に仕掛けられたトラップの存在を知り戦々恐々としていた頃、その原因ともいえるエインセルはレオニス宅の前に立っていた。付き従うのは二人の老婆と一人の若い女性。老婆の方は長老部の中でも特に経験豊富な二人で、若い女性はリーゼの友人であった。事前に分かっていたことだが、家の中にはリーゼと幼い子供しかおらず、その若い女性が間に入ったこともあって、そのままエインセル達は家の中へと招き入れられる。
「すまんの、突然お邪魔してしもうて」
「いいえ、大したおもてなしもできませんが」
そう言いながらリーゼは手早くお茶を用意し、御茶菓子を添える。手際が良く立ち振る舞いにも品があり、なるほどレオニスが惚れ込む訳だと納得するエインセル。一口すすったお茶も絶品で、良い茶葉を使っていることが伺えた。
「さてさて……実はの、今日こうしてお邪魔したのは、お主の夫君について少々話しておきたいことがあったからなんじゃ」
さっそく本題へと入るエインセル。彼女にすべて任せるつもりの老婆二人はただ黙って背後に従う。若干場違い的な若い女性は、おろおろと視線を彷徨わせていた。
「そうでしたか。しかしあいにく主人は外出中でして……夕方になれば戻ると思うのですが……」
言外にレオニスの居ない所で話をするつもりは無いと匂わせるリーゼ。あえて話をかみ合わせずに、話題を逸らす。ここ辺りの機微にも敏感なようだ。
「いやいや、儂が話したいのは夫君では無くて、そなたでな」
そしてそれに気付いていながら無視、あるいは気づかない振りをして話を進めようとするエインセル。それを受けて、夫の不利になるようなことはできませんよと笑いながら釘を刺すリーゼ。しばし二人の駆け引きが続く……
「まぁ、儂らもこうしてせっかく来たんじゃし、話だけでも聞いて貰えんじゃろうか。話だけでいいんじゃが?」
「ま、まぁ話だけというのでしたら……夫に話すかどうかはまだ分かりませんが……」
しかしやはり経験の差か、最後にはエインセルが押し切った。もしかしたら、リーゼが彼女らを家に上げてしまった時点で、勝敗は決していたのかもしれない。
渋々ながらリーゼが聞く体勢に入り、そんな彼女に対して、エインセルはまず誤解を解く事から始める。
自分とレオニスは対立している訳でも争っているわけでもなく、しかもレオニスの目的は自分とはかけ離れた所にあることを伝え、その上でレオニスの内面を少しずつ、少しずつ語って聞かせた。
その際、話しの出所を酒の席とし、猫の事と薬を盛ったこと以外は全て事実を話す。更にこの二つに関しても上手く言葉でごまかし、決して嘘は言わなかった。そして嘘ではないからこそ、エインセルの言葉には真実味と高い説得力があった。
「まさかそんな……」
最初は強い警戒心を持って話を聞いていたリーゼ。しかし話が進むにつれ徐々に彼女の顔が強張っていく。最終的にはそれだけ呟くのがやっとであった。彼女にしてみれば、自分と夫間の問題が、知らぬ間に里中を巻き込んだ大問題に発展していたのだ。そうなるのも致し方ないことかもしれない。
無論リーゼは、エインセルの言葉全てを丸々鵜呑みにしたわけでは無い。しかし思い返してみれば、思い当たる節がたくさんあった。
「ほんとに、何でこんな……」
夫の秘めた思いに全く気付かなかった、あるいは気づこうとしなかったとリーゼ。その事に強いショックを受けていた。一方エインセルは、取り敢えずリーゼには伝わったようだと胸を撫で下ろす。
「まぁ、昔から男は馬鹿さするもんだ。その度に私たち女が尻引っ叩いて根性さ叩き直してきたんよ。あんたも大変じゃろうけんど、がんばりんさい」
同席していた長老部の一人が、落ち込んでしまったリーゼを励まそうと口を開く。それは何気なく言った一言だった。しかしその言葉が事態を大きく変える。
「尻を引っ叩く? 根性を叩きのめす……ですか?」
エインセル達里の者にしてみれば、特に驚くような発言ではなかった。しかしリーゼにとっては、逆に驚きしかない。
常に夫を立てろ、仕事や政治に口を出すな。賢さを見せるな。立ち振る舞いに気をつけろ。それが彼女の常識で、教えられた良き妻の条件だったのだから。だからこそ彼女は夫の仕事、行いに目を向けず、あえて情報を遮断してきた。老婆はなおも続ける。
「そうよ。女は優しいだけじゃ駄目。むしろ夫を言いなりに出来るぐらいじゃないと」
「この人の場合は極端すぎるから、信じちゃだめよ」
老婆の言葉はリーゼの常識を意図も容易く覆し、そのあまりの発言にエインセルが笑ってフォローを入れる。
「この人の所は里でも一、二を争う恐妻家なの。何処でも彼処でも旦那を叱り付けるもんだから、もう旦那の面目丸つぶれ。でもそれでちゃんと上手くいってるんだからすごいものでしょ?」
「子供の前とか人様の目のある所では旦那を立てればいい、でも二人だけの時には我儘言って困らせて、思いやりが足りないと言って怒って見せる。そうやって男女の駆け引きを楽しむのも、良い夫婦関係を築く秘訣よ」
それまで黙っていたもう一人の老婆も話に加わる。彼女は夫を掌で転がすのが上手いと仲間内で評判な女性で、若い頃はさぞかしモテたのだろうと、そういった印象を受ける女性だった。上品で穏やかな所など、どこかリーゼと似ている。
「は、はぁ……」
生返事が漏れた……。次々と崩れゆくリーゼの常識。圧倒され続けながら、しかし不思議と不快感は感じなかった。
「そなたは別に夫を嫌ってる訳でも、疎んじて居る訳でもないんじゃろ?」
「あ、当たり前です!」
最後にエインセルがリーゼを優しく諭しに掛かる。
「ならば、言葉や態度でそういう事を伝えなければならんのじゃよ。でなければ想いは相手に伝わらん」
「伝わって……ない?」
「まぁの。しかしそなただけが悪いわけでは無い。レオニスもまたお主を信じきれなんだ。結果、疑心暗鬼と被害妄想、おまけに嫉妬と妄執に囚われた。そして儂らは先達者として、お主らのような若い夫婦にもっとしてやれることがあったはずじゃ。すまぬな……」
結局のところ、今回の事は全て不幸な擦れ違いから起こったことだ。そしてこのような擦れ違いは、リーゼ達だけでなく誰にでも起きうる……
(一心の言うとおり、組織立った支援体制の確立が必要かもしれんの……)
こうして里に異国の風が吹く。ここから先、里は様々な革新的な取り組みを行い、やがてそれらは世界へと広がっていく。しかしそれはまだしばらく先のお話……
(とりあえず、レオニスをとっ捕まえてリーゼと話をさせようかの……)
今はとりあえず、事態の収拾に向け動き始めるエインセルであった。
◇◇◇
「おはよう~」
「はよ~っす。今日昼から暇?」
「う……ん、たぶん?」
「ならまた川行こうぜ。釣りに!!」
「いいよ」
「いよっしゃ! 約束だかんなー」
早朝。近場の井戸へと水を汲みに来た一心は、そこで同じく水を汲みに来ていた男と挨拶を交わし、男に誘われ釣りに行く約束をする。
(変われば変わるもんだなぁ……平和だ~~)
ぼんやりとそんな事を考えながら、井戸から水を汲む。井戸はかなり古典的な形で、紐のついた桶を投げ込み、引っ張る形のやつだった。
一心の身の回りは数日の間に劇的に変化した。まずエインセル、フレイアの奉公人となったことで、風当たりは大分柔らかくなり、里の人達も積極的に声を掛けてくるようになった。里最有力者の身内というのは伊達ではないらしい。
加えて、レオニスが一心の味方に付き、その取り巻きの若い男達が親しげに接してくるようになったのだ。
(さすがに予想外というか、何というか……)
あっという間に手のひらを返したレオニスとその他もろもろ。そんな彼らに呆れるやら、腹が立つやらで複雑な思いを抱く一心。彼は汲み上げた水を家から持参した樽に移しながら、三日前の出来事を振り返る。正確にはエインセルから聞かされた、事の顛末を……
レオニス邸を後にしたエインセルやリーゼ達は、そのままレオニスの所へと足を運んだ。突如現れた妻の姿に最初は訝しんだレオニスだったが、妻が政敵ともいえるエインセルと共に居る事に忽ち激怒。妻に何を吹き込んだ、彼女を巻き込むなと声を荒げる。それをエインセルがやんわりと躱すといった一幕があった後、リーゼがレオニスを説得にかかった。
最初はリーゼの言葉を否定的に捉え、芳しくない反応ばかりを返していたレオニス。エインセルの存在もまたレオニスを頑なにさせた。その予想通りの展開に、エインセルは肩を竦め、溜息を漏らす。しかし……
「そうですか。そんなにも私の言葉は信じられませんか……」
リーゼのその一言で事態は一気に変わる。言葉を信じないという事は、心を信じていないことだとレオニスを非難したのだ。
「私の思いを、気持ちをあなたはすべて否定されるのですね」
そして零れ落ちる雫。妻の変貌をエインセルのせいだと思い込み――ある意味では正しい――癇癪を起しかけていたレオニスに対して、そのリーゼの涙は頭を冷やす上でも、ショックを与える上でも、非常に効果的だった。そして彼女は切り札を切る。
「あなたは知らないかもしれませんが、あなたとの婚約話を父に進め、説得したのは他でもない、この私です」
想いもよらぬ言葉《事実》に言葉が出てこないレオニス。そんな彼に畳み掛けるようにリーゼが言葉を続ける。
「なのに、それなのに……私があなたを好いていないと、興味が無いとなぜそんなことが言えるのですか!?」
「いや……だって文句の一つも言わないし……不満だって……」
「当たり前です!! 不満も文句もありませんもの!!」
「お、王都の商人達と楽しそうに話してたじゃないか……」
「あなたは里の御友人と一言もお話されないのですか? あなたの派閥とやらには女性は一人もおられないとでも!?」
「そ、それに、甘えたり……我儘言ったりとか……」
ごにょごにょと最後は声が小さくなるレオニス。自分が妻に言い負かされている状況なのだが、不思議と苛立ちや敗北感は無く、妻の言葉に密かに嬉しさと、こそばゆささえ感じていた。
「そ、それは……恥ずかしいし……どうしていいか分からないし……」
一方こちらは顔を真っ赤にしているリーゼ。怒りからではなく照れなのだろう。急に声に勢いがなくなった。
「そ、その……本当なのか? 結婚話。義父さんからじゃなくて……お前からって……」
「ええ、そうですとも! 寧ろ父は反対でした!」
恥ずかしさからか、再び声を荒げるリーゼ。しかし相変わらず頬が真っ赤で、それが彼女の心情を如実に表していた。
「は、反対……」
一方それまで知らなかった裏話を聞かされ、次からどんな顔をして義父に会えばいいのかそんな事を考えるレオニス。何はともあれ誤解は解消されつつあった。
「な、なんというか……」
やけに呆気ない解決であり、結末だと感じずにはいられないエインセル。これまで散々突っかかってきたり、邪魔をしたりで、日々革新派《若者達》と保守派《年寄組》の対立が目立ってきていた。それなりに頭を悩ませてきた問題だけに解決するのは嬉しいが、それにしてもと思わずにはいられない。
「もう少し互いに話をしとれば、こんな大事にならずに済んだものを……」
気づけば恥ずかしげに、けれど嬉しげにレオニスとリーゼが手をつないでいる。里を巻き込み、エインセルや一心をも巻き込んで、ようやく互いの意志を知ることが出来た二人。リーゼは夫が何を求めていたのか、どうして欲しかったのかを知り、レオニスも妻が何も言わないことの理由と意味を知った。
「まったく、やれやれじゃな」
知らず知らずのうちに自分が笑みを浮かべていたことに気づき、そう呟くエインセルであった。
◇◇◇
桶を担いで家へ向かう途中、娘の手を引いたリーゼとすれ違う。娘は上機嫌でしきりに母親に話し掛けている。
(子供は敏感だしな)
実際の所は分からないが、しかし両親の仲が良い事を嫌う子供は少ないだろう。そんな事を思いながら母子の横を通り過ぎる。途中リーゼが一心に気づき、静かに頭を下げた。
◇◇◇
理由は分からないが、レオニスが争いの矛を収めた。小さな里の事だ。それが伝わるのに時間はかからなかった。中には不満そうにしていた者もいたが、概ねその事は好意的に受け入れられた。特に、進んで若者たちと対立したかった訳では無い老人側にその傾向が強く、皆一様にほっとした表情を浮かべていた。
無論、全てが元に戻ったわけでは無い。今回の一件で、里の決定機関に若者の意見が入っていないとのレオニスの主張は、エインセル達里の長老部も認める所となり、長老部という名はそのままに、二人の若者が加わることになった。そしてレオニスの派閥は、若者たちの集まりという側面もあった事から、何かこのまま有効活用できないかという事で、いま議論が進められている。
リーゼは定期的に二人の老婆の下を訪ねるようになり、夫のしつけ方やあしらい方、ころがし方などを学んでいる。いつの間にかリーゼの母親仲間たちも加わる様になり、更には暇な年寄りたちも集まってくるようになった。今では貴重な情報交換の場としても重宝されている。
「たった三日なのにこの変わりようって……」
若い世代と古い世代、古くから住む住人と、新たに加わった住人。それらがようやく一つになり、新たな里の形が生まれつつあった。
右も左も言葉さえも分からずに、突如始まった異世界での生活。いきなり争いごとに巻き込まれ、居心地の悪い思いをさせられるも、解決してみれば、怒る気も失せる様なその原因。目の回る様な慌ただしく過ぎる日々の中で訪れた穏やかで平和な日々。こうして、ようやく一心に平和で、平穏な日常が訪れたのだった。