第2話 終わりの始まりの遭遇
――此処ではない何処かへ
――今ではない何時かへ
――自分ではない誰かに
――きっといつかは
毎日毎日、飽きもせず、ただ漠然とそんな事ばかり考えていた……
◇◇◇
薄暗い部屋の中にくぐもった振動音が連なる。音の元は、机の上に置かれた携帯電話だった。しばらく音は続き、やがて静かになる。恐らく今頃相手側では留守番サービスセンターの合成音が流れている頃だろう。その後も十分、十五分置きに電話はバイブレーションで着信を知らせてくる。それが幾度か続いた頃、ようやくその部屋に変化が訪れた。
のっそりと、そしてもそもそと人影がベッドから体を起こし、視線を机上の携帯電話へと向ける。そして徐に立ち上がると、机に向かって歩き始め――、そのまま通り過ぎた。扉が開き、音を立てて閉まる。やがて風呂場からシャワーの音が聞こえ始めた。シャワーで寝汗を流す間に、携帯電話には更に二度の着信があった。
「不在着信……十九件。父、父、父、母、母、父、母……」
携帯電話を――正確にはその不在着信履歴を眺めて、神崎一心は顔をしかめる。その顔を彩るのは、不安と、後悔と、焦燥、そして苛立ちだった。
両親からの電話の理由ははっきりしている。大学での現状が伝わったのだろう。
「ほんと……どうしよう……」
どうしても学校へと足が向かず、いつの間にか不登校となり、知人に会うのを恐れて家に引きこもるようになってから一年半。学期にして3学期。それは同時に、学校に行けないことを伝えられず、誤魔化し続け、嘘を重ねてきた時間でもあった。そして時期的に、今期の成績が実家へと送られた頃だろう。
「はぁ…………」
思わず頭を抱える。今期に関して言えば、誤魔化すのは無理だろう。前2期も学校に行けていなかったのは同じだが、しかし全く行っていなかった訳ではない。ほんの数単位ではあるが単位を取っていた。しかし、今期は全くの0単位。まるまる全部引きこもっていたのだ。そして何より、親に対して嘘をつき続けるというのがとても辛く、良心が痛んだ。
「はぁ……」
溜め息が止まらない。またも鳴りだした携帯電話を、一心は布団の中へと突っ込む。そんなことをしても何も解決しない。分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
◇◇◇
「こんにちは」
「こんにちは。暑いわね~。大学生?」
「はい……」
心の中で一応という言葉を思い浮かべながら、一心は老夫婦へと答える。
「頑張ってね!」
「ありがとうございます」
言葉を交わし、道を譲る。連れ立って歩く老夫婦の背を見送り、一心は再び無言で歩き始める。
両親からの電話を無視し続けた明くる日、良心の痛みと、怒られるのではという不安。そして何より親に対する申し訳無さと後ろめたさ、そんな自分に対する憤り。それら諸々によって追い詰められた彼の心が出した結論。それが山登りだった。つまりは逃げたのだ。嫌なことから目を逸らし、現実から、両親から、不甲斐ない自分から……一瞬、居た堪れなさが心を黒く覆う。しかし、頭を振ってそれを追い払い、彼は辺りへと視線を向けた。
(――すごいな……)
汗を拭いながら見回す。樹齢何年になるかも分からないような立派な木々が、遥か頭上からを見下ろしていた。木々の間から差し込む木漏れ日に照らされて、苔むした岩や草花が青々と輝き、蝶などの虫が舞い、歌い、踊る。
無論何の目的もなく、一心は汗を流している訳ではない。彼とてこのままでは駄目だという思いがある。変わりたいという気持ちも。
だから今回、彼は神話の残る街へと足を運び、神が降りたった地として知られるこの場所へとやってきた。変わるきっかけへと繋がることを願って。
「神秘的というか、何というか……」
上手い言葉が出てこない。彼自身は神の存在を信じている訳では無い。しかし頭から否定するつもりもない。
「八百万の神……自然への祈り……か」
古来から、日本人は山や川、海など、悠大な自然を神として祭り、崇めてきた。自然の持つ美しさと、力強さ。そして時に牙を剥く自然の脅威。日々の糧を与えてくれる自然への感謝の気持ち……
「来て良かった……」
悠大な山の懐に抱かれ、木々の匂いや、日の光を浴びながら、神崎一心は何かが変わる……そんな予感がしていた。
◇◇◇
「霧……いや、雲?」
標高千メートルという標示の横を通り過ぎ、間もなく山頂という頃、急に白い靄が立ち込てきた。乾燥しがちな時期にあって、雨も降っていない。素人考えだが、霧という可能性をすぐさま否定する。
「ま、どっちでもいいか」
実際のところ、どちらだろうが彼に取っては大した問題では無かった。ただじっとして、霧だか雲だかが晴れるのを待てばいいのだ。そう思えば、この白くて、美しくて、幻想的な世界も悪くない。寧ろ得した気分にさえなってくる。
そうして一心はしばし、ひんやりと心地よい白い風に身を任せ、先ほどまでとはまた違った山の景色を楽しむ。すると何時しか、白い靄は更に濃さを増し、乳白色へと変化した。それに伴い、何処からか甘く、心地よい香りが漂ってくる。気付くと一心は、吸い寄せられるかのように、その匂いへと向かって歩き始めていた。
(花? 果物? 違う……もっとこう……)
花のようであり、果物のようであり、また新緑の芽のようでもある。それでいて、そのどれでもない匂い。もっと人の根元に直接響き、揺るがすかのような……
(やばい……気がする)
気付いた時には遅かった。辺りを見回してみても相変わらず白い景色ばかり。そして自分が登っていたのか、それとも下っていたのか、それさえも分からなくなっていた。
「何処だよ……ここ……っつ――!!」
そして突如、頭痛と吐き気、めまいが一心を襲う。
(くそ……何で、急に……)
急速に失われる平衡感覚。足元があやふやになり、真っ直ぐ立っているのか、それとも傾きつつあるのか、あるいはもう既に地に倒れた後なのか、それさえも分からなくなる。
(やばい、やばい、やばい、やばい……)
彼の脳裏に、遭難、行方不明、死という文字が続けざまに浮かんでは消えていく……
(あ……あぁ……駄目だ、幻覚まで……)
何処からか現れた女の子が一目散にこちらへと駆けてくる。しかも巫女服に、ふわふわ耳と、もふもふ尻尾を揺らして……
(…………をい!!)
思わず自分に突っ込んだ。最後に見るのがこれか!! と。そして――
「ぐぎゃぼ!」
「きゃ――!」
それはそのまま一心のお腹へと衝突し、可愛らしい声を上げ、ぽてり、と転がった。
「へ!?」
幻覚だと思っていたのが、実はそうでは無かった。お腹に残る衝撃が、目の前に転がった少女が、それを如実に物語っていた。
「ええと……」
山でコスプレですか? とも言えずに、一心は掛ける言葉話探す。
「誰だ!!」
その時、少女と一心の間に割って入った影があった。
「カンフー映画?」
今度はチャイナ服だった。それもドレスではなく、男が着る様なズボンタイプの……
多分女の子だろう。年齢は一心より少し下……17、18といったところか。そして彼女は何故か剣のようなものを一心へと突き付けていた。
「もう……訳がわからん……」
未だ頭痛も、吐き気も、めまいも治まる気配を見せない。おまけにこの訳の分からない状況も加わって、彼の精神はゆっくりと意識を手放すのだった。