SS 2
彼女は悪魔だ。
その助言は皮肉めいてひどく楽しそうに僕を狂わせる。
彼女は憎たらしいほどの悪魔で、天使に成りすまして僕に近付く。
そのたびに後悔させられるのだ。ああ、信じなければ、と。
「愛してる」
艶のある声で僕を誘う、細い指。
目を細めて見つめれば、不満気に眉を寄せる。
ノースリーブのワンピース一枚というひどく扇情的な格好で僕に触れ、
長い睫で引き寄せながら、彼女は、いつものように甘い声で言った。
「どうしてそんな目で見るのよ」
あなたらしくない、と小さく聴こえた。
その通りだ。判ってはいながら意識すら奪われるいつも、とは違う。
彼女は納得がいかないようで、そっと僕の頬に触れた。
「なにを考えてるの」
私を見て、と、そう言いたいんだろう。
甘い言葉の数々が脳内でフラッシュバックを起こす。
理性を奪う甘美な毒。浸ってしまってからじゃきっともう遅いんだろう。
今だって、引き込まれることを恐れて言葉を交わせない。
「眼鏡を外してよ」
厚いレンズ越しに手を滑らせながら、彼女は言った。
「なにも隔てないで」
僕はその手を無心で振り払った。これ以上はダメだ、と理性が囁く。
彼女が目を見開くのを横目に、僕は自分のジャケットを彼女の肩にかけた。
「・・・・なによ、それ」
一瞬の間があってから彼女は呟くように言った。
「帰れって言ってるの、私に」
怒りを孕んだ言い方に少し怯んだ精神を殴りつつ、僕は玄関まで彼女の背中を押して誘導した。抵抗するたびに飛んでくる手を乱暴に掴み、ドアに押し付けた。
「・・・終わりだ」
自分で思うよりも低く、立体的な声が出る。
彼女も察したように、困った表情を浮かべて僕を見た。
「どうして?」
「どうしても」
ただ反射的に言葉に答える。感情は交えちゃダメなんだ、と脳内が騒ぎ立てる。
彼女の瞳が鋭く光って僕を見る。目つきが俗に言う睨みというものに変わった。
一刻前までの彼女とは違う、別人。これに何度騙されてしまっただろう。
「調子に乗らないで」
棘のある口調が僕に襲い掛かる。
「誰が別れていいなんて言ったのよ」
ぎり、と歯軋りをする音が聴こえた。
「私と別れる?無理に決まってるでしょ、そんなの、」
語尾がゆらりと揺れた。
驚いて彼女を見ると、泣き怒りのような不思議な表情をしていた。
「嫌よ。」
間を空けずに声が響く。
「あなたが好きなの」
嘘だ、と即座に言葉を飲み込む。これは嘘で、わざわざ指摘するものじゃないんだ。
深呼吸をすると、汗が伝うのをやっと感じた。
「僕は、もう好きじゃない」
彼女がハッとしたように顔を上げた。決心がぐらりと傾く。
「うんざりなんだ。・・・君のおもちゃなんて」
彼女にとって僕なんて、子供じみた遊びでしかなかった。
そう固めたこころが軋んで音を立て始めた。
「君は僕を愛してない」
「愛してるわ」
喰い気味で刺さる言葉は聴かないフリをして。
「もう、そこまで子供じゃないんだ」
それならずっと子供でいればいいと、
「いい加減、気付いてるんだよ」
それなら気付かないフリをすればいいと、
まだ冷静へは至らないこころ、頑固になれない意思が襲う。
「・・・そう、」
彼女の表情は計り知れずに、僕は彼女のつむじを見ていた。
「そうなんだ?」
どこか不安定な声色が、選択のミスを際立たせて。
「残念ね」
伝わらないなんて。そう聴こえた気がした。
途端に、押し付けていたドアを開けて、彼女は部屋から消えた。
ガチャン、と金属音がして、僕の脳内を刺激する。
最後に見えた光が、決して涙ではなかったと思い込もうとして、
同時に、掴んでいた腕の震えに言い訳ができなかった。
紛れもなく好きだった彼女を、僕はこの手で追い出して、
化粧で隠した繊細を、判っていながら引き裂いて、
最後まで、伝えるべきことを伝えられずに。
僕の前で彼女が悪魔だったこと、そんなことは取るに足らないことだった。
天使のフリをした悪魔。打たれ弱い悪魔。強がりな悪魔。
僕はその不器用なひとつひとつがたまらなく愛しかったはずだった。
遠くで踏み切りのサイレンが鳴る。
街へ帰るにはやむを得ないけれど、面倒だとよく悪態をついていた彼女の姿を、探して。
ガチャン。背後で金属音が聴こえる。
鍵をかけなさいよ、と彼女はよく怒っていたけど、
ごめんね、今はそんな余裕ないから。
見慣れたジャケットに手を伸ばす。
(また僕は)(悪魔に騙される。)