第9話 侯爵令嬢と聖女が二人きり
お茶会が終盤に差しかかっていた。
令嬢たちが一人、また一人と退席の挨拶を始める。「姫殿下、本日はありがとうございました」「またお招きくださいませ」——凛はリゼットの微笑みで見送りながら、隣のアシェルが立ち上がる気配を感じ取った。
(行くのか。ここで逃したら、次はいつ話せる? 侯爵令嬢と聖女が二人きりになれる機会なんて、そうそうない。……今しかない)
格闘家の直感が告げていた。試合と同じだ。チャンスは一瞬。迷ったら、次のラウンドまで機会は来ない。
(でも、もし間違ってたら? 「了解」も「等高線」も、この世界の言葉の偶然の一致だったら? あの座り方も、ただ姿勢がいいだけだったら? ——リゼット王女が令嬢に「あなた、元の世界は日本?」とか言ったら、完全に頭のおかしい姫だ)
アシェルが椅子から立ち上がった。「姫殿下、本日はお招きいただき——」
(構うもんか。間違ってたら変な姫で終わる。でも合ってたら——私は一人じゃなくなる)
「アシェル嬢」
凛は立ち上がらなかった。座ったまま、ほんの少しだけ身を傾けた。隣に立つアシェルの耳元に、声が届く距離。
「……二人きりで話せる場所はある?」
声は小さかった。リゼットの穏やかな口調のまま。しかし言葉の内容は、社交辞令からは完全に逸脱していた。
アシェルの動きが止まった。
一秒。
その一秒の間に、凛はアシェルの碧い瞳を見た。
瞳の色が変わった。令嬢の柔らかな碧から、冷たく澄んだ碧に。情報を選別する目ではない。査定する目だった。凛という人間を、一瞬で測ろうとしている目。
——そしてすぐに、令嬢の表情に戻った。まるで何もなかったかのように。
「……東屋はいかがでしょうか、姫殿下。この季節は蔦が美しゅうございますわ」
穏やかな声。完璧な令嬢の返答。しかし凛の耳には——その声の底に、わずかな緊張が混じっていた。
(……やっぱりだ。この子、私を「測った」。今の一瞬で。あの目の切り替えの速さは、訓練された人間のものだ)
―――――✧ ❀ ✧―――――
薔薇の庭園を、二人は並んで歩いた。
表面上は、聖女と侯爵令嬢の散策だった。白い薔薇の間を縫う小径を、ドレスの裾を揺らしながら歩く。令嬢同士の午後の散歩。それ以上でもそれ以下でもない。
——はずだった。
しかし二人の間に流れる空気が、違っていた。
凛もアシェルも、相手を視界の端に捉え続けていた。互いの歩幅を合わせながら、しかし互いの挙動を注視している。凛の格闘家の目が「この人間の次の動きは何だ」と読み、アシェルの碧い瞳が「この王女は何を知っている」と計算している。
(奇妙な散歩だ。なんだろう、この感じ。……スパーリングに似てる。まだ手は出してないけど、間合いの探り合いだけが始まってる)
不意に、先ほどの回廊の光景が脳裏をよぎった。柱の傍に立つエルヴィンの横顔。凛とアシェルが並ぶ庭園を、遠くから見下ろしていた金色の髪。
(兄上は、あの位置から見ていた。私がアシェルに声をかけたところも、二人で庭園を歩き出したところも、見えていたかもしれない)
凛は小さく首を振った。
(エルヴィンのことは後だ。今は——この子だ)
東屋が見えてきた。白い石造りの小さな建物に、蔦が壁を覆っている。屋根の下に二脚の椅子と、小さなテーブル。庭園の奥まった場所にあり、回廊からも見えにくい。
凛は足を止め、振り返った。数歩後ろでマリエルが控えている。栗色の髪でそばかすのある侍女は、凛とアシェルの間に流れる空気を——察しているのか、いないのか。けれどその穏やかな目が、ほんの僅かに鋭さを帯びていた。
「マリエル、少しアシェル嬢とお話がしたいの。ここで待っていてくれる?」
「……承知いたしました、姫殿下」
マリエルの返事には一拍の間があった。問い返さない。けれどその一拍が、「姫殿下が何をお隠しになっても、私はお傍におります」という静かな忠義を語っていた。
凛はマリエルに小さく頷き、アシェルと共に東屋に入った。
蔦の影が午後の光を柔らかく遮っている。風が薔薇の香りを運んできた。静かだった。宮殿の喧噪も、庭園の令嬢たちの声も、ここまでは届かない。
椅子に向かい合って座った。
アシェルの碧い瞳が、凛をまっすぐに見ていた。令嬢の柔らかさは残っているが、その奥に——凛がお茶会で何度か垣間見た、あの冷たい光があった。もう隠そうとしていなかった。
(この子も覚悟を決めてる。私が何か言うのを、待ってる)
凛は深く息を吸い込んだ。薔薇の香りと、湿った石の匂いが胸に入ってくる。
(もし間違っていたら、ただの変な姫で終わる。でも、もし当たっていたら——)
菫色の瞳で、碧い瞳を見据えた。
「アシェル嬢」
「はい、姫殿下」
「……単刀直入に聞くわ」




