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第8話 お茶会の視線

 白灰宮の薔薇の庭園は、季節を問わず白い花が咲いている。


 魔石を含んだ土壌のためか、この庭の薔薇だけは色素を持たない。純白の花弁が午前の光を受けて、硝子細工のように透き通っていた。


 白いテーブルクロスの上に、侍女たちがティーセットを並べていく。銀のティーポット。薄い磁器のカップ。焼き菓子を盛った皿。マリエルが凛のドレスの裾を手早く直し、「よろしいかと存じます」と小さく頷いた。


「ありがとう、マリエル。……これ、何人くらい来るの?」


「本日は六名ほどかと。ランドール侯爵家のアシェル嬢もお見えになるとのことです」


(お茶会か。格闘家には最も縁遠いイベントだな。前世じゃ茶を飲むのは紙コップだったし、打ち上げは居酒屋だったし)


 椅子に腰を下ろしながら、凛は内心でため息をついた。リゼットの身体は自然にドレスの裾を整え、背筋を伸ばし、手を膝の上に揃える。王女としての所作が骨に染み込んでいるらしい。凛の意思とは関係なく、身体が「正しい座り方」を覚えている。


(助かるけど、なんか居心地悪い。試合前の計量みたいに落ち着かない)


 令嬢たちが一人、また一人と庭園に現れた。淡い色のドレスと日傘。柔らかな挨拶と社交辞令。「姫殿下のご快復をお慶び申し上げます」「お顔色がよろしくて安心いたしました」——凛はリゼットの微笑みで一人ひとりに応え、名前と家紋を記憶に刻んだ。


(ヴァルトハイム伯爵家の三女。フェーリクス男爵家の長女。……忠誠派っぽいけど、この辺の中小貴族は日和見に転ぶ可能性がある。昨日メモした買収貴族の一覧と照らし合わせないと)


 お茶会の社交辞令を交わしながら、格闘家の脳は宮廷の力学を計算している。リゼットの口が「まあ、素敵な髪飾りですわね」と言っている間に、凛の頭は「この家はテオクラシアとの距離は」と分析を走らせている。


 ——そんな二重生活の最中に、庭園の入り口から新しい人影が現れた。


「遅参をお許しください、姫殿下」


 黒い髪だった。


 この宮廷では珍しい、短く揃えられた黒髪。耳にかけた髪の下に、碧い瞳が光っている。百六十四センチのすらりとした体躯。令嬢らしい淡紫のドレスを着ているが、どこか布地に着られている感じがした。服が似合っていないのではなく、中身がドレスの想定する人物像と微妙にずれている。


 ランドール侯爵令嬢、アシェル。


「お気になさらないで、アシェル嬢。お席をどうぞ」


 凛がリゼットの声で応えると、アシェルは丁寧に一礼して空いた椅子に向かった。


(ランドール侯爵令嬢アシェル。ゲームでは攻略対象じゃない。「姫の幼なじみの友人」として設定資料に名前が載ってた程度だ。個別の立ち絵もなかった)


 アシェルが椅子に座った。


 その瞬間、凛の視線が止まった。


(……座り方)


 アシェルの背筋が、一直線に伸びていた。椅子の背もたれに体重を預けず、腰から上を自力で支えている。令嬢たちの座り方ではない。コルセットに支えられた姿勢でもない。


 ——あれは、自分の身体で姿勢を保つ訓練を受けた人間の座り方だ。


(貴族令嬢が身につける姿勢矯正は、もっと肩が開く。エチケットの座り方は肩甲骨を寄せて胸を張る形。あの子のは違う。背骨の軸だけで保ってる。あれは——)


 凛は格闘技の構えを二十年以上練り込んだ人間だ。身体の使い方を見れば、その人間がどんな訓練を積んできたかが大まかにわかる。アシェルの座り方は、武道家のそれに近い。あるいは——


(……軍人?)


 一瞬の違和感を、凛は飲み込んだ。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 お茶会が進む中で、凛はふと顔を上げた。


 庭園の向こうに、回廊がある。白い柱が連なる二階の回廊。午前の光が柱の間に縞模様の影を落としている。


 その柱の一本に、人影が寄りかかっていた。


 金色の髪。長身の端正な横顔。エルヴィンだった。


(……兄上?)


 エルヴィンは回廊の柱の傍に立ち、庭園のお茶会を遠くから見下ろしていた。参加するでもなく。声をかけるでもなく。ただ、そこにいる。


 凛と目が合った。


 距離があった。庭園から回廊までは三十メートルほど。しかし凛の格闘家としての視力は、その距離でもエルヴィンの表情を捉えた。


 ——何かを言おうとしていた。


 唇がわずかに動いた。声は届かない。けれど口の形が「リゼ——」と動きかけて、止まった。


 エルヴィンが口を閉じた。


 碧い瞳が、一瞬だけ凛を見つめ、それから庭園のお茶会全体を——凛とアシェルが並んで座っている光景を俯瞰するように眺めた。


 小さく頭を下げて、エルヴィンは回廊の奥に消えていった。


(……また。また黙った)


 凛はティーカップに視線を戻した。白い磁器の中で、琥珀色の紅茶が揺れている。


(第一章の「よかった」の時と同じだ。何か言いかけて、飲み込んで、去っていく。ゲームのエルヴィンは、あんな顔をしなかった。あの人は何を抱えてるんだ。何を言いたいんだ)


 問いかけたい衝動を、凛は押し殺した。今は別の疑念が、頭の中でずっと鳴り続けている。


(エルヴィンのことは後だ。今は——あの子だ)


 凛の視線が、隣に座るアシェルに戻った。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 お茶会の話題は、庭園の花の手入れに移っていた。


 ヴァルトハイム伯爵家の三女が、白薔薇の株分けについて語っている。「この品種は水捌けが良い土でないと根腐れしますのよ」——凛は頷きながら、意識の八割をアシェルに向けていた。


 違和感は、座り方だけではなかった。


 お茶会が始まって三十分ほどが経った頃。話題が宮廷の催事の手配に及んだとき、フェーリクス男爵家の令嬢が「アシェル様にも花飾りの選定にご参加いただけないかしら」と提案した。


 アシェルが小さく頷いた。


「了解しました。では、そのように——」


 令嬢たちは何の引っかかりもなく会話を続けた。


 凛だけは、耳の奥で警報が鳴った。


(……今、「了解」って言った)


 了解。軍隊用語だ。民間でも使われるが、この世界の令嬢が使う言葉ではない。「承知いたしました」「かしこまりました」が普通だ。


(偶然か? この世界にも似た表現があるのかもしれない。……いや、あのイントネーション。反射的に出た。噛まずに、ためらわずに、「了解」。あれは習慣だ)


 凛はティーカップを口に運びながら、視界の端でアシェルの手元を観察した。


 もう一つ、気になることがあった。アシェルのティーカップの持ち方だ。


 令嬢たちは小指を軽く持ち上げるか、添える形でカップを持つ。エチケットの型。しかしアシェルは違った。親指と人差し指でハンドルを挟み、中指で底を支える。実用的な持ち方だ。美しさよりも安定性を優先している。


(あの持ち方、見覚えがある。——食堂で。自衛隊の食堂で。こぼさないこと、素早く飲めること。効率を重視した持ち方だ)


 話題が庭園の地形に移った時だった。


 「このお庭は丘の斜面にあるから、雨が降ると水の流れが変わりますわね」と誰かが言った。アシェルが僅かに首を傾げて、こう言った。


「この庭の等高線を見ると——あ、いえ、地形の起伏が美しいですわね」


 空気が止まった——のは、凛の中だけだ。


 他の令嬢たちは、アシェルの言い直しに気づいていない。「ええ、本当に。この傾斜がお花を美しく見せるのですわ」と会話が流れていく。


 凛の心臓が、静かに速度を上げた。


(等高線。……等高線?)


 等高線。地図に描かれる、標高を示す曲線。軍事地図の基礎中の基礎。この世界にも地図はあるが、「等高線」という概念を令嬢が日常会話で使うことはまずない。


(偶然じゃない。「了解」は一回なら偶然。でも「等高線」は偶然じゃない。この子は——地図を読む訓練を受けた人間だ)


 凛は紅茶を一口含み、舌の上で温度を確かめるふりをしながら、アシェルの横顔を観察した。


 アシェルは穏やかな表情でお茶会に参加していた。令嬢たちの会話に相槌を打ち、時折自分の意見を述べる。控えめだが的確な発言。品のある口調。ランドール侯爵家の令嬢として、完璧な振る舞い。


 ——しかし。


 凛は見ていた。他の令嬢が話している間、アシェルの碧い瞳がほんの一瞬だけ変わる瞬間を。


 瞼が微かに細くなる。虹彩の奥に冷たい光が走る。令嬢たちの会話を聞きながら——聞いているのではなく、選別している。どの情報が有用で、どの情報が無価値か。一瞬で判別して、不要なものを切り捨てている目だ。


(あの目)


 凛は知っている。格闘家は相手の目を見る。構えを見る前に目を見る。目に意志が出るからだ。


 アシェルの目は、令嬢の目ではなかった。あれは情報を扱う人間の目だ。分析者の目。大量の入力から必要なものだけを抽出する、訓練された知性の目だ。


(座り方。「了解」。ティーカップの持ち方。「等高線」。そしてあの目)


 一つ一つは些細な違和感かもしれない。けれどそれが五つ重なった時、凛の中で確信に近いものが形を結び始めていた。


(この子は——この世界の人間じゃない)


 心臓が速くなる。手の中のティーカップが微かに震えた。凛は両手でカップを包み込んで、震えを抑えた。


(まさか。まさか、この子も——)


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