第6話 推しの疲れた顔
マリエルの指先が、銀色の髪を丁寧に梳いていく。
鏡の中のリゼットは、十七歳の王女の顔をしていた。菫色の瞳。白い肌。肩から流れ落ちる銀髪に、真珠の髪飾りが光っている。マリエルが選んだ淡い藤色のドレスは、華美すぎず品がある。謁見にふさわしい装いだった。
「姫殿下、髪飾りはこちらでよろしいですか。もう少し華やかなものもございますが」
「これでいいわ、マリエル。ありがとう」
マリエルの手際は申し分なかった。髪を梳く力加減も、ドレスの皺を伸ばす手つきも、幼い頃からリゼットに仕えてきた人間にしかできない柔らかさがある。凛がこの世界で最初に信頼した人だ。
(でも、今日だけはこの手際の良さがちょっと恨めしい。もう少し時間がかかってくれたら、心の準備ができたのに)
鏡の中の自分と目が合う。完璧な王女の顔をしている。リゼットとしては百点。けれどその瞳の奥で、倉橋凛の心臓がばくばくと鳴っていた。
今日、騎士団長への謁見がある。
(ガイウス・ヴォルフが、参殿する)
国境の巡回から一時帰還した騎士団長に、聖女の回復と御礼を伝える公式の場。エルヴィン兄上の発案で設けられた謁見だった。
(推しに会う。推しが、実在する)
右手で左手首を握りしめた。ぐっと力を込めて、息を整える。この仕草はグローブの締め具合を確かめる格闘家の癖だが、リゼットの身体でやると祈りの形に見えるらしい。マリエルが「お祈りですか」と微笑んだ。
「……ええ、少しだけ」
(祈りでいいよ。推しの前で失態しないようにっていう、切実な祈りだ)
―――――✧ ❀ ✧―――――
白灰宮の大広間——灰燼の間は、天窓から差し込む光で白く輝いていた。
壁の魔石が淡い光を放ち、天井の壁画には消滅神エンドウスの姿が描かれている。広間の両側に貴族たちが列を成し、正面の玉座にエルヴィンが着座していた。国王は病床にある。王子が代理を務めるのは、この半年で定例になりつつあった。
凛はリゼットとして、玉座の右手に立った。聖女の位置。王族でありながら統治者ではなく、祈りの象徴としてここに在る。
(エルヴィン兄上、今日も完璧だな。背筋が一本の線みたいに伸びてる)
金髪碧眼の美王子は、一分の隙もない佇まいで玉座に座していた。二十六歳の端正な横顔には、疲れの色が微かに滲んでいる。けれどそれを悟らせないほどに、表情は完璧に制御されている。
——この人も、ゲームより疲れている。
列を成す貴族たちに視線を走らせた。凛の視界には、ゲームで蓄積した知識がフィルターのように重なる。
(右の列の三番目。あの恰幅のいい男。ヴァレンティ公爵家の関係者……家紋が同じだ。テオクラシア系の買収貴族。その隣の痩せた男も、クロード伯爵家。ゲームでは名前だけ出てきた家だけど、こっちでは実在する)
彼らの態度に、微妙な横柄さがあった。玉座への礼が一拍遅い。視線がエルヴィンの上を通過して、隣に立つ凛——聖女に向けられている。品定めするような目だった。
(ゲームでもヴァレンティ公爵家はテオクラシアに近い設定だった。この世界でも同じか。しかもゲームより数が多い。列の中に、テオクラシアの影がちらつく顔が三つ、四つ——)
凛は表情を変えなかった。リゼットの穏やかな微笑みを保ったまま、視線だけで貴族たちの顔を記憶していく。格闘家として培った観察力は、対戦相手の癖を読み取る時と同じ精度で宮廷の空気を読んでいた。
―――――✧ ❀ ✧―――――
広間に沈黙が落ちた。
エルヴィンが僅かに顎を上げたのを合図に、大扉の両脇に立つ近衛が扉を押し開く。金属の軋む音が天井まで響いた。
靴音が、ひとつ。
重い。ゆっくりとした歩幅。甲冑ではなく、正装の軍服だった。灰色の肩章に、アルヴィナ騎士団長の紋章。胸元には三本の剣を交差させた徽章が光っている。
灰色の短髪。
右の頬から顎にかけて走る、古い刀傷の痕。
精悍な顔立ち。四十二年の歳月が刻んだ皺。
——そして、目の下に刻まれた深い隈。
(……ガイウス・ヴォルフ)
凛の呼吸が止まった。
ゲームのCGを何百回見たかわからない。夢小説で描写を書くたび立ち絵を拡大して、この顔の造形を文章に落とし込んだ。傷跡の位置。眉の角度。口元の力の入り方。全部知っている。
知っているはずの顔が、知らない表情をしていた。
ガイウスは広間の中央を歩いてくる。歩幅は安定している。背筋も伸びている。しかし凛の目には——格闘家として無数の対戦相手の身体を読んできた目には、その歩行の中に抑え込まれた疲弊が見えた。
(肩が重い。右肩がわずかに下がってる。利き腕じゃない方だから、剣を振るう筋肉じゃなくて、緊張を溜め込む方の筋肉が凝り固まってる。……あと、首の角度。ゲームのガイウスはもっと顎を引いてた。今は僅かに上を向いてる。視界を広く取ろうとしてる。常に警戒してる身体の癖だ)
ガイウスが玉座の前で片膝をつき、頭を下げた。
「聖女殿下のご快復、慶賀に存じます」
低い声。ゲームのCVより低くて、掠れている。声帯が疲れている人の声だった。短い言葉。寡黙そのもの。
(やばい)
凛の心臓が跳ねた。
(やばい、やばい、やばい。推しがいる。生きてる。目の前に膝をついてる。声が聞こえる。ゲームのCVより低くて、でも、この声だ。何百回聞いたこの声だ)
右手が左手首を握りしめる。指先が白くなるほど力を込めた。
(落ち着け倉橋凛。お前は今リゼットだ。格闘家でもオタクでもない。王女だ。聖女だ。推しに「推しです」とか言えない。この人は実在する人間だ。二次元のキャラクターじゃない)
「——ありがとう、ヴォルフ団長」
出てきた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。リゼットの声だった。品のある、静かな声。
「騎士団の皆様にもご心配をおかけしました。皆様のご尽力に、心より感謝いたします」
ガイウスが顔を上げた。
目が合った。
灰色がかった瞳だった。ゲームでは「鉄灰色」と記載されていた瞳。鋭さの中に、深い疲労が沈んでいる。
——その瞳が、一瞬だけ凛の顔に留まった。
何かを見定めるような、探るような視線だった。けれどそれは一秒にも満たない間のことで、ガイウスはすぐに視線を下げた。
「もったいなきお言葉です。騎士団一同、姫殿下のご回復を心よりお慶び申し上げます」
形式的な言葉。距離がある。近づかない。
(……距離を取ってる。ゲームでもガイウスは寡黙だったけど、これは「距離を取っている」方の寡黙だ。私じゃなくて、「聖女」に対しての壁がある)
凛は微笑んだ。リゼットの微笑み。完璧な角度。完璧な品格。
(でも——疲れてる。ゲームのガイウスより、ずっと。顔色も悪い。何があった。何がこの人をここまで消耗させてる)
胸の奥で、興奮とは別の何かが動いた。推しが目の前にいるという喜びと、この人はゲームの設定以上に追い詰められているという危機感。二つの感情が同時に凛の中で渦を巻く。
そして——凛の中で、恋愛感情より先に浮き上がってきたものがあった。
(守らないと)
謁見は形式通りに進んだ。ガイウスは国境の状況を簡潔に報告し、エルヴィンが短く答えた。凛はリゼットとして沈黙を保ち、時折頷き、聖女らしい慈悲の微笑みを浮かべた。
ガイウスが退出する時、凛はその背中を見送った。軍服の肩幅が広い。けれどその広さが、背負っているものの重さを物語っていた。
(大丈夫。今日は、これでいい。推しの前でリゼットでいられた。崩れなかった。……でも)
大扉が閉まる音が、広間に響いた。
(あの顔は、ゲームの「推し」じゃない。あの人は「ガイウス・ヴォルフ」という、一人の生きた人間だ。疲れ果てて、それでも膝をついて礼を尽くす人間だ)
右手がまだ左手首を握りしめている。凛は静かに息を吐いて、ようやく指の力を緩めた。




