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第5話 姫の鉄拳

「ひ——」


 声は、訓練場の入口から聞こえた。


 ノエルが立っていた。朝食の準備ができたことを知らせに来たのだろう。銀の盆にティーカップとソーサーを載せ、両手で捧げ持っている——いた。


 金色の巻き毛の侍女は、凛と、粉砕された木人の残骸と、散らばった木片の山を交互に見ていた。口がぱくぱくと動いている。


「ひ、姫殿下……!? 木人が、粉に……!?」


 ノエルの手から、銀の盆が滑り落ちた。


 ティーカップが宙に舞う。ソーサーが回転する。紅茶が放物線を描いて空中に散る。


 リオンが動いた。模擬剣を落としたままの手が、落下するティーカップを掴む。反対の手でソーサーを受け止め、紅茶の飛沫だけが石畳に弾けた。近衛騎士の反射神経は、こういう場面でも発揮されるらしい。


 ノエルは腰を抜かして座り込んでいた。


「あら、ノエル。おはよう。ちょっとした鍛錬をしていたの」


 凛がリゼットの微笑みで手を差し伸べると、ノエルの目が限界まで見開かれた。


「ちょっとした!? これがちょっとした!?」


(まずい、ノエルに見られた。この子、口が軽いほうだったか? いや、ゲームではそこまでの情報なかったな……)


「ノエル、声が大きい」


 リオンが落ち着いた声で窘めた。手にはティーカップとソーサーが収まっている。紅茶は石畳に散ったが、カップは無傷だった。


「で、でもリオン様! 姫殿下が木人を、素手で、粉々に——」


「聖女のお力だ。……姫殿下がお力を確かめておられたのだから、騒ぐことではない」


 リオンの声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。ノエルが口をつぐみ、おずおずと凛の差し出した手を掴む。


「ノエル。今朝のことは、二人だけの秘密にしてくれる?」


「ひ、秘密……」


「お願い」


 凛が少しだけ首を傾げて微笑むと、ノエルの頬が真っ赤に染まった。


「……は、はい。姫殿下のお言いつけなら……秘密です……」


(この子、秘密を守れるタイプかどうか、正直不安だけど……まあ、しばらくは大丈夫だろう)


 リオンが石畳に散った紅茶を踏まないようノエルを立ち上がらせ、朝食の席への案内を促した。ノエルは何度も振り返りながら、粉砕された木人の残骸を信じられないという目で見つめていた。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 ノエルが去った後、訓練場に静けさが戻った。


 朝日が石壁を越え、訓練場の半分を金色に染めている。凛は石壁の根元に腰を下ろし、背を預けた。リオンが半歩離れた場所に、同じように座る。


 しばらく、二人とも無言だった。


 凛の身体は適度な疲労を感じていた。防壁拳の一撃で消耗した体力は、百九十センチの時に三ラウンドを全力で戦った後に似ている。身体が小さい分、出力に対する負荷が大きいのだろう。


(一発で木人を粉砕できる。でも連発はきつい。省エネで使う方法を考えないと。……あと、蹴りの方も試したい。膝。肘。組み技との併用。やることは山ほどある)


 風が吹いた。銀色の髪が揺れる。朝の空気が、汗をかいた首筋に心地好かった。


「……リゼット様」


 リオンの声が、静かに響いた。


 隣を向くと、リオンは訓練場の向こう側を見つめていた。木人の残骸が散らばっている場所。朝日が木片の断面を照らし、新しい木の色が剥き出しになっている。


「リゼット様は、以前より輝いておられます」


 声が震えていた。


 それは訓練後の興奮でもなければ、木人の粉砕への驚きの余韻でもなかった。もっと深いところから来ている声だった。緑の瞳に浮かんでいるのは、安堵——と、微かな切なさ。


「……お傍にいられて、光栄です」


 リオンが小さく頭を下げた。


 凛はその横顔を見つめた。茶色い髪が朝日を受けて明るく光っている。真っ直ぐな眼差し。十八歳の少年が、まるで長い旅の果てにやっと辿り着いた場所を見つけたかのような顔をしていた。


(この子、ゲームで死ぬルートがある)


 「花と剣」。最も短く、最も密度の高い個別ルート。リオンは最後に凛の——リゼットの盾になり、致命傷を負う。「姫が笑っていてくれれば、俺は」という台詞は、途中で途切れる。


(ファンダムで、最も多く「生存IF」が書かれたルート。参謀さんのリオンルート考察は、私を三日間泣かせた)


 リオンの「輝いている」という言葉には、重さがあった。ゲームのリオンにはなかった重さだ。この世界のリオンには、ゲームのテキストには書かれていない何かがある。


 なぜ、この子はここまで姫を守ろうとするのか。近衛騎士だから? 忠誠心? それだけでは説明がつかない。あの声の震え方は、義務から来るものではない。


(今は訊かない。この子が話してくれる日まで、待つ)


 凛は立ち上がり、リオンに手を差し伸べた。


「ありがとう、リオン。朝食へいきましょう」


 リオンが顔を上げた。菫色の瞳と緑の瞳が交わる。凛が微笑むと、リオンの頬がほんのわずかに緩んだ。


「……はい。お供いたします」


 二人は訓練場を後にした。背後で、木人の残骸が朝日に照らされている。


(絶対に守る。この子も。この世界の全員を)


 銀色の髪を風が攫った。その先に、白灰宮の尖塔が朝日を受けて光っていた。

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