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第4話 たおやかな姫の拳

 まだ陽が低い。


 白灰宮の裏庭は、朝靄が薄く漂い、訓練場の石畳が露に濡れていた。正面の中庭訓練場とは違い、ここは騎士団の予備訓練用に使われる小さな空間で、高い石壁に囲まれている。回廊からは死角になる。人目につかない。


 凛が選んだのは、だからこの場所だった。


「リオン、少し付き合ってくれない?」


 声をかけると、半歩後ろに控えていたリオンが目を瞬かせた。


「リゼット様が訓練を……? しかし、お体は——」


「大丈夫。むしろ確認しておきたいことがあるの」


 リオンの緑の瞳が、凛の顔を真っ直ぐに見つめた。困惑と、それを上回る信頼。この少年は、姫が「やりたい」と言えば従う。問い返しても最後にはうなずく。それが近衛騎士としてのリオン・セルヴァだった。


「……承知しました。模擬剣をお持ちします」


 リオンが小走りに壁際の武器架に向かう間、凛は訓練場の中央に立ち、拳を握った。


 百五十八センチの華奢な身体。白い指が拳の形を作る。格闘家の拳ではない。王女の手だ。しかし——


(腰が回る。重心が落ちる。……やっぱり、筋肉の記憶がそのまま残ってる)


 右足を引き、左半身を前に出す。オーソドックスの構え。百九十センチの体格でやっていた時と骨格が全く違うが、身体の使い方そのものは刻まれている。腹筋への力の入れ方、肩甲骨の開き、顎の引き方。


 小さな身体が、格闘家の構えを取った。


(リーチは短い。体重も軽い。前の身体なら一撃で倒せた相手にも、この身体じゃ打撃が届かない。……でも、それは「普通の格闘技」の話だ)


 模擬剣を手にしたリオンが戻ってきて、凛の構えを見た瞬間、足が止まった。


「リゼット様……その構えは……」


「知ってるの?」


「いえ……見たことがありません。ですが、隙がない。まるで……」


 リオンは言葉を探すように一瞬黙り、それから居ずまいを正した。


「……何をすればよろしいですか」


「本気で打ち込んで。剣で。受けるから」


「それは——姫殿下に剣を向けるなど——」


「リオン」


 凛はリゼットの微笑みで、格闘家の目をした。


「私を信じて」


 リオンの喉が小さく動いた。呑み込むように頷く。模擬剣の柄を握り直し、構えた。


(この子、ちゃんと構えが綺麗だな。剣を持つ手に迷いがない。……信頼してくれてるんだ、姫殿下のことを)



―――――✧ ❀ ✧―――――



 模擬剣が振り下ろされた。


 リオンの斬撃は速かった。十八歳の近衛騎士は手加減を最小限に留めたのだろう、刃筋が真っ直ぐに凛の肩口を狙っている。


 凛は両腕を交差させて受けようとした。格闘家の反射だった。


 その瞬間——身体が、光った。


 白金色の淡い光が、凛の体表を薄く覆った。模擬剣がその光に触れた途端、乾いた音を立てて弾かれる。リオンの手から衝撃が伝わり、模擬剣の先端が震えた。


 凛の腕には、傷一つない。


(光……?)


 自分の腕を見下ろす。淡い白金の光が皮膚の上に残り、ゆっくりと消えていく。温かかった。身体の内側から滲み出すような、穏やかな熱。


(聖女の防壁。ゲームの設定通りだ。攻撃を受けた瞬間に自動で展開する——体表を覆う光の膜。物理攻撃を弾く力)


「リゼット様、今の光は……聖女のお力ですか?」


 リオンが模擬剣を下ろし、驚きを隠しきれない顔で凛を見ていた。


「そう。……もう一度、お願い」


 二撃目。今度は凛が意識して防壁を出そうとした。身体の奥に力が眠っている感覚がある。呼吸を深くして、それを引き上げる。


 光が全身を包んだ。リオンの斬撃が弾かれる。三撃目も。四撃目も。


(硬い。この膜、本当に硬い。リオンの剣が全く通らない)


 防壁が消えた後、凛は自分の拳を見つめた。


(守る力。防ぐ力。……でも、守るだけじゃ足りない)


 格闘家は防御だけでは勝てない。ガードは攻撃までの時間を稼ぐためにある。リングの上で学んだ鉄則だ。


(防壁は身体を覆う光の膜。展開範囲は聖女の体表のみ。……体表のみ?)


 凛の中で、何かが繋がった。


(格闘技は「自分の身体で攻撃する」。防壁は「自分の身体を守る」。どっちも対象は「自分の身体」だ。……じゃあ、防壁を全身じゃなくて拳だけに集中させたら?)


 守りの力で、殴る。


 ボクシンググローブの逆だ。グローブは拳を保護しつつ衝撃を分散させるが、防壁拳なら——拳を完璧に守りながら、「壊れない拳」の衝撃をそのまま相手に叩き込める。


(やってみる)


「リオン、少し待って。……試したいことがある」


 凛は訓練場の端に立つ木人に向かい合った。騎士たちが打ち込み稽古に使う、人の胴体ほどの太さの木製の的。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 最初の試みは失敗した。


 防壁を拳だけに集中させようとしたが、光は全身にぼんやりと広がってしまう。拳を握り締めても、光は体表全体を均一に覆い続ける。


(コントロールできない。「出す」「出さない」はできるけど、「ここだけに出す」ができない)


 二度目。同じ結果。三度目も。


 凛は一度防壁を消し、目を閉じた。


(考えろ。格闘技で「力を一点に集中する」時、何をしてた?)


 答えはすぐに出た。呼吸だ。


 パンチを打つ時、息を吐く。吐く瞬間に腹圧が上がり、体幹が固まり、力が拳に集約される。散った力を一点に収束させるトリガーは、いつも呼吸だった。


(同じことを、防壁でやる)


 深く息を吸った。肺が小さいこの身体でも、横隔膜の使い方は覚えている。腹に空気を溜め、丹田に圧をかける。


 防壁を展開する。白金の光が全身に広がる。


 そこから——吐く。


 短く、鋭く。格闘家が打撃を放つ時の呼気。腹圧が跳ね上がり、全身の意識が右拳に流れ込む。


 光が動いた。


 全身を覆っていた白金の光が、波紋のように収縮し、右拳の周囲に凝縮された。拳が白く輝いている。淡い光ではない。密度が上がった分だけ、強い光。


(……来た。集まった)


 凛は右足を踏み込んだ。


 腰の回転。肩の旋回。格闘家が二十年かけて磨き上げた、最短距離で最大の衝撃を生む動作。百五十八センチの華奢な身体が、百九十センチの時と同じ運動連鎖で拳を放つ。


 白金の光を纏った右ストレートが、木人の胴体に突き刺さった。


 粉砕。


 木人が弾け飛んだ。胴体の中央から放射状に亀裂が走り、木片が四方に散る。凛の拳が通り抜けた場所には、何も残っていなかった。


 拳を開く。傷一つない。白い王女の指先が、微かに光を帯びて震えていた。


(……通った)


 木片が訓練場の石畳に降り注ぐ乾いた音が、しばらく続いた。


(拳に集中した防壁が、打撃力を増幅してる。防壁の「壊れない」性質が衝撃を逃がさない。全部の力が、拳から対象に伝わる。原理はボクシンググローブの逆だ——拳を守りながら、衝撃の全てを相手に叩き込む)


 振り返ると、リオンが模擬剣を取り落としていた。


 緑の瞳が大きく見開かれている。口が半開きになり、言葉を探すように唇が動いている。畏怖と、驚愕と、そしてどこか——興奮が混じった表情。


「……リゼット様。今のは……」


 凛はリゼットの微笑みを浮かべた。百五十八センチの、たおやかな姫君の微笑みを。木人を粉砕した右拳で、銀色の髪を耳にかけながら。


「内緒にしてね、リオン」


 リオンが大きく息を呑んだ。それから膝が少し震えたのを、凛は見逃さなかった。恐怖ではない。この少年の震えは、目の前の光景を受け止めきれない身体の反応だ。


(よし。これなら戦える。この世界で、私の武器はちゃんと通用する)


 凛は自分の拳を握り直した。百五十八センチの小さな拳。しかしこの拳には、格闘家の二十年と聖女の力が重なっている。


(リゼットの身体は、私が思っていたよりずっと強い。この子の身体に眠っていた力を、私の技術で引き出す。……それが、この世界での私の戦い方だ)



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