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第3話 推しを目撃

 マリエルとノエルに着替えを手伝ってもらい、凛は白灰宮の回廊に出た。


 石の床が素足に冷たい——のは一瞬で、すぐにリゼットの室内靴の柔らかさが足を包んだ。格闘家の裸足の感覚に慣れた凛には、この足元の頼りなさが少し心許ない。


(靴底が薄い。踏ん張りが利かない。戦闘になったら裸足の方がいいな……って、今はそういう話じゃない)


 回廊を歩きながら、凛はゲームの記憶と目の前の景色を重ねていった。


 右手の広い部屋。天窓があり、光が差し込んでいる。


(聖女の間。祈りの広間。ゲームでは、ここで聖女の力を使うイベントがあった)


 左手の階段を降りた先に、重い扉。


(古文書庫への入り口。王族と宰相しか入れない。ゲーム終盤の重要な場所だ)


 回廊の角を曲がった途端、薔薇の香りを含んだ風が吹き抜けた。中庭に面したアーチ窓が並び、その向こうに広がる景色に足が止まる。


(アルヴィナ王国。大陸の中央、やや南。北にガルデア帝国、東にレミアス公国連合、西にテオクラシア神聖王国。三大国に囲まれた小国)


 ゲームの設定が、頭の中に流れ込んでくる。


(ガルデアは軍事で圧をかけてくる。レミアスは経済を締め上げる。テオクラシアは宗教の権威で貴族を買収する。三方向から同時に、ゆっくりとこの国を殺していく——それがこの世界の設計だ)


(そして、この国の聖女は——)


 思わず掌を開いた。白く、細い、王女の指先。この手に宿っているはずの力。治癒と、防壁。


(全ルートビターエンド。誰を選んでも国が滅ぶ。誰かが犠牲になる。推しが死ぬ。……それがこの世界の「設定」だった)


(でも今の私は「プレイヤー」じゃない。コントローラーを握ってるんじゃない。この身体で、この世界にいる。……変えられるのか? 結末を)


 拳を握った。細い指が白くなる。格闘家の癖だった。追い込まれた時、リングの上で覚悟を決める時、凛はいつも拳を握る。


(変えるんだ。変えなきゃ推しが死ぬ)


 その時、回廊の角から人の気配がした。


 柱の陰から一歩踏み出したのは、茶色い髪に緑の瞳の少年だった。


 剣を腰に佩き、背筋を伸ばして立っている。まだ幼さの残る顔立ちだが、目だけが違った。真っ直ぐで、一途で、強い光を宿した眼差し。


(リオン・セルヴァ。近衛騎士。十八歳)


「リゼット様、お目覚めおめでとうございます。……お体のお具合はいかがですか」


 敬語がぎこちなかった。緊張しているのだ。凛を——リゼットを前にして、声がわずかに震えている。


「ありがとう、リオン。もう大丈夫よ」


「……よかったです。三日間、ずっとお待ちしておりました」


 リオンが小さく頭を下げ、凛の斜め後ろに立った。護衛の位置だ。何も言わず、自然に、そこに立った。凛が歩き出せば、半歩遅れてついてくるだろう。それが当たり前だというように。


(ゲームでは……最も辛いルートを持つ子だ)


 「花と剣」。リオンルート。ゲーム内で最も短い個別ルートだが、感情の密度が最も高い。リオンは最後に凛の盾になり、致命傷を負う。「姫が笑っていてくれれば、俺は」——その台詞は途中で途切れる。リオンルートの生存二次創作は、ファンダムで最も多く書かれたジャンルだった。


 半歩後ろを歩くリオンの横顔が、ふと視界に入った。十八歳。まだ子供と大人の境にいる顔。しかしその目には、この年齢にそぐわない覚悟が宿っていた。


(この子は、守る。絶対に)


 リオンは凛の視線に気づくと、少し慌てたように目を逸らした。


「あ……あの、リゼット様。お散歩のお供が必要でしたら、私が」


「ええ。お願いね、リオン」


 凛は微笑んだ。リゼットの微笑みを。リオンの頬がわずかに赤くなった。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 リオンを伴い、マリエルとノエルが後ろに控える形で、凛は白灰宮の庭園に出た。


「少し風に当たりたいの」


 凛がリゼットの声で言うと、マリエルが静かに頷いた。


「かしこまりました。お体が冷えぬよう、肩掛けをお持ちいたします」


「ありがとう、マリエル」


(落ち着け、倉橋凛。お前は今リゼットだ。王女だ。「やべえ」とか「推し」とか口に出すな。絶対に出すな)


 庭園は白い薔薇で埋め尽くされていた。石畳の小径が薔薇の間を縫い、奥には東屋が見える。風に乗って花びらが舞う景色は、ゲームのイベントCGそのものだった。


(ここ、ガイウスルートの第一回デートイベントの場所じゃん。白い薔薇の庭園で、ガイウスが剣の手入れをしていて、リゼットが声をかけると「姫殿下、ここは騎士の休息の場です」って言うやつ。あのシーン、三十回は見た)


 内心でオタクが暴走しかけるのを、凛は必死に抑え込んだ。表情に出してはいけない。ここは現実だ。ゲームの聖地巡礼をしている場合ではない。


 ノエルが足元の薔薇を指差した。


「姫殿下、今年は白薔薇の咲きが見事ですわ! お庭師のラウルが、姫殿下のために特別に手入れをしていたそうです!」


「そう。……綺麗ね」


(ラウル? ゲームにそんな名前はなかったぞ。モブのNPCか。……いや、ここは「ゲーム」じゃない。生きた人間がいる世界だ)


 庭園の先に、訓練場が見えた。


 円形の石畳の上で、騎士たちが剣を交えている。金属のぶつかる音と、掛け声が風に乗って届く。二階の回廊からも見下ろせる構造になっており、何人かの侍女や文官が手を止めて稽古を眺めていた。


 凛の足が、止まった。


 訓練場の中央に、一人の男が立っていた。


 灰色の短髪。


 周囲の騎士たちよりも頭一つ分だけ高い、精悍な体躯。剣の柄に手を置き、若い騎士の稽古を見守る後ろ姿。


(……灰色の髪。まさか——)


 距離がある。顔は見えない。しかしその立ち姿だけで分かった。ゲームで何百回も見た後ろ姿だ。夢小説で何万字も書いた背中だ。


 ガイウス・ヴォルフ。


 アルヴィナ王国騎士団長。四十二歳。凛が最も愛した攻略対象。


 心臓が一拍、大きく跳ねた。


(いや、まだだ。今日は身体を確認するだけ。推しに会うのは……覚悟が要る。リゼットの顔で、リゼットの声で、あの人と初めて話すのは——まだ、だめだ)


 凛は意識して視線を逸らした。訓練場から庭園の方へ、顔を向ける。


「姫殿下? どうかなさいましたか?」


 ノエルが不思議そうに首をかしげた。


「いいえ。……少し、風が冷たかったわ」


「まあ、それはいけません! マリエル先輩、肩掛けを……!」


 ノエルが慌てて駆け出す。マリエルが小さく苦笑しながら後を追った。


 リオンだけが、凛の半歩後ろで静かに立っていた。何も訊かなかった。凛が訓練場を見て足を止めたことにも、急に視線を逸らしたことにも。ただ、護衛として、そこにいた。


 風が吹いた。白い薔薇の花びらが舞い上がり、訓練場の方へ流れていく。


 灰色の髪の男の後ろ姿が、花びらの向こうに霞んでいた。


(ゲームのエルヴィンは、こんな顔をしなかった)


 あの「よかった」の一言が、凛の頭から離れない。


 目が笑っていない完璧な微笑みの裏に、あの兄は何を隠しているのだろう。


(この世界は、ゲームより深い。ゲームでは見えなかったものが、ここにはある)


 凛は拳を握りしめた。細い、王女の拳を。


 変えてやる。


 全ルートビターエンド。推しが死ぬ結末。この国が滅ぶ未来。


 全部、書き換えてやる。


(そのために、まず——この身体で、何ができるかを確かめないと)


 訓練場の向こうで、灰色の髪が風に揺れた。

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