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第10話 星屑の剣姫と静かな夜の参謀

 東屋の中は、薔薇の香りと石の冷たさが混ざり合っていた。


 蔦に覆われた壁が午後の光を緑色に濾過して、二人の間に柔らかい影を落としている。庭園のお茶会の喧噪は、もうここまでは届かない。白い石造りの小さな空間に、凛とアシェルが向かい合って座っていた。


 マリエルは東屋の外で待っている。この距離なら、声は聞こえない。


 アシェルの碧い瞳が、凛を見ていた。令嬢の柔らかさと、分析者の冷徹さが同居した目。先ほどの「東屋はいかがでしょうか」と穏やかに答えた口元は、今は薄く結ばれている。


 静かだった。風が蔦を揺らす音だけが聞こえる。


(言うのか。ここで。もし間違ってたら、ただの変な姫だ。「あなた、この世界の人間じゃないでしょ」なんて、正気じゃない。精神を病んだ聖女として宮廷中に噂が立つ)


 凛は一度だけ息を吸い、吐いた。


(でも——格闘家は直感を信じる。リングの上で迷ったら負けるのと同じだ。この子の座り方。「了解」。「等高線」。あの目。全部合わせたら、答えは一つしかない)


「アシェル嬢」


「はい、姫殿下」


「——悪い、敬語やめるね」


 アシェルの目が、微かに見開かれた。


 凛の声が変わっていた。リゼットの穏やかな丁寧語ではなく、もっと低くて、もっと直線的な声。品格のフィルターを外した、素の声。この世界に転生してから一度も人前で出したことのない声だった。


「聞きたいことがある。一つだけ」


「……どうぞ」


 アシェルの声も変わった。令嬢の婉曲さが消え、短く、硬い応答。——やはり、この反応。普通の令嬢は、聖女が突然敬語をやめたら困惑する。しかしアシェルは困惑していない。警戒している。


(やっぱりだ。この子は「来る」と分かってて構えてる。査定が終わるのを待ってたんだ。お互いに)


 凛は真っ直ぐにアシェルの目を見た。菫色と碧色がぶつかる。


「あなた、この世界の人間じゃないでしょ」


 東屋の空気が止まった。


 蔦の葉が一枚、風に剥がれて石畳に落ちた。その乾いた音が、沈黙の中でやけに大きく響いた。


 アシェルの表情が——変わった。


 令嬢の仮面が、一枚ずつ剥がれていくように。目元の力の入り方が変わり、口元の角度が変わり、肩の位置が数ミリ下がった。コルセットの中で、別の人間の身体の使い方になっていく。


「……なぜ、そう思いましたか」


 声が震えていた。令嬢の声ではない。もっと低くて、もっと精密な声。


 凛は答えた。


「座り方が軍人だった。『了解』は自衛隊の癖。『等高線』は地図を読む訓練を受けた人間の言葉。ティーカップの持ち方が実用的すぎる。あと——目。あなたの目は情報を選別してた。格闘家は相手の目を見るんだ。あの目は、令嬢の目じゃない」


 アシェルの碧い瞳に、水膜が広がった。


「——全部、見えていましたか」


「全部」


 沈黙。


 長い沈黙。


 アシェルが——いや、アシェルの中にいる誰かが、両手を膝の上に置いて、小さく息を吐いた。その息が震えていた。


「……私は倉橋凛。現役のMMAファイター。もしかして——あなたも?」


 問いかけた凛の声も、最後の方は揺れていた。


 アシェルが顔を上げた。碧い瞳が涙で滲んでいる。しかしその奥に浮かんでいるのは、悲しみではなかった。安堵だった。途方もない安堵。この世界で初めて、誰かの前で息を吐けた人間の顔だった。


「——篠原真琴です」


 声が割れた。


「三佐。陸幕情報部でした」


 凛の目も、熱くなった。


「……やっぱりか」


「やっぱり。……姫殿下の動きが、格闘家のそれでした。お茶会で座る前に重心を確認していたでしょう。あれは椅子に座るのではなく、椅子の強度を測る動きです」


「……見えてたんだ。お互いに」


「はい。……お互いに」



―――――✧ ❀ ✧―――――



 二人の間に、新しい空気が流れ始めていた。


 令嬢と聖女の距離ではない。仮面を脱いだ二人の女の距離だった。声のトーンが変わり、視線の温度が変わり、東屋の中の重力そのものが変わったような感覚があった。


「……倉橋さん。一つ確認させてください」


「凛でいい。……うん、何?」


「この世界が何か、わかりますか」


「——わかるよ。『約束の灰燼アッシュ』。全ルートビターエンドの乙女ゲーム。知ってるも何も、私——」


 凛は言葉を切った。


 言うのか。ここまで言うのか。自分がただのプレイヤーではなく、夢小説を書くほどのめり込んでいたことを。


(……いいだろ。もう隠す意味がない)


「私、あのゲームのファンだったんだ。夢小説を書いてた」


 真琴の碧い瞳が大きく見開かれた。


「……私もです」


「……え?」


「私も、アッシュの夢小説を書いていました」


 凛の心臓が跳ねた。予想はしていなかった。転生者が同じゲームのファンであること自体が奇跡なのに、二人とも夢小説書きだったなんて。


「……嘘。マジで?」


「マジです。……HN、聞いてもいいですか」


 凛は一瞬だけ躊躇った。ハンドルネームは、現実世界の名前より深い場所にある名前だった。格闘家としての倉橋凛より前に、オタクとしての自分を名乗っていた名前。


「——星屑の剣姫」


 真琴が凍りついた。


 文字通り、凍りついた。碧い瞳が限界まで見開かれ、唇が微かに震え、膝の上に置いた指先が白くなった。


「……星屑の、剣姫さん」


「うん」


「あの——星屑の剣姫さん? ガイウスの独白を書かせたら右に出る者がいない剣姫さん? 『灰燼の夜に、あなたの背中を見ていた』の——あの剣姫さん?」


 凛の目から、涙がこぼれた。


 知ってる。この人は私の作品を知ってる。私のハンドルネームを知ってる。あの世界で、私が書いた夢小説を読んでくれていた人がいる。


「……まさか」


 声が出なかった。喉が詰まった。予感が、確信に変わろうとしている。


「あなた——参謀、さん?」


 真琴の碧い瞳から、涙が溢れた。


「静かな夜の参謀です」


 凛の世界が揺れた。


「参謀さん……!? セバスティアンの知略を最も美しく書く参謀さん……!? 『夜更けの執務室で、あなたの紅茶が冷めていく』の参謀さん……!?」


「はい——はい、そうです、剣姫さん——」


 真琴の声が壊れた。令嬢の声でも、軍人の声でも、分析者の声でもない。ただの一人のオタクの、震える声だった。


「推しが実在するんですよ」


 真琴が泣いていた。笑いながら泣いていた。


「推しが実在するんですよ……セバスティアン閣下が、目の前で動いて、喋って……壁紙の人間が、紅茶を淹れてたんですよ……」


「わかる」


 凛も泣いていた。笑いながら泣いていた。涙が顎を伝って、ドレスの襟元に落ちた。リゼットの完璧な王女の顔が、ぐしゃぐしゃに崩れていた。


「わかるよ参謀。私もだ。推しが目の前にいるの。ガイウス団長が、あの声で、あの顔で、生きてるの。ゲームのCVより声が低くて、でもあの声なの」


「セバスティアン閣下に会った時、声が出なかった。あの方、実物の方がまつ毛が長いんです。まつ毛ですよ? 私の人生を終わらせたまつ毛が実在するんですよ?」


「ガイウス団長の横顔見た時、心臓が止まるかと思った。いや、もう一回死ぬかと思った。一回死んでここに来たのに、推しの顔でもう一回死ぬところだった」


 東屋の中に、涙と笑いが溢れていた。


 泣いている。笑っている。二人とも。白い石造りの小さな空間で、異世界に転生した二人のオタクが、推しの話をしながら泣いて笑っている。


(こんな再会があるのか)


 凛は涙を拭いながら、向かいに座る真琴を見た。碧い瞳が赤く充血して、鼻の頭も赤くなって、端正な顔がぐしゃぐしゃになっている。冷静沈着な元自衛官が、推しの話で号泣している。


(顔を知らない親友が、異世界にいた。異世界で推しの話をしている。何なんだこの状況。夢小説の導入だって、こんなプロット書いたら読者に「ご都合主義すぎ」って言われるやつだ)


「参謀さんの——真琴の、セバスティアンルート考察」


 凛が震える声で言った。


「あれ読んで、セバスティアンの見方が変わったんだ。閣下の沈黙の裏にある感情を、あんなに緻密に読み解いた人は他にいなかった」


「剣姫さんの——凛さんの、ガイウスの戦闘描写」


 真琴が涙声で返した。


「あの臨場感はなんだろうとずっと思ってました。プロの格闘家だったんですね。そりゃ剣の重さが文章から伝わるはずです」


「参謀さんの軍略描写も、プロの自衛官だったなら納得だよ。情報戦の解像度が異常だったもん」


「凛さんのガイウスへの告白シーン、三日泣きました」


「参謀さんのリオンルート考察で私も三日泣いた」


「あれは本気で書きました」


「知ってる。全部読んだ」


 また涙が溢れた。今度は静かに。


 二人とも笑うのをやめて、ただ泣いていた。


 顔も名前も知らなかった。画面越しの文字だけで繋がっていた。感想メッセージを送り合い、互いの新作を待ち、互いの推しの魅力を語り合った。「星屑の剣姫」と「静かな夜の参謀」は、「アッシュ」のファンダムで対のように並んでいた。


 その二人が、推しのいる世界で再会した。


「……ここにいてくれたんだ」


 凛が呟いた。


「昨日の夜、思ったんだ。参謀さんがここにいてくれたらって。一人じゃ無理だって。情報も分析も軍略も、全部足りないって。……そしたら、本当にいた」


 真琴が泣き笑いの顔で、小さく頷いた。


「……私もです。転生してから、ずっと一人でした。この世界で推しが実在する喜びと、誰にも言えない孤独が同時にあって。アシェルとして完璧に振る舞わないと生き残れないと思って、ずっと——」


 声が詰まった。


「ずっと、一人で計算してました。三大国の脅威。宮廷の力学。セバスティアン閣下の動向。全部一人で分析して、一人で対策を考えて。でも、計算すればするほど、一人では足りないことが分かって——」


「もう一人じゃないよ」


 凛が言った。


 真琴が顔を上げた。涙に濡れた碧い瞳と、涙に濡れた菫色の瞳が交わった。


「格闘家と参謀が揃ったんだ。武力と頭脳。これ以上ないコンビじゃん」


 真琴の唇が、震えながら笑みの形を作った。


「……そうですね。要するに——」


 不意に出た言葉に、真琴自身が驚いたような顔をした。


「——要するに、私たちなら、このゲームを書き換えられるかもしれない」


 凛は涙を袖で乱暴に拭って、笑った。リゼットの上品な微笑みではなく、倉橋凛の豪快な笑い方だった。


「いいね。その『要するに』、参謀っぽくて好き」



―――――✧ ❀ ✧―――――



 涙が落ち着くまで、しばらくかかった。


 二人はそれぞれ袖やハンカチで涙を拭き、赤くなった目元を手の甲で押さえ、鼻をすすった。王女と侯爵令嬢の振る舞いとは程遠い姿だったが、今はどちらも気にしていなかった。


「……こんなところで泣いてる場合じゃないんだけどね」


 凛が鼻声で言うと、真琴が小さく笑った。


「そうですね。マリエルさんが外で待っていますし、目が赤いまま出たら説明が大変です」


「あー……『聖女殿下が東屋で号泣していた』って噂が立ったらまずいな」


「最悪の場合、私が何か酷いことを言ったと思われます」


「それは困る。参謀のせいにされたら申し訳ない」


 二人は顔を見合わせて、また笑った。今度は涙のない笑いだった。


「……凛さん」


「うん?」


「私、転生してから調べていたことがあります」


 真琴の声が、少しだけ硬くなった。分析者の声に戻りつつある。しかし完全には戻らない。凛の前では、もう仮面をかぶり直す必要がないと知ったからだ。


「三大国の動き。宮廷の貴族の派閥。騎士団の戦力と財政。ゲームでは設定の一行で片付けられていた脅威が、この世界では三方向から同時に、リアルタイムでこの国を締め上げています」


「……やっぱりそうか。私もメモを取り始めたんだ。ゲームとの乖離を」


「見せていただけますか」


「もちろん。明日、持ってくる。……参謀は?」


「私の分析も持参します。突き合わせましょう。二人のゲーム知識を統合すれば、抜けを補い合えるはずです」


 凛は頷いた。ガイウスルートを熟知した凛と、セバスティアンルートを熟知した真琴。推しが違うから、見ていた角度も違う。二人の知識を重ね合わせれば、ゲームの全体像がより精密に浮かび上がる。


「真琴。あなたのスキルのこと、聞いてもいい?」


「はい。通信と識別と刻印——三つのスキルがあります。詳しくは明日、お話しします。ただ、一つだけ先に言っておくと——」


 真琴が凛の目を真っ直ぐに見た。


「私のスキルは、戦場の全体像を把握する能力です。凛さんの武力が剣なら、私の情報は目と耳。組み合わせれば、ゲームでは成し遂げられなかった結末に手が届くかもしれません」


「……誰も死なない結末」


「はい」


 凛は深く息を吸って、吐いた。薔薇の香りと、石の冷たさと、隣にいる仲間の温度。


「真琴」


「はい」


「——ありがとう。ここにいてくれて」


 真琴の碧い瞳が、また潤んだ。しかし今度は涙をこらえて、小さく微笑んだ。


「……私もです、凛さん。ここで会えて、本当によかった」


 風が東屋を抜けた。蔦の葉がさざめき、白い薔薇の花びらが一枚、石畳に舞い落ちた。


 凛は涙の痕が残る顔で、ゆっくりと表情を変えた。笑みが消え、目に別の光が灯る。格闘家が試合前に見せる目だ。静かで、鋭い。


「——で、どうする」


 真琴が姿勢を正した。


「この国、どうやって守る」

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