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第1話 推しのいる世界へ

 歓声が壁を震わせていた。


 控え室のコンクリートに反射した低い振動が、床から足の裏を伝って這い上がってくる。世界統一王座決定戦、メインカードの一つ前が終わったのだろう。観客のボルテージが上がっている。

 倉橋凛は、パイプ椅子に深く腰を下ろしていた。

 パーカーのフードを目深に被り、スウェットの膝を広げて座る姿は、百九十センチの長身と相まって威圧感がある。テーピングされた大きな手がスマートフォンを握っていた。画面に映っているのは――格闘技の試合映像でも対戦相手の分析でもない。

 乙女ゲーム「約束の灰燼アッシュ」のファンサイトだった。

 トップページのバナーには、灰色の短髪に頬の傷跡が精悍な男――騎士団長ガイウスの立ち絵が使われている。凛の口角が、わずかに上がった。


(参謀さんの新作の感想、試合終わったら書こ。あの人のセバスティアン解釈は毎回刺さるんだよな)


 画面をスクロールすると、コメント欄の上の方に見慣れたハンドルネームがあった。「静かな夜の参謀」――凛が最も信頼する書き手であり、顔も本名も知らない親友だ。

 さらに下へ。「星屑の剣姫さんの新作まだですか?」というコメントが目に入る。


(わかってるって。試合終わったら書くから待ってて)


 心の中で返事をして、凛はスマホを閉じた。

 立ち上がる。パーカーを脱ぐ。その下から現れたのは、鍛え抜かれた長身の体だった。百九十センチ、七十八キロ。女子総合格闘技、パウンド・フォー・パウンド最強。対戦相手がどんな戦略を立ててこようが、この体で叩き潰してきた。

 グローブを嵌める。指を一本ずつ通し、手首のベルクロを締める。流れるように美しい所作だった。何百回、何千回と繰り返してきた動作が、祈りのように指先に染みついている。


(さて、仕事だ)


 控え室のドアが開く。スタッフが呼びに来た。歓声が一気に膨らむ。

 倉橋凛は、笑って花道へ向かった。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 リングの上で、空気が変わった。

 対戦相手は百八十センチのブラジル系の選手だった。金髪をポニーテールにまとめ、闘志を剥き出しにした目が凛を睨む。凛より十センチ低いが、筋肉の密度が高く、踏み込みに重さがある。世界統一王座決定戦の相手として不足はない。

 ゴングが鳴った。

 凛の左ジャブが相手の視界を塞いだ。反応する間もなく右ミドルキックが脇腹を抉る。相手が距離を取ろうとした瞬間、凛の重心が前に沈んだ。腰の回転が拳に乗る。ボディへのショートフック。肝臓を掠めた一撃に相手の膝が揺れた。

 会場が沸く。圧倒的だった。

 相手が組みに来る。凛はそれを切り、首相撲に移行した。膝を突き上げるフェイントで相手の意識を散らし、離れ際に肘。相手の目尻が切れ、血が飛んだ。


(あと一分。このまま――)


 見えなかった。

 相手の右フックが、凛の後頭部を捉えた。組みを切った直後の一瞬、重心が後ろに残ったタイミングだった。百八十センチの体から繰り出された拳が、凛の意識を断ち切る。

(あ、やられた。こいつの右、見えなかった。……ああ、まずい。意識が)

 百九十センチの体がリングに崩れ落ちる。レフェリーが駆け寄る。歓声が悲鳴に変わった。

 天井のライトが滲んでいく。白い光が灰色に変わる。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 視界の中に、見慣れた画面が浮かんだ。

 灰色の背景に、白い花が一輪。

「約束の灰燼アッシュ」のタイトルロゴが、意識の底に浮かび上がる。凛が百回以上見たオープニング映像だった。

 画面が切り替わる。

 ガイウス。灰色の短髪、頬の古傷、剣の柄に置かれた手。遠くを見つめるあの横顔。凛が夢小説で最も多く書いた男の姿が、記憶の底から立ち上がった。

 セバスティアン。黒髪黒眼の宰相。表情の乏しい端正な顔。書類を手にペンを回す仕草。参謀さんが書く彼はいつも、この冷たい顔の裏に深い感情を隠している。

 エルヴィン。金髪碧眼の完璧な王子。微笑んでいる。けれどその目は笑っていなかった。ゲームの中でも、ずっとそうだった。

 リオン。茶髪に緑の瞳。真剣な眼差しで剣を構える少年騎士。

 そして――リゼット。銀灰色の長い髪。白いドレスに包まれた、たおやかで儚げな姫君。凛とは何もかもが正反対の、この世界のヒロイン。


(ガイウスが見える。相変わらずいい顔してる。……ああ、新作の締め切り、参謀さんに連絡しないと)


 ピアノの旋律が遠く聞こえた。「灰燼のワルツ」。このゲームで凛が最も好きなBGMだった。

 画面の隅に一瞬、テキストが流れた。凛が何度も読み飛ばした「灰燼のあとがき」の一節。


 ――あなたが新しい結末を書けるなら


 読み取る前に、視界が灰色に沈んでいく。


(視界が、灰色に……)


 意識が、落ちた。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 蛍光灯の光が、白い天井を照らしていた。

 陸上幕僚監部、運用支援・情報部。午後十時を回った執務室に残っているのは、篠原真琴だけだった。

 ディスプレイが三台並ぶデスクの前で、真琴は報告書の最終チェックをしていた。黒のショートカットを耳にかけ、制服の襟元には三等陸佐の桜星。三十四歳。陸上自衛隊で最も若い三佐の一人であり、情報分析の精度では部内随一と評されている。

 キーボードを叩く手が止まった。

 報告書を保存し、スクリーンロックをかける。ディスプレイが暗転し、ロック画面が表示された。

 セバスティアン・ノワールの立ち絵が、画面いっぱいに映し出される。

 黒髪黒眼の宰相。書類とペン。微かな皮肉を含んだ目元。乙女ゲーム「約束の灰燼アッシュ」の攻略対象の中で、真琴が最も愛した男だった。


(……壁紙、変えた方がいいかな。いや、誰も見ないし。閣下の顔が綺麗だし)


 デスクの脇に置かれたペン立てには、一本だけ毛色の違う細いペンが刺さっている。夢小説の構想メモ用の私物だ。手帳を開けば、隙間に挟まれた「アッシュ」のミニカードが覗く。セバスティアンのレアカード。三年前のイベントで引いた。

 真琴は椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。


(剣姫さんの新作、今回のガイウスの独白がやばかった。感想書かないと……あ、でもこの報告書が先だ)


 星屑の剣姫。顔も本名も知らない、ファンサイトで唯一「この人のガイウスは本物だ」と思える書き手。真琴のハンドルネームは「静かな夜の参謀」。二人は互いの夢小説を読み合い、感想を送り合い、ときに解釈で三千字の議論を交わす仲だった。

 実際に会ったことは一度もない。声も知らない。ただ、この人だけは自分と同じ熱量で「アッシュ」を愛していると確信していた。



―――――✧ ❀ ✧―――――


 廊下に足音が響いた。


「篠原、まだいたのか。もう二十二時だぞ、帰れ」


 鶴見一佐が執務室の入口に立っていた。短髪に眼鏡、温和な顔。真琴の直属の上司だ。


「あと少しです」

「お前の分析は信頼している。だからこそ体を壊すな」

「はい。あと十分で終わります」


 鶴見がため息をついて立ち去った。真琴は苦笑して、ディスプレイに向き直る。

 その時、胸に痛みが走った。

 鋭く、深い痛み。心臓を握り潰されるような圧迫感が、胸の中心から放射状に広がった。


(胸が……痛い。これは……心筋梗塞? まさか、三十四で?)


 左手で胸を押さえた。右手がデスクの縁を掴もうとして、滑った。椅子が回転し、体が傾く。

 ディスプレイのスクリーンセーバーが起動した。暗転した画面に、セバスティアンの立ち絵がゆっくりと浮かび上がる。


(……画面に閣下の顔が映ってる。ああ、恥ずかしい、壁紙変えとくべきだった)


 床に膝をつく。視界がぼやけていく。蛍光灯の白い光が、灰色に変わっていく。


「篠原!」


 鶴見の声が遠くから聞こえた。足音が廊下を走ってくる。


(剣姫さんの新作の感想、まだ送ってなかった。……ごめん、参謀は先に落ちます)


 視界が、灰色に沈んでいく。

 ピアノの旋律が、どこか遠くから聞こえた気がした。



―――――✧ ❀ ✧―――――



 二つの意識が、同じ灰色の底に落ちていく。

 百九十センチの格闘家と、三十四歳の自衛官。リングの上と、蛍光灯の下。右フックと、心筋梗塞。何もかもが違う二人の女の意識が、同じピアノの旋律に導かれるように、同じ灰色に溶けていく。

 白い花が一輪、視界の端に咲いた。

 約束の灰燼アッシュ。全ルートがビターエンドで終わる、救いのない乙女ゲーム。


 同じゲームを愛した二人の女が、同じ世界に落ちていく。


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