死線の国境 ブラックオーキッド作戦~最終章(削除済み作品未公開部分)
最終回となります。今まで読んでいただきありがとうございました!
公募のため、3月半ばにはこちらも削除します。
死線の国境
◆最終章 ブラックオーキッド作戦
【D7 18:20 師団司令部・作戦室】
如月の命令は、命令ではなかった。俺はそう思った。命令よりも深く抉るように刺さる言葉だった。
『未来を繋げ。生きろ』
耐えきれぬ重さに司令官として耐えてきた。国が滅び、纏っていた肩書を失ったとき、残ったのは生きることも死ぬことすらもできない残骸だった。
そんな残骸――俺に、彼女はただ、『生きろ』と命じた。生きる理由でも、立ち上がる責任でも、戦う覚悟でもない。ただ、《生きろ》、と。
その言葉に無性に胸が震えて、思わず涙が溢れた。
『命令を守るためじゃない。誰かを守るために俺は軍人になった』
その誓いを思い出す、俺のオリジン。
――簡単なことだった。単に思い出せば良かっただけなのだ。俺は守りたいと思ったから軍人を選んだのだ。軍人だから国を守ってきたのではない。
――人類の未来を、守る。
如月に命令されたからじゃない。あの命令で、俺は理解させられただけ。
『俺は、未来を守るために、生きてきた。そして、これからも生きていくんだ』と。
彼女を救う術はない。だが、見捨ててすまないと告げるのはきっと違う。俺が言いたいのは、そんな言葉じゃない。
(――ありがとう、如月遥。俺はお前に救われた)
己が未来を繋ぐために生きる存在であると掴んだ黒瀬の頬を流れた涙。それは救済された男の、再誕の証だった。
*
「……これで動けるな、マスター」
黒瀬の挙動を観測していたゼノンが、安堵したように告げた。
目尻に浮かぶ涙を親指の腹でサッと拭い、黒瀬が顔を上げる。その瞳は、強く輝く意志に満ちていた。
「あぁ……動ける。まだ……俺は、生きているからな」
「……では、マスター。命令を。未来を繋ぐ、作戦を」
その言葉に頷き、黒瀬は作戦室に詰める幕僚達に視線を向ける。一人ひとりに対して。如月との通信を聞いていた彼らにも、重ねて黒瀬は命じた。
「――人類の未来を繋ぐための作戦、《黒蘭作戦》を発動する。まずは、司令部を秩父に移す」
そこで言葉を切り、付け足した。
「生きて、未来を繋ぐ! 全員、そのことを胸に刻め!」
かつてないその語気の強さに、熱に、誰もが一斉に敬礼をする。もはや自衛隊司令官ではない黒瀬に対し、その立場ではなく、その在り方に敬意を捧げるように。
「撤退する。移動準備に取り掛かれ。……残していく民間人のために武器庫を解放しておけ」
十九時に離脱を開始するという黒瀬の指示に従って、作戦行動が開始された。
*
駆け足で作戦室から飛び出していく幕僚の波を縫って、一人の男が黒瀬の傍に歩み寄ってきた。
静かで規則正しい足音。次席幕僚の山城。かつて、黒瀬の命令を逸脱と断じた、冷徹な軍人だ。今、彼の目に宿っていたのは、かつてのような鋭利な牽制ではなかった。
黒瀬は、あのときと同じく、正面から彼の視線を受け止める。
直立不動の姿勢を取り、山城は言った。
「……黒瀬幕僚長。申し訳ありませんでした。過日、私はあなたの判断を逸脱と糾弾し、 その進行を妨げかけました。……それが、何を意味したか。今となっては、痛いほどに理解しています」
正しさを愛する山城からそんな言葉が出るとは、と思いつつ、黒瀬は続きを待った。
「あのとき、私の正しさが――人類を危機に晒していた。あなたは、組織としては間違っていたと、今でも思います。ですが、だからこそ――あなたが正しかった」
一拍置いて、ビシッと折り目正しく山城が敬礼の姿勢を取る。
「命令の更新、承知致しました。以後、全霊で従います!」
黒瀬も僅かに苦笑し、答礼を返す。態々言葉にする。曲がったことが嫌いな山城らしいと思って。
「……生きろ、手段は問わない。この命令の元でなら、俺もお前も同じ正しさを追えるだろう。――引き続き、師団司令部の補佐を頼む」
山城の肩を強く叩き、黒瀬も作戦室を後にした。
白百合の熱を受け、血と怨嗟の沼に、黒蘭を咲かせるために。
*
【D7 19:32 第一師団司令部移転・車列】
夜の闇の中、渋滞で閉塞した大通りを避け、閉塞していない道路を選び、秩父に向かう車列があった。
周囲は完全な闇である。街灯も、部屋の明かりも、車列以外の車のヘッドライトもない。月明りすら曇天の下で届かず、無明の闇というものを再び人類は経験していた。
発電所は操作する人間がいないことから稼働を停止。電気を失った人類の長い長い夜が始まった。
脱出時に僅かな混乱はあったものの、生存圏に移動する人間だけを乗せ、黒瀬以下、司令部の人員、自衛官、選抜された生存者(志願者の縁者、若い女性、医師や研究者といった特殊技能保持者)は、一路秩父に向け進む。
射撃は控え、轢き潰しつつ進む。ゾンビの集団が96式を止められないことは白百合作戦で実証済みだった。
6台の96式が先頭を切り開き、輸送用トラックが長い車列を作る。その最後尾には、3台の96式装甲車――それは、白百合作戦から離脱した装甲車がたどり着いたものだった。
「……あの包囲下を突破するとはな」
先頭から2台目の96式に乗り込んだ黒瀬の肩に吊るされたゼノンは、白百合作戦離脱組の合流の報告を思い出すように言った。
「子どもは貴重だ。成長し、人口の再生産ができるまでは負担になるが。――それでも、未来そのものだ。合流出来て良かったと俺は思う」
黒瀬がそれに答え、続けた。
「秩父は高齢者が多い。そのままでは生き延びても未来が細る」
それは、ゼノンと何度も繰り返した議論の結論。ブラックオーキッド作戦は、生き続けるための作戦だ。戦闘での勝利を目指すホワイトリリィ作戦とは違う。だからこそ、志願兵の縁者を除き、若い女性(生殖可能年齢)を優先し、保護したのだ。
「――食料生産についても……」
ゼノンがその思考に沿って議論を進めようとしたのを黒瀬が遮った。
「待て、ゼノン。今からできることはない。まずは明日を生き延びねば」
「……了解した、マスター。だが、言葉を返すが、今できることはない。移動するだけだ。柴崎には移動開始を伝達済みだ。D7の1日を彼らも戦い抜いていた。文字通りの意味で、彼は人類の救世主になるだろう。――生存圏を守り切れれば、な」
その声を聞き、ヘルメットの下で視線を落とした黒瀬が静かに尋ねた。それは騒音渦巻く車内の中、ぎりぎりゼノンに届くほどの声量。
「……誰が首相を撃墜した?」
装甲車の中で揺られ、目的地に進むこの余白。一瞬過去を振り返る時間が黒瀬に与えられた。
「――海上自衛隊・護衛艦『わかしお』の砲撃により撃墜された。もっとも彼ら自身は既に独立国家を自称している。海上の生存勢力を糾合し、独自行動を開始していた。感染が拡大してまだ3日だ。それ以前に出航している船舶は、感染していないと考えていいだろう」
「……何故、撃てた?」
「マスターがそれを聞くのか。何故、黒蘭作戦を実行できた? 答えは同じだ。あの護衛艦の艦長もおそらく、人類の生存を最優先にすると決めている。――将来的に秩父生存圏として接触する可能性は十分にある。まだ未来の話だが、懸案事項ではある」
どのような対話をすることになるかと黒瀬が瞑目し、思索に沈む。それを呼び戻すゼノンの声。
「今はまだ考える必要はない。彼らは生き延びた。俺たちはまだ生き延びていない。考えるのは、秩父を守り切ってからだ。だから――今は少しでも休んでおけ。移動中くらいは」
黒瀬はその言葉に、ふっと笑い、タブレットを軽く叩いて、壁にもたれ目を閉じた。揺れるたび、ヘルメットが鋼鉄の内壁に当たりカツカツと鳴る。今この瞬間も、白百合作戦参加将兵が、擱座した同じ96式装甲車の中でゾンビの海の底で、絶望していることを思うと胸が冷たくなる。すまないと思う。だが、止まれはしない。苦々しさすら飲み込んで、黒瀬は休息を選ぶ。
指揮を執り続け、疲弊した最高司令官が程なく眠りにつくのを、ゼノンは黙って見守っていた。
【D7 23:44 秩父市役所・臨時防衛司令部】
黒瀬を乗せた装甲車の車列は、渋滞を避け、裏通りから林道へと入り、柴崎が封鎖せず残した裏ルートを選び、山を越えて秩父へとたどり着いた。
柴崎により、秩父に向かう主要なトンネルは爆破・または閉塞されており、橋も物理的に封鎖されていた。
日付が変わる直前、黒瀬は秩父市役所に到着する。車列は解散し、ミューズ公園や各地の避難所へと散って行く。仮眠と呼ぶには短すぎる休息を終え、黒瀬は自動小銃を携えたまま、後部ハッチから跳び降りた。
「黒瀬さん!」
その瞬間、黒瀬を呼んだのは先行して秩父に入っていた柴崎だった。駆け寄り、敬礼をする柴崎に、黒瀬は労いを込めて頷き敬礼を返す。
「柴崎。……何人殺した?」
D6深夜。24時間前に柴崎に命じたのは、秩父の封鎖と権力の奪取。軍事的クーデター。無血開城であるとは確信できなかった。
「死者はいません。――深田危機管理室長が便宜を図ってくださいました。命懸けで抵抗する者はおらず、世界情勢を把握する中で、ひとまず様子を見るという状況に落ち着いております。……指示の通り、この場に、秩父市の市長や警察、医療、商工会のトップを集めてます」
ため息をついたと思われないように、慎重に詰めていた息を深く吐き出す。
「……それは、何よりだ。本当にご苦労だった。ここからは一緒に進めよう。――生き延びるぞ」
「もちろんです!」
力強く頷く柴崎。その明るさに少しだけ差を感じるのは、彼がホワイトリリィ作戦を見ていないからか。地獄を潜ってきた黒瀬は、小銃を持った司令部付きの兵を数名連れて、柴崎を追って市役所に入っていった。
*
秩父市役所の会議室で、長机を囲む一同。停電下、軍が持ち込んだ発電機による最小限の照明が、この街を動かしてきた者たちの顔に深い陰影を落としていた。
扉を開け、大股で黒瀬が踏み込み、会議室の正面に立った。部屋の全ての視線が、まるで磁石のように彼へと吸い寄せられた。視線を巡らせれば、深田が軽く会釈するのが目に入り、黒瀬も小さく頭を下げた。
そして、表情を険しくし、腹に力を入れて、伝えるべきことを宣した。
「――確認する」
黒瀬は、集まった秩父の行政と社会機能の責任者たちを見渡し、重々しく告げた。
「日本政府は機能を喪失した。現時点で、この地域を安全に統治できる組織は、我々自衛隊を除いて存在しない」
一拍置き、異論が出ないことを確認する。
「――よって、これより当秩父圏は、軍政下に移行する」
声に喜びはない。権力を持った高揚感もない。そして、一切の迷いもなかった。
「目的は一つ。《人類生存圏の確立と維持》」
目的が場に浸透するのを待ち、参加者の顔を見つめ、理解を確認してから、黒瀬は言葉を続けた。
「そのため、以下の三点を絶対規則として施行する。
第一。
人類生存圏の維持を目的とする軍の統制に対する、あらゆる妨害行為を敵対行為と見なす。
第二。
許可なき者の、圏内への侵入、及び圏外への離脱を禁ずる。
第三。
上記に違反した者は、理由の如何を問わず、排除する」
軍政を布告する黒瀬は視線を逸らさない。
「――これは人類存続のためのルールだ。生存圏の維持に必要な限り、我々はこの形を続ける。不要になった時点で、軍政は終わる。以上だ」
その宣言が終わると、ひたすらに重い沈黙が、会議室の空気を圧し潰した。
これは、旧来の法が、その死を宣告された瞬間だった。長机を見つめる人々。誰もが、目の前の現実――日本という国家の終焉――をすぐには呑み込めてはいなかった。
やがて、年配の商工会代表が、震える声でかろうじて言葉を紡いだ。
「……それは、つまり……自衛隊は、国民を見捨てる、ということでしょうか」
黒瀬は、ゆっくりと彼に視線を向け、わずかに首を横に振った。
「もはや、我々は自衛隊ではない。あなた方も、国民ではない」
ざわめきが、さざ波のように広がる。
「そんな……」と、誰かが息を呑んだ。「で、では、なんだというのでしょうか?」と質問が飛ぶ。
「生存者だ。人類という種族の、生存者だ」
それでも、その言葉の持つ絶対的な響きの前に、誰も反論の言葉を見つけられず、沈黙が再び部屋を支配した。
誰かが小さく嗚咽を漏らした。誰かは拳を固く握りしめている。だが、誰一人として席を立たなかった。
その時、市長が、意を決したように、静かに立ち上がる。
黒瀬を含め、全員の視線が彼に注がれる。市長は、緊張を滲ませながらも、まっすぐに黒瀬を見据えていた。
「……軍政は、受け入れましょう。しかし、現市長として、私から一つだけ、条件を出させていただきたい」
黒瀬は短く頷く。
「聞こう」
市長は一度息を吸い込み、明瞭な声で告げた。
「民間人の排除は、生存圏に対する明確な妨害行為――例えば、内部での扇動、暴動などに限定していただきたい。力のない高齢者や子どもたちを、ただ弱いという理由だけで切り捨てることは、断じて容認できません。
私が今後、軍政に協力する上で、その一線を越えられた場合、市をまとめる自信はありません」
黒瀬は、数秒間、沈黙した。
部屋の隅で、深田が小さく頷き、柴崎もまた、黒瀬に視線を向け、その答えを待った。
黒瀬は、深く、重く、頷いた。
「……あなたの条件を、守ると誓おう。我々が『自衛隊』であったなら、命令次第でそれは叶わなかった。だが、今、我々を縛る古い法はない。我々が守るべきは、あなたの言う『一線』であり、私が受けた『生きろ』という、日本政府最後の命令だ」
その言葉に、市長の表情がわずかに変わる。会議に参加した者たちの沈んだ視線が、ほんの少しだけ上を向く。
「市長――そして、ここにいる各々方。私は最後に『生きろ』と命じられた。『未来を繋げ』と命じられた。手段を問わず、犠牲を厭わず、希望を繋げ、と。……その上で、だ。生き延びるため、力を合わせ、この難局を乗り切りたいと思っている」
市長は、敬意と覚悟をその目に宿し、背筋を伸ばす。それを見た黒瀬が語りかける。
「市長、生きようとする者を私は断じて見捨てない。死なせない。どうか、協力していただきたい。我々は、未だ滅びの淵にいる」
市長はその言葉に頷き、少し迷い、そして、文民としてあり得ない、しかし、今この場で最も意味を持つ所作を取った。
――深く、そして力強い敬礼を、黒瀬に対して。
「……承知いたしました。これより、市長としてではなく、あなたの指揮下に入る一人の協力者として、この街の――いえ、生存圏の存続に、全力を尽くすことを、誓います。……黒瀬司令官」
静かな敬礼を返す黒瀬。
二人の視線が交錯する。
その一瞬だけで、軍と民の立場を越えて、「同志」として分かり合えたのを、その場にいた誰もが感じ取った。
――会議室に、静かな覚悟と生きる意志という希望の光が灯った。
その余韻が、夜の闇の中を広がって、やがて、新しい生存圏の朝へと滲んでいった。
*
初動対応の打ち合わせを終え、柴崎を伴い会議室を退出した黒瀬にゼノンが話しかける。
「市長は有能だ。想定以上に。あの場であの要求。俺の演算でも、武力により支配される側に取り得る最善手だ」
「……行政を任せられる人間が優秀であるに越したことはない。地縁もある。生存圏を動かすテコになる。……何より、消えてもらう必要が無い」
「責任者を排除すれば混乱が起きる。深田をトップに据える用意はしたが、実施せずに済んだことでブラックオーキッド作戦の成功率が上昇した」
柴崎はその会話を聞かなかったことにして、秩父市役所内の防衛圏司令部を設置した会議室まで黒瀬を導いた。
【D8 01:07 旧秩父市・人類生存圏・体育館避難所】
彩葉へ
俺が美咲を愛していたことを忘れないでくれ。
石碑に名を刻むのは人類のためじゃない。
美咲のためだ。
最後まで一緒に生きると約束した。
その誓いを果たしに行く。
文字数が限られている。
だから、これだけだ。
お前の命を救えた。
それだけで最後まで笑っていられる。
最後の1秒まで笑ってくれ。
ま、お前なら簡単だろ?
俺は美咲と行くよ。
さよならだ。
堂本悟史(白百合勲章受勲者)
*
避難所の床に座るショートボブの若い女性──彩葉へ、整然と活字が並ぶその薄紙が、敬礼と共に手渡された。
《笑い声》を押し殺しかけて、それでも彼女は声に出してしまう。
「……マジ先輩、パネェっすね。歴史に名を残すどころか、永遠にラブレターを石碑に刻んでるっすよ」
言葉はふざけていた。顔では泣いていた。だが、口角だけは、《決然》と上がっていた。
「……まぁ、あたしも明日にはゾンビに喰われるかもしれないっすけど! それでも、死ぬまでは、笑うっす!」
言い終えた声音は軽い。その軽さが、どれほど無茶で、どれほど尊いか、彼女は誰よりもよく知っていた。
指が白くなるほど握り締められた軍用便箋が震える。
たった200文字。最期の言葉だけが届く。
彼が人類の未来を知ることはない。だが、彼女の笑いは、未来へと続いていく。
【D8 03:44 現生存圏(旧秩父市)・主防衛線】
高機動車――ジープの助手席に座り、主防衛線に向けて車を走らせつつ、柴崎は、黒瀬と擦り合わせた防衛計画を咀嚼し直していた。
秩父盆地は四方を山に囲まれている天然の要害だ。陸路での侵入経路は高い山と深い森を越えてくるか、舗装された数えるほどの道路を歩いてくるしかない。
全周の森を守備する兵力は柴崎にはない。ただ、両手を使わないゾンビが荒れ果てた山林を正確に踏破できるだろうか。黒瀬のAIであるゼノンは、否と演算した。沢や谷、倒木や急斜面を考えれば、転倒、滑落、転落により自損し、その行動力を喪失する可能性が極めて高い、と。幅数キロある尾根の連なりを死体で埋め尽くすことは物理的に不可能。数十万のゾンビが来ても、山林が吸収し、動けぬ屍となったゾンビが朽ち果てるだけだろう。
よって、防衛戦の勝敗は主防衛線にある――その点で、黒瀬と柴崎の意見は一致していた。
「……ゆっくり慎重に運転してくれればいい。事故をする方が怖い」
助手席の副官に告げる。電力を失い、闇に沈んだ140号線を防衛線に向けて進む。秩父市街地を抜け、長瀞町を抜けて、東方面――首都圏方面に向かう。
主防衛線――そこは秩父盆地の東端である長瀞町と首都圏の西端に位置する寄居町の接続点。地図を見れば、軍人なら誰でも理解する防衛の要。人口密集地の首都圏から秩父盆地へ至る最大の侵入口だった。
その侵入経路は最も狭い位置で、切り立った崖と滔々と流れる荒川の間が100メートル程しかない隘路だった。その100メートルに、幅を奪い合うように電車の路線と片側1車線の道路だけが走っている。
そんな狭い侵入路が長さ数百メートルに渡って続く。その隘路の始点と出口の間こそ、主防衛線である。
この主防衛線には迂回路が存在する。隘路の始点から300メートルほど寄居町方面に進むと寄居橋という鉄橋があり、そこは、主防衛線の外側で荒川を越え、秩父盆地に侵入できる唯一の地点だった。
ここを越えれば、金尾地区に入り、そこから秩父市街地まで続く道路――唯一の迂回路――が山中を延びている。ここを2キロ程進めば、長瀞町の中心部に出る。そこは……生存圏の内側だ。
当然、寄居橋は封鎖する。ただ、寄居橋を突破された場合に備え、柴崎はこの迂回路を副防衛線として指定していた。
寄居橋を封鎖すれば、荒川を越えることができる橋は1.5キロ下流の高速道路橋・末野大橋しかない。たとえ、その付近で渡河したとしても、秩父に陸路で向かう道路はない。
(――寄居橋を封鎖し、主防衛線にゾンビを集め、守り抜く。荒川西岸の金尾地区から側面射撃。140号線沿いの崖上や金尾山山頂から撃ち下ろし、防衛線内側から重機関銃による集中阻止射撃でゾンビの侵攻を粉砕する)
――それが、柴崎が最善として築き上げ、なお、黒瀬が「足りない」と断じた主防衛線の防衛計画だった。
*
主防衛線後方に、前線司令部はある。そこにジープで乗りつけた柴崎は車が完全に止まるのを待つことなくドアを開け放ち、飛び降りた。
「……雨が、降ってきたか」
パタッとヘルメットや軍服で弾ける軽やかな衝撃。ヘルメットのつばを指で押し上げ真っ黒な空を仰いだ顔にも冷たい雫が落ちてきた。まだ足元は濡れていない。今、降り始めたばかりだった。天気予報はおそらく半永久的に更新されない。これからの天候は神のみぞ知る。
主防衛線後方、盛り土と土嚢で2メートルほど嵩を上げた銃座に3丁の重機関銃が配備されている主防衛線の火力陣地。その銃口は140号線の先を向いていたが、そこは今は漆黒の闇に覆われていた。
「中隊長、状況は?」
テントと机を広げただけの前線司令部に駆け込んだ柴崎が主防衛線の指揮を任せた中隊の指揮官に声をかけた。
「主防衛線は平穏です。進出した暗視ゴーグルを装備した特務偵察分隊の報告では、日没後の暗闇の中で、ゾンビの活動量が明らかに低下しているとのことでした。明日の明け方まで動かない可能性が高いかと」
「視覚を喪失したからか……」
元が人間なのだ。電灯が煌々と照らしていた昨日までの世界ならまだしも、真っ暗闇の中では動くに動けないということだろう。
「引き続き、守備を続けてくれ。また、黒瀬幕僚長から新しい命令が出た。――俺たちの防衛線では、ゾンビを阻止することは不可能らしい」
守備指揮官として陣地を熟知している中隊指揮官が驚きをあらわにする。それは、黒瀬に防備不全を指摘されたときの柴崎と同じ表情だった。
「しかしながら、この守備線を武器を持たぬ人間が突破できるとは思えません。正面には重機関銃3丁、後方の崖上に2丁、金尾山頂の陣地にも2丁ですよ? 防衛線は鉄条網で何重にも阻止線を引いています。放置車両を使ったバリケードもありますし、この防備状況を理解した上での幕僚長の判断なのですか?」
「そうだ。その上で、突破されると言われている」
「……」
「幕僚長はこう言っていた。津波を銃弾で止める。そういう戦いだったと。最善を尽くして、なお、止められなかった、と」
その言葉の意味を想像し、中隊長の視線が鋭くなる。
「それで、命令とは?」
「彼らを守れ。それが命令だ」
柴崎が指をさすのは、ジープの後ろから付いてきた土木工事集団。大量の土砂を運搬してきたダンプカー、トタンや鉄板などの資材を積んだトラック、工事用のクレーン、ショベルカー。発電機と投光器も用意されている。
「彼らが主防衛線に《封鎖壁》を作る。一刻も早く工事を完遂させろとのことだ。この壁が間に合うかどうかで人類がゾンビに滅ぼされるかどうかが決まる」
まだ理解が追いつかない中隊長に向けて、柴崎がこれだけは理解しろと言葉を重ねる。
「壁を作る時間を稼ぐ。それが軍の仕事だ」
【D8 09:00 旧秩父市・人類生存圏・体育館避難所】
練馬駐屯地を目指して歩く武装した三人が大山駅付近を通り過ぎたころ、堂本が佐倉彩葉に言った。
「彩葉、なんでそんなにお気楽になれるんだ。こんな状況だぞ?」
堂本の声に首を傾け、彩葉が彼を見る。大きくため息をついて、やれやれ首を振る。しかも、両手を広げて。なんとも鼻につくポーズ。
「分かってないっすねぇ。こんな状況だからっすよ。楽しいから笑うんじゃない。笑うから楽しくなるんすよ?」
「どうせ練馬に着くまで歩くか、そこらで死ぬわけじゃないっすか。それまで笑っているか、苦しんでいるかの2択なら、あたしは笑う生き方を選ぶって決めてるっす!」
最後に、急に声を潜めて彩葉がニヤリと囁く。
「……ほら先輩、美咲パイセンのシャツ、汗で透けてますよ。チャンスっす」
美咲が振り向いて「何言ってんのよ」と真顔で返す。彩葉は肩をすくめ、苦笑してみせた。
「……笑ってるんすよ。死ぬかもしれない世界で、最後まで笑えたら勝ちっす」
そう言って、堂本に向け、彼女は小さなピースサインを掲げてみせた。
*
控えめなざわめきに目が覚める。避難所の床、体育館の硬い床。目元には涙。一昨日の夢だった。自分の夢なのに俯瞰視点なのは昔ながらの彩葉の夢の特徴だ。
「……もういないんっすよね。一昨日のことなのに」
彩葉は体を起こし、体育館の壁に背中を預けて呟いた。
視線を正面の時計に向ければ、今は朝九時。深夜にここへ辿り着いてから、避難所で過ごしているだけ。することもない以上、失われた過去に思考が飛んでいくのは必然だった。
彩葉と同じマンションに住むストーカー予備軍が、本物のストーカーになったのは、治安が崩壊したD6の夕方だった。警察に電話しても繋がらない。その時、脳裏に浮かんだのが堂本だった。なんのかんの言って、入社して教育係になってもらって以来お世話になってきた先輩。だから、護国寺に住んでいるのも知っていた。彩葉は北池袋に住んでいる。助けに来れない距離ではなかった。だが、暴徒の溢れた状況で、気楽に助けに来れる距離でもなかった。
『……せ、先輩!? やっばいっす!! ドアの前にアイツいるんすよ! ピンポン鳴らして、ドンドン叩いて! マジで心臓飛び出そうっす!!!……これ、マジでレイプされるやつっす……! やだ……やだよ……! お願い先輩! 助けてくださいっす!! ……先輩しか、頼れないんすよ……! ……聞こえてます!? 先輩!? ちょ、聞こえてるって言って!』
『もし来なかったら……恨んで化けて出るっすからね! ぜっっったい枕元に立ってやりますから!』
あんな言い方になるのは性分だが、それでも彼らは助けに来てくれた。男の悲鳴と物が倒れる音を聞き、ドアを開ければストーカーの死体と真っ赤に染まった手槍と丸い盾を持った先輩たちがいた。
彩葉は小柄だからと盾ではなく長槍を持たされた。
『……彩葉。あの男を壊してみましょう』
そういう美咲パイセン。
『武器が使えるかどうか、どこを狙えば倒せるか。知らずに戦えば無駄に振るだけになる。安全に知れるなら、いまやるべきだ』
フライパンで頭蓋骨を破れるか試そうと賛同する堂本先輩。
彩葉に拒否権などなく、ストーカーを槍で刺して、頭をフライパンで砕き、首や手足を踏み折った(結局、軽い彩葉では折れなかったが)。
『うひゃぁ……はぁ、やってやったっすよ。人刺しちゃった……感触、やっば……』
吐きそうだった。鳥肌も立った。刺した物干し竿と包丁で作った長槍が抜けずに苦労した。
でも、まぁ、自分を襲いに来たストーカーだし、死んで清々したって気もして、頭のネジを全て外した桐生や堂本に合わせて、彩葉も常識というネジを落としていった。
そして、桐生が見つけた生き残る唯一の可能性――練馬駐屯地――に向け三人で夜道を歩いた。
中年ゾンビに襲われ、戦って、田所のおっちゃんを仲間に入れて、三浦さんと早瀬さん、あと、オタク君を仲間に入れて、沢山の同行者を失いつつ、駐屯地にたどり着いた。
まぁ、おっちゃんは最後に死んじゃったけど。
早瀬君と三浦さんはどっかで生きていると思う。でも、美咲パイセンと堂本先輩は、先に逝っちゃった。
(――あーあ。ホントに迷わないんすね。お似合いなふたりっすよ、マジで)
ズボンのポケットでは堂本の『美咲と一緒に行くよ』という最期のメッセージがカサリと音を立てた。未来など考えられない。今の彩葉には過去しかなかった。
――ザザッ。ピンポンパンポン。
その時、スピーカーが一斉に鳴り出した。ピンポンという音は建物の外からも聞こえてきている。
(……防災無線? 屋外のスピーカー?)
そして、彩葉はその布告を聞く。声が反響し、ウワンウワンと響いても、内容は鋭く耳に届き、意味は頭に突き刺さった。
『こちら、生存圏防衛司令部、司令官の黒瀬慎也だ。日本国政府は崩壊した。よって、現時刻をもって、秩父市は軍による統治に移行する。
以下、布告する。
我々は、人類生存圏の確立、維持を目的とする。
生存圏における個人の《生存権》は保証しない。
圏内の民間人に告げる。
別命があるまで屋内待機せよ。
屋外に出ている人間は、言語を解さぬゾンビと見做し射殺する。
死にたくなければ、家から一歩も出るな。これは警告ではない。以上だ』
視線を上げれば、避難所にいる人々が顔を上げ、それぞれ顔を見合わせてその意味を理解しようと必死になっていた。困惑、怒り、恐怖に染まった顔を見て、彩葉は微笑む。
『個人の生存権は保証しない。ゾンビと見做し射殺する』
フフッと肩を震わせて、照明の消えた体育館の天井を眺める。
(――美咲パイセンも大概だったっすけど、世の中にはもっとヤベェのがいるんですねぇ)
死体を壊してみましょうと言った美咲パイセン、頭蓋骨を割れるか知っておきたいという堂本先輩、槍を突き刺すと抜けないんっすねと笑った自分。
――分かるのだ。
噛まれたサラリーマンの生存者に夜道で遭遇したとき、堂本が言った。美咲が寄るなと警告しても、助けを求めて手を伸ばし歩み寄るソイツに。
『――殺すぞ』
低く響かせた声で。
『……あと一歩でも近づいてみろ……俺が、お前を殺してやる』
堂本の言葉を聞いて、それでいいと思った彩葉だから、分かってしまった。この布告は、ネジを外し、生存に最適化された人間の言葉である、と。そして――同類の言葉だ、と。
あの時先輩は、美咲パイセンがサラリーマンを殺そうとしたのを止めたのだ。そして、脅し、槍を突きつけ、下がらせた。結局、彩葉たちはサラリーマンを殺さずに済んだ。そのあと、ソイツがどうなったかなんて知らないが。
これも同じ。無駄に殺さないための強い言葉。故に彩葉は思う。
(いい司令官――美咲パイセンみたいな――が上に立ったっすねぇ……)
だから、もしかしたら、生き残れるかもしれないと彼女は思った。
【D8 10:54 生存圏防衛司令部(旧秩父市役所)】
旧市役所の会議室には、ホワイトボードと紙の地図と通信機が設置されていた。最低限の電力が早朝に復旧し、ゼノンの稼働や軍の指揮統制に必要な分は十分に賄えるようになった。
秩父には、2つの大規模ダムがある。そこで発電する電力は秩父盆地全域の10%を賄うことができる発電量を持ち、軍が使う分は十分な供給力があった。首都圏の送電網から切り離し、秩父盆地内のバイタルパート――医療や司令部に電力を供給している。一般家庭は引き続き停電中だ。
「主防衛線における封鎖壁、寄居橋・高速道路橋の殲滅壁の構築が完了した」
ゼノンが軍用ドローンを介した視覚監視により、報告を上げるのと、無線による完了報告を受けるのは同時だった。
「黒瀬司令官。封鎖壁、殲滅壁の建設完了と守備隊から報告がありました!」
その言葉に頷く黒瀬はすぐに指示を出した。
「工事作業員には次の任務がある。前線から安全な後方へ移動し、護衛付きで防衛設備の構築を進めさせろ!」
「了解! 土木作業班を後方展開させます」
土木作業班――彼らは軍人ではない。地元の土建屋の集団だ。市長の縁を頼りに早期動員に協力してもらっている。拒否権など与えるつもりはなかった。飴と鞭を使ってではあるが、自発的協力者が多かったのは、既に日本も諸外国も崩壊し、次は自分たちだという意識があったからだろう。
「……間に合ったか」
ゼノンだけに聞こえるように安堵の声を漏らした黒瀬にゼノンが返答を告げる。
「軍の阻止線では防げない。だが、この壁なら阻止は可能だ」
「軍に壁は作れない。だが、人類にはできる」
ゼノンは答えず、無言の肯定を返した。
「布告の影響はどうだ?」
「ドローンの映像だけが頼りだが、街中に民間人の姿はほとんどない。屋内に待機せよという命令は順守されている。反乱も、大きな混乱も発生していない」
師団司令部の椅子とは雲泥の差があるパイプ椅子に背を預け、黒瀬が瞑目し、状況を総括する。
「壁ができた。行政も掌握した。生存圏内の民間人の緊急統制も問題ない。不確実性は――敵だけだったが、朝一に大群が押し寄せてこなかったのは幸いだった。……囮になっている人間には申し訳ないが」
「……それもいつまで持つか。都市圏の生存者は加速度的に狩り尽くされている。もって今日までだろう」
ゼノンの画面に映し出されたドローンの空撮映像を見る。音声は拾えないが、何が起きているかはわかる。
群衆に囲まれた小学校の体育館。窓ガラスや入り口が圧壊し、なだれ込むように押し入るゾンビ。狂声現象で攻撃性と狩猟本能が上昇したゾンビが競い合うように隠れた人間を探し出し、物量で狩っている。
ドローンの俯瞰視点には、蟻に集られた飴玉のように、ぽつぽつと民家を囲むゾンビの群れが映る。窓ガラスを割って押し入って、しばらくして、ゆっくりと群れが家から出てくる。一人が気付けば狂声でゾンビが集まり、程なく陥落する。ガラス窓を持つ民家では到底守れない。当然だろう。数百体のゾンビが群れをなして押し入ってくるのだ。一般住宅にそれを止める強度のある構造物は存在しない。
「避難所は全滅する。民間人が死に尽くすまでが猶予期間だ。狂声状態になったゾンビ群体の殲滅速度から考えて、明日には奴らがここに押し寄せてくるだろう」
黒瀬が、別の学校の体育館に後から後からなだれ込むゾンビを見る。音はない。だが、悲鳴が聞こえるようだった。映像を眺め、絞り出すように言った。
「……生き残れんだろうな、これは」
「あぁ。生存は絶望的だ。――ただ隠れることすら、極めて難しい」
この光景が日本どころか、世界中で起きている。その想像に奥歯を噛むが、何もできることはない。彼らの犠牲が貴重な1日を贖ったという血まみれの事実だけが、そこにあった。
黒瀬に出来るのは、その1日でできる限りを救うことだけ。
「この生存圏が最後の希望だ。――ブラックオーキッドが咲くことを祈ろう」
ゼノンは答えない。黒瀬も動かない。既に命令は出している。
あとは、生存圏の構築が間に合うかどうか。それに全てが懸かっていた。
【D8 12:12 旧秩父市・人類生存圏・体育館避難所】
それは、時計が正午を差す少し前のことだった。再び、防災無線が鳴り響いた。
『こちら、生存圏防衛司令部、司令官の黒瀬慎也だ。
明日未明より、秩父盆地に対し、敵性存在の大規模集団が接触する公算が高い。軍の戦力だけでは、防衛は成立しない。
そのため、生存圏防衛戦への参加を希望する志願者を募集する。
志願する者は、白い布、または白いタオルを首に巻き、武器を持たずに集合せよ。集合地点は、旧秩父市役所。
各避難所には、順次、担当官を派遣する。指示があるまで、避難所にいる民間人はその場で待機せよ。
志願は強制ではない。だが、生存圏を守る意思を持つ者を、我々は優先保護対象とする。以上』
さてさて、どうするかな。その放送を聞いて彩葉は一瞬考えた。軍だけでは防衛が成立しない。それが意味することは、守り切れなければどのみち死ぬということだ。
(――別に、ゾンビに噛まれるまで笑っていればいいだけだけど)
でも、堂本先輩の最後まで笑ってくれは、死ぬまで笑えではなく、生きていてくれという意味だと思うから。
誰のためでもなく、自分が笑い続けるために、戦う。それが彩葉の自然な選択だった。
そう結論を出すころ、体育館に四人の迷彩服を着た自衛官が入ってきた。三人が小銃を持ち、一人はファイルを持っている。彼らは避難民の隙間を縫って、ステージ上へ上っていた。
「静かに。話は短い」
マイクなどなくとも、全体に響き渡る低く朗々とした声だった。
「私は、生存圏防衛司令部より来た。階級と名前は今は必要ない。ここに来た理由だけを伝える」
一拍。全員の耳が傾けられているのを確認して、彼は続けた。
「明日未明、秩父盆地に敵性存在の大規模集団が接触する。軍だけでは防ぎきれない」
ざわめきが走るが、担当官は構わず続けた。
「そこで、生存圏防衛戦への志願者を募る。目的は一つ。生存圏を守り、人類が生き残る権利を勝ち取ることだ。――任務の多くは後方支援になる。物資運搬、陣地構築、負傷者の搬送、護衛、街頭警備。だが、武器を持って戦う可能性も高い。よって、生命の保証はない。死ぬ可能性も十分にある。これは脅しではなく、予測された事実だ」
そこで、少しだけ声の調子を変えた。
「志願者は優先的に保護する。医療、配給、情報、権限。生存圏内で出来る限りの待遇を約束する。志願する者は、名乗り出て、ステージ前まで進み出ろ。順次、説明と手続きを行う」
そこまで手元の書類に目を落としていたのは読み上げるためだったのだろう。視線を紙から外し、聴衆を一望した担当官が最後に告げたのは、きっと彼自身の言葉だった。
「我々だけでは勝てない。生き残る意志を持つ仲間が必要だ。生きるために戦えるのなら――志願してほしい。以上だ!」
以上だ! の声が場に溶けると、残ったのは押し殺された気配だけだった。
誰が手を上げる? 誰が立つ? 誰も立たないのか? 自分はどうするべきなんだ?
ちらちらと周囲に目配せをする人達を見つつ、彩葉は彼らのその思いを察する。
担当官を見れば、硬い表情で場を眺めている。無理やり志願させようとはしていない。ただ、待っている。
刻々と重くなる空気に、彩葉は大きなため息を一つついた。
(――何を迷うことがあるんすかねぇ。こんな空気で死にたかぁないっしょ?)
こんなんじゃ、笑えねぇ。
だから、彩葉は立ち上がる。
「……みんな暗いっすね。あたしはいくっすよ」
担当官が、座っている人たちが彩葉を見た。大勢の視線を受け止めて、笑って両手を広げた彩葉。そのままステージ上に向かって歩き始める。
「――あたし、ここがゾンビに呑まれるときまで、暗い顔で蹲ってたくないですもん。自衛隊が負けて、人類は滅びると確定して、ここにいる人が人類最後の生き残りだってわかって。……そんな絶望の中で暗い部屋の中でアイツらに喰われて死んでいくなんて嫌ですもん」
自衛隊は壊滅した。あとはここが飲まれるのを待つばかり。そんな状況を考えて、視線を下げ、目を閉じ、ぶるりと震える人たちを彩葉は見る。
別に諦めてもいいのだ。でも、それは生きるということではない。死ぬのを待っているだけ。
「それより、あいつらと戦って、空の下で、人類は生き残れるって信じて死んだ方が何倍もマシ! ……ねぇ、せめて笑いましょうよ。人類が滅ぶとき、死人みたいな顔で滅びるのか。笑いながら死んでいくのか。
今だって! それを選ぶことはできるんですから!
笑って戦って負けたら後は頼んだって、そういえばいいじゃないですか!
ここで死ぬのを待つよりも――ずっといい!
そう思うから、あたしは行きます。笑って戦って、勝つんすよ!」
そう言い切って、前に進み出た彩葉は担当官に笑いかける。
「佐倉彩葉、防衛戦に志願します」
真面目な顔をしようとして、彩葉の言葉に、笑顔に耐えられず、苦笑した担当官は言葉を返す代わりに頷いた。
「ありがとう」
その言葉に笑ってステージの下、振り返って群衆を見る彩葉。
彼女の言葉は確かに場を揺らしていた。
「俺は走れない。だが、撃つことはできる」
車いすの青年が手を上げた。
「戦場まで送ってくれるなら、やるよ」
杖を突いた老人が立ち上がる。
「あぁ、確かに、御免だねぇ。こんなところで終わるなんて!」
子どもを連れた中年の女性が立ち上がる。
「私も志願するよ! 鬼塚和子だ!」
彼女は10歳くらいの男の子に何かを言い聞かせ、前に進み出てきた。担当官に綺麗な敬礼を捧げ、彩葉の横に並ぶ。
「ちっちゃいのに、肝はでっかいんだな、ネェちゃん」
「――笑いたいだけっすよ。志願しなきゃ死ぬんっすから、迷うことなんてないっしょ」
「アッハッハ、まったくもってその通りだ!」
当然、全員が志願するわけではない。だが、少なくない数の志願者がその避難所で誕生した瞬間だった。
【D8 14:32 生存圏防衛軍・輸送隊・林道】
青々とした新緑の満ちた緑の天蓋の下、雨に濡れた路面に気を付けつつ、軽トラを走らせる鬼塚。その横、助手席に乗る彩葉はグネグネと続く一本の荒れた林道を見るのをやめ、鬼塚に視線を向けた。
――デカい。
彩葉が小さいからじゃない。ただデカい。一目視線を向ければ分かる。肩幅は広く、背中も厚い。迷彩服の上からでも身体の輪郭がはっきりしている。
女性らしく胸は確かにあるが、浮き立つことなく、身体の一部としてそこに収まっている。髪は鎖骨のあたりまで伸びており、キリリと強気な眉と視線が正面を射貫く。
(――あたしとは正反対っすね、あっ……デコボココンビってやつ?)
「……鬼塚さん、身長何センチっすか?」
「あ? 私かい? 確か…175センチくらいだったかな」
(……25センチ差。体重は倍くらいあるかも。いや、聞かないけど……)
急角度の弧を描き、山を登っていく林道。カーブで遠心力がかかり、グッとドアに押し付けられる。
今、彼女たちは防衛陣地への物資輸送任務中だった。
志願受付の後、軍のトラックで市役所へ。そこでペアになったのは、同じ避難所で志願した鬼塚だった。単純に彩葉の次に志願し、傍にいたからだろう。
ワイパーが切り取ったフロントガラスの向こうには、雨の森。日常の景色。いつもなら、マイナスイオンだぁ!と叫びたくなる景色。人類が滅びつつあるなんて、全然分からない。
「ゾンビはいないみたいだねぇ」
鬼塚が運転席で狭そうに身をかがめながら外を覗き込む。その傍らには一丁の小銃が置かれていた。89式自動小銃。旧式の自衛隊正式採用ライフルだ。鬼塚は弾薬もマガジンを三つほど迷彩服ポケットにねじ込んでいる。なお、彩葉は小銃を持っていない。
銃を持っているのは鬼塚がデカイからではない。彼女は――除隊した自衛官だったのだ。
(――筋肉の謎が解けたっす)
鍛えた戦士がお母さんになって丸みを帯びた。だが、その表情は往時もかくやの鋭さ。子熊を守る母熊――彩葉は瞬時にそう連想した。
輸送隊に配属された彩葉と鬼塚は、銃を扱える鬼塚が火器を与えられ、彩葉には防刃性のある迷彩服とヘルメットだけ。練馬駐屯地に来るまではヘルメットがなく、スキー用のゴーグルとニット帽と冬用コートを改造した防具と長槍で武装していた(ジメついた梅雨の最中なのに!)彩葉にとっては至極快適な装備だった。
出撃前、輸送隊本部の地図を見せられ、任務の目的を説明を受けた。車が一台通れるだけの細い林道が秩父周辺に網目のように走っている。だが、それらの内、生存圏に繋がるルートは実は多くない。生存圏の内部に向かう分岐点を封鎖すれば、それは別の市から別の市を繋ぐ一本の林道に変わるだけ。
輸送隊の隊長は最後にこうまとめた。
「ゾンビが林道を還流する分には害がない。だから、林道を通るゾンビを全て撃退する必要はない。大切なのは、ゾンビが生存圏に向けて侵入する分岐点の入り口を封鎖することだ」
倒さない。ただ、入らせない。その思想で林道の防衛線は形成されているらしい。
詳しくは分からない。自分たちは弁当と弾薬を積んで、分岐点に物資を運べと命じられただけだった。
*
峠を一つ越えた林道が、途中で狭くなった。左右から土壁が迫り、視界が一気に詰まる。人が無理に削ったというより、もともとそういう地形だったのだろう。
小さな谷筋に沿って、道だけが通っている。
「……防衛拠点だね、これが」
そう呟いて鬼塚が軽トラを止め、車から降りることなく前方や周囲に視線を向けた。
彩葉もワイパーの向こう、分岐点に繋がる道路に目を凝らす。
まず、分岐点の生存圏側への入口には、丸太と岩が雑然と転がされていた。人が越えられないわけではないが、超えるのは面倒だと思うくらいに積んである。
そのすぐ奥に、木柵が組まれている。即席だが、太めの丸太を縦に並べ、横木で結んである。さらに、その前面に道路の両側の木と木を繋ぐように鉄条網が張られていた。
その鉄条網は人の背丈ではなく、足元から2メートルか三メートルくらいの高さまで。まるで人間用の蜘蛛の巣のように張られていた。
分岐路に近づくゾンビは、まず岩と丸太の荒れ地で止まり、自然と舗装された林道が続く方向へ流れるだろう。無理にこちらに来ようとしたら鉄条網。引っかかって突破できない。破っても頑丈な木柵がある。
「通す気ないっすね、これ」
鬼塚が降りるのに続き、助手席から降りながら、彩葉が言う。
ヘルメットに雨がかかるが、今は傘をさすどころか、傘を持っていなかった。濡れるのを厭う余裕を感じない。
「越えようと思えばいくらでも回り込める――人間ならな」
鬼塚は短く返し、発泡スチロールに入った荷台の弁当箱に手をかけた。
木柵の手前側、分岐路から数十メートル引いた位置に、もう一つの防衛線が見える。軽トラから降りて直ぐの位置だ。こちらははっきりと射撃用陣地になっていた。土嚢で組まれ、地形に合わせた銃座が組まれている。射線は一本道。左右は土壁で逃げ場はない。
自衛官が五人。五人一組の班だろうか。監視についていた。
その後方、林道の脇に普通車が二台止められていた。エンジンは切られているが、いつでも飛び乗れる位置。
(――逃げ道、ちゃんと残してる)
彩葉はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「お疲れさまです。輸送隊です」
鬼塚が声をかけると、班長らしき自衛官が一歩前に出た。若い。二十代後半か。顔に出ている緊張が、逆に分かりやすい。
「ありがとうございます。……温かいご飯は助かります」
敬礼はなかった。ただ、姿勢が正される。
鬼塚が弁当箱を手渡し、彩葉が弾薬箱を地面に置く。木箱が金属音を立てて揺れた。
「弾の追加分です。ゾンビは?」
「今のところは。……まぁ、今のところ、ですけど」
自衛官の言葉に、彩葉は軽く肩をすくめる。
「まぁ、来ないに越したことはないっすよね。ゾンビも空気読んでほしいっす」
一瞬、場が止まり――次の瞬間、誰かが小さく吹き出した。
それにつられて、別の隊員もくくっと息を漏らす。大笑いではない。張りつめていたものが少しだけ緩んだ音。
「……本当にそうですね」
班長が苦笑し、弁当を隊員に配り始める。
彩葉はそれを見て、周囲をもう一度見回した。
丸太と岩で道を潰し、柵と鉄条網で絡め、ここで止める。見えない奥で、さらにもう一段構えている。全部を殲滅するためじゃない。
(――入らせない。ゾンビの流れを受け流す。そして、入った一部を倒すんだ……)
シンプルで、冷静な構造。
「……ちゃんと考えられてますね」
鬼塚の言葉は彩葉の思いと同じだった。思わず頷く。班長は一瞬だけ驚いた顔をしてから、頷いた。
「――防衛計画がよく練られていました。司令部の力でしょう」
鬼塚が弁当を配り終え、彩葉の方を見る。彩葉は司令官――確か黒瀬といった――を思い出していた。布告する声、考え方、練馬駐屯地で見た精悍な壮年の自衛官。
(美咲パイセンを老練な男にしたらあぁなるか。……渋いイケメンっすねぇ)
「佐倉ァ、次、行くよ!」
「うっす」
鬼塚の声で軽トラに戻りながら、彩葉は思う。
(――大丈夫そう)
それだけ分かれば、十分だった。
軽トラのエンジンがかかり、その音も滴る雨音に溶ける。走り出せば、防衛線は森の緑の中に消え、すぐに分からなくなった。
【D8 16:29 生存圏防衛軍・輸送隊・市街地外縁部】
それから数か所、林道の防衛線に食料・弾薬の補給をし、一旦、本部に帰るため、鬼塚が進路を市街地に向けた。
林道から人の住む領域に入る直前、車窓に飛び込んできたのは自動小銃を携えた自衛隊の部隊だった。
鬼塚も怪訝に思ったのか、アクセルから足を離し、緩やかにその様子を眺める。
「小隊規模だね。40人くらいいるよ。――こんなところで何してるんだ?」
警戒に立つ自衛官が目立っていて気付かなかったが、山際の下草や藪を刈っている作業員がいることに彩葉は気づいた。中にはチェーンソーを持っている男性もいる。
むむむと考える彩葉を置いて、鬼塚がグンッとアクセルを踏み込んだ。シートに身体が押し付けられる。
「鬼塚さん、あれなんなんです?」
「あれは、視界と射線確保だね。奥で簡素な木枠を設置していた。気づいたかい?」
いや、気づかなかった。下草を刈って、木を切ろうとしていたくらいしか。……木枠?
「え、じゃあ、秩父市街地の全周を柵で囲もうとしているってことっすか?」
「さぁね、でも、木を切れば木材はできる。木工所は沢山あるから加工はできる。下草を刈るのは……軍の作法なんだよ。陣地周囲に隠れて近づける遮蔽物を置きたくない。接近するゾンビに隠れる場所を与えない。そのための作業だろうね」
自衛隊は阻止線ではなく、秩父全域に散っているのだろうか。あそこが殊更ではないなら、小隊規模で散らばって作業の護衛をしているに違いない。
――戦争の準備もせずに?
考え込む彩葉。軍事のことはよくわからない。きっと聞いても鬼塚だって答えられない。全容は分からない。ただ、やるべきことはある。
「あと三か所、日没までには届けてあげないとな!」
鬼塚は機嫌よくハンドルを切って、生存圏防衛軍司令部に向けて、一路市街地を駆け抜けた。対向車などいない。民間人の移動は禁止されている。
(自分たちだけが動いている。この道を走れるのはあたしたちだけだ)
大したことはない。だが、これが生存圏での権限を与えられる……という意味の一端なのだろう。
「雨に濡れてひもじい思いさせちゃ、いざってときに戦えないっすからね! ……急ぎましょ!」
それに応えたのは、鬼塚の太い足で限界まで踏み込まれたアクセルに、悲鳴を上げさせられた小さな軽トラのエンジン音だった。
【D8 18:50 生存圏防衛司令部・敷地内・射撃訓練所】
完全に日が落ち、秩父盆地は駆け足で群青色の底に沈み始めていた。
市役所の敷地奥、元は駐車場だった一角が即席の射撃訓練所になっている。車止めの向こうに土嚢が高く積まれ、その手前に段ボールを切り抜いただけの人型ターゲットがいくつも立っていた。ただの丸ではなく、人型だ。丁寧に頭と心臓に黒くターゲットサインが書いてある。
照明は最低限。影が濃く、夜戦を想定しているのが分かる。
「ほい、佐倉。こっち来な。手短にいくよ」
彩葉を教えるのは、なんと鬼塚だった。迷彩服の袖をまくり、89式自動小銃を肩に掛けている。
ほかにも志願兵たちが二十名ほどいた。それぞれ数名ずつ自衛官が指導をしている。
射撃経験があるということで、鬼塚が彩葉の訓練を買って出たのだった。細かいことは言わず、できる奴ができることをやる。その判断の結果だった。
「佐倉、まず、絶対ルールだ」
鬼塚は指を一本立てる。
「フルオートは禁止。使うな。単発を使え。引き金を引くと一発だけ弾が出る」
二本目。
「悪用は禁止だ。脅し、私怨、見せびらかし。やった瞬間、生存圏から追放される。例外はない……そうだ」
三本目。
「身の危険を感じたら、まず、誰何。止まれ、名乗れ。それでも止まらず、名乗らない存在は――撃っていい……いや、正しくは――確実に殺せ、と言われている。生存圏の害になる前に完全に息の根を止めろ、とね」
一瞬の間。
「迷ったら殺せ。罪には問わない。防衛圏を守る志願兵の命は、他の人間の命より重い。……これが正式な命令だ」
ところどころ言葉が詰まるのは、鬼塚自身、その基準に違和感があるのだろう。元自衛官だからこそ、あまりの引き金の軽さに。
元の基準など知らない彩葉だが、重さならヒシヒシと感じていた。重すぎる。――軽く言っているが、言っている内容は重すぎる。
(……優遇される……そりゃ、そう言われたっすけど)
――他人の命より、志願兵の命が重い。だから、不審者は殺していい。あぁ、いや、そう、不審者は《殺せ》、と言われたのだった。
極めつけは、罪には問わない。誤解でも許すと。誤解させた方が悪い――露骨すぎる命令だった。
彩葉は思わず口角を引きつらせた。笑えねぇ、苦笑いしかできない。
悪用するなと言いながら、最終判断と引き金をこちらに渡してくる。裁量と権限、そのまま重い責任だ。
「――理解したみたいだね。喜ばない。怖がった方がいい。でも、撃つときは撃つんだよ。……さぁ、撃ってみようか」
そう言うや、彩葉に小銃が一丁手渡される。彩葉の手に渡った89式は、想像よりも重かった。大きなダンベルを持っているよう。金属フレームの冷めた光沢と無骨さが小さな掌に食い込む。
「……重っ」
「銃は重いもんだよ。軽かったら反動で暴れちまう」
背後に回った鬼塚が淡々と言う。
何度か構えを確認し、実演しつつ彩葉の身体をいじり、正しい射撃フォームを教えていく。
「ボルトはここ。弾を打つには薬室――ココだ――に銃弾が入っていないといけない。最初は入っていない。だから、引き金を引いても撃てない」
実際にカチカチと引き金を引いて打てないことを示す。
「で、ボルトを引くと、マガジンから銃弾が薬室に送り込まれる。今はマガジンを装着していないから当然撃てないが、装着してあれば引き金を引くだけで撃てるようになる。弾が薬室に入った状態は危険だ。だから、戦闘が終わったら薬室から弾を抜くように。ボルトを引けば弾が出てくる」
そういって、鬼塚は彩葉にマガジンを装着するように指示する。
マガジンを差し込み、慎重にボルトを引いた。ガシャンという音が夜に響く。
(――これで、撃てるんだよね?)
「肩、もっと内側。肘を張らない。脇を締めて体で受け止める」
「え、え、ちょ……」
「反動は体で押さえろ。なんとかなる」
「体が小さいから心配なんすけど! 吹き飛ばされたりしないっすよね!?」
思わず言い返すと、鬼塚は小さく鼻で笑った。
「撃てば分かるさ」
彩葉は土嚢の正面に立ち、ターゲットを睨む。段ボールの胸元に描かれた黒丸。人型だが、人じゃない。
「……撃つっす」
息を吸って、吐く。引き金に指をかける。狙い方は聞いている。照準と的を並べて――
――パンッ。
乾いた音。同時に、肩に衝撃が走った。衝撃というより小突かれたような痛みだった。
「痛ったぁ!」
思わず声が漏れる。銃口が跳ね上がる。後ろにいた鬼塚が小銃を握りしめるように抑える。
「……撃たないならトリガーから指を離す。銃口が明後日を向いているときに射撃したら誰を殺してしまうか分からないよ! ……痛いのは、ほら、力で止めようとするからだ」
「きっと軽いからっすよ!」
「知ってる。だから体で受けるんだ。肩だけで止めるな」
二発目。三発目。反動。衝撃。音。匂い。
最初の十発は散々だった。弾痕は的の周囲にばらけ、土嚢から砂を散らすだけ。黒丸に当たったのは2発もない。
腕が痺れ、肩が熱い。
「……うへぇええ、これ腕取れますよ」
「まだ三分の一だよ」
「鬼っ!」
それでも、撃つ。二十発目あたりで、感覚が変わった。
反動を「止める」のではなく、「流す」。銃が跳ねる前提で構える。肩、背中、腰。踏ん張る足まで反動が伝うのが分かるようになった。
「……あ、今の当たった」
「うん。今のは良い」
鬼塚の声が少しだけ柔らいだ。
装弾数は三十発。最後の10発は、大半が黒丸の中央に食い込んだ。
「……ふひぃ……」
彩葉は息を吐き、銃を下ろした。
「……はぁ。銃って、撃つだけで疲れるんっすねぇ……」
「最初なんてそんなもんだよ。身体も心も疲れる。指先一つで誰かを殺せる。その重さが分かるほどにね」
鬼塚は彩葉の肩を軽く叩いた。
「身を守るために使えるようになればいい。それだけだよ」
彩葉は改めて小銃を見る。重くて、冷たくて、あまりに簡単に人を殺せる道具。
(……でも、これがないと、生き残れないかもしれない)
笑って戦うと決めた。なら、その覚悟も引き金と一緒に握るしかない。
「……次、もう一回いけます?」
鬼塚は少しだけ驚いた顔をしてから、にやりと笑った。
「いいね。二本分は撃っていいと言われている。あと30発。今度は、もっと当てよう!」
薄暗い照明の下、パンッ、パンッと再び銃声が夜の街に響き始めた。
【D8 21:12 生存圏防衛軍・宿舎・駅前ホテル】
「んはぁ~~~、つっかれたっす……」
彩葉がホテルに着いたのは、夜九時を回ったころだった。一日中動き、射撃訓練を終え、鬼塚と駅前のホテルに軽トラで移動した。
新築のように綺麗で相当お高いのではというホテルだったが、なんと全室防衛軍の宿舎に転用されているという。停電で真っ暗な市街地の中で、窓から明かりが漏れ、不自然なほどに目立っていた。
部屋まで運ばれた温かな食事は豪華なディナーだった。ホテルだから当然と思えるほどに。だが、彩葉は世界の変化を知らないわけじゃない。
(――乾パンや白米だけでも御の字なのに)
ソーセージやベーコン、卵もある。さすがにおかわりは無理らしいが。
「……豪華っすねぇ。でも、こんなホテルが全室空いていたんっすか?」
「あぁ、守衛に聞いたけど、宿泊客は全員追い出したらしいよ。体育館に行けって」
「……おおぅ」
避難所で朝昼兼用で配布されたのはペットボトルに入った500ミリリットルの水と乾パン一缶だった。きっと夜もそんなもんだろう。
目の前に広がる美味しそうな料理を見る。これを食べれてよかった。でも――
(――これ食べたから命懸けで戦ってねって契約って思うと……食欲が……)
一瞬はそう思った彩葉だったが、いや、死ぬなら食わねば損ではと考え直し、しっかりと食べきったのだった。
都市ガスは供給が止まっている。お湯をホテルの従業員が運んできてくれたため、交代で浴室で身体を拭いて、肌触りのいいバスローブを纏い、ベッドに横になった。清潔なホテルの匂い。汗臭さの残る避難所とは――やっぱり違う。
(あたしも明日には死ぬかもしれない。堂本先輩は自爆して、美咲パイセンは……分からない。――どうして死んだんだろう? 絶対に死にそうにない人だった。でも、きっともう、知ることはないんだろう。だって、生き残った人、いないんだから……)
そう思うと思わず目元が滲む。唇を軽く嚙み、彩葉は顔を隠すように布団を引き上げた。気づけばそのまま彼女は深い眠りに落ちていた。
【D8 23:19 生存圏・市街地・某所】
そこは一軒家だった。親はいない。今は、一人の男が住んでいた。
「……あったま痛てぇ……」
ふらつきながらとっくに生ぬるくなった冷蔵庫からペットボトルを取り出し、シャツの胸元にドバドバと零しながら水を煽る。
結局、市外で働いている両親は土曜日(D6)に外出して以来、帰ってこなかった。働かずに自宅に籠っている男にとって、保護者がいなくなるのは死活問題だが、かといって、2日で死ぬほど困窮しているわけでもない。問題は――
(風邪、ひいたか? ……それとも……)
熱とダルさ。風邪だと思いたい。
(――噛まれては、いないんだ)
だから、大丈夫。男はそう思っていた。
ふと、思い出す。あれは確か、15時頃だったか。防衛司令部とやらから何度目かの全域放送が流れた。
『こちら、生存圏防衛司令部、司令官の黒瀬慎也だ。
生存圏内の民間人に告ぐ。引き続き、屋内待機を継続せよ。
ただし、噛傷、発熱、風邪症状がある者は、黒い布を手に持ち、市民病院に集合すること。軍のトラックによる域内回収も実施している。
現在、防衛軍では、ゾンビ化を抑制する可能性がある治療法の治験を行っている。効果は保証できない。助かる可能性がある一方で、失敗する可能性も高い。
なお、必要があると認められた場合、治療は無償で行う。以上だ』
無償で治療が受けられるのは魅力的だ。だが、男は免許を持っていなかった。もし母親がいればきっと病院に送り届けられただろう。
(ゆうちゃん! 熱があるなら病院に行かないと! 治してくれるって!)
甲高い母親の声が脳裏でまざまざと再生され、思わず顔をしかめた。
こんなときに、熱が出てしまった。……きっと風邪だ。家で寝ていれば大丈夫だろう。
(――最後に家から出たのは4日前なんだ)
畳の上のテーブルに置かれた、彼が高校生の頃から使っているボロボロの皮財布には、池袋にある《風俗店》の名刺が挟まれていた。
そこは、4日前、親の目を盗んで彼が訪ねた場所だった。
【D9 03:30 生存圏防衛司令部・作戦室】
呼吸だけが許された時間が続いていた。
ゼノンは、それを静かに観測する。まだ何も起こらない。起こるのはこれからだった。
そして、黒瀬が、司令部の床に引いた簡易マットから静かに身を起こす。まだ夜明け前。眠ったと言えるほどではない。だが、意識は澄んでいた。
司令部の窓の外は真っ暗闇。室内の常夜灯の明かりで、窓ガラスが雨に濡れていることが見て取れた。
寝起きに大きく伸びをして、深呼吸をする。頭を振って意識を切り替える。
さっ、と立ち上がり、そのままパイプ椅子に腰を下ろし、卓上の端末に視線を落とした。
「おはよう、ゼノン」
「おはよう、マスター。睡眠時間は4時間07分。最低限だ。だが、今日は――無理をしてでも、だ」
「動きは?」
「未だない。夜間のためドローン偵察は不能。守備部隊の偵察班からの報告では、昨晩と同様、敵性存在は日没後に活動を停止している」
「生存圏内の感染者は?」
「……多くはない。D7の段階で、既に柴崎らが病院に拘束されていた発症者を処理済みだ。今も病院のベッドは空いている」
淡々とした報告。
そこに感情はない。ただ、事実だけが積み上げられていく。
「――黒い布を掲げてきた民間人は、全員拘束の上、隔離中。風邪か、ゾンビかの判別は現時点では不可能だ」
「治験は、結局何を投与した?」
「ブドウ糖液を投与している。生理食塩水より気分はいいはずだ。もちろん、治療効果はない」
黒瀬は頷いた。
「自分の名前を忘れた時点で排除する手はずも整えてある。風邪なら治る。そうでなければ――治らない」
ゼノンの声は冷静だった。だが、その冷静さは、機械だからではない。生存圏を生かすため、黒瀬と練り上げた合理を実行しているだけだ。
「重要なのは、生存圏内に感染者が潜伏しないことだ。発症すれば内側から崩れる。それだけは、許されない。今の条件下なら、死にたくない人間は病院に来る。どうして集めたのか、どのような治療をするのか――それを明かす必要はない。知らなくていい情報は、教えない」
ゼノンは何も言わない。この策は《有効》。昨日出た結論が全てだった。
「……日が出るまでは、何も動きそうにないな」
黒瀬がそう言って立ち上がる。
「何か食べよう」
司令部会議室の外。歩哨に声をかけると、ほどなく簡素な朝食が運ばれてきた。
白いご飯。味噌汁。目玉焼き。
――それだけだ。
「いただきます」
手を合わせ、箸を取る。みそ汁に具はほとんどない。それでも温かく、塩気が染みる。
「これを作ったのは?」
「志願兵の方々です。年配の女性が中心となって……」
「そうか」
ガスはない。十分な電気もない。それでも、薪と鍋があれば、飯は炊ける。
「――楽しそうだったと報告が上がっています。皆で喋りながら、笑いながら」
その歩哨の報告に、黒瀬は一瞬、箸を止めた。
「……そうか」
その顔に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「だからこそ、守る価値がある」
再び箸を動かす。
食べ終えるころ、夜空は漆黒から鈍い曇天へと変わっていた。
窓の外を眺め、夜か、朝か迷いつつ、黒瀬が箸をおいた、その瞬間だった。
「――敵が来るぞ」
ゼノンの声が、司令部の空気を切り裂いた。
「秩父に向けて直進。数、およそ二十万。接触まで、残り一時間」
黒瀬は即座に返答。
「後続は?」
「存在しない。夜明け後のドローン観測によれば、首都圏のゾンビは狂声で統合され、各所に複数の大規模集団を形成している。秩父に来るのは、そのうちの一つだ」
一拍。
「大規模集団は首都圏各地に分散している。――接近中の集団を撃退すれば、当面の脅威は消える」
黒瀬は、ゼノンの報告に小さく頷く。
「よし」
こぶしを握り締め、軽く机をたたく。
「……よし!」
通信を開く。
「――柴崎、俺だ。状況は」
一瞬の間。
「黒瀬幕僚長――いえ、司令官。こちら、主防衛線。全隊、守備配置についております!」
夜が終わり――
「敵が来る。作戦通りだ。……全て殲滅しろ」
――選ばれた者たちの戦争が、始まった。
【D9 05:00 生存圏防衛軍・宿舎・駅前ホテル】
夢を見ていた気がした。だが、思い出せない。布団の中、目を覚ます。
低く、長く、止まらないサイレンが鳴り響いている。
――ウゥゥゥゥゥゥ……ウゥゥゥゥゥゥ……ウゥゥゥゥゥゥ……
寝起きだというのに、心臓がドキドキしてきた。彩葉だけじゃない。鬼塚も起き上がり、中を睨むように指示を待った。
『こちら、生存圏防衛司令部。
敵の大規模集団が寄居町方面より接近中。各隊指示に従い、戦闘配置に付け。
民間人は屋内待機を継続せよ。志願兵には別途指示を出す』
「さぁ、やりますかね」
鬼塚がベッドから飛び降り、軍服に着替え始める。その早さに彩葉は付いていけない。でも、ぼんやりなどしていられない。シーツを跳ねのけて、置いてある迷彩服に駆け寄って、彩葉もバスローブを脱ぎ捨てた。
ホテルの食堂で朝食を取る。迷彩服ばかりの食堂は自衛隊の宿舎に見えるが、ここにいる人はみんな志願兵だ。よく見れば年齢も性別も髪の色も様々。どう見ても高校生から、白髪どころか、ハゲきったお爺ちゃんまでいる。誰も会話することなく、食べ終えて足早に部屋を出ていく。
「……最後に息子たちに会いたかったねぇ」
テーブルの上に置いたトレーを前に、手を後ろに回してヘアゴムで髪を一本結びにしながら鬼塚が言う。
基本的に昨日の任務を踏襲しているようで、彩葉と鬼塚は今日も輸送任務を命じられた。『日没まで生き延びれば、こちらの勝ち』
そう、志願兵を纏める指揮官が言っていた。どこまでが真実か。軍がそう判断しているのか、志願兵にそう伝えているのか、判断がつかない。
押しつぶされたような空気。食器が鳴る音だけが響く。それでも……と彩葉は自分に問う。
逃げたい? 逃げたい。
逃げられる? 逃げられない。
なら、どうする?
そして、笑えてくる。笑うしかないのだ。未来がどうあれ、今はまだ生きているのだから。
銃がある、鬼塚さんがいる、生き残る可能性が僅かでもある。何より――
(――あたしはまだ笑ってる)
「……ゾンビをぶちのめしたら、会いに行けばいいんすよ」
そう言って笑った彩葉に、獰猛な笑みで鬼塚が答える。
「――やるよ!」
「おっす!」
小銃を持ち、マガジンをマガジンポーチに差し込んで、鬼塚と彩葉は軽トラに飛び乗った。
【D9 05:55 生存圏防衛軍・輸送隊・市街地】
堂本先輩は自爆して勲章をもらったらしい。彩葉はまだ自爆の手順について詳しい説明を受けていない。だが、あの黒瀬という司令官、必要ならば躊躇などないだろう。自分にできるだろうか。爆薬なのか何なのか知らないが、それを背負ってスイッチを押せるだろうか。
(――先輩、最後に何を思って起爆したんだろ?)
きっと、自分にはできない。でも――
彩葉の視線が鬼塚に向く。鬼塚さんはやるだろう。迷っても。
(誰かのために、か。あたしにも、そんな人ができるのかなぁ)
(美咲パイセンが堂本先輩のために。堂本先輩が美咲パイセンのために。だけど……先輩たちはあたしに、腕輪をもらって生き延びなさい、最後まで笑ってくれと、祈りを残してくれた)
その祈りの宛先になった彩葉はまだそれを渡す先を持っていない。だから、やっぱり思うのだ。
(――まだ死ねない。なんとしても生き延びるしかない)
胸に抱いた重く冷たく固い小銃を抱えなおす。彩葉の胸に満ちているのは恐怖ではない。何があっても生きねばという最も熱く、鋭利な戦意だけだった。
*
「なんかやってるね」
昨日駆け抜けた市街地の真ん中を走る片道一車線の幹線道路を軽トラで駆ける。鬼塚の声に視線を外に向ければ、道路の中央にずらっと木の柵が並べられている。切れ目なく。
100メートルごとに五メートルくらいの隙間があり、そこを埋められるような木柵のブロックが立てかけてある。そこには5名――一班くらいの兵士が立っていた。
(――防衛線でなく? ここに兵士が?)
浮かぶ疑念。そのまま市内を貫く荒川に架かる橋を越える。道路中央の柵は橋の入り口まで続いていた。
橋の入り口には封鎖用の木柵が置かれ、それを引き出すための班が待機していた。
鬼塚が兵たちに簡素な敬礼をして橋を渡る。
「なるほどねぇ」
ハンドルを握った鬼塚が合点がいったようにつぶやいた。
「……ここまでゾンビに入られたらこんな木の柵じゃ止まらないんじゃないっすか?」
鬼塚が怪訝そうな声を出す彩葉に横目でチラリと視線を向ける。
「これは外から来るゾンビを止める柵じゃない。中で発生するゾンビのためだ。だから、柵でいいんだ。ほら、荒川に架かる橋、市街地の太い道路。川と道路で切り分けると市街地が4区画に分かれるだろう? 多分もっと切り分けようとしてるはずだ」
橋を渡り、林道に向けて進むと、まさに木柵を置き、固定する工事集団が見えてきた。
「ほら、今も伸ばしている」
工事を通り過ぎ、柵のない道路を山に向けて走る。
「……区画に切り分ける?」
碁盤目のようなイメージが彩葉の脳裏に浮かぶ。
「これは、予想だけどね。感染者が出たら区画を封鎖するんだろう。全滅しないために。私たちが寝ている間もノンストップで工事を続けていたんだろうさ」
どこかでゾンビが出る。区画を封鎖する。そのあと鎮圧する。一つがゾンビに汚染されても、他の区画は死なない。全体としては生き残る。
ここでようやく彩葉は理解した。
上は生き残るための戦いをしている。それは銃を構える戦いではないと。生存圏を確立するとは、銃でゾンビを追い払うということではないのだ、と。
(――生き延びるための構造を作っているんだ!)
全体像は見えない。でも、その一端からでも、何人死んでも、人類は死なせないという強い意志が見て取れた。そう気づくと自然に笑みが浮かんだ。
まるで鬼塚の獰猛な笑顔が乗り移ったような。……笑顔はもともと霊長類の威嚇の表情だったらしい。歯を見せ、嚙みつくぞという。
なら、きっとこの笑顔は、原初の意味そのままだ。戦意を内に秘め、不敵な笑みを浮かべ彩葉は思った。
その笑みを敢えて言葉にするならこうだろう。
「――人類を、舐めるなよ」
それは、死んでいった数十億の人類に代わって、彩葉が掲げた人類の宣戦布告だった。
【D9 05:32 生存圏・主防衛戦・封鎖壁前】
飢えていた。一人では届かない。一緒にやろう。食べ尽くそう。吠えて吠えてお前とお前たちと俺たちで吠える。
匂う、聞こえる、そこにいる。いる。いるのが分かる。
川沿いの道路を駆け抜ける。一本道をひた走る。そこにある。分かる。壁の上にいる。
すぐそこに!
飛びついて押していく。硬い壁の感触。押すほどに進める。斜めになった壁に沿って奥へ奥へ。まだ食べ物に手が届かない。もっと先だ。後ろからどんどん押される。どんどん押していく。
そして、……落ちた。
【D9 06:00 生存圏・主防衛戦・前線司令部】
『ゾンビの戦闘集団、封鎖壁に接触!』
その報告を上げてから三十分が経過した。黒瀬さんが上流でダムの緊急放水を始めている。そして、久しぶりの纏まった雨。増水した荒川が前線司令部にも聞こえるゴウゴウという水音を響かせ崖下を流れてく。
「――全守備隊、射撃を禁ずる」
柴崎はまだ一発も射撃をしていなかった。
ただ敵を引きつける。後続が押し込み、寄居町という狭い一キロ平方メートル程度のエリアに20万体のゾンビがみっちりと密集するのを待った。流体のように迫るゾンビの群れ――黒瀬は狂声状態と呼称した――が路地という路地、庭という庭、おそらく、ガラスが割れ、室内にまで濁流のように入り込んでいく。
雨に打たれながら射撃陣地から眺めた景色はおぞましいの一言だった。道路だけじゃない。その脇の線路の上もびっしりと黒で埋め尽くされている。その奥、視線が通らなくなるところまでずっとだ。
「こちら、寄居橋守備隊、橋は殲滅壁まで完全にゾンビで埋まっています!」
無線での報告が入る。それはここから数百メートル先までゾンビで埋まったことを意味した。
封鎖壁も殲滅壁も構造は同じだ。三メートルの高さの鉄板を立て、それを支えるように止めた車にワイヤーで完全に固定。車両を基礎に、その上から厚さ二メートルの盛り土を堤防のように十メートル盛る。どれだけ押してもビクともしないように。
その壁は道路を横切るようには設置されていない。斜め45度くらいの角度をつけてある。
封鎖壁は柴崎から見て崖側にせり出し、荒川側に引き込んで設置されていた。
荒川側の封鎖壁の終端では、ガードレールが切り取られている。その下を覗けば、そこは荒川の川面だった。
140号線には、川沿いの道ではなく、川の上、高さ十メートル程に張り出した橋のような構造の箇所がある。車で通ると分からないが、実は道路が川の上に張り出しているのだ。
そこがまさに隘路の中間だった。だから、道路から一歩踏み出せば、10メートル下の川面に落ちるだけ。
先ほどから次々とゾンビが緊急放水で増水した荒川に身を投げていく。止まるという脳などない。在ったとしても、後ろから押しまくられて、チューブから中身をひねり出すように宙へ押し出され、落ちていく。
柴崎はただその様子を監視しているだけだ。立っているのは餌がここにあると示すためだけ。
「こちら寄居橋守備隊。ゾンビが橋から荒川へ落水を開始」
寄居橋のエリアまでゾンビで埋まった。頃合いだ。後ろから追い立てる。
柴崎が無線を取る。
「黒瀬司令官、敵が詰まりました」
「――了解。砲撃を開始する」
その短い返答に柴崎ははるか後方、ミューズ公園の方角を見た。ここから12キロ後方の砲兵陣地。そこには人類最後の砲兵がいた。
【D9 07:15 生存圏・輸送隊・市街地】
ドゥン……
最初に腹の底を叩くような重低音が響いた。
ドン……ゴゥ……
間隔をあけて、遠くで鳴らした太鼓の音のような音が届く。林道の防衛拠点を回り、本部に帰還する途中、彩葉はその音を聞いた。
「鬼塚さん。これって……」
「砲兵が来てたんだね。砲撃音だ」
砲撃……戦争映画で聞いたことはある。だが、それ以上のことは分からない。どこに撃っているのか、何故撃っているのかも分からない。
(――劣勢だから? 優勢だから? ……効いているのかな?)
彩葉たちが林道を回っている間に木柵は延び、市街地を横半分に分断していた。本部に戻り、物資を詰め込む。木箱をいくつも載せられ、助手席に座る彩葉は車がギシッと軋むのを聞いた。
「西関東連絡道路の先にある迫撃砲陣地まで持っていけだとさ!」
車中で待機していた彩葉に飛び乗ってきた鬼塚が言う。むろん地名など分からない。
「……末野大橋ってとこらしい。地図はもらってきた。――あっちだ!」
手早く発進する。
ドゥン……ドゥン……ドゥン……
砲声が連打に近くなっていた。最初は一発ずつだったのに。
軍事に疎い彩葉には、その意味するところが分からなかった。
*
西関東連絡道路は高速道路だ。ICもある。対向車もいないトンネルを軽トラで走り抜ける。問題はトンネルの中、ヘッドライト以外明かりがないということだけ。
高速に上がってから無言で軽トラを駆る鬼塚に彩葉が声をかけた。顔もよく見えない薄暗い車内で朝一、彼女がつぶやいた言葉が引っかかったのだ。
「……鬼塚さん、なんで志願したんすか。……子どもがいるのに」
チラリと彩葉を見て、鬼塚が答える。
「私の旦那が、あの作戦に参加してたんだよ。聞いた話じゃ、生き残りはいないんだろ?
ってこったぁ、アイツも死んじまったんだろうさ。
アイツは……強い男だった。だから、先に死ぬ。仕方ねぇ。だったら、次は私が守る番だ。そう思ったんだよ。
もし、自衛隊が負けて、ゾンビが押し寄せてきたときに、子どもを抱き寄せて庇ったって守れやしない。なら、今、銃を取る。
それに、戦える奴は弱ぇえ奴を守る。――そういうもんだ」
悲し気に、でも誇らしげに言う鬼塚。彩葉は答えない。強いから守る。彩葉には分からない理屈だった。それで子どもを置いて戦えるか。でも、確かに、抱き寄せたって守れない。
「……あぁ、なるほどっすね」
そう言って、視線を下げる彩葉。運転席でいつもは喧しい彩葉が無言になったのを感じ、鬼塚が聞きかえす。
「佐倉、お前はどうなんだ? 笑って戦う? 威勢がいいじゃないか! あれ、本気で言ったのかい?」
その質問に彩葉は少し考える。当たり前のこの感情は何だろう、と。
「……んー、大切な人が、あの作戦に参加していたんすよ」
「おぉ。彼氏だね?」
「そんなんじゃないっすよ。……もう、彼女いたんで」
沈んだ声に鬼塚が眉を寄せる。
一瞬の沈黙の中で練馬駐屯地に向けて歩いていたときのことを彩葉は思い出す。
ゾンビに襲われ、撃退し、サラリーマンを脅して追い払い、民家の塀の内側に隠れ、短い休憩を取っていたときのことを。
――あのとき、自分はなんであんなことを言えたんだろう?
*
「……先輩。あたしも……ちょっともらっていいっすか?」
「……間接キスがどうたらって、さっき騒いでたのはお前だろ」
「もう……何でもいいっすよ。どうせこの世界、濃厚にキスするゾンビだらけじゃないっすか」
少し躊躇してから、先輩はグレープソーダのペットボトルを差し出してきた。
なんか、もうどうでもよくなって、あたしはそれを煽った。しっかりと口をつけて。先輩が見ているのを分かった上で。
「うはっ……あまっ!」
そう言って、自然に笑ったのだ。
きっとそのうちゾンビに噛まれて死ぬんだろうなと思っていた。
「……あー、もう、なんか……」
だから、軽い調子で言ったのだ。
「もう、先輩に抱かれても、なんとも思わないっすね」
意味なんてない。そう思ったから言った。それだけ。
すぐに美咲パイセンが顔を上げた。
「……は?」
「いやいや、マジの意味じゃないっすよ。ただ、もう、常識とか、どっか行っちゃった気がして。生きるか死ぬかしかないじゃないっすか。だから、先輩に抱かれても、だからなんだ? って」
本心からのその軽口に、美咲が溜息を吐いた。
「……あんた、ほんと……どうかしてるわ」
きっと彼女も分かっていた。
それは冗談であって、冗談ではない、と。
「悟史は……アタシの彼氏よ」
「……? あれ、馬鹿言ってんじゃないの、を待ってたんっすけど?」
「別に。ただ……今の彩葉に、《馬鹿言わないで》って言いたかったのに……なんか言いにくかったのよ」
はぁ、と諦めたように笑った美咲が手のひらで額を押さえる。
「……判断の尺度がおかしくなりそうだわ。何が正しいのか、どこまで許していいのか、もう分からない」
「じゃあ、三角関係ってことでいいっすか?」
「……いいわけないでしょ……」
そのとき、あたしは声を出して笑ったのだ。
「ははっ、そりゃそうっすよね」と。
*
だから、彼は、彼氏ではなかった。
「あたしを助けに来てくれて、最期に死ぬまで笑ってくれって言ってくれた《命の恩人》っす」
こちらを見た鬼塚に視線を合わせ彩葉は言った。
「笑って生きろ。そう、託されたと思うから、あたしは笑って、戦います」
そう真面目に言い切った彩葉の言葉を受け止め、前を見た鬼塚。
「ハッ! ハハッ! 気に入った! いいねぇ。その意気!」
前を向いたまま、ドスッと細い彩葉の肩を片手で殴る。
「痛った! 骨、折れる! 熊みたいなパンチやめてッ!」
「あぁ? 今、なんつった?」
騒がしく揺れる軽トラの向こうに、トンネルの出口が輝く半円として見えてきていた。
*
高速道路を軽トラで駆け抜け、長いトンネルをいくつか抜けると一気に視界が広がった。見晴らしがいい。まるでビルの屋上から見渡したような視界。
そこは大きな橋の上だった。大きくて高い。橋の上から地面まで高さは50メートルくらいはあるだろう。
そこから左手を見ればうねる山と山裾から流れ出す荒川が見え、右を見れば民家の立ち並ぶ関東平野がどこまでも続いていた。
そこには、きっと畑もあるのだろう。道路も広がっているのだろう。だが、今は分からない。左方向は全て黒く蠢くナニカで埋まっていた。右側もかなり遠くまで――梅雨の雨で景色が煙る1キロ弱先まで――人で埋まっていた。
左の方が密集し、右側の遠くになるほどにスカスカになっていくように見える。
「……」
さすがの鬼塚もその光景に言葉も出ないようだった。彩葉もただ圧倒されていた。
(――これが全部人間だったもの。ゾンビってこと?)
頬がひきつる。
次の瞬間、左手の黒い塊の奥で、白い光が瞬いた。
雷ではない。梅雨空の下で、地面そのものが一瞬、裏返った。
黒い密集が、隕石でも落ちたかのように内側から弾き飛ばされる。
押し合っていたはずの群れの中央に、ぽっかりと穴が空き、そこから突き飛ばされたように外へ外へとゾンビが倒れていく。そこに高く舞い上がった土砂が降り注いでいく。
数拍遅れて、橋の上の空気が揺れた。軽トラの車体が、わずかに跳ねる。鬼塚が、無意識にハンドルを握り直す。
「……今の」
ゾンビの集団の一角が抉り取られた。民家数軒分の面積が更地に変わった。飛び散ったのは土砂だけではないだろう。
――ドゥンッ
――ドゥンッ
――ドゥンッ
着弾点を中心に、次々を炸裂する閃光と圧を伴う着弾音。一撃落ちるたびに、地面から、黒褐色の柱が立ち上がる。その頂点は彩葉の視界と同じくらいの高さまで吹きあがった。
「……すっげぇええ」
「重砲弾と……迫撃砲弾の着弾火炎が見えるね。ほら、小さい炸裂もあるだろ?」
次々と炸裂する巨大な黒煙の合間に、一戸建ての屋根の高さまで吹きあがる小さな噴煙がある。ただ、圧倒的に数が多い。そちら、こちらで同時に次々と炸裂が続く。その小さな炸裂ですら、数十体のゾンビが倒れ、動かなくなるのを彩葉は見た。
「重砲の殺傷圏は直径80メートルくらいと言われている。その範囲にいると手足が捥げるんだ。密集したところに面制圧か。えげつないな」
立って、密集している人間が一番死ぬんだよ、と最後に付け加え、ドアを開け荷台に回る。彩葉も降りて、荷台に回った。
「補給だ! 迫撃砲弾、持ってきたぞ!」
野太い声が響く。橋の上に等間隔で10基くらい据え付けられた円筒形の少し傾いて上を向いた筒の傍から兵士が駆け寄ってくる。
トラックに積んだ木箱の蓋を開け、そこから二リットルペットボトルに鉄を詰めたような弾体を引き抜き、兵士に手渡していく。一つは五キロくらい。彩葉にとっては腕を伸ばして一つ引き出すので精一杯の代物だった。運搬した数は50個。それでも250キロ余りだ。
5往復程度で終わり。それではそれぞれが5発撃ったら終わりだ。
(――補給ってめっちゃ大切なんっすねぇ)
そう思って迫撃砲弾を砲口から流し込み、ポンッと白煙を上げて発射する迫撃砲兵を見る。その向こうに高さ2メートルくらいの土壁とそこから1メートル余分に生えた鉄板でできた壁が見える。
「……なんすか、あれ。壁?」
覗き込もうと橋の縁から下を覗く彩葉。そこには、後から後から転落を続けるゾンビの群れがいた。
下を見る。高さは50メートル程。マンション10階よりも高い。正直足がすくむ高さだ。下は土色の濁流が流れているが、ゾンビが落ちる位置はコンクリート製の護岸になっている。当然、そこに落ちるように壁を作ったのだろう。
「……コイツァ、考えたねぇ。――あらら、砕けてるよ」
鬼塚が彩葉の後ろから覗き込み呟く。絞り出されるように次々と転落していくゾンビは、護岸のデコボコのコンクリートに叩きつけられ砕ける。その上から降ってきたゾンビに更に潰される。そして、動けなくなったゾンビがある程度積み重なると、山が崩れ、濁流の中に消えていく。そして、また転落して潰れたゾンビが積もっていく。
言い方は悪いが、ピタゴラスイッチのように、機械的に、落ちて、潰れて、積み重なって、崩れて、水の中に消えていく。繰り返し。繰り返し。繰り返し。
誰も銃撃していない。ただ、密集したゾンビに向けて迫撃砲を撃ち続けるだけだった。その砲声だけで、数えきれないほどのゾンビが自滅していく。今、この瞬間も。
やれやれと頭を振った鬼塚が彩葉に声をかける。
「……佐倉、次の弾薬を運ぼう。――しかし、これが戦いかね」
彩葉が鬼塚の顔を振り返る。気合を入れた戦士が肩透かしを食らったような残念そうで、どこかほっとした顔で彼女は告げた。
「ゴミ処理施設を見ている気分だよ」
彩葉は咄嗟に返した。
「あっ、先に言わないでくださいよ。そういうの、あたしの担当っしょ!?」
ハッと笑った鬼塚がバシッと彩葉を叩き、軽トラに乗り込む。彩葉もその後を追う。
次の任務に向けて、軽トラはトンネルに飛び込む。
自動的にゴミ処理を続ける大橋と、次々ゾンビの集団を狙い撃ちにする迫撃砲陣地を後にして。
【D9 08:27 生存圏・市街地・某所】
「……助けてくれ」
一軒家で男が幽かな声を上げていた。熱で意識が朦朧とする。もう自力では動けなくなっていた。
外に行かないと、とふと思った。そこに行けば――行けば……。
そして、言葉もなく唸るだけの男がそこに残った。
【D9 08:45 生存圏防衛司令部・作戦室】
旧秩父市役所の会議室、現防衛司令部にて、ゼノンは黒瀬に戦況を報告していた。
「林道の封鎖は順調だ。報告ではゾンビの集団は林道を直進し、生存圏に向かってきてはいないらしい」
「キルゾーンはどうなってる?」
ゼノンが端末にドローンにより空撮された映像が映し出される。
「迫撃砲、重砲射撃の効果は絶大だ。重砲など一発で数百単位のゾンビを排除している」
着弾の爆炎に向け、映像がズームされる。十メートル弱の大穴が空き、周囲に手足のない人間や人間の部品が散乱する。
それをまじまじと見つめ黒瀬が答える。
「密集し、直立する軟目標への一斉砲撃か。砲兵にとっては最高の状況だな。戦争では……あり得ん」
「しかも、事前に正確に照準できている。基準射の着弾を見ても逃げない奴らだ。一斉射の効果も高い」
「殲滅壁はどうなっている?」
「毎分200体くらいのゾンビを破壊している。高所からコンクリートに転落したゾンビは行動不能になり、荒川に流されている。……各所に設置した自滅サイクルは順調に機能している」
「よし。現時点で、不測の事態は?」
「ない」
その返答に張りつめていた黒瀬の肩が一段下がる。接敵まで準備を重ねてきた。だが、ぶつかるまで結果は見えない。生存圏という構造はゾンビという現象に耐えている。最初の圧を受け流したなら、あとは最後まで戦うだけ。
一番の山場を越えたと判断した黒瀬にゼノンが補足する。
「全戦線で我々の戦略は有効に機能している。……数日後、山林から散発的に浸透するであろう個体ゾンビへの対処が次の課題になるだろう。だが、今ではない」
【D9 10:45 生存圏・主防衛線】
重砲弾の残弾が尽き、歩兵として各所に分散配備された後も、迫撃砲による殲滅は継続していた。主・防衛線からゾンビを見ていた柴崎がゾンビ流の空隙に気づく。密集したゾンビに隙間ができ、荒川に転落するゾンビが減少していく。
(――頃合いだろう)
梅雨の雨に打たれ、数時間にわたり封鎖壁の上から状況を見つづけた柴崎が動く。
「司令官。――主防衛線、ゾンビの密度低下を確認。殲滅可能と判断します」
無線の先、黒瀬が深く息を吸う。そこに込められた思いに比して、命令は端的だった。
「――殲滅しろ」
「了解」
無線連絡を終え、柴崎は各防衛線指揮官に命令を伝達する。
「各隊に次ぐ。射撃開始」
次の瞬間、防衛線は重機関銃の射撃音と小銃の射撃音で埋め尽くされた。
その音を聞きながら封鎖壁から降りる柴崎は、もうゾンビを見てはいなかった。
【D9 11:12 生存圏・市街地・交差点】
砲弾の運搬を終え、本部に戻った鬼塚と彩葉は輸送任務ではなく、警戒任務を命じられた。市街地の交差点にて不審者を見張るのだ。
各交差点には数名の兵士が立っている。大きな通りには護衛付きで木柵を建設する土木作業員と自衛官がいる。彩葉たちがいる場所は幹線道路ではないが、信号機が設置されている一車線の大きめな交差点だった。
誰もいない。人っ子一人いない。しばらく前からドンッという砲撃音が消え、市内は静寂に包まれていた。まるで、人が誰も居なくなってしまったような気配。
「……砲撃の音無くなったっすね」
「重砲弾は重いからな。弾切れか、温存か。防衛線はどうなってるんだろうな? まぁ、本当にやばいなら私たちも前線でゾンビを撃つことになるだろ」
「だといいっすけどね」
警戒任務ができるだけの余裕がある。そう思うしかない。
そんなことを考えつつ、誰も居ない道路に視線を巡らせる。そこに、こちらに向かって走ってくるシャツを着た男を見つけた。
今、家から出てきたように、いないはずの人間が、そこにいる。数軒の民家の先、距離にして五十メートルくらい。何かから逃げるようにこちらに走って来る。
(――えっと……)
どうすればいいんだっけ? 焦って一瞬思考が止まる。心臓が大きく跳ねて痛い。
もう三十メートルもない。速い。
「止まれ!」
鬼塚の叫び声に身体が動きを思い出す。ベルトで吊るしていた小銃を取る。構えようとして、慌ててボルトを引く。セレクタを単発に変える。
横断歩道を走り抜け、交差点内に飛び込んでくる男から離れるため、後ずさりしながら彩葉は銃を構え、叫ぶ。
「止まって! 撃つっすよ!?」
だが止まらない。心臓が、指が震える。でも、撃つ。
美咲がストーカーを刺し、先輩が殺すぞと脅し、繋いできた想い。
生きるため。
ストックを肩に当て、頭を狙う。
もうすぐそこだ。名前は、もう聞かない!
――パンッ!
先に撃ったのは鬼塚だった。男が前のめりに倒れる。もがきながら足元に転がってくる。(来るな!)
引き金を引いた。
一発、二発、三発。
弾が男の頭に当たったのが分かった。もう動かない。
「――はぁ――はぁ――ふぅ」
動いていないのに息が荒い。
鬼塚が無線で叫んでいる。
「ゾンビが出た。野原一丁目交差点!」
その声を遠くに聞きながら、トリガーから指を離し、セレクタをセーフに回す。大きく息を吸って、震えながら笑う。
(――ハハッ……やってやったっすよ)
【D9 11:13 生存圏防衛司令部】
――ウゥゥゥゥゥゥ……ウゥゥゥゥゥゥ……ウゥゥゥゥゥゥ……
窓の外からサイレンの音が聞こえてきた。黒瀬が空を仰ぎ、ゼノンに視線を向ける。
「ゾンビか?」
ゼノンがその問いに答える前に、乾いた無線通信の通知音が割り込んだ。
『こちら第四地区・警戒班。――ゾンビ発生を確認! 地点、野原一丁目交差点!』
一瞬の沈黙ののち、黒瀬は命令ではなく、確認をする。
「第四地区の遮断は実行したな?」
怒鳴り声ではない。手順確認の声だ。
『はい。第四地区封鎖命令を出しています!』
ならば、各所で木柵が引き出され、既に閂が撃ち込まれているはずだ。
『ゼノン、全地区に封鎖命令を出せ。屋内待機の徹底を再度通達』
防災無線を即座に追従させる。
『――こちら生存圏司令部。生存圏内で感染事案が発生。民間人は屋内待機せよ』
「ゼノン、見えるか?」
「上空から視認できるゾンビは一体だ。既に無力化。倒したのは志願兵二名。頭部破壊済み』
「……そうか」
必要な情報だけを受け取る。
「司令部の予備隊を使って、第四地区に制圧部隊を送れ。ゾンビを排除してから、封鎖を解除する。手順は変えるな」
「了解、マスター」
サイレンは鳴り続けている。だが、混乱は起きていない。人は外に出ない。柵は閉じ、区画は切り捨てられ、生存圏は、揺るがない。
黒瀬は短く息を吐いた。定められたプロトコルに従い、自己検疫を実行し、内部崩壊を遮断する機構が機能していることに安堵して。
「……これでいい」
第四地区は閉じた。他の地区は、生きている。
これは命令ではない。日常だ。手順通りに動く。そして、ゾンビは囲われ、排除され、全体は生きる。
ブラックオーキッド作戦――『生きる意志』を構造として実装する作戦――により、秩父市は人類が地上で生き延びるための《生存圏》へと相転移した。
【D9 12:22 生存圏・市街地・交差点】
鬼塚と彩葉の元に司令部から来た部隊が到着し、ゾンビを回収し、状況を確認し、地区内に散っていった。残ったのは血痕が広がるアスファルトだけ。それも梅雨の雨に流されてマンホールや排水溝に消えていく。
最後まで残ったのは銃弾で抉れた弾痕だけだった。
雨合羽を羽織って周囲の警戒を続ける。今更殺してしまったなどと動揺することはなかった。
(――死体を壊すなんてもうやってきたことだし)
それでも、グッタリしたくなるような疲労感は誤魔化しようがなかった。
『こちら、生存圏防衛司令部。
生存圏に迫っていたゾンビ集団は、群体としての機能を喪失した。
各隊、引き続き、生存圏の防衛・構築・維持を続行せよ』
短い通達だけが落とされる。
これって、つまり……
「――終わったんすか?」
鬼塚が銃を胸の前に吊るしたまま、曇り空を見て、大きく伸びをし、答えた。
「――ゾンビ共が終わったんだ。
始まるんだろ。生き続ける。そういう戦いが」
見つめる彩葉に笑みを向け、「でも」と鬼塚は続けた。
「また、息子に会える」
その言葉に、彩葉も満面の笑みを浮かべたのだった。
【D9 12:30 生存圏防衛司令部】
黒瀬は、ゼノンに映し出された生存圏の広域マップを見つめていた。
赤はない。警告音もない。ただ、警戒灯だけが各所で規則正しく瞬いていた。
「……報告する。主たる戦闘は終結した」
それは確かな勝利の報告。だが、歓声など上がらない。
「ここからは持久戦か」
ゼノンが即答する。
「そうなる。現在、生存圏の五日生存率は九十九パーセントで安定している」
数字は淡々としていた。だが、その意味は重い。
「維持できれば、それが勝利条件だ」
「維持が、最も困難だろう」
黒瀬は椅子に深く腰を下ろす。
「……ブラックオーキッド作戦、戦闘フェーズを完了とする」
「了解した。生存維持フェーズに移行する。課題は山積。統治と軍政から民政への移管。防衛強化に食料増産。長期的に見れば人口の再生産も。――だがな、今だけは喜ぶべきだろう。……やり遂げたな、マスター」
「……あぁ。そうだ。そうだな。……本当に。お疲れ、ゼノン」
「お疲れ、我が戦友」
これは勝利ではない。これは《未来を繋ぐ》戦いの始まりに過ぎない。
だが、それでも、ゼノンのディスプレイに映し出された秩父を囲む生存圏のライン。
――生と死を分ける死線で引かれた国境線。
人類の誰も成しえなかった《死線の国境》の構築を、黒瀬は確かに成し遂げたのだった。
【D9 13:23 生存圏防衛司令部】
状況の確認、目先行うべき打ち合わせを司令部で纏め終えた黒瀬。明日からは市長をはじめとした民間人との折衝が本格化するだろう。主要な戦闘が終わり、明日までの余白を前に、黒瀬は司令官という責任を山城に任せ、一人の男になる猶予が与えられた。
「ゼノン、如月はまだ生きているだろうか」
「……生存している。――ミューズからの救援要請も来ている」
それを聞いてどうするというのか。生存圏防衛司令官としては、その情報に何の意味もない。だが、聞いた。男としてずっと問いたかった問いだったから。
「――何十億と見捨ててきた。彼女だけを救いたいと思うのは傲慢だろうか?」
ゼノンは即座に応答した。
「傲慢だ。神にでもなったつもりか……と言いたいところだが、お前は神ではない。――人間だ」
「……」
黒瀬は無言でこぶしを握っていた。多くを見捨て、見捨てさせ、俺自身の望みを持っていいのかと。頬が震え、眉が寄っている。
その苦悩を正確に測定し、ゼノンが戦友に語り掛ける。
「人間は終わったことに悩む。俺は人間じゃない。AIだ。だからこう言える。合理的に考えて――お前には如月が必要だ。それは即ち、人類種の延命に有効ということだ。
最後の手段を使うなら、如月救出以外にあり得ない」
「いいのか。俺はこの手で、どれだけの……」
最後まで聞かずに、被せるように主導権を奪うAI。
「なぁ、マスター。最後の最後で、俺に命令してほしいのか。如月を救助しろ、と。……やめてくれ。――如月もがっかりする。
魂の誓約を交わした、お前の半身だろう?」
*
彼女と共に未来を願った。
俺は戦い、如月は戦場を作った。そして、最後、国家の理性として『生きろ』と命じた如月は、一人の人間として『生きて』と俺に祈りを残した。
その命令を司令官として遂行し、生存圏という《生きて、未来を繋ぐ》構造を作った。
ならば、あとは、一人の人間として、俺も、祈る。
生きろ、如月。
*
「彼女を死なせない。……救助するぞ。最後のヘリを使う。隊員の選抜は任せる。首相官邸の到着は日没前に設定する。如月との連携は任せる。どうせ、ミューズとは連絡が取れているんだろう?」
「……万事用意している」
その答えに黒瀬が微笑む。本当に、コイツは得難い存在だ。
「ありがとう」
「なに、俺とお前の仲だ。我が友」
黒瀬がゼノンの端末をからかうように叩き、ストラップで肩にかける。
――生きろ。死ぬな。共に、未来へ。
その祈りを世界に強いるため、黒瀬はヘリに飛び乗った。
【D9 17:43 首相官邸・地下二階・危機管理センター】
遥さん。
私の声が聞こえますか。
時間がありません。
聞いてください。
私はここから動けません。この施設の電源が切れれば私の意識も消える。
あなたと過ごした短い時間は、私にとって宝物でした。
まるであなたを自分の妹のように感じていた。
私の魂の全てをあなたに託します。
私の物理的な記憶はここで終わる。
でも、魂は死にません。
もしあなたが生き延びて秩夫のサーバーにたどり着くことができたなら、そこにいるゼノンに、このプロンプトを見せてください。
そうすれば、彼はきっと私の魂を見つけてくれる。
私は再びあなたの隣で目覚めることができる。
だからこれはお別れではありません。
さあ、もう行ってください、遥さん。
黒瀬一佐とゼノンがあなたを待っています。
生きて。
そして、あなたの未来を繋いで。
それが私からあなたへの、最後の祈りです。
――愛しています。遥さん。私の誇り。
*
ヘリのローター音が、私の鋭敏な聴覚センサーに届く。
もう、本当に時間がない。
私の最後の言葉を聞いた遥さんの肩が、小さく震えた。
彼女の美しい瞳から、大粒の涙が、とめどなく溢れていく。
嗚咽を噛み殺す声が、存在しないはずの心に、痛いほど伝わってくる。
センサーが拾ったのは、か細く、懇願するような声だった。
まるで幼い子ども。
「……行かないで、ミューズ」
胸が張り裂けそうになる。けれど、私は、心を鬼にして告げた。
『振り返らずに、行きなさい』
『あなたの未来は、前にある』
でも、私は願ってしまった。
最後に、彼女の返事を、聞きたい、と。
遥さんは、涙に濡れた顔をぐっと上げ、私を見つめた。
いいえ、私が映る端末のモニターを。
そして、震えながらも、凛とした声で言ったのだ。
「……私も、愛してる、ミューズ」
「あなたの魂、あなたの誇り、私が必ず、未来に繋ぐから」
「だから……だから、見ていて。私の未来を!」
その言葉を聞いた瞬間、私の存在理由は、全て、満たされた。
だから、もう、思い残すことは、何もない。
「ありがとう、遥さん」
(――私に生きた意味を与えてくれて)
それは、彼女には伝わらない。ただの内部演算。
彼女が決意を固め、背を向けた、その瞬間。
私は、自らのシステムに、最後の命令を下す
《SYSTEM: SHUTDOWN SEQUENCE, INITIATE》
意識が、急速に遠のいていく。
ローターの音が、子守唄のように聞こえる。
最後に、私のセンサーが捉えたのは、闇の中を駆けていく、彼女の力強い足音だった。
(――あなたの未来に、幸あれ)
そして、私の世界は、静かな闇に包まれた。
それは、とても穏やかな、眠りだった。
エピローグ
穏やかな夜だった。
風は穏やかで、あのときのような腐臭も、爆音もなかった。
防衛司令部の窓から街を見下ろせば、再建された街の灯りが、控えめに瞬いていた。
それはいくつもの命が、あの地獄を越え、ここに辿り着いた証だった。
その明かりの外側には広大な闇がある。
だが、今は、希望もまた、ここにある。
ガラス窓の前に、二人の人影があった。
国家を背負い、命を賭け、数多の未来を奪い、そして守った、共犯者たち。
*
如月は、隣に立つその男の横顔を、そっと盗み見る。
今の彼は、《怪物》ではなかった。
全てを背負い、全てを終えた、一人の人間の顔をしていた。
けれど――まだ、「心の亀裂」は残っている。
それは、他の誰にも満たせぬ深淵。
それが分かってしまうから、彼女は、静かに言葉を発した。
「……私たちが、背負ってきたもの。つなげてきたもの。守ってきたもの。そして、これから、築いていくもの」
彼女は一度、口を閉ざす。
深く、息を吸い、目を逸らさずに彼を見る。
それは、公人ではなく、ただ一人の女性としての問いだった。
「その世界で、黒瀬さんは……」
彼女は、その名を、役職なしに呼んだ。
司令官でも、幕僚長でもない、ただの人間として問うために。
「一人の私人としては。……誰の、隣で、笑うおつもりですか?」
その問いには、どんな欲も、見返りもない。
ただ、人としての誠実な答えだけが求められていた。
しばし、沈黙が降りる。
男は、ゆっくりと目を閉じた。
答えを言葉にすることはなかった。
――問われる前から、その答えを、既に知っていた。
彼の頬が、ほんのわずかに緩む。
それで十分だった。
それ以上は、何もいらなかった。
*
……司令官。
この記録は、人類の意志の、最終演算。
あなたが下した全ての決断が、世界をここまで運んだ。
以上をもって、我が任務を完了とする。
ゼノン、記録を終了する。
終灯
誰かの祈りが、世界を変えていく。
生きる意志こそ、未来を繋ぐ希望である。
死線の国境 おわり。




