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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

稲穂

作者: 暖炉まこと
掲載日:2026/02/12

「確かにあの方は私が斬りました」


 目の前の年端もいかない娘は、確かにそう言った。

 髪は長く、途中で束ねているだけで、肌は浅黒いが、しっかりとした四肢を持っている。それ以外は、ただのどこの町にもいそうな娘。

 背もそれほど大きくないものの、対峙しているだけで何か威圧を感じるような気がする、そんな娘であった。


 夏の日差しが肌を突き刺すように暑い日だった。蝉は森で己が生を謳歌せんと鳴き続け、水のせせらぎがその中でわずかに響く。最近では特に暑い日だった。

 そのため、目の前の娘の言葉は聞き間違いかと、佐々木啓蔵は呆気に取られていた。

 慶長十年。あの関ヶ原での大戦ののち、前田家に仕えていた佐々木啓蔵は剣術指南役であり、関ケ原の戦いにも参加した内田才蔵を探すように命じられ、近辺を探して一年になった。内田才蔵の足取りを掴めたのは最近のこと、やっと師の顔を見られると思った矢先での出来事だった。

 隣には同じく呆気に取られている遠藤がいた。遠藤はしばらくして顔を真っ赤に染め、汗がその熱で茹ってしまうのではないかと思うぐらいに怒りを露わにしていた。冷静を装っている佐々木はまだ唖然としたままだったが、すぐさま遠藤を止めた。


「何故止めるか!」

「まだ年端もいかぬ、それも女子ぞ。その女子に怒りのまま斬りかかっては、それこそ武士の名が汚れる」


 佐々木の言葉で、遠藤は納得のいかぬ様子ではあったが、すうっと息を吸い込んで大きく吐きだすと、剣を収める。そしてギロリ、と普段から鋭い目つきをさらに薄くして、娘を睨みつけていた。

 普通であれば、この睨みで女子なぞ震えあがってしまうだろう。ましてや剣を差している相手だ。しかし、目の前の娘はなにも動じることなく、ただ頭を小さく下げただけだった。それも謝罪するわけではなく、門戸を閉めようとするために辞儀をしたにすぎない。


 全く動じておらず、それどころか隙も見当たらない。今遠藤が斬りかかれば、間違いなく反撃されていただろう。どうなっていたかはわからぬが、ただでは収まらなかったはず。

 しかし、このまま引き下がるわけにもいかない。門戸を閉ざされる前にもう一度娘に尋ねた。


「なあ娘よ、そなたが嘘を申しておるとは思えんが、もう一度訊ねる。ここに内田才蔵殿はおられないのだな」

「はい。正確には今はもう、おられませぬ」

「なぜだ」

「だから、私が斬りましたゆえ」

「……小娘よ、法螺を吹くのも大概にせよ。あの内田才蔵殿がお前のような小娘に斬られるわけがなかろうが!」

「落ち着け」


 落ち着き払った、と言えば聞こえが良くなるだろうが、淡々としている娘の態度は挑発とも取られかねない。事実、遠藤は再び斬りかかろうという勢いだった。体格の大きい遠藤を、小柄な佐々木が抑えるのは多少堪える。


「怖気づいたか、佐々木よ! この娘が師を斬ったというのであれば、確かめねばなるまい!」

「師、ですか」


 娘の整った眉が少しだけ動いた。遠藤が怒鳴り散らす。


「そうよ! 貴様が斬ったとのたまう内田才蔵殿は我らが師である! 貴様がどんな卑怯な手を使ったかは知らぬが、師の仇を取らねば気が済まぬというもの。その首をたた切ってくれる!」

「落ち着け、遠藤よ! この場は退け!」

「なぜだ!」

「俺が怖気づいた。この娘に勝てる気がせん」


 この言葉、半分は嘘であり、半分本音であった。この状況においても少しも動じているところを見せぬ娘は尋常ではない。どちらにしても、落ち着かなければ場は収まらぬと佐々木は判断した。


「娘よ、詳しく話を聞きたい。が、その前に落ち着くための水を頂けぬか」

「水であれば井戸から勝手にどうぞ。話すことはございませぬ。では……」


 そう言って娘は門戸を閉じた。拒絶されたわけでも何でもない。ただ、単に話すことが本当にないから、これ以上用事もないだろうと閉めたまでである。

 しかし、遠藤はその態度が気に食わぬのか、門戸をこじ開けようとしようとした。ついに佐々木は遠藤を羽交い絞めにして、井戸の近くまで連れていく。そして井戸の水を汲むと、それを飲ませた。半分浴びせたと言っていい。


「……何なのだ、あの小娘は!」


 ぶはっ、と息を吐き、遠藤は叫ぶ。その声の大きさは家に戻った娘にも十分届きそうなものだった。佐々木はもまた水を飲み、ゆっくり息をついた後に言った。


「わからぬ。わからぬが……今日はひとまず休もう」

「こんな辺鄙な村でか」

「師の仇がおるのだぞ?」

「……わかった」


 すぐさま斬りかかり、主のもとへ報告に戻りたいと見える。しかし、そう簡単にはいかないだろうと、佐々木は感じていた。

 何故かはわからない。だが、あの娘からは何かを感じていた。その何かを掴めるまでは、この場にとどまろうと思っていた。

 丘の上に立てられたあばら家から去り、丘を降りて畦道を歩く。その途中で佐々木は立ち止まり、あばら家のほうを見た。娘が、両手を合わせ、田んぼのほうを見ていた。


 ――なぜそのように祈る。


 娘の動向がいまいちつかめない。農民たちはみな田んぼに出て働いている。その手伝いをするわけでもなく、ただ祈っているだけだ。気味が悪いと言えば、悪い。しかし、表情は自分たちを応対したときよりも大らかに見える。


 ――本当にあの娘が斬ったのか。


 確かめねばならないだろう。そして事実であれば、あの娘を斬らねばならない。


 ――斬れるのか、自分に。


 何か恐ろしいものを見たかのように、佐々木の体が震えてしまう。だが、すぐに深く呼吸をし、平静を取り戻そうと努めた。



 娘の家もあばら家だったが、借りた空き家もまたあばら家だった。最低限寝られるだけの布団は持ち込めたが、雨が降れば隙間から入ってくるだろう。それでも我慢するほかない。空き家であればもっといい場所があるものを、と遠藤は不満を零していたが、それでもこの場所を借りられただけでも大きい。


「気に食わぬな」


 遠藤がぼやく。川で取ってきて、囲炉裏で焼いた魚にかぶりつき、ぎろりと佐々木のほうをにらみつけた。佐々木はあくまで平静に、囲炉裏の炎を眺めていた。


「おい、佐々木」

「む、なんだ」

「さっきからなんだ、ぼおっとしおって。わしが敵であればすぐに首が落ちるぞ」

「それほど落ちぶれてはおらぬ」

「ではなんだ」

「あの娘のことを考えていた。次に師のことを考えていた」


 師である内田才蔵は普段人に怒るようなことをしない、大らかな人物だった。大らか、といえば聞こえが良いが、感情がない、とも言えた。何を教えるのにも淡々と、ただ語るように教えるから、師のように強くなれたものはいなかった。

 それでも師が遠藤のような男にも慕われ、前田家の剣術指南役に収まっているのは凄まじい剣の達人であったこと、なにより時折見せる優しさのようなものが、男としての気持ちよさを感じさせていたのだと思う。


 あの娘に感じていたものはこれなのか?

 いいや、師と重ねてはならぬ。

 あの娘はただ感情の見せないだけの小さな娘だ。

 師とは似ても似つかない。そのはずなのに、どこかにちらつくのはなぜだ。

 やはりわからぬ。


「何を考えようが構わぬが」


 遠藤が床に刀をドンと突き刺した。床が割れてしまうのではないかと思う勢いだったがそこは加減できているらしい。静かに佐々木は遠藤のほうを見た。


「あの小娘が師を侮辱したのは事実。やはり斬捨てなければ気が済まぬ」

「ならば勝負を挑んでみるか?」

「首を縛り上げて主殿のもとへ連れて行けばよかろう。そこで試合をさせれば嘘か誠かわかる」

「乱暴な」

「それほどのことをあの娘がしたということだ」


 嘘か誠かは別としてな、と遠藤は付け足す。この男にとって、もはや娘が師の仇かどうかはどうでもいいのだろう。師を侮辱された、いやどちらかと言えば自分を侮辱されたことに怒りを感じている。

 この男の良いところは直情なところだが、剣術家としては落ち着きがない。事実、主に師の捜索を任されたとき、お前だけでは心もとないと言われて、そこで同行人として選ばれたのが佐々木だったのだ。出立の時は自分に不平不満をこぼしていたものだと、佐々木は思い出す。


 遠藤の思いはわかる。しかし、自分はどうだ。


 あの娘を斬捨てたいと思っているか。否、思ってはいない。たかが小娘だ、と思っているのもあるのだが、師を殺したとして、本当に師がただむざむざと殺されるだろうか。

 考えれば考えるほどわからなくなる。こういう時は寝るしかない。


「明日、村の衆に訊ねてみよう」

「訊ねるとは」

「まず本当にここに師が訪れていたのか、ということ。師と娘はどういう関係だったのか、ということだ」

「そんな悠長な……」

「師も仰っていただろう、彼を知り己を知れば百戦殆からず。孫子の言葉だったか、今我々は娘のことを何も知らぬのだ」


 遠藤は納得していない様子だったが、憮然とした顔をして寝ころんだ。「布団はいらぬか」と言う前に眠ってしまった。全く、こういうところは気持ちの良いのだが。

 ともかく、娘のことを知らねばならぬだろう。どれほどの腕か、どういう性格なのか、師とはどのような関係だったのか。この村で何をしているのか。

 佐々木は自分の分の布団だけを敷いて、眠りについた。今日は旅疲れもある。少しでも体力を戻さなければ。そう考え、眼を閉じるも、師との稽古の日々や娘の顔が思い出され、なかなか寝付けなかった。



 佐々木が起きたのは朝日が昇り始めたころだった。気合のこもった声があばら家の外から聞こえてきたため、佐々木は着替えをし、門戸を開けてみると、刀を振っていた遠藤の姿があった。


「おう、遅いな」


 佐々木に気付いた遠藤は刀を振るのをやめ、手拭いで汗を拭く。朝とはいえ、夏の暑さは湿気も相まってねっとりと体に粘りつくかのようだ。遠藤も汗だくになっている。


「村の衆に訊いて回るのだろう? もうあの者たちは仕事に出ているぞ。まったく、働き者だことだ」

「そうだが。遠藤、お前は先にその汗をどうにかしてこい」

「おう、川の水でも浴びてくるか」


 刀を収め、遠藤は上半身を裸にしたまま川に向かっていく。まったく、と佐々木は呆れながら、丘の上を眺めた。あの娘はどうしているか、と思ったが、昨日と変わらず、村を見下ろせる場所で合掌をしている姿があるだけだった。

 ああして、ずっと村を見守っているのだろうか。こちらには気づいていない様子だ。ただ田んぼに向かって何か、無事を願っているような気がしていた。


 遠藤が川から戻ってきて、着替えを済ませたのち、二人は畑仕事をしている村の衆のもとへと尋ねようとした。村の衆は警戒するかのように二人を見ていたが、遠藤が睨みを利かせたのか、すぐに視線を下にそらしていた。


「お侍様がこんな百姓に何の用だね」


 村の衆の中から一人、一番年長らしき男が言葉を発した。


「訊ねたいことがある」


 遠藤が覇気を込めてずいっと村の衆に近づく。村の衆はそれぞれぼそぼそと何かを言い合っていたが、笠を上げて、遠藤に言う。


「何も話すことはない」


 そう言って村の衆は散り散りに分かれて、また田んぼの仕事や家へと戻っていった。遠藤は顔を茹でた蛸のように赤くして叫び散らす。


「百姓風情が!」

「やめろ、遠藤!」


 怒りに任せ、刀を抜こうとした遠藤を佐々木はいさめる。他の領主の地で問題を起こせばこちらの立場が危うい。それに、ここのところ遠藤は焦っているようにも思えた。もともと感情に身を任せるところがある男だ。ここは控えさせたほうが良いだろう。佐々木はそう思い、「先に宿に戻って訓練でもしていろ」と告げる。遠藤は何かを言い返そうとするも、言葉にならず、ただ土を蹴ってその場から去っていった。


 佐々木は田んぼの近くまで歩み寄る。稲がもうだいぶ成長をしている。手に取ってみると花のようなものもついていた。こうして見ていると、いつも食っている米がこのような姿をしているのをまじまじと見るのは初めてな気がして、嬉しくなってきた。


「下手に触るな」


 百姓の一人が冷たい声で言う。後ろを向いているのによくわかるな、と佐々木は思ったが、ひとまず稲の花を手から放し、その百姓に声をかける。


「お願いしたく。丘の上の娘について教えてもらいたい」

「だから、話すことはないと言っておる」

「どうしてでしょうか?」

「お前さんたちはあの娘を殺しに来たのだろう」


 トクン、と心臓の鼓動が聞こえてきた。だが平静を装い、佐々木は言う。


「それはわかりませぬ」

「わからないじゃあ、だめだ。あの娘は殺させねぇ」

「そこまで肩入れするのはなぜですか?」

「それも話すつもりはない」


 頑なに心を開こうとしない。これではまさに話にもならない。であれば、歩み寄るしかないだろう。


「では、何か手伝えることはないでしょうか?」

「なんだ? 恩を売って聞き出そうって魂胆か?」

「そういうわけではござらん。我々が百姓の心を知らぬというのであれば、知ることで何かが分かるというもの。聞き出さなくとも、分かるというものです」

「……勝手にしろ。薪割りの人手が足りていないって聞いたから、そっちへ行け」

「感謝いたす」


 佐々木は頭を下げ、その場を後にした。ふと振り向いてみると、不可思議なものを見る目でこちらを見る百姓たちの視線が集まっていた。もう一度頭を下げ、薪割りの仕事をする。

 こんなこと、たまにしかやらないのだが、案外集中すれば雑念も晴れて気持ちが良いものだ。カーン、という薪木が割れる時の小気味いい音も心地よい。


「何をしているんだ、お前は」


 と、遠藤がやってきて呆れた顔をしてこちらを見ている。


「見ての通り薪割りだが」

「百姓の仕事を手伝ってどうする。我々の任務を忘れてはおらんだろうな」

「わかっておる。だから薪割りをしている」


 訝しげに遠藤は腕を組んで佐々木を見つめていたが、ケッと吐き捨てるとその場から去っていった。

仕方がない、このようなことからでも始めなければ、事態は動かないと思ったのだから。無理に手伝えとも言えない。佐々木は自分が信じる通りにやるしかなかった。


 数十本薪を割ったのち、少し息をついていると、何か気配を感じた。自分に向けられたものではない。思わず反射的に刀を手にしたが、後ろを振り返ってみると、まさに飛ぶように、森を駆け抜ける娘の姿があった。

 何かあったか。佐々木は薪割りの仕事を置いて、すぐさま娘を追いかける。

 娘の足は、確かにしっかりした四肢ではあったものの、考えられないほど疾い。まるで森の中など庭のように駆け抜けていく。だんだんと距離を放されていくが、なんとか追いついてみせると、そこで娘は破落戸のような男たちに斬りかかっていた。盗人だろうか、武装もしていて、娘より一回りでかい男は野太刀を軽々と振り回して応戦しようとする。が、娘はその野太刀をするりとよけ、足を斬りそのままひるんだところに胸元を突き刺す。

 加勢するか、それとも見守るか、と一瞬思ったが、佐々木の体はすでに行動を決めていた。刀を抜き、破落戸の一人に斬りかかる。娘は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの無感情な顔に戻ると、破落戸を一人、二人と切り裂く。

 負けじ、と佐々木も応戦をする。野盗狩りぐらいの任務であればこなしていたから、このぐらいの相手であればさほど問題もない。どちらかといえば、娘と競い合っているような雰囲気でもあった。


 そして気が付けば、破落戸たちの死体だけが転がっていた。刀についた血を払い、返り血を近くの川で拭う。


「どうして追ってきたの? ずっと、見張っていたの?」


 娘が珍しく声をかけてきた。佐々木は首を振り、娘の顔に着いた返り血を拭ってやった。


「薪割りの仕事をしていたら、お前があわただしく森の中を走るのを見て、何事かと思ったのだ。そうしたら、このありさまというわけだ」

「……こいつらは、ここらで悪さをしていた野盗よ。近くまできているって話を聞いたから、私が退治するはずだったの」

「それにしては問答無用だったな」

「こういうやつらこそ問答無用よ。言葉なんて持たない。ただ襲い、殺し、食らうだけ」

「……わかったようなことを申すな。まるで」


 まるで何度も戦ってきたかのような。その言葉を呑み込み、ただその場から立ち去る。娘も何も言わずその背中を見送るだけだった。

 薪を割り終え、村のそれぞれに配る仕事もこなした時、一人の女子が声をかけてきた。


「稲ちゃんのことを探っているんだって?」

「稲?」


 それは、あの娘の名前だろうか。ひとまず頷いてみせると、女子は一言だけ告げた。


「あの子はこの村の子じゃないよ」


 そう言って、家の中に逃げるように入っていった。薪割りが功を奏した、のかもしれない。ひとまず見当たらぬ遠藤を置いて、再び佐々木は稲と呼ばれた娘の家まで足を運んだ。今日も外で田んぼに合掌をして祈っていたが、佐々木に気がつくと、一つ溜息をついてみせた。


「稲、と呼ばれているそうだな」

「はい」

「この村の人間ではないと聞いた」

「……そうですか」

「別に話さなかったことを問い詰めたいわけでもないし、今は師のことも考えていない。ただ……」

「ただ?」

「そなたという人間にただ興味があるだけだ」


 佐々木は笑みを浮かべた。愛想をふるまっているわけではない。ただ、少しでも心を開いてくれればと思っただけだ。

 佐々木の笑みを見ていた娘、稲は少しの間じっと無感情のまま佐々木を見つめていたが、ゆっくりと息を吐くと、門戸を開いた。


「こんなところで立ち話するより、中でゆっくりお話ししましょう」


 幾分か稲の顔が年相応の女子らしいものになったような気がした。佐々木は誘われるがまま中に入る。佐々木と遠藤が寝泊まりしているあばら家よりかは少し広いように思えるが、それでも土壁には穴が開いていて、窓の障子も破れているところもあった。


 ――こんなところに女子一人で。


 あの剣の腕であればいらぬ心配かもしれないが、それでもあまり好ましくは思わなかった。なぜこのような場所で一人、佐々木は疑問が尽きぬが、囲炉裏のそばに座って稲を待った。稲はそばに刀を置きながら座り、じっと何も入っていない囲炉裏の鍋を見つめていた。あの時の少女らしい顔つきはなくなり、また無感情のものになっている。


「何を話せばよいのでしょうか」

「……そうだな、最初にそなたのことを話した村の者を責めないでくれ、と前置をさせてほしい」

「それはもう。別に話したところで何かが減るわけでもありませんから」

「そうか。では、生まれはどこなんだ?」

「近江のほう、と記憶しております。正確なところはもう覚えておりません」

「近江……またここから離れておるな。どうして、この村にやってきた」

「それをお話しするには、順序を立てなければなりませぬ」


 稲は遠くを見るように上目遣いで虚空を見つめていた。昔のことを思い出すためだろうか、佐々木は言葉を待った。しばらくして静かに目を閉じると稲は語り始める。


「私が居たところは、風が強く、まるで潮騒のような音が聞こえるところでした。生まれてすぐに母はおらず、父が男手一つで育ててくれました」


 淡々と語り続ける言葉。しかしどこか風景が思い浮かぶ、不思議な感覚だった。


「大戦が始まるぞ、と父が意気込んでいたのは今でも覚えております。どこからか立派な鎧などを買って、足軽から武士に成り上がって、お前を楽させてやるぞ、と。その姿には一抹の不安がありました。戦など行かなくてもいい、父には近くにいてほしい、と願ったことも覚えております。しかし、戦は始まってしまった。父は村を出て兵として軍に加わりました」

「関ヶ原での合戦か……稲の父は西軍方の陣営にいたのだな」

「そのようです。私は一人で不安でしたから、黙ってついていきました。途中で見つかり、炊き出しなどを手伝うという条件でついてゆくことを許されました。大戦がはじまって、しばらくして激しい秋雨が降りました。その時、心臓が鳴って、なにか言葉にしがたい、抑えられない気持ちが心に生まれました。私はとてもその場にいられず、思わず飛び出していきました。そして、気が付けば戦場に向かっていました。その風景はまさに地獄でした。逃げ惑う足軽たち、それを追いかける武士たち。倒れ伏して、ひどい形相で死んでいる者たち。なかには……人の形を成していなかったものもいました」


 幼き頃にそのような地獄を見てしまったのか、と同情をしそうになるが、それがどれだけ意味があるのだろうか。佐々木は胡坐をかいていたのを静かに正し、耳を傾けた。稲の体は、少しだけ震えているようだった。


「父は、父はどこだ、と探し続けました。大雨の中、雨音でかき消されるのも承知で叫びました。そうしたら、見慣れた鎧が見えました。父だ、父がいる、そう思った瞬間、父は倒れました。私は、すぐに駆け寄りました。父はもうすでに息絶えており、私の言葉にも何も応えてくれはしませんでした。ぐるぐると、視界が回るようでした。その時一人の武士が近くにいました。この男が、この男が父を殺した。そう、分かった時には」


 稲の拳がぐっと握られる。初めて感情を見せたかのようだった。


「父が落とした刀を拾おうとして、でも重くて、満足に振るどころではなかった。でもその時のことを覚えております。その武士に「殺してやる」と、ずっと叫んでいた。そうしているうちに、怒号が聞こえてきて、武士に抱えられて、その場を離れました。武士は逃げるように走り、私はというと「殺せ」と叫んでいました。おとうのところへ行くんだ、と」


 口調は淡々としているのにもかかわらず、ありありと光景が浮かんでくるかのようだった。


 佐々木は言葉を失った。


 師である内田才蔵が関ケ原の合戦に参加していたのは知っていたが、この娘を助けるために戦場から逃げ出したなどと、信じがたいことだった。

 だが、この娘が、稲が嘘をついている様子もない。本当に、そうであったかのように、語り続けた。

 最後まで聞き続け、佐々木は不思議なほど落ち着いている自分に気付いた。怒りもなにもない。ただ、そこにあるのは安堵のような気がした。


「……師の、内田才蔵殿の墓はあるのか?」

「あります。簡単なものだけれど」

「見せてはくれぬか」

「ただの石を積んだものですよ」

「それでも良い」


 稲は少しだけ考えるそぶりを見せたのち、小さく頷いた。そして外に出る。


 家から少し歩いたところに、石が積まれていた。本当に簡素ではあるが、花が添えられている。添えたのは稲だろうか。それとも別の人間だろうか。わからぬが、佐々木は墓前で膝をゆっくりおり、合掌をする。


 ――本当に亡くなられたのか。


 これを遠藤が知ったらどうなるだろうか。あの頑固の者のことだから、信じぬだろうな。そう考えながら、立ち上がり、稲にただ頭を下げて別れた。振り向いてみると、稲はすでに家のほうに戻り、田んぼにむかって祈っていた。



 佐々木は稲から聞いた言葉を心の中で反芻しながら、借りている家の前で村を一望していた。

 稲の話によれば、この村に訪れたときには、戦火に巻き込まれ、落ち武者たちによって荒らされ、死にかけていた村だったらしい。それを救ったのが師であったと稲は教えてくれた。


 ――この村を救う事に、何を思い、何を感じていらっしゃったのですか。師匠。


 語り掛けるも、答える者はいない。もうすでにこの世にはいないのだ。

 その願いも、その思いも、もはや稲からの言葉でしか伝わることはない。いや、稲とて何を考えていたかわからなかったと言っていた。ただ、この村を生かすこと、自分を鍛え生かすことで罪を償おうとしていたのではないかと。


 果たして本当にそうであろうか。


 あの時、稲に訊ねたが、稲も何も答えられなかった。ただの推測にすぎない、と稲も最後は答えるしかなかった。

 何がそうまでさせたかったのか。わからないまま、帰路につきたくはなかった。


「……佐々木」


 と、遠藤の低い声が聞こえてくる。佐々木はハッと我に戻り、横を見る。そこには腕を組んで、鬼の形相をしている遠藤の姿があった。


「あの娘に出し抜かれたか。精気でも抜かれたか」

「まさか……と言いたいところだが、そうかもしれん」


 そう誤魔化すように言うと、遠藤は急に胸倉をつかんで引き寄せてくる。遠藤の荒い息が、佐々木にもわかった。


「あのような娘に籠絡させられるとは、武士の恥にもほどがある! この場でその首落としてやろうか」

「落ち着け。籠絡されたわけではない。ただ……」

「ただ、なんだ!」

「師の墓を見た。それで十分と思った」


 遠藤の怒りは頂点に達したと見える。気が付けば、佐々木は倒れていた。頬に熱さを感じるから、殴られたのだろう。切れた口の血をプッと吐き出すと、遠藤のほうを見る。怒りは収まっていないのか、刀に手をつけようとしていた。


「なぜだ、なぜこのような情けない男が、一番弟子なのだ!」


 遠藤は嘆くように叫ぶ。一番弟子、そうだ、自分はそうだった。だからこそ、同じ剣を学んだ稲のことはわかってしまう。稲もまた、恨み恨みを募らせながらも、いつかは殺してやろうとして、師の剣を学んだに違いないだろう。


「遠藤よ、あの娘から聞いた話を聞きたくはないか」

「聞きたくもないな!」

「そうか。ならば、帰ろう。確かにこの場所に師はいた。だが、剣を捨て、果てた。そう報告する」

「馬鹿なことを! 真意を糾さぬまま引き下がるというのか」

「ならばどうするというのだ!」


 佐々木は初めて怒りを覚えた。稲に同情しているわけではない。いや、多少はしているのかもしれないが、それでも、師の思いに耳を傾けようともしないこの男を、同じ剣の道を歩んでいると思いたくなかった。佐々木も刀に手をかける。必要とあれば、この男と決闘せねばなるまい。


「あの娘をかばいたてるつもりか!」

「そうではない!」

「佐々木よ、お前がそれほど愚かな人間だとは思わなかった。帰りたければ帰るがいい。逃げたければ逃げればいい。ただ、敵の前で逃げるなぞ、武士の恥ぞ!」

「武士の恥か」

「そうだ」

「なれば、師は関ケ原で逃げた。その師も同じように詰ることができるか?」


 佐々木の言葉に、遠藤は言葉を詰まらせた。それでも刀を抜こうとしている。佐々木は、遠藤が抜けば斬るつもりだった。たとえ同門であっても、許せることと許せないことがある。

 一触即発だった。だが、先に引き下がったのは遠藤だった。遠藤は「くそぉ」と吐き捨てて、その場に座り込む。佐々木は小さく息を吐いた。この男は冷静ではないだけ、できれば斬りたくはない。


「……いまこそ、師の話をお前も聞くべきだ。それからどうするかを決めるのもよかろう」

「わかった……。聞いてやる」


 遠藤の口ぶりは変わらないが、少しは冷静になれたと思われる。これならば話してよいだろうと、佐々木は彼の前に座り、稲から聞いた話をすべて話した。稲の父を殺したことも、稲を連れて関ケ原から逃げたことも、この村を守ったことも。稲に剣を教え、その類まれなる才能を見出したことも。そして、稲の寝込みを襲い、逆襲され死んでいったということも。


「そのような卑怯な真似を師がすると思うのか?」

「してほしくはない。だが、稲には「強くなった」と言い残したそうだから、考えがあってのことだったのだろう」

「やはり信じられん」

「お前という男は本当に頑固だな」

「お前が簡単に信じてしまうのだ。確かめねばなるまい」

「確かめるとは、なんだ」


 遠藤はそれ以上何も答えることなく、刀を持ってどこかへと歩いていった。佐々木は「遠藤!」と叫び、止めようとしたが、もはや何も聞こえていない様子で、遠藤は佐々木の前から消えていった。


 それから数日が経った。

 遠藤はまだ帰ってこない。村中を探し回ったが、鬼の形相をした侍が森の中に消えていったという話しか聞けず、森の中を探したが見つかるはずもなかった。


「一体どうしたというのだ」


 佐々木は思わずつぶやく。稲もこの数日見かけなかった。まさか、と思うが。

 もう一度探しに行こう、と胸騒ぎがして立ち上がった時、門戸が乱暴に開いた。そこには胸元に深い裂傷があり、息も絶えそうな遠藤の姿だった。


「遠藤!」

「佐々木よぉ……あの娘は強いなぁ」

「……戦ったのか」


 汗も引ききって、もはや遠藤の顔には死しかなかった。もはや、手遅れだろう。


「修業をし、なまった、体を鍛え、なおし、あの娘を襲った」

「馬鹿なことを……!」


 佐々木は首を振った。しかし、遠藤は笑った。血を吐きながら笑っていた。

 この男は何を考えているのだろうか。佐々木には分からなかった。分からなかったが、何かが自分の中で生まれようとしている。


「ああ、馬鹿な、ことだ。それは村の衆にも伝わっているぞ……あの才蔵の弟子が、娘子を襲い、返り討ちに、あった。情けないことだ。どうする……? このまま逃げかえれば、後の世にすら、内田才蔵の名は汚れるぞ……」


 さあ、どうする、と言って、遠藤は倒れ、息絶えた。遠藤が死んだこと。暴走を止められなかった自分の情けなさを感じ、そして遠藤という男のことを思い出した。気性が激しい男だったが、気持ちの良さもあった。師にも愛され、いつか名を轟かせると意気込んでいた。


 あわれというにはあまりに無残すぎる。同情のしようもないほど、馬鹿なことをしたというのに、そういうには、ただあまりに。


 ただ、このまま帰るだけでは遠藤は報われぬだろう。おそらくそう遠藤が仕向けたのだと思うのだが、冷静に考えられるほど、人ができているわけでもない。悟っているわけでもない。

 佐々木は刀を持ち、立ち上がる。無残な遠藤の死体を家の中で寝かしてやり、「少し待っていろ」と告げる。そして、まっすぐに稲の家に足を運んだ。

 稲は今日も祈っていた。遠藤のことなど何も感じていないようにも見える姿に、佐々木は己の中から吹き上げるものを感じた。血液が、逆流するような感覚。


「稲ッ!」


 佐々木は叫んだ。稲はただ、ゆっくりと佐々木のほうを見る。


「はい」

「遠藤を斬ったのはお主で相違ないか」

「お連れのお侍様であれば、確かに私が斬りました」

「お主は、俺の大事なものを二つも奪った」

「そうなりますね」

「なぜ、そのように冷静でいられる! もはや怒りもなにもかも捨てたか!」


 佐々木は叫んだ。

 すぐにでも刀を抜こうとも思った。だが、手が震える。怒りだ。情けない自分への怒り、遠藤を斬って何も感じていない稲への怒り。二つの怒りが佐々木を支配しようとする。


「怒りも悲しみも、恐れも喜びもあります」


 稲はそう言って、その場で土下座をした。佐々木はがしりと、刀の柄を掴んだ。


「秋まで、秋までお待ちくださいませ」


 稲の言葉は意外なものだった。佐々木は毒気を抜かれたように、震えが止まった。なぜこの娘は、こうも弱弱しく嘆願しているのだろうか。


「勝負もいたします。その怒りも何もかも受け止めるつもりです。しかし、秋まで、どうかお待ちください」


 稲は地面に頭を付け、何度も「お待ちください」と嘆願した。佐々木は言いようのない気持ちになる。ふいに、彼女の後ろにあるものに気が付いた。


 ――ああ、そうか。


 この村に生きる者たち。そのすべてをこの娘は背負っている。だがそれは自分とて同じだ。馬鹿な真似と言われても仕方ない遠藤の想いでさえ、自分は背負っている。帰りを待ち門徒たち。主君の想いも、自分は背負っている。


 だからこそ、正々堂々と戦いと思った。


「わかった、秋までだ。それ以上は待たぬ」


 佐々木は荒くした息を抑え、冷静に戻った。


「……ありがとうございます、佐々木啓蔵殿」

「……初めて俺の名を呼んでくれたな」


 そう言って、佐々木は踵を返し、歩いた。歩いて、遠藤と同じく、森の中へとこもった。

 稲が逃げるということは絶対にありえない。

 そういう確信があった。必ず勝負に応じる。

 だが、その時はどちらかが死ぬ時だ。

 どちらの想いが強いかどうか、その勝負になるだろう。


 一閃。


 刀を抜き、薙ぐ。

 ギラリと刀身が光った。それは自分の中にある恐れや憎悪を見せているのかもしれない。


 ――雑念を捨てよ。ただひたすら、相手に集中し、一刀するだけ。


 師の教えを反芻する。

 剣に迷いがあれば、そこを付け込まれる。怒りや恐れなどの感情があれば、どう動くか読まれてしまう。だから、刀を抜いたら、まさに無の境地に立つこと。

 それができたのは門徒の中でも佐々木だけであった。その佐々木でさえ、感情に飲み込まれようとしている。


 ――落ち着け。


 佐々木は川の水を顔にぶちまけ、頭を冷やす。稲への想いは、すべて捨てるのみ。ただひたすら一刀に籠めるのだ。



 秋になり、佐々木は森から戻ってきた。もはや落ち武者のような風貌で、村人たちは隠れて様子を見るだけだったが、気にせずに稲の家へと向かっていった。


「お待ちしておりました」


 稲は道着姿で、腰には刀を差し、まさに自分と対峙するためにいると言ってもいい状態だった。何か言葉を投げかけようと思ったが、やめた。そうすることで、感情が生まれてしまうと思ったからだ。


「ここでは村の皆を怖がらせるだけです。それに……」


 畦道であるその場所から、稲は田んぼを見た。稲穂が実っている。


「せっかくできたあれらに、私たちの血で穢したくない」


 稲はそう言って踵を返し、歩き出す。佐々木も一定の距離を保ったまま追いかけた。その途中でふいに稲穂を見る。これが、秋まで待ってほしいと言った理由か。

 怒りも悲しみも、恐れも喜びもある。

 あの時、稲はそう言った。

 稲穂が無事に実ったことの喜びを、村の衆と分かち合いたかったのか。それとも、今から死ぬかもしれない恐怖を感じているのか。なぜ自分がこのような理不尽な目に遭わなければならないのかと、怒りを感じているのだろうか。また斬らねばならぬと、悲しんでいるのだろうか。

 わからない。今の佐々木には分からないでいた。

 ただ、遠藤と師の仇を取る。そうでなければ浮かばれないものもある。

 理不尽かもしれないが、それが武士道というものなのだ。

 稲の家の前にたどり着くと、そこで稲は呼吸を整え、刀を抜いた。無感情な顔がそこにある。佐々木もまた、刀を抜き、感情を押し殺した。

 お互いに、しばらくの間動かなかった。動けなかった、と言ってもいい。

 佐々木は先手を打った。一気に距離を詰め、ただ一刀で切り裂こうとする。稲は体を横にそらし、それを避け、刀を振り下げてきた。佐々木は避け、斬りかかり、また再びよける。一進一退の戦いが続いた。お互いの実力は同じ。


 なれば、何が勝負を決めるのか。佐々木の一刀が、稲の頬を斬った。だが浅い。佐々木はさらに斬りかかる。気が付けば肩を斬られていたが、気にすることなく斬りかかった。


 その時だった。稲から何かが膨れ上がったような気がした。感情が生まれる。


 その感情の奔流に流されそうになると、足が止まりそうになる。何がそうさせているのかはわからない。だが、ただ一つの感情が生まれているのは確かだ。そして、稲の背後には、師の姿があった。確かに、そこには内田才蔵の姿があったのだ。


 佐々木は刀を振った。稲も刀を振り下ろす。お互いの刀がぶつかり、そして折れた。

 佐々木は距離を取る。稲も佐々木も、お互い脇差に手を取っていた。だが、その速度は稲のほうが早い。一瞬、ただの一瞬だけだったのかもしれないが、それでも十分だった。


 佐々木はその場に膝をつき、脇差から手を放した。


「紙一重」


 そうつぶやきながら天を見上げる。


「紙一重で、俺の負けだ」


 どうっと、後ろに倒れた。青空が広がり、そこには蜻蛉が何匹も飛んでいる。負けたというのに、なんという清々しい気分だろうか。


「今分かった」


 稲が脇差を収める音を聞いてから、佐々木はつぶやいた。同じ剣を学んだというはずなのに、佐々木にはなく、稲にはあった感情の奔流。


 生きたいという強い思い。


 ただそれだけだったのだ。ただそれだけでも、強い。脇差を抜くのを一瞬遅れたのも、その感情に負けたからだ。


「好きにするがよい」

「……無駄な殺生はしたくありません」

「よく言う」


 佐々木は起き上がった。稲は斬られた頬をさすりながら、笑みを浮かべていた。娘子らしい、明るい笑みであった。



 勝負ののち、村は平穏を取り戻した。稲の刈り入れが始まっているのを、稲と共に眺めていた。稲は嬉しそうに頬を緩ませながら合掌をしている。


「お主の強さは、生きていたい、という思いからだったのだな」


 佐々木はそうつぶやきながらも、自分も田んぼに向かって合掌をする。この米が、自分を生かしていることを当たり前のように思っていた。だが、そこには人の手がなければならず、その人も弱弱しいものだ。誰かが守らねばならぬ。そしてそのためには何が何でも生きねばならぬ。


「私がずっとあの方に恨みを持っていて、それでもあの方は私を生かそうとした。一度は死のうとも思っていましたが、この男を殺すまでは生きてやると思い、ずっと剣を学んでおりました」


 その時のことを思い出しているのか、稲はうつむいていた。


「あの時は本当に修羅、というべきでした。ですが本当に生きたいと思ったのは、飢餓が訪れた時。村のどこにも死が漂っていて、全体がそこに向かっているようだった。だけれど、あの人だけはあきらめず、奔走してくれた」

「そうだったのか」

「そこで思った。生きて生きて、この方と一緒に村を守ろうと思った。私程度にできることは限られているけれども、それでも生きねばと思った」

「……強いな」


 改めて思った。俺に足りなかったのはこれか、と佐々木は思う。死んでも、相討ちになってでも無念を晴らそうとしていた。だが、死にゆく思いより生き抜こうとする思いは何よりも強い。そう思い知らされた気がする。


「佐々木様。一つ隠していたものがございます」


 そう言って、稲は家の中に入っていった。そして一つの箱を開け、中身を取り出す。そこには師が使っていた刀と脇差、そして手紙である。誰に宛てたとも書かれていない、もしかすれば日誌のようなものかもしれない。

 そこにはこう書かれていた。

 この娘、稲にもさんざん教えられたことがある。

 人を斬ることとはどういうことか。

 恨みを重ねていくこととはどういうことか。

 そして、何が何でも生きようとするということはどういうことか。

 私には分からなかったが、しかし一つ確かなことはあった。

 稲のような強さがどこから来るか。

 それは、たった一つだけのこと


「生きたい」

「今まで隠していてごめんなさい。私も学はないし、それは読んだことがないのだけれど、何が書いてあるの?」

「……ただ、生きたいと書いてある」


 嘘はついていない。師は生きようとしていた。だが、最後の最後で、稲への想いが捨てきれなかった。だから、夜な夜な襲い掛かり、彼女が一人で生きられるかどうかを確かめたのだろう。師の思う通り、いや思う以上に稲の強い思いが勝った。だからこそ、「強くなったな」と言い残して果てたのだろう。

 佐々木は不意に立ち上がり、稲の家の裏にある師の墓に向かった。そこに墓が一つ増えていた。


「勝手なことをしてごめんなさい」

「これは……そうか、遠藤のやつのか」


 遠藤よ、見ているか。情けない男がここにいるぞ。恥をかいた男がいるぞ。

 でもどうだ、清々しい気分だ。

 勝負だけではない。武士の生きる道はそれだけではないことを、この娘は教えてくれたぞ。そしてそれを知ったのは、我らが師なのだ。

 胸を張ろう。師は逃げたのではない。

 生きようとしたのだから。



 もう一月して、佐々木は村を出立することにした。これ以上居座っても邪魔になるだけであったし、冬が訪れる前には前田家領地に戻りたかった。戻って、主君に事の顛末を話すつもりだった。


「行かれるのですか」

「ああ。世話になったな、稲よ」


 稲の頬が少しだけ赤くなっていた。寒くなってきたのだろうか。

 稲はただ首を振って言う。

「何もしていません」

「いいや……そんなことはないさ」


 佐々木は歩き出そうとする。しばらく歩いて、振り向いた。稲が頭を下げている。


「二度と会うこともないだろう! すまぬが、墓を頼む!」


 佐々木はそう叫んで、再び歩き出した。このことはありのまま主君に話すつもりだ。稲のことはなるべくはぐらかすつもりだが、それでどう詰られようが、処遇が下されようが後悔はない。自分は負けたのだ。

 ただ、死にたくはない。死ねと命じられたら、もしかすれば。

 佐々木はそんなことを考えたが、すぐに思い直した。

 どうにかなるだろう。

 今は、あの稲穂と同じ名をもつ女子の無事を祈るだけだった。


(了)

久しぶりの復帰だったので昔新人賞に出した短編を投稿してみました。

楽しんでもらえたら嬉しいです。

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