第11話:『止まらない鼓動、見つめる瞳』
「――チッ。忌々しい、幻覚だ」
店長は、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
脳裏に焼き付いた、あの時計塔の上で笑う「黒い影」の残像。
15年という偽りの年月をかけて、店長の心に染み付いた絶望の澱は、そう簡単には消えてくれない。
(あいつが、また動き出したのか……?)
重い沈黙が店を包み込みそうになった、その時だった。
「おーい店長!
湿っぽい顔してんなよ!
そろそろ次の、その……技術的なところを教えてくれよッ!!」
思考を強引に引き裂くような、アッシュの野太い声。
見れば、赤髪の青年がカウンターに身を乗り出し、鼻息荒く期待の眼差しを向けていた。
店長は一瞬だけ呆気に取られたが、すぐにいつもの不機嫌な面に塗りつぶす。
そして、アッシュの額を指先でパチンと力任せに弾いた。
「いってぇぇッ!
なんだよ今の!」
「調子に乗るな、小僧。
お前さんは、まだ基礎の『き』の字がようやく形になっただけのヒヨッコだ。
実戦の技術を語るには、百年早ぇ」
(……たく。ローヴァンはもっと頑丈だったぞ)
口には出さず、店長はフッと笑う。
目の前の赤髪は、亡霊ではない。
今を生きる、騒がしくて愛すべき馬鹿弟子だ。
「ッ……!
わーったよ!
見てろ、その重心の特訓だっけか?
そんなもん、ソッコーでモノにしてやるぜッ!」
悔しそうに額を押さえながらも、アッシュの瞳にはさらに闘志が燃え盛る。
その真っ直ぐすぎる熱にあてられたのか、
店長の口元が、本人も気づかないほど僅かに緩んだ。
「ふふ、アッシュは相変わらずだね」
クロが呆れた様子で、けれどどこか嬉しそうに目を細める。
「あ、ディルー。
コーヒーのおかわりをもらえるかな?」
「は、はいっ!
すぐに!」
呼ばれたディルーの声が、一段高く弾んだ。
彼女は鼻歌を隠しきれない様子で厨房へ戻ると、
丁寧に豆を挽き、お盆の上に「小さな皿」をそっと乗せた。
「お待たせしました、クロ君。
……あの、これね、新しく焼いてみた試作のクッキーなんだけど……
もしよかったら、味見して感想聞かせてくれるかな?」
コーヒーの横に添えられたのは、
一生懸命型を抜いたのが伝わってくる星型のクッキー。
「ありがとう。
ちょうど甘いものが欲しかったんだ。いただきます」
クロが何気なく一つ口に運び、
「……美味しいよ。
君のお菓子はすごく暖かい味がするね」
と微笑む。
その瞬間、ディルーの顔は、
沸騰したヤカンかと思うほど真っ赤に染まった。
「よ、よかったぁ……!
あ、あの、アダダちゃんもアッシュさんも食べてね!」
「わぁ、いいの!?
でぃーちゃんの作るお菓子、私大好きなんだ!
いただきまーす!」
「おう、サンキューな!
……ん? クロ、お前だけ星型多くねぇか?」
「……気のせいじゃないかな」
アッシュの無神経な突っ込みを、
クロが涼しい顔で受け流す。
そんなやり取りを、
アダダは少し離れた席から見つめていた。
(……なんか、いいな)
ついさっきまで、
バイザーに映る「紅いノイズ」に怯えていたはずだった。
世界のどこかが狂っているような、薄ら寒い予感。
けれど、この店に漂うスパイスの香りと、
三人の騒がしい笑い声、
そして、でぃーちゃんの純粋な好意。
それが、アダダの心を
優しく繋ぎ止めてくれている気がした。
この平穏が、ずっと続けばいいのに。
そう願わずにはいられないほど、
この景色は温かかった。
――だが。
幸せな喧騒に包まれる酒場『ミッシュウ・ラン』の向かい。
廃建物の屋上に、
風に髪をなびかせる人影があった。
「…………」
落ち着いた茶髪の女性。
彼女は感情の読めない瞳で、
窓越しに笑う三人をじっと見つめていた。
その視線は、
楽しげにクッキーを頬張るアダダに固定されている。
女性は手に持った通信端末に、
淡々とメッセージを打ち込む。
『――ターゲット、接触済み。
未だ覚醒の兆候なし。観測を継続する』
「麒麟……。
あなたが、この世界の終わりの始まりになるの?」
独り言のように呟かれた言葉は、
風にさらわれて消える。
「……せめて、その時が来るまでは。
甘い夢を見ていなさい」




