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第9話:『麒麟の残響、揺れる恋心』



「……カレー……。あ、アダダ……遅かった、じゃねーか……」


『ミッシュウ・ラン』の入り口に、泥まみれの塊が転がっていた。

全身の筋肉が悲鳴を上げているはずのアッシュだ。

だが、彼は床を這いずりながら、ゾンビのような執念でカウンターを目指していた。


「め……飯ィ……」


「ア、アッシュ!? 大丈夫!?」


「大丈夫に……見えるか……。あのオッサン、マジで鬼だぜ……」


「はは、でも昨日より軸が安定しているよ。……さぁ、立って」


クロに支えられ、ようやく椅子に沈み込んだアッシュ。

その姿はボロボロだが、瞳の奥の炎だけは消えていなかった。


三人が席に着くと、少しの沈黙が流れた。

カレーのスパイスの香りが漂う店内で、アダダは自分の指先を見つめ、意を決して口を開く。


「……ねぇ、さっきの『影』。私、麒麟きりんって呼ばれたの」


その一言に、厨房で包丁を動かしていた店長の肩が、僅かに跳ねた。


(……黒い影? 「娯楽」側の人間か、あるいは――)


店長は表情を変えず、ただ静かに聞き耳を立てる。

その胸中には、過去の苦い記憶と、かつての英雄たちが戦った「ルール」の影が去来していた。


「麒麟? なんだよそれ。新しい銃か何かか?」


アッシュが不思議そうに首を傾げる。


「わからない……。でも、それを聞いてから、ずっと胸騒ぎがするの。

 私の中の何かが、あの言葉に反応してるみたいで……」


不安に揺れるアダダ。

その瞳は、バイザーで見た「紅い世界」の残像を追っているようだった。


するとアッシュは、わざとらしく大きな音を立てて腹を鳴らした。


「……ッシャ! んな小難しいことは、後だ後!!

 飯だッ! 俺も特訓明けで腹ペッコペコなんだよ!!」


アッシュは強引に空気を切り替える。


「ディルーちゃん!!

 カレー! 激辛! ハンバーグも乗せてくれ!!」


「はいはいっ! 元気だねぇアッシュさんは」


クスクスと笑いながら、ディルーが駆け寄ってくる。

彼女の視線は、まずアッシュへ。

そして、隣に座る少年の元で止まった。


「……アダダちゃん。それと、クロ……君は? 何にする?」


一瞬、彼女の頬が桜色に染まる。


「君」という一言。

名前を呼ぶにはまだ勇気が足りなくて、けれど他の客とは違う特別な響きがそこにはあった。


「うん! 私は普通のカレーにする!」


「僕も、同じものを。……お願いするよ、ディルー」


クロが優しく微笑むと、ディルーは「は、はいっ!」と上ずった声で返事をした。


「店長!

 カレー二つ、激辛一つ、ハンバーグ追加ですっ!!」


「……ああ」


厨房から短く返る店長の声。


アダダは、自分を包むこの温かな喧騒に縋るように、努めて明るい声を出した。


「アッシュ、特訓はどうなの? 掴めてきた?」


「おうよ!

 あのオッサン、一言だけ言って店に帰っちまうけどよ……。

 おかげで『重心』ってやつが、ようやく腹の底でドシッとしてきたぜ!」


身振り手振りを交えて熱く語るアッシュ。

その底なしの明るさは、暗い影を吹き飛ばす太陽のようだった。


そんな二人を見て、クロはそっと視線を落とす。

クロの目は、笑っているアダダの、膝の上で固く握りしめられた拳を捉えていた。


無理に作った明るい声。

震えを隠すような仕草。


それを見るたび、クロの胸の奥が、説明のつかない鋭い痛みで締め付けられる。


(どうして、こんなに放っておけないんだろう。

 ……ただの「相棒」という言葉だけでは、この焦燥の正体が説明できない)


思考回路ロジックのどこかで、正体不明の熱が暴れている。


彼女の不安の源をすべて叩き潰してしまいたい。

そんな、自分でも驚くほど攻撃的で、それでいてひどく献身的な衝動。


クロは無意識に、テーブルの下で自分の手首を強く握った。


「お待たせしましたっ!

 特製ハンバーグカレーだよ!」


ディルーが運んできた皿からは、湯気と共に幸せな香りが立ち上る。


「わぁ、美味しそう!」


アダダがスプーンを手に取る。


賑やかな店内の片隅。

店長は、カウンターに置かれたナナカマドの赤い実を見つめていた。


それは、平穏という名の薄氷の上で踊る、若き戦士たちを見守る血の色にも見えた。


ふと、店長の視線が、楽しそうに笑うアダダと、

それを守るように座るクロ、そしてバカ騒ぎするアッシュへ注がれる。


(……似てやがる)


脳裏に浮かぶのは、15年前の記憶。

まだ世界がこんなにも歪む前。


「最強」を夢見て、

バカみたいに走り回っていた、俺たち(英雄)の始まりの景色。


店長は静かに目を閉じ、紫煙を吐き出した。


「……懐かしいな。なぁ、ローヴァン」


煙の向こう側。

止まったはずの時計が、逆回転を始める――。


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