アンニュイな鬼は花嫁に振り回されたい
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昔々ある山のふもとに、小さく寂びれた村がありました。
木々の中に隠れるように作られた人口が百にも満たないその寒村は、実は、三十年ほど前に一族郎党皆殺しという非情なお上の判決から命からがら逃れた者たちが寄り集まって作った、いわゆる隠れ里でした。
この山には古くから鬼が住まうとの伝承があり、あまり人が近寄らない土地のため、彼らがひっそりと住まうのにもってこいだったのです。
村人たちは鬼を直接見たことはありませんでしたが、その存在を疑ってもいませんでした。
時折、山の上から獣のものとも思えぬ恐ろしい咆哮が聞こえてきたり、山の浅瀬で活動する狩人が遠目に巨大な影を見たりと、信ぴょう性の高まる出来事に幾度も遭遇してきたからです。
人にも鬼にもバレてはいけない、そんな緊張感の中、村人たちは毎日息を殺して静かに静かに暮らしていました。
しかし、そんなある日、ついに一人の男が件の鬼と遭遇してしまいます。
村長の美しい一人娘が病にかかり、その女に懸想している若者たちの内一人が、効能の高い薬草を求めて山に深く分け入りました。
純粋に彼女の身を案じての行動ではなく、入り婿競争に勝たんとする個人的欲望からの浅慮な判断でした。
そもそも、村では狩人以外が山を登ることを禁じていたのですが、夢想に酔っていたか、はたまた若さゆえか、彼は鉄の掟を軽視しあっさりと破ってしまったのです。
男が山の中腹で冬眠明けのヒグマに襲われ大きく悲鳴を上げたところ、どこからともなく恐ろしい二本角の緑鬼が現れて、拳の一振りでヒグマを殺してしまいました。
鬼はヒグマより更に頭一つ分も高い背と、ヒグマにも負けぬ分厚く筋肉の詰まった厳つい体躯を有しておりました。
そして、情けなく木の根元に尻をついた若者に、般若すら生温い憤怒に固まった皺くちゃの顔面でニヤリと嗤って、地獄のように低い声でこう告げたのです。
「これでお前は俺に借りが出来たな」
「ヒッ、ヒェェっ!」
「このままお前の命で償わされたくなければ、村へ戻って俺の花嫁となる若い女を連れてこい。
元より山は我が縄張り、三十年以上も黙って住まわせてやった対価を払うべきだ。
たった一人を捧げるだけで良いのだから、安い取引だろう?」
さあ行けと背中とほとんど変わらぬ大きさの足裏に蹴られて、若者は這う這うの体で村に逃げ帰りました。
村に駆け込むなり倒れ込んだ若者は尋常でなく怯えた様子を見せており、不審に思った村人たちが彼の周囲に集まります。
何人かの男衆で根気強く彼から話を聞き出せば、ドのつく阿呆が掟を破り山に入ったあげく鬼に生贄を求められたなどという、とんでもない事実が発覚しました。
軽率に掟を破るような危うい男の処分は後に回して、村人たちは鬼に差し出す若い女を慌てて見繕います。
満場一致で決まったソレは、三十年前に最も身分が低かった男の唯一の家族。
十七年前に産褥で亡くなった妻に代わり、手塩にかけて育ててきた愛娘でした。
娘の父親は家に押し掛ける男衆たちにふざけるなと怒鳴りましたが、当の娘があっさりとその立場を受け入れてしまいます。
もちろん、父親は娘に考え直すよう説得を試みました。
しかし、彼女が父親にだけ聞こえるよう打ち明けた本音に、彼もまた、納得させられてしまったのです。
「こんな、しみったれた村の糞ったれな男たちの誰かに嫁ぐぐらいなら、鬼の方が何倍も良い」
外界から閉ざされた空間で、誰かが鬱憤の捌け口になるのは、そして、それが最も身分の低い男とその身内に向くのは、ごく自然な流れでした。
あからさまな暴力などは振るわれませんでしたが、貧しい村の厳しい運営において、常、真っ先に我慢や犠牲を強いられて来たのです。
若い衆は軒並み村長の娘に惚れているし、元より軽んじられている女がその内の誰に嫁いだところで決して幸福になどなれようはずもありません。
父親の抵抗がなくなるや否や、村人たちは娘を連れ出し、花嫁としての体裁を整えていきます。
水で身を清め、髪を結い、長の娘の華やかな着物一式……は、二度と手に入らないのにと病床の本人が泣いて嫌がったので長の妻の羽織一枚を元々の粗末な服の上から着せ、長の娘用にと作られていた花飾りがあしらわれた草鞋を履かせて、最低限の装いを完成させました。
それから、鬼が癇癪を起こし村を襲う前にと、娘……菊緒は元凶かつ案内役の若者と見張り役の数人の男に囲まれて、山の奥深くへと消えていったのです。
恐ろしい鬼の姿を遠目に垣間見、大いに怯えた村の男たちは揃って足を止め、案内役と花嫁だけを先へと進むよう強要しました。
逃げ帰ってきた際の様子から渋るかと思われた若者は、青白い顔ながら意外にも素直に頷き、しかし、花嫁を自身の前に立たせ、その背に隠れるように腰を低く曲げた情けない状態で鬼の下へと向かって歩き出します。
そうして、たどり着いた鬼の眼前で、彼は鬼を視界に入れることなく膝をつき土下座の体勢に持ち込んでから、震える声を発しました。
「ぉおぉ鬼様、ぉ約束の女を連れて参りました」
「菊緒と申します、旦那様。以後、よしなに」
怯えを隠しもしない若者と裏腹に、花嫁は高くにある赤い眼球を真っ直ぐに見据えた後、恭しく頭を垂れます。
「ほぉ……うむ、確かに」
緑の鬼は女の堂々たる態度に瞼を細め、ゆっくりと一度頷きました。
満足そうな化け物の様子にいささか安堵した若者は半身を起こし、無理やり顔に笑みを貼り付けながら、揉み手で最終確認を行います。
「これで、自分は、いや、村は、必要な対価を払ったと考えて、ようございましょうか」
ここで敢えて言い直したのは、最初に彼が鬼に借りを作ったという事実を村人に伏せていたからです。
万が一にも背後に控える男衆に聞こえしまっては、制裁は免れないと思っての行動でした。
あっさり彼らと離れて二人で鬼の下に向かって行ったのも、これが理由だったのです。
とはいえ、簡単に掟を破ってしまえる人間だと認知された時点で彼に未来はなく、全く何の意味もない無駄な足掻きなのですが、誰もそれを彼に教えていないのでは仕方がありません。
「鬼はお前ら人間と違って約束を違えない」
「さ、左様で」
「とはいえ、ここは俺の縄張り、不用意に荒らそうものなら……」
「ひぃっ、ぁあ荒らすだなどと、とんでもない!
他の者にもよく言って聞かせますゆえ、じじ自分はこれにて失礼いたしますぅ!」
間近に鬼の威圧を浴びて、悲鳴のようにそう叫んだ若者は、そのまま木々に身を隠していた村の男衆すら置き去りに、脱兎のごとく駆け去りました。
慌てたのは男たちで、彼らは若者に各々呼び掛けながら、その後を追って走っていきます。
誰一人、鬼の花嫁として差し出された菊緒の存在など、気にも留めずに……。
無言でその背を見送る彼女の目は暗く、深い侮蔑の感情を湛えておりました。
鬼は、村人へ向ける女の視線を、彼らの姿が名残惜しいのか、はたまた縋る気持ちで眺めているのか、と邪推しましたが、どこまでも冷めた彼女の表情を受けて、すぐに間違いだと考えを改めます。
とはいえ、鬼には花嫁が同じ村の人間を憎悪する理由が分からず、そこはかとなく当惑しておりました。
やがて、騒がしい男たちの声も彼方へと消え、山に静寂が戻ります。
すると、女がくるりと振り返り、鬼を見上げて妙に清々しい笑顔でしゃべり掛けてきました。
「では、旦那様。私共の愛の巣へと戻りましょうか」
「う、うむ?」
戻る、などとは、まるで既にそこに住んでいるかのような物言いです。
彼女の態度に、鬼の困惑が強まります。
正真正銘の化け物たる彼の常識からすれば、そもそも、己と村人に向ける表情が逆であるはずなのです。
いえ、彼とて、けして花嫁に嫌われたいワケではありませんが、彼女の言動は鬼として生きてきた男にとって、あまりにも意味不明すぎました。
ついでに言ってしまえば、彼は鬼の中でも特に恐ろしい形相をしており、妖界隈ですら怯えられがちなのです。
だのに、出会って数分の、己の鳩尾ほどの身の丈しかない小さな人間の娘から好意丸出しで接されては、少々不気味に感じてしまっても止むを得ないでしょう。
「旦那様? どうなされました?」
「っあ、あぁ、いや、そなた、菊緒だったか」
「まぁ、さっそく私の名前を憶えてくださったのですね。
嬉しいっ」
両手を合わせて喜ぶ花嫁に、なぜか鬼の背が仰け反りました。
「ぐっ……お、俺の屋敷はこの世とあの世の境に建っている」
「お屋敷ですか。あらあらまぁ、私、洞穴暮らしも覚悟しておりましたのに。
お屋敷、お屋敷、あぁ、なんて素敵な響き」
この世とあの世の境、などという人間にとって眉唾な発言をしたにも関わらず、そこには一切触れない菊緒です。
一人でうっとりと頬を染めている不可解な女へ、口の端を僅かに引きつらせた鬼が何とか話を続けます。
「ともあれ、人間のそなたをそこへ連れ入るには、どこか体の一部でも接触している必要があってだな」
「かしこまりました、これでいかがでしょう!」
「少しは躊躇してくれっ!」
途端、厳つい右腕に飛ぶ勢いで抱き着いてきた花嫁に、彼の方がたまらず悲鳴を上げました。
この時代の倫理観からしても、彼女はあまりに積極的すぎるのです。
「何か間違えてしまいましたか?
正面から抱き着くのは、さすがに動きづらかろうと遠慮したのですが」
「何も間違ってはいないが、何もかも間違っている!」
「ええっ?」
「俺は鬼で、そなたは人間の娘だろう」
「え、はい。左様ですね……?」
夫の意図が汲めず、ここで初めて不安そうな顔を見せる菊緒へ、鬼は軽くため息を吐いてから首を左右に振ります。
人間は鬼を恐れるものだ、などという常識をバカ丁寧に説明するのは、あまりにも間が抜けた行為ではありませんか。
「……もういい、とにかくまずは移動するぞ。
込み入った話はそれからにする」
「はい、よろしくお願いいたします」
娘が再び微笑みを浮かべれば、緑の厳つい顔面に皺が増えました。
「いったい、なんなんだ」
一人と一体の姿が霞に消える瞬間、鋭い牙の隙間から零れ落ちた呟きは、誰の耳にも届かぬまま、ぽつりとこの世に置き去りにされたのでした。
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「まぁ! なんて立派なお屋敷。
それに、なんて素敵なお庭。
今日から私、ここで暮らすのですね」
緑の腕に巻き付いたまま周囲の様子を見渡した菊緒が、はしゃいだ声を上げています。
石垣に囲まれた箱庭のようなそこには、部屋が十はありそうな瓦屋根の平屋敷が建っていました。
庭には風情を感じられる大石や木や池や苔が点在しており、雑草などは一本も生えていません。
黒無地の着物を一枚、適当に羽織っているだけの鬼からは、とても想像のつかない整った住処です。
「屋敷の管理は俺が妖力で生み出した鬼火たちに任せている。
飯も掃除も繕い物もそいつらの仕事だ。
そなたはただ、自由に過ごしていればいい」
「い、至れり尽くせり……っ」
ごくりと唾を飲み込み、花嫁は抱き着く力を強めます。
そのあまりの居心地の悪さから、ついつい鬼は意図的に顔に力を入れて彼女を見下ろし、脅すように語りかけてしまいました。
「ただし、ここから逃げようなどとは努々思うなよ。
お前はこの俺の……鬼の花嫁となったのだから」
人間だけで敷地内から出ることは不可能であり、実質として軟禁状態となるため、相手によってはそら恐ろしい宣言になるのでしょう。
そう、相手によっては。
「あら、逃げる? 私が? ふふ、あはは。
どちらに? なぜ? なんの必要があって?」
「ひっ」
彼の言葉に、花嫁が瞳をドロリと濁らせ、抑揚のない声で笑って、小首を傾げます。
軽い気持ちで悪ぶった結果、恐怖したのは鬼の方でした。
ドン引きする旦那と裏腹に、気を取り直した菊緒がひとつの要求を口にします。
「あぁ、でも、夫婦喧嘩などした際に頭を冷やせるよう、独りになれる部屋ぐらいは欲しいですね」
「喧嘩? 人間の娘のそなたが? 鬼の俺と?」
閉じられた鬼の領域で力で敵うはずのない鬼を相手に喧嘩をしようとは、この娘、いささか度胸がありすぎましょう。
「夫婦とはいえ他人なのですから、長く暮らせば、思わぬすれ違いが生まれることもあろうかと。
あとは、産まれた子どもの教育方針が合わなかったりだとか」
「こどっ……ず、随分と先走った話をするのだな」
鬼が人相手に己の子を孕ませようとすれば、人同士と変わらぬ行為が必要となります。
だというのに、至極当たり前のように彼女が子の話題など出すものですから、彼は思わず狼狽えてしまいました。
もちろん、花嫁と娶ったからには手を付ける予定ではありましたが、まさか人間からまともに同意が得られるとも考えていなかったのです。
しかし、彼の発言は少々広く受け取められたようで、菊緒の口から望んだ答えが返って来ることはありませんでした。
「えぇまぁ。村では父の負担にならないよう極力抑えていましたが、私、本当はそれなりに気の強い性質でして。
旦那様におかれましては、心身ともにご立派な殿方だと存じてはおりますが、私の方があまり出来た人間ではございませんので、ゆくゆくは衝突することも……」
「待て」
「はい」
話の中に引っ掛かりを覚えて、鬼が彼女の言葉を遮ります。
花嫁はその命令を不快と取ることもなく、素直に従いました。
だいたいからして、ここまで菊緒も幾度と旦那に同様の真似をしてきたのですから、これで気を害すようでは道理がまかり通りません。
「心身ともにご立派? 俺が?」
「はい」
出会ってまだ一刻も経っていない人間の娘に、しかも、彼女を生贄同然に捧げさせた鬼が受ける評としては有り得ない、と彼はそう判じました。
だから、それを嫌味と決め付けようとして、けれど、色々と規格外の女のことですから本音である可能性も捨てきれぬと、彼女に詳細を求めます。
「なぜ、そう思った」
「手短に申しましょうか、それとも詳しく?」
「ええい、どちらでもいい」
詰問じみた声であったにもかかわらず、菊緒は一切怯む様子なく、鬼の目を真っ直ぐに見つめていました。
この時点で疑惑は九割以上晴れておりましたが、彼女が何を語るのか気になったので、彼は黙って先を促します。
「んー、そうですね。
まず旦那様は村が三十年ほど前に出来たことを知っていました。
つまり、知っていて見逃してくださっていた。
今になって急に対価など求めたのは、あの男のせい……時を経て村人が増長し始めたと見て、釘を刺すためだったのでは?
そも、人の世ではお上に年貢を納めるのが当然で、であれば、山の主たる旦那様が同じ要求をしたとて理不尽とも言えません。
そして、本気で三十年分を取り立てるならば、こんな貧相な小娘一人では到底足りるわけもなし、です。
とどのつまり、旦那様が寛容な御方であることは、この時点で察しておりました。
あとは、最初に私がご挨拶を差し上げた時、感心なさったような反応をされたでしょう?
そこで、いかにも鬼らしく人間を食べたり、もしくは痛めつけ嬲り惨めに嘆く様を見て愉悦したりするためではなく、文字通り花嫁を求めているのだと安堵いたしまして。
約束を破らないとキッパリ断言されていたトコロも、信用に足る御方なのだと思えましたし。
私の突飛な言動に対しても、暴力的手段で止めるということもなく、たかが人間の小娘と侮らず、こうしていつも静かに目耳を傾けてくださって。
村の男はお前と呼んでいたのに、私にはそなたと柔らかく呼びかけてくださるのも、名前を一度で覚えていただけたところも、素敵だと思いましたし。
それに、黙って動くことだって出来たはずなのに、これから何をするか、どうすべきか、面倒がらずに逐一ご説明くださるところも、お優しく気遣いに長けていらっしゃる、と。
しっかりと手入れされたお屋敷や庭でお過ごしなのも、落ち着いた方なのだと窺い知れますし。
何より、旦那様の見目は私の男性の好みに合致しているのです。
目付き鋭く虹彩小さく、口は大きく、顔は四角くエラが張り頬骨が浮いて、私より倍も分厚く逞しい骨太な体……ほら、旦那様そのもの。
少々想定より迫力はございますが、それもまたひとつの魅力と捉えております。
ね? いかがですか?
心身ともにご立派な殿方と申し上げて、何の不思議もございませんでしょう?」
妙な早口で嬉々として鬼についての所感を垂れ流す花嫁に、彼はたまらず左手の平で己の顔面を覆い隠しました。
「旦那様。どうなさいました?」
「……菊緒、そなたは変だ」
「そうかもしれませんねぇ」
彼女が常に好意的な態度で接してくる理由を、鬼はついに知ってしまったのです。
そして、これまでの花嫁の言動を改めて思い返し、急激に恥ずかしくなりました。
悪意や何か裏があってのことではないと、娘の笑みが嘘偽りのないものであると信じて心の中の壁を取り払い素直に受け取れば、嫌われ疎まれるばかりの鬼の身からすれば、あまりに大きく衝撃的で……彼は、どうすればいいのか分からなくなってしまったのです。
やがて、身に負いきれぬ感情を少しでも緩和するためか、彼は娘に対し、とある事実の開示を始めました。
「そなたは俺を過大評価している。
鬼とは生来、怒りやすいという特性を持っており、もちろん俺も例に漏れるものではない。
囲われているからと、安心してはいかんのだ。
そなたの様な、か弱い人間の娘ならば殊更だ」
これを意訳するならば、その様な純粋な好意には慣れていない、頼むから少しは怖がって欲しい、となるでしょう。
「なるほど。
旦那様であっても本能は如何ともし難く、互いが傷付かぬよう警戒は怠るな、と。
かしこまりましてございます」
「……せめて腕から離れて言ってくれ」
きりりと真剣な表情で頷く菊緒ですが、説得力は皆無でした。
とはいえ、旦那の言葉を信じていないわけではありません。
立場の低さより村で常に人の顔色を窺い過ごしてきた彼女からすれば、今はまだそれが必要な時ではないと分かっていたのです。
息と肩を小さく落とす鬼をまんじりと眺めていた菊緒ですが、ふと、一つの疑問が頭に浮かび、そのまま迷うことなく口から外へ滑らせました。
「怒りやすいのが鬼の習性なのだとすると、旦那様は随分と温厚であるように見受けられますが」
「む……まぁ、他の鬼よりは、そうかもしれん、な」
歯切れは悪いけれど嫌がってはいないようだと看破して、彼女は更に一歩踏み込みます。
「何か明確な理由が?」
「あー、いや……ただ、虚しくなっただけだ」
「むなしく?」
「憤怒の顔面に相応しく、昔の俺は、どんな鬼よりも怒りやすかった。
この世の何もかもが気に障って、怒って、怒って、暴れ狂って……ある時、ふと全てが虚しくなった。
どうでもいい、と、感じるようになった。
それからだ、あまり怒らなくなったのは」
過去を思い返しているのでしょう。
鬼は、遠い目をして何もない青い空を見上げています。
特に苦悩している風でもなく、ぼんやりとした表情であるのが、花嫁には逆に痛ましく映りました。
「世に絶望してしまったのでしょうか、怒る価値すらないと」
「そんな御大層な話じゃあない、単に飽きたのだろうよ」
鬼はそう論じましたが、娘が顔色から察したところ、彼自身、明確な答えを持ち合わせてはいないようでした。
なんだか居ても立ってもいられない気持ちになって、菊緒は太い腕から離れ、今度は硬い緑の腹に細い手を回し、強く密着するように抱き着きます。
「っな、なんだ?」
「急にこうしたくなっただけです、お気になさらず」
「無茶を言う」
さりとて、引きはがしもしないのが緑鬼です。
花嫁に好かれている事実を正しく把握した今となっては尚更でしょう。
己も娘の背に腕を回すべきか、このまま静止しているべきか、鬼は経験の薄さから判断がつかずに、ふらふらと手を上下させています。
結局、彼は折衷案で彼女の肩に触れて、少し前から言おう言おうと思っていたことを舌に乗せました。
「その……いつまでも庭先に立っていないで、そろそろ屋敷の中に入らないか」
すると、なぜか菊緒はキッと睨みつけるように鬼を見上げ、こう叫んできます。
「でしたら、勝手に抱き上げて無理やりにでも運んでいただけば良ろしいのではないでしょうかぁっ!」
「ど、どうした。突然、何を憤っておるのだ」
前触れのない花嫁の奇行に、旦那はただ驚き狼狽えるばかりです。
「まぁ、運べと言うなら運ぶが」
「くっ、優しい! 逞しい! お慕いしております、旦那様!」
「いや、本当にどうした?」
望まれるがまま、娘の背と膝裏に腕を通し、軽々と縦に抱き上げてやれば、彼女はすぐさま筋張った首にかじりついて唸りました。
ここまでの会話で娘が無意味に癇癪を起こすような人間ではないと確信しているからこそ、彼は辛抱強く理由を尋ね続けます。
そして、その答えは、間もなく返って来ました。
「わ、私、沢山沢山ワガママ放題して困らせて、旦那様がまた怒れるようにしますから」
「……なぜまた、そのようなことを」
目を皿のように丸くした鬼が花嫁の顔を見ようと顎を下げますが、彼女は彼の首にひしと縋っており、物理的に不可能でした。
それを残念に感じながら、鬼はとりあえずそのまま歩いて玄関の敷居を跨ぎます。
「怒るのが鬼の特性なら、怒れなくなった旦那様はご病気かもしれないじゃあないですかっ。
そんなの嫌だからっ、だから、私が治しますっ」
「仮に治ったとして、その時はそなたも無事では済まんだろう」
彼に娘の草鞋を壊さず脱がせる器用さはないので、上がり框の段差に腰掛け、硬い太腿へ横向きに彼女を座らせました。
「うぅっ……だ、旦那様は怒ったって、自分のお嫁に酷いことなんてしませんものっ」
「根拠のない強がりを言いおってからに」
鬼には、更に自身が怒りから遠のく未来しか見えませんでしたが、花嫁の考えるワガママ放題姿が大層可愛らしかったので、その事実は一生己の胸の奥深くに閉まっておこうと固く決意したのでした。
「一応、教えておくが、本気で今の俺を怒らせたければ、そなたがここから逃げ出す素振りを見せるなり、他の人間や妖に懸想する真似事をして見せるなりで、一発だぞ」
などと言っておきながら、彼女がそうかと頷こうものならすぐに禁ずる心算のずるい男です。
が、そんな必要は初めからありませんでした。
間を置かず、菊緒が神妙な顔をして、首を横に振ったからです。
「いえ、旦那様を傷付けるようなやり方は違いますから」
「……そこを分かっているならいい」
感じ入るように呟くと、鬼は、小さな女を大きな体ですっぽり囲い込んで、実に満足気に笑いました。
まあ、そんなこんなで、ひょんなキッカケから人間の娘を迎え入れることとなった二本角の緑鬼は、当初の予定と大いに異なり、目に入れても痛くない花嫁と心から愛し愛される結婚をし、時に喧嘩をして土下座で謝るなどしながらも、末長く幸せに暮らした、という話です。
めでたし、めでたし。
その後のオマケ会話
「菊緒。そなたの父をこの屋敷に迎え入れても、俺は一向に構わんぞ。
村では、家族ぐるみで冷遇されていたのだろう?」
「旦那様……嬉しい……。
っあ、けれど、父が喫緊の状況にないのであれば、今しばらくは、このままでお願いしたく」
「なぜ。いつも親の身を案じていただろう」
「う……は、薄情娘とお思いにならないで。
せめて、子を一人か二人か授かるまでは、と。
そ、その、励む際にかなり大きな声が出ていることは自覚しておりますので、親に届くような状況では、さすがに……私の感情としましても、その時は旦那様に集中していたいですし」
「そ、そういった理由ならば、致し方がないな、うむ」
(妖力で室外に音を漏らさぬよう出来るが、黙っておこう)
数年後
「いや、ワシはあの村でいいんだ。
連座に巻き込まれたとは言え、ワシは正真正銘あの大裁きの当事者の内の一人。
村で生まれた罪なきお前さんとは、立場が違うのよ」
「でもっ、お父ちゃん!」
「そんな心配せんでも、お前さんが鬼様に嫁いだおかげでなぁ、村長様が同情して何くれと便宜を図ってくれるようになったもんで、苦労はしとらんから」
「っお父ちゃん」
「……べっぴんさんになったなぁ、菊緒。
今日は娘の幸福そうな姿が見れて、更に可愛い孫の顔まで見れて、ワシはもうそれで十分よ」
「っお父ちゃんのバカ、頑固者ッ」
「うん、うん、ゴメンなあ。
ああ、鬼様、どうか今後とも菊緒をよろしくお願い致します。
粗忽な所もありますが、賢く気立ての良い、ワシの自慢の娘です」
「うむ。父君、彼女は俺にとっても自慢の妻だ。
安心して任されよ」
「ああ……ああ、良かった……良かったなぁ、菊緒」




