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『夢の浮橋』

作者: 小川敦人

『夢の浮橋』



海を見下ろす丘の上で、聡は古びたカローラバンのボンネットに腰掛けていた。四月の風はまだ肌寒く、彼は軽くジャケットの襟を立てた。夜景が広がる町を見ながら、彼は西行の和歌を口ずさんだ。


「春の夜の夢の浮橋とだえして 峰に別るる横雲の空」


この和歌は、春の夜の夢が儚く途切れ、そして山の頂から横に広がる雲が分かれていく様子を詠んでいる。西行はこれを通して、人生や人間関係の儚さ、そして移り変わりを表現した。聡は今、まさにその意味を身をもって感じていた。


---


「あの頃は、何もかもが可能性に満ちていたんだよな」


聡は独り言のようにつぶやいた。今年で四十八歳になる彼は、地元の建設会社で働いていた。安定はしているが、かつて抱いていた夢とは程遠い生活だった。


彼は二十歳の頃の記憶に浸った。免許を取得したばかりの頃、夜になると海岸通りをドライブし、新しくできたハンバーガーショップに立ち寄るのが日課だった。味は思い出せないが、薄いパテと数枚のレタスだけのシンプルなものだったことは確かだ。それでも、一度も行ったことのないハワイを思い描きながら満足していた。


週末には友人と五十キロほど離れた海岸にカローラバンでサーフボードを積んで出かけた。海から上がった後は決まってハンバーガーを食べ、この丘に登って夜景を見ながら、「いつかヨットを買うんだ」などと語り合った。


あれから三十年。あの頃の友人たちはそれぞれの道を歩み、健太と正也はすでにこの世を去っていた。健太は二十代で事故に遭い、正也は去年、病で他界した。


聡は携帯を取り出し、保存していた古い写真を見つめた。三人で海岸で撮った一枚。若さと希望に満ちた顔が画面から彼を見返していた。


「夢の浮橋とだえして...」


彼は再び西行の言葉を繰り返した。浮橋—それは固定されておらず、流れに身を委ねるもの。人生もまた、思い通りにならず、いつの間にか違う方向へ流されていく。


---


夕方、聡は母の見舞いのため老人ホームを訪れていた。八十三歳になる母は、認知症が進行していた。


「お母さん、聡だよ」


彼が声をかけても、母は窓の外を見たまま反応しなかった。看護師によると、最近は昔の記憶だけが鮮明になり、現在のことはほとんど覚えていないという。


「今日はどうですか?」聡は看護師に尋ねた。


「今朝から『ハンバーガー食べに行きたい』と何度も言っておられましたよ」


聡は驚いた。母がハンバーガーを好んだ記憶はない。


「聡くん、あのハンバーガー屋さん、まだあるの?」


突然、母が聡に向き直って尋ねた。はっきりとした目で、彼女は息子を見つめていた。


「え?どのハンバーガー屋さん?」


「あなたが高校生の時、よく行ってたでしょう。海の見える道の...」


聡は息をのんだ。母が言っているのは、彼が十八歳の頃に通っていた海岸通りのハンバーガーショップだった。しかし、彼が通っていたのは母と一緒ではなく、友人たちとだった。


「お母さん、それ、僕が友達と行ってたところじゃない?」


母は首を振った。


「違うわ。あなたが部活の帰りに寄るって言うから、私も一度だけ一緒に行ったの。あなたがハンバーガーを食べながら『将来は海の近くに住みたい』って言ってたでしょう?」


聡はその記憶がなかった。あるいは忘れてしまったのか、それとも母の記憶が混乱しているのか。


「そうだったかな...」


「あの店のハンバーガー、美味しかったわね。あなたが喜ぶ顔が見たくて...」


母の言葉は次第に小さくなり、再び窓の外に視線を戻した。その瞬間、聡の胸に温かいものが広がった。母は彼の喜ぶ顔が見たくて、一緒にハンバーガーショップに行ったのだ。その記憶は彼の中には残っていないが、母の中では今も鮮明に生きていた。


あるいは、それは母の作り出した記憶なのかもしれない。だが、真実かどうかはもはや重要ではなかった。


---


老人ホームを後にした聡は、衝動的に車を海岸通りに向けた。三十年前、彼らが通っていたハンバーガーショップは今でもあるのだろうか。


海岸通りは様変わりしていた。高層マンションが立ち並び、新しいカフェやレストランが軒を連ねていた。かつてのハンバーガーショップの場所には今、洒落たイタリアンレストランが営業していた。


聡は車を停め、海を眺めた。夕暮れの海岸線は、まるで水彩画のようだった。茜色に染まった水平線が海と空の境界を曖昧にし、波打ち際では泡沫が真珠のような光を放ちながら寄せては返していた。遠くには漁船の灯りが点在し、それは夜空の星の先駆けのように静かに揺れていた。岸辺の松の木々は墨絵のようなシルエットとなり、その枝先が夕風に揺れるたびに、影絵のように複雑な物語を紡いでいるようだった。


潮騒は遠い記憶の囁きのように聡の耳に届いた。三十年前と同じ音色なのに、今はどこか物悲しく響く。海面に映る夕陽は砕け散った金箔のように煌めき、波の動きに合わせて絶えず形を変える生きた絵画のようだった。


同じ海なのに、見える景色は全く違って感じられた。若かりし頃の彼は、この海を見て無限の可能性を感じていた。今の彼には、それが儚い夢だったことがわかる。しかし、この絵画のような風景の中に立つと、時間の流れすら美しく感じられた。


彼はふと、近くの店のメニューボードに目をやった。イタリアンレストランの片隅に「クラシックバーガー」の文字があった。好奇心に駆られて、彼は店に入った。


「いらっしゃいませ」


若い店員が明るく迎えてくれた。聡はクラシックバーガーを注文した。


「このバーガー、昔からの名物なんですよ」店員が説明した。「このレストランの前は、ハンバーガーショップだったんです。オーナーがそのショップから一つだけメニューを引き継いだんです」


聡は驚きを隠せなかった。「それは...いつ頃からですか?」


「この店が開店したのは15年前です。でも元のハンバーガーショップは70年代からあったと聞いています」


バーガーが運ばれてきた。見た目は豪華になっていたが、最初に一口かじった瞬間、聡は懐かしい味を感じた。薄いパテ、シンプルなソース、そして数枚のレタス。彼が記憶していなかった味が、舌の上で蘇った。


---


その夜、聡は再び丘の上に車を走らせた。かつて友人たちと夜景を見ていた場所は今、展望台として整備されていた。


夜の海岸線は昼とはまた違う姿を見せていた。月光が海面に銀の道を描き、その光の道は地平線まで伸びて星々と溶け合っていた。沖合いの小島は墨を滴らせたような黒い影となり、その輪郭が波間に揺れていた。岸辺に打ち寄せる波は、白い絹のリボンのように連なり、その音色は遠く聞こえる管弦楽のようだった。


ベンチに座り、彼は街の灯りを見下ろした。携帯に保存していた古い写真を開き、今は亡き友人たちの若い顔を見つめた。背景に広がる海は、写真の中でも鮮やかに青く、まるで彼らの若さと希望を象徴するかのようだった。


「春の夜の夢の浮橋とだえして 峰に別るる横雲の空」


西行の和歌は、人生の儚さを詠っている。夢は浮橋のように不安定で、やがて途切れる。山の峰の上で横に広がる雲が分かれていくように、人との繋がりもまた、別れていく。


しかし聡は今、別の解釈を感じていた。夢が途切れるのは、それが終わるからではなく、形を変えて続いていくからではないだろうか。健太と正也は亡くなったが、彼らとの思い出は聡の中で生き続けている。ハンバーガーショップは閉店したが、その味は別の形で残っていた。


母の記憶の中には、聡の知らない聡自身の姿がある。それは母だけの記憶かもしれないが、それもまた現実の一部だ。


聡は空を見上げた。春の夜空には星が瞬いていた。健太と正也は今頃、どこかでヨットに乗っているだろうか。彼は微笑んだ。


彼は立ち上がり、車に戻った。明日は休日だ。久しぶりに海に行こう。サーフィンはもう無理だが、海を眺めるだけでも良い。あの海岸線—朝は真珠の輝きを放ち、昼は群青色の絨毯となり、夕暮れには錦絵のように彩られる海岸線を見に行こう。そして帰りに、母をドライブに連れ出そう。ハンバーガーを一緒に食べに行こう。


聡はエンジンをかけた。カローラバンではなく、小さなセダンだ。しかし彼の心は、かつてのように軽やかだった。


峰に別れる横雲のように、人生は分かれていく。しかし、それぞれの道は空という大きな存在の中でつながっている。聡はそう感じながら、丘を下り始めた。


「春の夜の夢は続いている」


彼はそうつぶやいた。西行の和歌とは違う結論だが、今の彼にはそれが真実だった。人生は夢の連続であり、その夢は形を変えて続いていく。浮橋が一つ途切れても、別の浮橋がどこかで繋がっている。


聡はラジオをつけた。懐かしい曲が流れてきた。彼は口ずさみながら、海岸通りへ向かって走り出した。

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