第六話
北殿内には千人を超える公家、武家が詰めていたが、その多くは酒を飲み熟睡し切っていた。
そんな中、敵襲の気配に真っ先に気付いたのは、他ならぬ為朝である。
なにしろ戦慣れしている。先刻、父・為義にも、
「兄者らは間違いなく、今夜中に攻めて来る。ばってん、くれぐれも警戒怠りなきよう」
と注意を促した。天皇方の総大将が兄・下野守義朝であるという噂は、既に京中に広まっている。だからこそ為朝には確信があった。
――六条判官為義が息子六人をはじめ、一族郎党三〇〇騎余を連れ新院方に加わった。
という噂は、今日のうちに天皇方に伝わっている筈である。なにしろ夕方の時点で、京中その噂でもちきりだった。
――弱冠一七にして西海道全域を制した、彼の鎮西八郎為朝が、新院(上皇)方についた。
とあらば、天皇方において動揺する者も少なくない筈である。それどころか上皇方に寝返る者達も、現れはじめるかもしれない。なにしろ為朝の名は大いに轟き、武人としての評判は兄・義朝を凌駕している。
たった今は、まだ天皇方が優勢である。しかし時間が経てば経つ程、天皇方にとって情勢が不利に傾き、逆に為朝ら上皇方にとって有利になる。ただでさえ、程なく援軍が次々と駆けつけると噂になっているのである。
「兄者が評判通りの戦巧者ならば、まあ今晩中にさっさと攻めっ来っじゃろ」
俺が兄者の立場やったら絶対そうする、と父に言った。されば今夜は寝ずの番になる……と。
「うむ」
為義も素直に頷いた。
源氏の棟梁たる為義だが、実は生まれてこのかた戦の経験がない。その分、西海道にてその武名をほしいままにする我が息子が頼もしい。
京で生まれ、一二まで京にて育った筈なのに、わずか数年で完全にあちらの訛りに染まってしまっている、粗野な武者ぶり。そんなところさえも微笑ましく、そして頼もしく感じるのである。
北殿内では、未だ時折酒盛りの声が湧き上がっているが、塀の外は完全に夜の帳が下りている。
空には薄雲が張り出し、月の光はほとんど無い。
為義は五人の息子達や一族郎党三〇〇騎余を引き連れ、大通りに面した北殿南側にある東西の門のうち、天皇方が真っ先に押し寄せてくるであろう西門の警固にあたった。
為朝も同じく、北殿西側の門を手勢の二八騎で守る。
戦力がまるで足りない。
元々戦に加わる予定などなかった。それどころか、朝廷に対し悪意がない事を示すため、敢えて最小限の郎党二八騎のみを連れ上京した。それが裏目に出た格好である。
ちなみに武装も心許ない。
郎党達の得物や具足、それに馬は、六条堀川〝源氏ヶ館〟の備えを借用した。が、為朝自身の具足や得物がなかった。七尺の大男の鎧なぞ、ハナから特注品である。咄嗟の代えなど在ろう筈がない。
弓も同様である。並外れた怪力ゆえ、日頃は特注の強弓を用いている。九州で職人共に無理を言い苦心惨憺の末完成した、一〇人力の三枚打弓である。それもまた、九州の館に置いてきた。
仕方なく源氏ヶ館で弓を借りたが、為朝の怪力に耐えきれず、ことごとくバキッと音を立てて壊れた。
「聞きしに勝る豪腕じゃ!」
館中の郎党達が目を丸くして大騒ぎしたため、たちまち京中にその噂が広まった。
「俺が引いても壊れん、強弓を探せ」
源氏ヶ館の郎党総出で、京中で一番強い弓を探させた事が、噂に拍車をかけた。ここ数日、鎮西八郎為朝の名は高まる一方である。
とりあえず、四苦八苦して京一番と思われる強弓を入手した。だが日頃愛用の弓にはまるでかなわない。己が怪力に、はたして何時まで耐えられるのか、不安がある。
それだけではない。並外れた体格ゆえ、馬さえ選ばざるを得ないのである。借り物の馬が、はたして使いものになるのか、怪しい。
「……!」
丑の刻を随分とまわった頃だろうか。
三丁先の鴨川のせせらぎが、わずかに変化した。為朝の耳がそれを捉え、程なく軍馬の微かなざわめきを聞いた。
「ほれ来た……」
念の為、郎党を走らせ確認させた。郎党はすぐに戻り、
「天皇方にござる。その数、千ほどかと」
と為朝に告げる。
「されば……誰ぞ、親父殿にそう伝えろ。その足で北殿の屋内敷地内問わず、とにかく駆け回って敵襲じゃと触れ回れ」
「屋内も!? よろしいので?」
「構わんばい。戦じゃ」
早速、若い衆が走り去った。まさに上皇が耳にしたのは、彼の触れ声である。
「さて、と」
為朝は床几から立ち上がり、ゆるりと路上に出ると辺りを見回す。
それから前をまくっていちもつをまろび出すと、路の真ん中で悠々と小便を放ち始めた。
「お館様、そりゃさすがに不謹慎でござる」
郎党達が笑い出す。
「構わんばい。もう、戦が始まっど。俺がこの場を離れて厠まで行きよったら、御門ば守れんじゃろが。……おっと、ほら見ろ。早速敵ば来よろうもんが」
為朝はゲラゲラ笑いつつ西方に顎を振った。その先に、天皇方の物見らしき者が、呆れ顔でこちらを眺めていた。