エンド・アイ
その日は、たまたま朝起きるのが遅くて弁当を作る暇がなくて、たまたま通学路途中にあるパン屋が営業してて、たまたま入っただけだった。
いくつもの“たまたま”が重なっただけの至って平凡な日常だったのに、隣でサラリーマンの男性が会計をしている中、店の店員である老人が倒れて動かなくなってしまった。
「え?」
「は?」
訳が分からず、会計をしていた男性と目が合い間抜けな声を出し合っていると、店内に女性の甲高い悲鳴が響き渡った。
「きゃーーーーっっ!!」
「なっ、千代バアさん! しっかりしろ、千代バア!!」
筋骨隆々な男性がいくつかの総菜パンの乗っていたトレイを惜しげもなく放り投げ、僕を突き飛ばしてレジの裏に回り、老人を抱き起こした。
老人は気絶しているのか、男性が揺すってもピクリとも動かない。
「医者だ! 医者を呼べ!」
「え、は、ど、え?」
「チッ、使えねえヤツ!!」
男性はサラリーマン風の男性に声を掛けたが、僕と同じく気が動転していたらしく、咄嗟に動くことができず、結局は男性が店の奥へ走っていった。
シン、と静まり返る店内には客が四人、さっきの男性を合わせれば五人になる。
一人目は、先ほどの幸の薄そうな三十代くらいのサラリーマンの男性。グレーの寄れたスーツに草臥れたカバンが一つ、かなり痩せているようで頬から顎のラインの骨が浮き出て見えて正直、気味が悪かった。
二人目は、二十歳前後の女性。髪を染めて時間が経っているせいなのか毛先が金髪で頭の頂点付近の髪だけが黒い。蛍光色の革ジャンに下は英語のロゴが入ったTシャツと腿の真ん中までしかない短パン。肌は黒く、今の季節を考えると海辺の日光浴で焼いたのではなく人工的に焼いたのだと思う。金色のネックレスやピアスを身に纏い、やや集めの化粧をする彼女も、苦手なタイプだ。
三人目は、僕と同じ年くらいの蒼い瞳と銀色の髪を一つに結んだ少女。白いマフラーに赤いダッフルコートを着て、季節感にあった服装をしている。肩掛けの学校指定の革製の鞄の上に手を置いているせいで、どこの学校か分からなかった。
そして四人目は、僕こと和谷 真は私立聖ライナ学院中等部八学年に通う来月誕生日を迎える予定の十三歳だ。
黒いコートに耳と鍔付きの帽子を被り、学校指定の肩掛け鞄を持っている。どこからどう見ても普通の学生にしか見えないと思う。
老人が倒れた時の僕たちの立ち位置は、レジの前に僕とサラリーマン。
入り口の左側にある壁沿いの棚に並んでいるフランスパンや食パンエリアの前に筋骨隆々な男性。
派手な女性は中央列の菓子パンの前にいて、銀色の髪の少女はホットパンコーナーの前に立っていた。
店内は正方形の形に奥がレジ、棚は壁沿いと、レジと並列になるように長テーブルが一つ置かれている。上から見ると日の字、レジを合わせると目の字のような棚の配置だった。
(菓子パンは店の真ん中のテーブル、ホットパンコーナーは店の右側にある。……嫌な予感がする)
こういう時の勘は冴えているというのだろうか。
戻ってきた男性は怒りを抑えるようにコードレスの受話器を持って現れた。
「今から警察が来る」
男性の言葉に、客が全員息を飲み込み、緊張が走る。
「警察が来るまでの十五分以内に犯人が名乗り上げるなら良し! さもなければ……」
男性は自慢の筋肉でコードレスの受話器を片手で破壊した。
なんという馬鹿力だ。
「ひいっ!?」
「は、何? 何なん?」
「ふぅん」
三人は各々、態度を変える。
恐怖におびえるサラリーマン。状況が理解できていない派手な女性。男性の態度に関心を持つ少女。
僕はと言うと……。
「おい、ガキ。テメエが一番怪しいってことに俺が気付いてねえ訳ねえんだよ」
男性が狙いを定めたかのように、ボーっとしていた僕に詰め寄ってきた。
「え、な……」
「確かに状況からすればサラリーマンのおっさんが一番怪しいが、見たところ普通に会計していただけみてえだし、とすると同じレジの前にいたテメエが一番怪しいし、バアさんの注意がサラリーマンのおっさんにあったとすれば、テメエが一番犯行可能なんだよ。
もし、俺や嬢ちゃんが犯人なら、レジから離れた俺たちがサラリーマンのおっさんやテメエに気付かれずにバアさんを襲うなんてどう考えたってできるわけがねえ。つまりは、テメエしか犯人になりえねえ」
分かったかと、したり顔で詰め寄ってくる男性に僕は息を飲み込んだ。
申し訳ないが、僕は本当にやっていない。僕がレジ付近にいたのは、レジ前に並べられている洋菓子を見たかっただけであり、他意はなかった。
そもそも店の老人が倒れた原因は病気か何かではないのだろうか。
僕は怒りを声に出して叫びたかったが、筋骨隆々な男性の敵意むき出しの視線と、派手な女性とサラリーマンの男性の侮蔑的な視線で、僕は俯き言葉が出なかった。
下手なことを言えば、きっと言い包められる。
(どうしよう、どうすれば……)
心臓が破裂しそうなほどバクバク鳴っている。
死に考えれば考えるほど、頭の中が真っ白だ。
目の前の男性は拳を手の平で包み、骨を鳴らしている。
このまま警察が来る前に鉄槌が下るか、それともーーー。
「ねえ、何で彼が犯人になっているの? そもそも、ここで犯人を決めるのはおかしいと思うんだけど?」
思わぬところからの擁護に、僕は顔を上げた。
同じ年くらいの少女だ。彼女は睨みを利かす男性の視線を真っ向から受け止め対峙した。
「ああん? なんだ、ガキ。テメエも仲間か?」
「ガキじゃない。林道 茜、私立聖ライナ学院中等部に通う華の女子学生。友達からは“リン”って愛称で呼ばれてるからリンでいいよ。この店に来た理由は、パン屋さんの焼き立てのパンが食べたかったから。あなたは?」
「はあ?」
「自己紹介。私たち、お互いが初めて会う人同士でしょ? 名前くらい知っておいた方が後々、困らないじゃない?」
「何言ってやがる、このガ」
筋骨隆々な男性の言葉を、派手目の女性がブーツの踵を鳴らして遮った。
不機嫌になる男性を横目に、派手目の女性は鼻を鳴らして、ツンッと顎を上げた。
「前野 絵里花。モールのアパレル店員、今日は出勤前にコンビニの量産的なパンじゃないパンが食べたくてここに来た。……これでいい?」
「はい。ありがとうございます、絵里花さん」
「絵里花………。まあ、あんたには名前呼びでも構わないけど、男が名前呼び捨てにしたら蹴り入れるからね」
ギロリと睨みを利かす絵里花――前野さんに、僕とサラリーマンの男性は思わず身を竦めた。
怒らせてはいけないタイプだ。
「あ、あの、わ、わた、私は、さ、佐藤 正夫。事務職の正社員、ここに来たのは、お腹が空いてていい匂いがしたから、です」
言葉尻につれてどんどんと声が小さくなっていったが、それでも聞こえた。
元々、内向的な性格なのかもしれないと思っていると、リンと目が合った。
「あ……。僕の名前は和谷 真、私立聖ライナ学院中等部の八学年です。この店に立ち寄ったのは、寝坊して朝ご飯とお昼ご飯を買いに来たからです」
心臓が破裂するくらいドキドキと呼応している。
まるでクラス替え直後の自己紹介のように緊張した。
「聖ライナ、同じ学校だね」
「そ、そうですね」
「私はE組、君は?」
「B組です」
「なるほろ、離れてる組同士だから会ったことがなかったのか、よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします」
思わず頭を下げると、頭の上からクスクス笑うリンの声が聞こえて、僕は耳まで赤くさせた。
一人だけかしこまった態度でなんだか恥ずかしい。
黙り込む僕を背に、リンは男性に向き直った。
「それで、お兄さんの名前は?」
男性は腕を組んだまま不遜な態度を崩さなかった。
「ふんっ、テメエらみたいな犯罪者に教える名前なんてねえよ」
「まだ犯罪者じゃない、容疑者だよ」
「同じことだ」
「同じじゃない。お兄さん、冤罪を掛けるのも犯罪って言うこと知ってた?」
リンに悪気はなかったのだろう。
男性はカッと目を見開き、拳を握り締めてリンに向かって振り下ろした。
リンは男性の腕を手刀で叩き、僅かに軌道をズラすと、自らの身体も逸らして拳を避けた。
男性は喧嘩になれているのか、たたらを踏むことなく右足を軸に体を反転させ肘をリンの顔目掛けて入れる。が、リンはさらに身体を屈めて避けて、片手を地面についたまま男性の懐に入り込み、脇に逸れて男性の背後に立った。
流れるような動作に思わず魅入っていると、ふとリンの瞳が赤くなっているように見えた。
(なんだ、あれ)
腕で瞼を擦り、もう一度、リンを見た時にはリンの瞳は蒼いままだった。
(気のせいか)
凄い乱闘を見て、気が高ぶってしまったのかもしれない。
僕は両頬を叩いて、気を取り直した。
何度、攻撃を仕掛けても尽く避けられてしまい、気が付けば男性の息は上がっていた。
「はぁはぁ、すばしっこいガキが……」
「これ以上は時間の無駄だと思うよ? ほら、そろそろ警察が来ちゃうでしょ? ゲームオーバーだよ?」
店のレジの横に飾っている掛け時計を見上げると、そろそろ十五分になろうとしている。
男性の言葉を信じれば、警察が到着してもおかしくない時間だ。
ボクや他の二人も男性に注視して成り行きを見守るが、男性は口端を上げて高笑いをする。
「くっかっかっかぁ………警察なんて来ねえよ。この家にある電話は全部ぶっ壊してある。助けを呼ぶにしても無駄だぜえ?」
「はあ!? 何言っちゃってんの! 頭大丈夫!」
僕の言いたかったことを前野さんが全て代弁してくれた。
こういう時、男の僕が前へ行くべきなのだが、小心者の僕には命綱無しバンジー並みの勇気が必要になるほど怖かくてできなかった。
「おばあさんが心配で警察呼んだんじゃなかったの!」
「ああ、確かに心配だが、それよりもやらなくちゃいけねえことがあんだよ」
「やらなくちゃ、いけないこと?」
おうむ返しに尋ねる前野さんに、男性はニタリと深い笑みを浮かべた。
「俺のことをバカにしたクソガキの躾だよ。バアさんのこたあ、その後でも構わねえ、まずはテメエに一発噛まさなきゃ、こっちの怒りが収まんねえんだよ」
パンッと、手の平に拳を打ち込む男性に、僕は全身が凍る思いがした。
今にも死にそうな老人を放っておいて、他人に怒りをぶつけるなど八つ当たりにもほどがある。
「な、なんて奴だ……」
僕の呟きが聞こえたのか、男性がギロリとこちらを睨んできた。
「聞こえてんぞ、ガキ二号。バアさんを助けたかったら、テメエが殴られに来いよ」
男性は腕を伸ばし、指先で僕を手招く。
このままでは、リンが殴られるまでこの緊迫した空気は解かれないだろう。
それなら一層のこと、ボクが殴られた方がマシだ。
僕はポケットに手を突っ込んだまま男性に向かって歩き出そうとしてーーーー止められた。
「リン、さん……?」
「そんな事をしても意味がないよ。後、警察なら佐藤さんに頼んで、今度こそ呼んでもらったから、すぐに来るよ」
振り返ると、携帯を片手に持った佐藤が眉を下げたまま半笑いしている。
(そうか、携帯があった!)
聖ライナ学院では、携帯の持ち込みが基本禁止されているから忘れていたが、中流家庭の一般人なら、携帯は常備しているはず。
例え、この店や家中の受話器を破壊しても無意味なことだ。
更にこちらがマウントを取ると、男性はギリッと奥歯を噛み締め、佐藤さんを怒鳴りつけた。
「なんで、呼んでんだよ!! まだ証拠だって見つかってねえのに!! このままだと、ここにいる全員が容疑者になっちまうだろうが!!」
佐藤さんは「ひぃっ!!」と悲鳴を上げて、その場にしゃがみこんだ。
「へえ、じゃあやっぱりアンタが犯人なんだぁ。薄々、そんな気がしてたんだけどねえ」
前野さんが面白がる風に言っては、男性は「あ”あ”?」と地を這う低い声を出して振り返った。
「だって、名前を知られたくないとか、警察を呼んだふりしておいて呼んでないとか、赤の他人を犯人にするとか、証拠云々とか、犯人しかやらない言わないことばっかりっしょ?」
「っざけんな、ビッチ女!!」
「はあ? 誰がビッチだって? こちとら、現彼氏が初彼&五年の付き合い中で一途なんスけど?」
「テメエみてぇな目グサレ女を彼女にするとか、マジで引くし笑いものだな」
「殺す……」
前野さんはピザ用のヘラを掴み、先端を男性に向けて構えた。
男性も真剣な眼差しで前野さんを見つめる。
「その辺にした方がいいですよ、誠二さん」
リンの言葉に、全員が注目する。中でも、一番驚いているのは男性――誠二だった。
「お、おま、名前……」
「名前くらいわかりますよ。山村誠二さんですよね? 千代さんのお孫さんの」
瞬間、僕たち三人に雷光が走った。
「ええええっ!! 千代さんって、この店のおばあちゃんよねえ!!」
「じゃ、じゃあ、君が犯人ってことは身内による犯罪……」
「俺はやってねえ!!」
「ひいっ!?」
佐藤さんの迂闊な発言を一括して、誠二さんは佐藤さんを黙らせた。
僕は状況が分からず、リンに視線を向けた。
「あの、どうして彼が誠二さんって分かったんですか?」
リンは僕を見てフッと笑った。
「簡単だよ。私はこの店に来る前に、裏にある居住区用の玄関の前を通りかかったから、この家に住む人間と家族の名前を知ることができたの。そして、誠二さんは千代さんが倒れた時に真っ先に言った『千代バア』って。つまり、誠二さんと千代さんの間には何かしらの関係があると推測できる。親子って考えるには、ちょっと年が離れすぎているから、孫なんじゃないかなって思っただけ。………合っていますか? 誠二さん」
真っ向から睨んでくる誠二に、リンが尋ねると、誠二は舌打ちをして顔をそむけた。
「ああ、そうだよ。ムカつくくらいに当たってやがる」
「ついでに、私の考えた推測を話してもいいですか?」
「………好きにしな」
誠二がそっぽを向くのを見て、リンは苦笑してから僕たちに向き直った。
リンの“推測”が始まる。
「まず、確認しておくべき点は、佐藤さん」
「は、はい!」
「あなたがこの店に来た時、お店は開いていましたか?」
「え、あ、空いて、……なかったです」
佐藤さんの証言に真っ先に食いついたのは前野さんだった。
「はあ? じゃあ、どうやってこの店に入れたわけ? まさか、不法侵入?」
「ま、まさか! え、と、そ、それは、開けてくれたんです」
「誰が?」
「あ、と、ち、千代さんが……」
その言葉に目を剥いたのは誠二だった。
佐藤さんは「ひいっ」と悲鳴を上げて身をすぼめた。
「なるほど、ありがとうございます。そしたら、説明が付きますね」
リンが一人で納得しているのに焦れたのか、前野さんは「どゆこと?」と尋ねた。
「はい。元々、千代さんは糖尿病だったのではないかと、私は推測します。人が病気で倒れた時に、真っ先に呼ぶべき救急車を呼ばなかった誠二さんや、この店や奥に見える部屋の様子から、救急患者用の器具が何一つ見られなかったこと、更に部屋のテーブルの上に置いてあるジュース缶を見て、そう結論付けました」
僕たちがバッと、レジの向こうにある部屋を見ると、確かに丸テーブルの上にオレンジジュースの缶が置いてあるが、あれが何になるというのかよく分からなかった。
僕が疑問を持つ間にも、リンの”推測”は続く。
「糖尿病の中でも、私が疑っているのは低血糖です。これは、食事量によって起こりやすくなるため、もしかしたら千代さんは朝食を食べずに佐藤さんを店に招き入れて接客をしていたのではないかと思います。更に質問ですが、その時、他にお客様はいましたか?」
「あ、は、はい。ぼ、僕は決めるが、遅くて、僕のほかに、二人、三人はいたと思います」
「佐藤さんの滞在時間は?」
「い、一時間くらいです」
「はあ? 一時間も決めらんないって、どういう神経してんのよ!?」
「ひいぃっ!! す、すみません!!」
いきり立つ前野さんに、佐藤さんは怯えて頭を抱えた。
確かに、一時間も滞在するのはどうかと思っていると、リンは小さく頭を振った。
「それだけ空腹だったのと、千代さんとつい世間話をしたからですよね?」
その言葉に、佐藤さんは救われた風に何度も頭を縦に振った。
「ち、千代さんは、こんな僕でも優しくしてくれて、パンの事や娘自慢をたくさんしてくれました。本当はコッペパンを買おうとしてたけど、千代さんの話を聞いていたら目移りしちゃって、それで……」
リンは笑顔で受け止め、頷いた。
「おそらく、千代さんはとても心が温かくて優しい方なのでしょう。それゆえに付け込まれやすい。だからこそ、狙われてしまったのです」
リンは誠二に向き直り、誠二は怖い顔でリンを睨みつけている。
「誠二さん、あなたは犯人が誰だか分かった上で、和谷くんを犯人にしようとしました。違いますか?」
「…………」
「家中の受話器を壊したなどと供述し、警察や救急車を呼んで騒ぎを大きくしたくなかったからではないのですか?」
「…………」
「誠二さん、犯人はあな」
「黙れえええぇぇぇっっ!!」
リンの言葉を遮り、誠二は後ろポケットに入れていた携帯用ナイフを取り出し、リンの首元のマフラーを引っ張り、ナイフの先端を首元に当てた。
「動くな!! これ以上の狂言に付き合ってられるか!! 犯人はこの中にいる!! そして、お前だ、クソガキ!! あの時、レジで何をした!! 何か薬を使ってバアさんを襲ったんだろ? ああっ?」
先ほどのリンの言葉の後では、いくら誠二が吼えたところで、他の二人の心にも僕の心にも何も響かなかった。
犯人はこの中にはいない。
そして誠二は知っているが認めたくない。
(誰が犯人なんだよ)
僕はギリッと下唇を噛み締め、誠二を睨上げると、百倍返しで睨み返され逸らしてしまう。
「てか、あんた、リンを離しなさいよ! その子は無関係でしょ!」
前野さんの言葉に、僕はハッと思い出した。そうだ、今は犯人捜ししている場合じゃない。
顔を上げると、血走った眼をしている誠二と、困ったような怯えているような顔をしたリンの姿があった。
「リンさん! リンさんを離してください!」
「お前が罪を認めればな」
鼻で笑う誠二に、僕の頭は沸騰しそうなほど熱い。
ここまで来て、まだそれを言うのか。
僕はチラリと店の中にある時計を見た。
まだ警察は来てくれない。
「その姿を警察に見られたら、あんたの方が警察に捕まるんじゃないの?」
「フンッ。凶悪犯から少女を守ったと供述してやる。そうだな、クソガキの動機はパン屋の金を盗むこと、だから店番をしていた千代バアが邪魔で殺害しようとした。いわば、強盗殺人犯ってところだな」
勝手に僕の設定を作るな。
口に出せたらどれだけいいだろう。勇気が出ない。
僕は口を開閉させ、顔を俯かせようとした。
「無駄だよ。どんな供述をしても、あなたの言葉は真実にはならない。そもそも、あなたが和谷くんを犯人にしたがる理由自体が子供染みてる」
リンの言葉に、僕は伏せかけていた顔を上げた。
「理由?」
「そう、誠二さんが和谷くんを犯人に選んだ理由は、少年法が適用される年齢だったから。大の大人が犯罪を起こすよりも刑罰は軽いから犯人に仕立て上げたとしてもそこまで深い罪悪感に苛まれることはないという自己愛。和谷くんと同じ年の私にしなかったのは、女子を犯人にするより男子を犯人にした方が、世間的には受け入れられやすいのと罪悪感を抱く比率を天秤に掛けたからかもね」
――少年法。
そういえば、そんな法律があったことを思い出す。
僕からしてみれば、法律は交通法以外、あまり馴染みがないため、パッと思い出せなかった。
(けど、そんな理由で犯人にされるのはかなり困るんだけど)
僕がチラリと誠二を見上げると、誠二と目が合い、思い切り睨まれた。
「………っ!」
「分かってんなら邪魔すんな! ガキのテメエが犯人なら刑は軽くて済むし、すぐに釈放される。それの何が悪いってんだ!!」
「全部だよ」
リンは声の質量を下げて、冷えた目で誠二を見上げた。
「全部が悪いよ。私はね、自分の利益のために人の幸せを奪う人間を絶対に許さない!!」
リンが睨みつけると、誠二のナイフがリンの喉を掻き切った。
赤い飛沫が跳ね上がり、前野さんは両手で顔を覆い悲鳴を上げ、佐藤さんは卒倒して倒れた。
僕が手を伸ばして「リンさんっ!!」と叫んだ、その時――――。
『ENDEYE発動』
脳内に機械音のようなものが響いたかと思うと、世界が歪み足元が覚束なくなった。
グネグネと宙に渦が巻かれ、まるでトリックアート展に言った時のことを思い出す光景だ。
身体の平衡感覚を失い、僕はその場に尻もちを付き、誠二とリンを見上げた。
(何だ、これは……)
血飛沫が飛び散る直前に、宙に浮いたまま止まっている。
誠二の身体が動かなくなり、リンは切り裂かれた喉元に手を当てて離した。
(!? 傷が消えた)
手を離したリンの喉元に掻き切られた傷跡はない。
だが、リンを凝視していたことで、リンが僕の視線に気付き、こちらを見て驚愕した。
「! 掴まって」
リンが手を伸ばす。
僕が「へ?」と間抜けな声を出している間にもリンは僕の手を掴み、地面に沈みかけていた身体を引き上げてくれた。
「うわああああっ!」
僕はあっさりと地面から抜け出して、リンに抱き付く形で凭れかかった。
少しだけ怖かった。
心臓がバクバク早鐘を打っているのを耳で聞きながら、僕はリンに叱咤される。
「君、何してるの!」
「な、何って」
「危うく、この世界に取り込まれるところだったんだよ!」
「この世界……?」
僕が左右を見ようとしたところで、リンの手が僕の瞼に当たる。
「これ以上は見ない方がいい。”常人”には耐えられない光景だから」
リンの手を離そうと上げていた手を下ろすと、リンのホッと息を吐く音が聞こえた。
リンが何者なのか、また何をしているのかは分からないが、気になったが今は聞ける雰囲気ではない。
僕は短く息を吐いて、己の中に居座る好奇心を外に出してリンに身を委ねた。
『PROJECTION』
再び、脳内に機械音が響いたかと思うと、足元が揺れて、謎の浮遊感に見舞われる。
グルグルとした気持ち悪さを感じていると、ふいに手を離され、瞼を開けると元の店内に戻っていた。
リンが僕のそばから離れると、僕は耐えきれずにその場に座り込んでしまった。
反動なのかは分からないが、誠二もその場に座り込んでいる。
リンは誠二の前に立つと、誠二の持つナイフを思い切り蹴っ飛ばしてナイフを壁際の棚の下へと追いやった。
「………っ!?」
「犯罪に手を染めるのだけは止めた方がいいよ。一度、付いた汚点は二度と消えないから」
「テメエに、ガキに何が分かる!!」
「分かるよ、……分かる。罪に落ちていく感覚はよく知っている」
リンは淡々とした口調で言った。
表情のない、まるで人形のような口調。
何故、そんなことを言うのか分からなかったけど、僕の心臓の鼓動は速くなり、リンの姿から目が離せなかった。
~・~
その後、到着した警察官に「店主が突然倒れて、驚いたため救急車と警察を間違えて呼んでしまった」と、佐藤さんが説明してくれた。
僕やリン、前野さんが学生だったこともあり、唯一の大人である佐藤さんが進んで説明役を買って出てくれたのは正直助かった。
オドオドしい態度をしていても、やはり大人だ。
説明中、誠二はずっと大人しくしていてくれた。
また、僕を犯人扱いするのではとひやひやしたが、その様子もなく警察への証言は終わった。
「今回はサンキュ。これ、あたしのメアド。リンにあげる」
「いいんですか?」
「モチのロン! 今度、あたしの働いてる店においで。可愛くコーディネートしてあげるからね」
ウインクを一つして前野さんは去っていった。
佐藤さんは、当分は警察への事情説明に時間がかかりそうなので、挨拶もそこそこ、僕たち二人はパン屋さんを出た。
「おい、ガキども」
店を出て、学校へ向かおうとした僕たちを誠二が呼び止める。
「これやる、迷惑料」
言葉短く、投げられたものは二種類の総菜パンだ。
レタスとチーズにウインナーを挟んだホットドックと、レタスとチーズとベーコンを挟んだサンドイッチ。
リンは空かさずホットドックを手にした。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
お礼を述べると、誠二はバツが悪そうに頬を掻いて視線を逸らした。
「……別に大したことじゃねえし。それに、そいつは口止め料だ! 分かってるな、クソガキ探偵!」
ビシッと指をさされたリンは、困った笑みを浮かべて「うん」と頷いた。
それだけで満足したのか、誠二は舌打ちをして二人に背を向けた。
「おいっ、クソガキ!」
「は、はい!」
「……悪かったな」
「へ?」
虫が鳴くほどの小声で言われたため、聞こえなかった。
聞き返すと、今後は盛大な舌打ちと共に思いっきりドアを閉められた。
一体、何だというのだ。
呆然とする僕の横で、リンはクスクスと笑い声を立てていた。
「そんなに笑うことですか?」
「フフッ、ごめんなさいね。つい、面白くってさ」
リンはホットドックの紙袋を解き、食べながら歩き出す。
僕も何となくリンの横に並び、袋を開けてサンドイッチに齧り付いた。
濃厚なベーコンの旨味が、シャキシャキのレタスと絡み合って美味い。
チーズはパンの真ん中にしかないらしく、まだ到達できないが、きっと一口齧っただけで舌が蕩けてしまう美味さになるだろう。
しばらくは、お互いに無言で貰ったパンを食べ続けた。
既に通学、通勤時間が大幅に過ぎているため、道は人気がなくシンとしている。
視線で誰もいないことを確認すると、僕は聞けなかったことをリンに聞いた。
「リンさんは知っているんですか? この事件の全貌を……」
僕には分からなかった。
真犯人が誰なのかも、誠二が何故、第三者を犯人にしたがったのかも。
まっすぐ、リンの横顔を見つめていると、リンは瞼を伏せて肯定する。
「うん、分かってるよ。だから、誠二さんは口止め料を私にくれたんだ」
自分が食べているホットドックこそが、リンが全ての謎を知っている証拠になる。
「……教えて、くれませんよね?」
恐る恐る尋ねると、リンは困った顔になる。
「教えられない」
ですよね。と心で相槌を打ちながら肩を落とす。
「だから、これは独り言だけどね」
バッと顔を上げると、リンは僕のことを見ないまま、飽くまで独り言の体で話し始めた。
「事の発端は早朝。あそこのパン屋さんの開店時間は本来九時なんだけど、今日は“たまたま”、お腹を空かせた佐藤さんが店の前を通りかかり、放っておけなかった千代さんはかなり早い時間にお店を開店させてしまった。そのため、店主である千代さんは朝食を食べることができず、糖尿病の薬を飲まなかったことから、低血糖を発症し倒れてしまった。
店にいた誠二さんは千代さんの身内なだけあって、一早くに低血糖ということに気付き、千代さんに糖を与えて安静にすることを選んだ。その時点で救急車を呼べば済む話だったけど、それができなかった」
リンは言葉を区切り、短く息を吸って吐いた。
「理由が、千代さんが低血糖になったのは彼女の娘、つまり誠二さんの母親の陰謀だったから」
突然、現れた第三者の存在に、僕は完全に意表を取られた。
「え? 娘さん? 陰謀って……」
「私が誠二さんの名前を当てた時、表札を見たって言ったよね?」
「うん……」
「そこに、父親の名前はなかった」
「え?」
「つまり、誠二さんの母親はシングルマザーで、経済的にとても厳しい位置に立たされていた。誠二さんの容貌から、おそらくは大学受験費のための犯行だったのではないかと推測できる」
「そんな……。そのために母親を?」
リンは頬に付いたケチャップを親指で拭い舐めてふき取る。
「母って言う生き物は、我が子のためなら他者を蹴落としてでも、我が子を守る本能があるらしいよ」
随分と曖昧な言い方をする。
だが、そうか。僕もリンもまだ子供で大人、ましてや母親の気持ちなんかわかるはずがない。
「……じゃあ、僕を犯人にしようとした理由って」
「母親を犯人にしたくはないけど、お金は必要。だから他者から危害を加えられた体裁を取りたかったんだと思う。誠二さんも、誠二さんの母親も」
ガードレールの外側に、車が一台通り過ぎて行く。
僕はやり場のない怒りと悔しさを抑えるために拳を強く握った。
「勝手ですね」
「勝手だよ、だから私は許せなかった。他人を貶めて自分を正当化する人間は大嫌いだし、それを人のせいにするなんて以てのほか。私は自分に誇れる自分になりたいと思ってる」
信号が赤に変わり、僕はリンと並んで止まった。
リンはまっすぐ前を見続けている。わき目も振らず、純粋で真摯的だ。
「格好いいですね、リンさんって」
「そう? そんなことはないと思うけど」
「そんなことありますよ。……僕には到底、できませんから」
自傷的に言うと、リンは眉を寄せて僕の額にデコピンを喰らわせた。
「いだっ!?」
「自分を否定しない。それに、まだ説明しきれてないよ」
「へ?」
僕は片手で額を抑えていると、青になった信号をリンが渡り出し、僕も慌てて後を追いかけた。
「どういうことですか?」
「まず、佐藤さんに関しては“たまたま”店の前を通ったというのはおかしなことだよね。だって、あの辺りに早朝やっている食堂はおろか、コンビニだってないのに、空腹の人間が通りかかると思う?」
「そ、それは……」
「佐藤さんが通りかかったのは偶然ではなく必然だった。誠二さんの母親は毎朝、六時~八時半までの間、近所の家々にパンのデリバリーサービスをしているのだけど、毎朝、標的になりえそうな人間を探していた」
「標的って、空腹の人?」
リンは小さく頷いた。
「大半の人はコンビニの方や駅へ行ってしまい、なかなか“都合の良い”人間が見つからなかったけど、今日ようやくその人物が見つかった。誠二さんの母は歩いていた佐藤さんに声を掛けた。『この先にパン屋があります。まだやっていませんが、私のことを言えば開けて貰えます』と。佐藤さんはその言葉を信じてパン屋へ向かい、千代さんと出会った」
「じゃあ、佐藤さんが千代さんと世間話をしたって……」
「おそらく、誠二さんの母親の言葉を伝えたことによって、千代さんが『うちの子は本当に優しいから』とか、娘自慢になったのだと思う。誰だって自分の身内を褒められたら嬉しいものだから、千代さんは警戒心を無くしたまま佐藤さんを招き入れた。一人を招き入れたことにより、パン屋はすでに営業していると周りの人間が認識し、お店に別の客が入っていく。これが一連の流れ」
リンはホットドックを齧り、粗食する。
僕はすでに食べ終わっており、サンドイッチの紙袋を丸めてポケットの中に突っ込んでおいた。
「人の心を利用するなんて、酷いですね」
「酷いよ」
モグモグとホットドックを齧るリンを横目にしていたが、僕は小走りになってリンの前に立った。自然とリンの足元も止まる。
キョトンとした蒼い目の中に僕の姿が映る。
濁りのない綺麗な瞳。だからこそ、聞きたい。
「どうしてリンさんは犯人が分かったんですか? それに、佐藤さんや千代さんの様子とか、“探偵の推理”なんて言われても納得できません」
リンと僕、それに店内にいた佐藤さんや前野さんも同じくらいの情報量だったはず。それなのに、何故、リンだけが犯人が分かり、動機や犯行内容まで分かっているのか。
前々から気になっていて調べていたと言われれば、そこまでだが、なんとなくそれは違うと思った。
リンも、パン屋に来たのは“偶然”だと思う。この前提が覆れば終わりだが、覆されない自信が僕の中に居座っていた。
真っ向からリンを見つめていると、リンはフッと笑みを零した。
「そうだね、和谷くんには見られちゃったし、話しておいた方がいいかもしれない」
そう言って、リンは目を閉じて開けた。
「……え?」
リンの瞳が蒼から赤に変わっている。
――瞬間、脳内に再び機械音が響いた。
『ENDEYE発動』
途端、視界が歪み、足が不安定になる。世界が歪み、絵具をぐじょぐじょに混ぜたような気味の悪い世界。
僕は立っていられず、その場に尻もちを付いた。
「な、に、これ……」
「私はここを『エンド・アイの領域』と呼んでいるけど、正式名称は分からない。十年前、突然、私の瞳に『エンド・アイ』が宿ってから、使えるようになった力。私はね、……人生の終わり、“未来を視る”ことができるんだ」
「未来が、見える……?」
「もちろん、ずっと視えているわけじゃない。エンド・アイの領域になった時だけの、私と目を合わせた人の未来を視ることができて、相手にも私が視た未来を視せることができるんだ。……信じられる?」
不安そうに聞いてくるリンには悪いが、到底信じられることではない。
(けど、辻褄は合うし、実際に見せられてるからなあ)
地面に手を付いてみると、地面は緩く簡単に手首まで沈んでしまう。全く持って現実味のない世界だ。
未来を視ることができるからこそ、犯人逮捕の現場や警察の事件調査の様子や結果を知ることができ、探偵風に説明ができたのだろう。
疑うだけ徒労の気がする。
僕は目を閉じてから開き、腹を括った。
「はい、信じます。……それにあなたは僕のことを信じてくれた。僕が犯人じゃないって真っ先に庇ってくれた人を疑うなんてできませんよ」
だから信用できるなんて、自分でも安直なことだと思う。
けど、危うく少年院送りだと考えると、リンには感謝してもしきれない恩ができた。
僕が微笑みかけると、リンは視線を逸らしていて、僕と目を合わせようとはしなかった。
この空間にいる間は、僕の未来を視ないようにするリンとは、目が合わないのだろうと勝手に解釈する。
「それは、違う」
「え?」
リンが顔をこちらに向け、僕と目を合わせた。
「和谷くんが犯人じゃないって分かったのはもう一つ、別の理由があったから……。和谷くん、あなたは強盗や殺人犯じゃない。小銭泥棒だ」
僕は小槌で頭を殴られた気がした。
信じようと思っていたのに、せっかく心を開きかけたというのに、何故、彼女は“分かって”しまったんだ。
二の次が言えなくなった僕を見て、リンは「やっぱり」と小声で呟いた。
「一つ言っておくけど、力は使ってないよ。ただ、あなたがあの店じゃなく、他の店でレジに並んでいたお客さんから、小銭を掠め取っていたのを見たことがあるだけ。さらに言えば、盗んだお金は、ジュース一本すら買えない極僅かなもの。だから盗まれた側も分からない。常習犯になりやすいタイプだよね」
僕は言い返そうと、口を開閉させるが不発に終わった。
きっと、彼女には何を言っても意味がない。
僕と正面から向き合っている時点で僕の負けなのだから。
「……凄いなあ、絶対にバレないと思ったのに」
「バレるよ。だって、やり方がワンパターンなんだもん。レジで会計している人にぶつかって、落ちた小銭を拾ってあげたところを僅かに掠め取る。拾って貰った人はお金が戻ってくるということで安堵して、もし足りないことに気付いても、それは落としていないと思い込むか、取れない場所に落ちてしまったと諦めてしまう。そんな人を選んでやっていたんだよね?」
問われて、僕はポケットに手を入れたまま苦笑した。
「そうだよ。けど、それなら何で警察に言わなかったの? あのまま僕を警察に引き渡すことだってできたのに」
“自分の利益のために人の幸せを奪う人間を絶対に許さない!!”
彼女の言った言葉が、僕の脳内を駆け巡る。
僕は僕自身のために他人を騙す真似をした。彼女の中の正義からすれば許されないことのはずなのに。
僕がまっすぐ見つめていると、リンはフッと笑みを浮かべた。
「言うわけないじゃん。……だって、あなたと私は同じ聖ライナ学院に通ってる同期だし、見捨てるなんてできないよ」
何てことのない風に言うリンに、僕は今度こそ何も言えなかった。
(完敗だ)
僕はポケットに入っているコインの盤面を指先で薄くなぞった。
彼女は気付いていない。
僕が本当に盗んだコインは、レジ付近にいた佐藤さんの物ではなく、財布を持ってうろうろしていたリンの物だということをーー。
僕がスリ擬きをしていたのは、平凡な日常にスリルを求めてとか、貧困した生活を送っているとかじゃない。
ただ単純に、自分の持つ影響力について考えたかっただけだ。
僕は学院では”その他大勢”に分類されるモブ的ポジションにいる。誰も僕を必要としない。僕のことを見ない。何か特別な能力が欲しい。何かをしたい。
そんな欲求が溜まって、スリ擬きを始めたのだ。
とても姑息で、矮小で、ダメな人間そのものの考え方だと思ったが、どうしても止められず、抑えることができなかった。
「僕は自分の空虚な心を満たしたくてスリを始めたんだ。リンさんには分からないよね
『エンド・アイ』なんて特別なものを持っているんだからさ」
僕が自嘲気味に笑うと、リンは同意する風に頷いた。
「うん、分からないよ。私は和谷くんの欲しがっている『特別なもの』を捨てたいんだもん」
「え? 捨てたい? 未来が視える力を?」
リンはコクリと頷いた。
僕には信じられなかった。漫画や小説によく出てくる未来を視る力を捨てたいだなんて理解できない。
考えていることが顔に出ていたのか、リンは困った顔になり苦笑した。
「分からなくてもいいよ。ただ、この力があるせいで、私は幸せにはなれない。私の周りも不幸になっていくだけだって分かったから、『パスト・アイ』の保有者を探しているんだ」
「『パスト・アイ』?」
「『エンド・アイ』の対になる力、過去を視る力のこと。昔、『パスト・アイ』の保有者が『エンド・アイ』の保有者の力を消してしまったって噂で聞いてね。だから探してるの。けど、『パスト・アイ』の保有者が、男か女か、老人が若者か、何一つ分かってないから、途方もない話なんだけどね」
ハハッと空笑いを飛ばすリンに、僕は何も言ってあげることができなかった。
現実味のない不思議な力を持つ人間を、何の手掛かりもない状態で探さなければいけないなんて無謀にもほどがある。
(こんな子が、同じ学院にいたなんて……)
リンは『エンド・アイの領域』を打ち消し、世界を元に戻る。いや、元に戻ったのは僕たちの方なのだろう。
「さ、これ以上遅くなるのも悪いことだし、そろそろ行こう」
リンはまるで何もなかったかのような振る舞いで、僕に笑みを与えた。
僕には本当に理解できなかった。
特別な力を捨てたいリンの気持ちも、リンの背負う重圧も。
”その他大勢”の一人でしかない僕は誰の特別にもなれない気がして、子供な自分が焦って起こしたスリを簡単に見抜いた少女。
(何だろう、このままじゃあダメな気がする)
明るく笑う彼女に、僕がしてあげられることと言えばーーー。
「リンさん!」
「? 何」
「手伝うよ。いや、僕にも人探しを手伝わせて」
僕の提案に、リンはこれでもかというくらい、目を真ん丸にさせた。
「僕にはリンさんが、特別な力を捨てる理由が分からないけど、リンさんが無茶をしていることだけは分かるから。”その他大勢”でモブ的ポジションにいる僕がどれだけできるかは分からないけど、ほんの少しでもいいからリンさんの力になりたいんだ」
ダメかな? と、両手を合わせてダメ押しをしてみる。
リンは驚いた顔から、泣きそうな顔に変わり、僕に背を向けた。
「あなたじゃあ、私の力になんかなれないよ」
「うん」
「『エンド・アイ』や『パスト・アイ』の周りには事件や事故が多発する傾向がある」
「うん」
「そんな場所にばかり出向かなくちゃいけないから、すっごく危険が多いの」
「うん」
「分かって、足手纏いなの!」
怒鳴り声を上げるリンさんの手を取り、僕はリンさんを引っ張った。
体勢を崩したリンさんと目が合う。
綺麗な蒼色の瞳。
エンド・アイが発動していない瞳はこんなにも透き通って綺麗なんだ。
「足手纏いでもなんでも、僕はリンさんの隣にいるって決めたんだ。だから、勝手についていくからね」
僕が笑みを浮かべると、リンは眉を下げて笑った。
「ストーカーじゃん」
「ストーカーでも、リンさんを一人にさせたくないって思ったから。それに、リンさんだって僕を見捨てなかったんだし、僕だってリンさんの秘密を知った今、見捨てることなんてできないんだよ」
先ほど言われたことを言い返すと、リンは笑みを浮かべて「揚げ足取り」と返した。
何と言われても、僕はもう気にしない。
日本、いや世界のどこかにいるはずのパスト・アイの保有者を見つけること。
それが今の僕にできるたった一つの“特別なこと”だからーー。
リンの手を引き、人とすれ違う。
僕の平凡な日常は今、終わりを告げた。
END