006「笑顔に一目惚れして」【Se003】
誰かにとって当たり前で退屈だと思っていることが、別の誰かにとっては新鮮で興味深いものであることがある。
たとえば、レディーファーストとか、初級魔法とか。
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四辻を曲がったところで、セレンは、チョークで落書きされた壁に背を預け、両手で顔を覆う。その指の隙間からは、頬が紅潮しているのが容易に見てとれる。
「薄着で歩き回ったから、風邪でも引いたかな。なんだか、身体の奥が熱くなってきた」
誰にともなく呟くと、セレンは顔から手をどけ、大きく深呼吸する。
そこへ、薄手のロングコートを羽織ったタングステンが駆けつけ、声を掛ける。
「探しましたぞ、まったく。なすべきことが山積しているというのに、こんな風紀紊乱なところで遊んでるとは」
「げっ、タングステン。指輪は、途中で置いてったはずなのに」
「私の目を欺くのは、十年早いですぞ。どこへ行きそうかくらい、長年お側に仕えていれば、おのずから推測できます。さぁ、ホテルに戻りますぞ」
「むっ。仕方ないなぁ」
不服そうな顔をしながら、セレンはタングステンが差し出す手を握る。タングステンは、その手を離さぬようしっかりと握り返すと、反対の手で懐からステッキを取り出し、杖先をホテルの方角へ向けながら呪文を唱える。
≪ツーリュックコンメン≫
すると、二人の身体の周りにほのかな光がともるやいなや、瞬く間にシルエットが粒子状になり、その場から霧のように姿を消した。
*
時間を少しだけ巻き戻そう。
テルルがオレンジを紙袋に詰めたり、セレンがテルルに声を掛けて魔法を披露したりしてる頃、物陰から二人の様子をジッと観察している男女が居た。
二人は、木箱やワイン樽の後ろに姿を隠しつつ、その隙間から抜け目なく見ているのである。
「どうしやす、親分。ホテルからつけてきたのは良いっすけど、あの貴族、魔法が使えやすぜ?」
「シッ。聞こえるだろう。静かにしな」
「あいあい」
そうしているうちに、セレンが四辻の向こうへと移動していく。男があとを追いかけようと通りへ出ようとすると、女は、男のベルトを掴んで引き寄せる。
男は、グエッと潰れた蛙のような声を出すと、バックルの上を手のひらでさすりながら文句を言う。
「止めるなら、腕を引いてくだせぇよ、親分」
「黙れ、ガマガエル。――わたしに、いい考えがある。ちょいと、耳を貸せ」
「おっ。何か閃いたんすね? さすが、親分」
男のヨイショを受け流しつつ、女は男に耳打ちする。話を聞いている男は、わかりやすく頷きつつ、しまりのないニヤケ面をする。
そして、話を終えると、二人はその場から違う方向に動き出し、別々に行動を始めた。