004「イライラ執事とニコニコメイド」【Se002】
毎日、毎夜、殿下なら、殿下として、と王家の伝統を押し付けられる。
もし、生まれる場所を選べるなら、今度は過度な期待をされない楽なところに生まれたい。
*
枕カバーを半分に折り、頭にバンダナか三角巾のように布を巻いて髪を隠したセレンは、もうすぐ市場の入り口が見えるという場所で、高台の方を振り返った。
台地にそびえる二階建てで石造りの立派な洋館が、片手幅ほどの大きさに見える。
「よし。ここまで来れば、誰も追って来ないだろう」
ホッと胸を撫で下ろしたセレンは、周囲を歩く通行人をそれとなく観察してから、スッと物陰に入り、懐からステッキを取り出し、杖先を自分へ向けて呪文を唱える。
≪ヘーレンモーデ≫
すると、貴族らしいシルクや毛織物で出来たフォーマルな装いが姿を消し、代わりに、木綿で出来た質素でカジュアルな服に変わっていく。
「こんなものだな。少し肌寒いけど、動いてるうちに、ちょうど良くなるだろう」
早着替えが終わったセレンは、全身を検めるやいなや、いたずらっぽく瞳を輝かせ、どこかワクワクとしながら、市場へと鼻歌まじりにスキップしていった。
*
一方、その頃のホテルは、というと。
「なるほど。シーツをロープの代わりにして、バルコニーから芝生へと下りたわけですね。坊ちゃまも賢くていらっしゃる」
「感心してる場合ではないですよ、クロム」
手入れの行き届いた庭をバルコニーから見下ろしつつ、クロムとタングステンが話し合っている。クロムは面白がっている様子だが、タングステンは頭を抱えているようだ。
「それで、どうしましょうか? お茶とお菓子の用意でもすべきかしら」
「のんきに帰りを待ってる場合ではありませんよ。すぐに探しに行かなければ」
「あら、大変。それじゃあ、お巡りさんにお伝えしなくちゃ」
メイドが寝室へ戻ろうとしたところで、執事が行く手に立ち塞がりながら、あきれたように言う。
「いいかね。そのへんの子供が迷子になったのとは、わけが違うのですぞ。一国の王子が、好奇心からホテルを脱走したなんてことが公になれば、王家の恥どころか、我が国全体の恥ではありませんか。ここは警備隊の手を借りず、隠密に行方を探って見つけ出すのです」
「でも、どうやって探すおつもりなんですか? 坊ちゃまの指輪なら、ご丁寧に置いて行かれたようですよ。――ほら、この通り」
メイドがシーツを手繰り寄せると、その端には、赤い半透明の宝石があしらわれた指輪が結び付けられていた。
「やれやれ。どうやら殿下は、どこまでも捜索を難航させるおつもりらしい」
執事は、シーツの結び目を解いて指輪を外すと、それを懐から出した紙に包んで懐にしまい、バルコニーから見える街並みを観察しはじめる。
「困りましたねぇ」
「君が言うと、ちっとも困ったように聞こえぬのだがね。……さて。探しに行くとしよう」
「坊ちゃまの姿でも見えましたか?」
「老眼であるのに、見えるはずなかろう。しかし、ここから眺めていた殿下の気持ちを考えれば、行きそうな場所の見当が付きましたよ。帝王学のレッスンまでには戻ります」
「行ってらっしゃいませ」
執事が足早にバルコニーをあとにすると、メイドは執事に一礼した頭を上げ、ふと、眼下に広がる風景を眺めてから、寝室へ戻ってフランス窓を閉めた。
タングステン【W】:執事。王子のわがままに手を焼いている。
クロム【Cr】:メイド。王子に振り回される執事を面白がっている。