016「わたしはパン屋の娘」【Te007】
お料理の最中に、そばに置いといたはずのおたまやお皿が見当たらなくて、いったん手を止めて全然違うところを探してから戻ってきたら、さっき居た場所のすぐ近くに置いてあったってこと、あるでしょう?
恋心って、そういう探し物と似てるんじゃないかな。
*
あの一件のあと、家に帰った姉弟は、といえば。
「「ただいま!」」
テルルとアルゴンが満面の笑みで家に駆けこむと、火を入れた暖炉のそばで、二人の母である女は、ロッキングチェアに座って編み物をしていた。
女は、二人の声や足音を聞くや、針を動かす手を止め、老眼鏡を毛糸玉を入れているカゴのフチに差し込み、両手を広げる。テルルとアルゴンは、揃ってその腕の中へ飛び込む。
「ごめんね、お母さん。もっと早く帰ってくるつもりだったのよ」
「おいらも、こんなに遅くなるつもりは無かったんだ。お母さん一人で、大変だっただろう?」
「ううん、良いのよ。こうして無事に帰ってきただけでも、お母さんは安心したわ。二人とも、お店のことより自分のことを一番に考えなさい」
「「はい」」
二人揃って返事をしたところで、テルルは家事を思い出して立ち上がり、膝の上に掛けられた毛布の上へ猫のように頬をすり寄せてるアルゴンに命じる。
「あっ、そうだ。夕飯の支度をしなくっちゃ! アルゴン。あんたは、洗濯物ね」
「えぇ~。おいらは、もうちょっと、こうしていたい」
「駄目よ。早く取り込まないと、湿っちゃうでしょう。ホラ、さっさと物干し場に行きなさい」
「はいはい、しょうがないなぁ」
「はい、は一回!」
「はーい」
ふくれっ面をしながらアルゴンが廊下へ出て右へ曲がると、テルルもあとへ続いて廊下に出て、左へと曲がった。
女は、二人が部屋をあとにすると、老眼鏡を掛け、針を手に持ち、目の数を確かめつつ、ふたたび編み物をはじめた。春物のニットベストは、もうすぐ編み上がる。
*
それから、さらに数日が経った週末のこと。街の小さなパン屋の前に、周囲の風景から浮いた立派な馬車が止められた。その、あまりにも場違いな登場ぶりに、物見高い野次馬が遠巻きに馬車を囲み、口々に噂話を始めている。
「ねぇ、お姉ちゃん。なんか、外がうるさくないか?」
「そうね。ちょっと様子を見てくるわ」
「あっ、おいらも行く!」
店番をしていた二人が一歩パン屋の外へ出ると、そこには、つい先日会ったばかりのクロムが、一通の招待状を持って立っていた。
宛名には、書き慣れないがゆえに、やや幼さが残る筆記体で「親愛なるテルル様へ」と書かれている。裏の署名は、もちろん「セレン・ニホニウム」である。




