過去と現在
──碧歴二十三年
青々とした草原と、手を仰ぐ眩しい程の群青の蒼空。
賑やかな黄色の声が飛び交い、笑いの絶えないこの街。誰しもが幸福だと謳歌した。
「今では、数年前の話だ」
活気に満ちていた大都市、白の街と呼ばれたその場所の正式名は、セントラル・ルイ街。当時、統括していた総責任者は慈悲深く寛大な人だった。貧困に陥った民に希望の手を差し伸べ、生きる為の資金に困らぬように働き場所を与えた。不幸な事故に遭った民には、生命が尽きるまで支援をするなど、天の神のような偉大な存在だった。
然し、突如悪魔は嗤う。
街の光であった総責任者は、病に倒れた。美しい手足は石のように硬直し、故郷を深く想う脳の活動は遅くなり一日の半分以上は眠りに陥り、民へ希望を語る声は錆ついたように色を失くした。唯一、世界を視る黒真珠のような眼は生きていた。刻一刻と蝕んでいく躰だったが、生命に満ちた宝石の様な眼は、ある者の心さえも一緒に蝕んでいった。
「…キミなら、死んでいく愛する人をどうする?」
窶れていく彼女を、彼はどう思ったのか。街の空気が静まり、神秘的な空間になる満月の夜。言の葉を喪っても尚、月の光を反射する漆黒の眼は、心を失くした彼にとって残酷で不必要だった。
死神はすぐ傍にいる。それでも彼女は、生きていたかった。その眼に生命を吹き込んで、この眼の視力が亡くなる最期まで、愛する街を視ていたかった。
「どこで間違えたんだろうか」
彼は、彼女の願いさえ聴こえなかった。死神に狩られる前に、愛する人の眼を奪った。悲鳴など無い。主から離れても輝きを放つ二つの黒き眼は、愛された人の手の中にある。
夜が明け朝日が昇る頃には、街の光である女神は深海のように冷たくなっていた。瞼を固く閉じ、涙の痕を残していた。
「…ごめんな」
(こんなのを望んだ訳じゃない…はず、だ)
あの頃より少し大きくなった。でも、握り締める小さな手には重すぎる。無知に笑うこの幼子は、いつ知るのだろうか。自分の母親が父親に殺された、という事を。出来れば知らないまま時間を過ごして欲しい。そう願うのは傲慢なのだろう。然し、反する二人の意志をこの子が知らぬ内に受け継いでいるとしたら、それは紛れも無く残忍だ。
(私にとって尊いあの二人の子だ)
「見守る事しか出来ない私を、どうか…赦してくれ」
「新人研修を修了した諸君たち、我が神の神聖なる領域へようこそ」
白の街の中央に位置するこの建物は、病を患った民を保護し、病を完治させ、元の生活へと送る医療機関だ。通常の病院と同じように見えるが、これは表向きであり実際は少し違うと聞いた。
「諸君らも知っていると思うが…此処は、神の加護で護られた素晴らしい場所だ。命が失い命が生まれる場所でもある……だが!!違う!!違うのだ!!そんなの生温い!!」
地割れでもしたのかと勘違いする程の雄々しい声。周りを激しい電流が走ったのではないか、と全身に悪寒を感じさせる。一気に空気が張り詰め、まともに息が出来ない。緊張が足先から頭のてっぺんまで強張り、心臓が締め付けられる。
「…しっかりしろ。怖気付いたら終わりだ」
背中越しに微かに触れた温もりが、一瞬にして気を正す。荒れた呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、緊張が解けていく。隣に立ち支えてくれたのは私の兄であり、お義父さんが経営する仕事の秘書であり代理責任者という肩書きを持つ、クロ・スミスティーナ。
「ごめんなさい…クロ兄…」
「謝るな、この空間でギリギリ立っていられただけでも凄いぞ。周りを見ろ…圧迫感で潰れている奴らが大半だ」
研修修了で集まった者は、僅か五十人。研修試験では千人以上いたはずだった。然し、試験終了後にいたのは百人程度。そして、面接及びに医療に関する実施試験を行い、最終的に生き残ったのが今の人数だ。この圧力に耐えているのは、ざっくり数えて二十人程。その中で顔色を変えずに姿勢を保っているのは、兄のクロを含め十人以下。これが本当の最終試験って事か。
「この建物内には、人種が三種類いる。ひとつめは、救済を求める者。所謂、患者だ。ふたつめは、救済に応じる者。諸君らの殆どがその者たちだろう。…そう、医師と看護師だ」
高い位置に彼がいるのは分かっているが、それ以外に違う存在感がある。彼の背後に、恐ろしい何者かがいる。圧倒しているとクロの指が私の唇に触れた。噛むなよ、と声を出さずに口を動かしていた。無意識に噛んでいたようだ。微かに血の味がする。
「最後は、救済を死守する者。……神は赦された!!我が神は、救済を求め応じた者を護る為の武器を赦して下さった!!嗚呼…なんて、慈悲深い!!麗しき存在だ!!私は、神様をお慕いしています!!」
(狂ってる…あんなの信仰じゃない…)
まるで愛に飢えた狂人、一方的に想いをぶつけて満足している自己中心的な人。あれでは、神様も苦痛だろう。束縛に似ているのだから。
「…私は、諸君らを歓迎している。神の加護があらん事を。あぁそうだ。救済を死守する者である計七人よ、キミたちは後で私の部屋に来るといい。良いものをあげよう。神からの贈物だ」
(……っ!?)
瞬時に殺気を感じた。あの人が後ろを向く時、こっちを見た気がする。横にいる兄は何も感じていないのか溜息を吐いている。圧迫感から解放された者たちは、ゆっくりと立ち上がっていた。
(私の…勘違い…?)
「もう見るな。あの人の瘴気は、父さんとは別だ」
「お義父さんと違う…そうだね、色が違います」
「手出すなよ…変態野郎」
「え?クロ兄、何か言いましたか?」
「いいや何も」
あの人の口から語られなかった。
神の加護がある病院、ルイスジル・ホスピタル。別名、ブラック・ホスピタルと言われた謎多き医療機関には、ある噂があった。訓練された看護師がいる、という。特殊な試験を突破し、人選された数少ない逸材。救済を死守し、任務を全うする存在。それが、神の鉄槌と呼ばれた護衛看護師だ。
「兄さん、私ね…」
「……怖くなったか?」
「ううん、お義父さんのご命令で来たけど…将来の夢である看護師になれて、嬉しく思ってます」
「そうだな。まあ、普通の看護師じゃないんだけどな」
確かにそうだ。そこらの看護師じゃない。救済を求めた患者、それも一般人じゃない有名人といった勲章を掲げる大物を第一に考え護り、国宝を護衛しながら敵襲を阻止し殺害しなければならない。それが、訓練された看護師だ。
自身の生命を国宝に捧げよ、それは神の宝なのだ。
あの人が狂うのも解る。全て神様の為だと医師と看護師たちに言い伝え、この病院内を牽制している。神様の存在を過剰に受け止めすぎた結果が、あの狂人へと変化させたのだろう。
「あ、クロ兄、あの人は結局何者なんですか?」
「何者…そうだな、副医院長だな。一応言うが、あの人は今年で二十の真ん中だ」
「……え!?失礼ながらに、私…五十はいってるのかと」
「そう見えるのも解るが、あれは只の変装に過ぎない」
病院内で一番広い会議室から出て、兄の話を横で聞きながら歩みを進めていると外来棟に到着していた。表と裏がある病院でも外来診療はきちんと存在している。然し、有名人と一般人の診察場所は勿論の事、鉢合わせにしない為にも別けられている。その為か、医師と看護師の中でも、色違いの服装と表裏のクラスを右腕の袖に記されている。
「白の制服、右袖に黒の二重線、あれが表側の医師だ。その横にいるのが看護師だな」
一般外来棟の裏側に位置する場所、それが有名人だけ診察する外来棟だ。裏向きの医師と看護師、護衛看護師しか知らない扉がある。セキュリティカードと登録された虹彩認証が必要となる。私と兄クロを含め計七人は、裏側へと案内された。
「兄さん、この建物って…」
「分かったか?外から視ても不自然は無い。でも…」
「でもね、中は異様なんだよ~?」
鈍いのが響いた。兄が拳骨を下ろした音だ。
私の傍で蹲るのは兄の親友である、ハルト・マグルス。喋り方同様に見た目もチャラ男だが、兄との武闘対決で互角になるか、どちらか一方が体力切れで降参するかで決めなくてはならない程の実力人物だ。
「クロ~、ひどくな~い?ルイちゃん、叱ってよ~!」
「ハルト黙れ。お前、緊張感が無さすぎだ」
「冷静があるって言ってよ~」
「建物の上から観たら、真っ二つに別れてるって事ですか?」
「…そうなるね、まさに二つの顔を持つ病院って訳だね~」
「勘のいい患者が居れば、大騒ぎになるけどな」
「今まで公にならなかったのは、上が動いてんだろうね~…ほんと、虫唾が走る。俺のルイちゃん、変態野郎には気をつけてね~?まあ、俺が護るから大丈夫だけど~」
「黙って聞いときゃ…なーにが、俺のルイちゃん、だよ」
「え~、だって、クロの妹なんだから俺のかわい子ちゃんってなるでしょ~?」
また、鈍い音が響いた。昔からだ。この二人は仲がいいのか仲が悪いのか。でも、喧嘩をするほど仲がいいと聞く。もしかしたら、これでもお互いを信頼しているのだろう。
言い争いをする二人の手を握り、前を向く。
表側の医師と看護師とは違い、裏側は異空間だった。黒の制服、左腕の袖に白の一重線。喪服をイメージしているような服装だった。然し、それは序の口に過ぎない。医師と看護師の腰周りをよく視ると、上手く隠されているが武器を仕込んでいた。只あれは護身用の小型銃と折り畳みナイフだ。
(殺傷能力は低いけど、時間稼ぎにはなるって訳か…)
護衛看護師がいても、その者たちは患者優先で行動するよう義務付けられている。だから、医師と看護師は護身用を持ち歩いて職務している。危険な業務なのに辞めずに働いているのは、給料が良いからだろう。通常よりも十倍、成績によっては三十倍の大金が入る。自分の命よりも金に目を眩み、場合によっては死を体感する。生きていなければ、必死に働いた金を使う事が出来ない。
(生命を粗末にするな。まさに、この事だ)
「はあ~ん…ルイちゃんのその貶すような眼、俺すきだよ~」
「ハルト、それ辞めないと嫌われるぞ」
頭上で話す二人の声を、私は居心地いいと思いながら、普通の人には見えない黒い瘴気を眺めていた。
神聖な領域である病院、ルイスジル・ホスピタルの副医院長の部屋は、もうすぐで辿り着く。
どうか、穏便に終わる事を願うが、果たして叶うのだろうか。
──碧歴三十年
まだ肌寒いが、春はそこまできている。