ウールワームはどこへ逃げたんですか?
部屋と駅とをつないでいるこの通路にはいつも嫌な風が流れています。風は鉄道の唸り声を運び、そして通りかかった部屋のドアを残らず叩いていきます。この通路は天井まで、ぐるっと茶色のレンガを貼りつけてあり、そのせいで方向が分かりづらいですが、風に向かって歩けば駅があるんだとみんなが知っていました。
最寄りの駅は正親町駅で、工場のある東山駅までは電車で40分かかります。電車に窓はあるのですが、その向こうに見えるのは壁と真っ暗な空洞だけです。ただ唸り声だけがごぉぉと聞こえ、その声が窓をふるわせているだけでした。姿の見えない怪物か何かがそこには住んでいて、きっと誰にも気づいてもらえないのでしょう。
工場は東山駅とつながっていて、いつも多くの人が働いています。正親町駅と比べても格段に大きく、いつも変なにおいがしています。ユウはここで2年働いていたけれど、どうしてもウールワームのことが好きにはなれませんでした。大きく育って(最大で50cmにもなります!)マユを作ったと思ったら茹でられてしまうのも哀れだと思ったし、その茹で虫が加工されてほかのウールワームの餌にされているのも可哀想だし、とにかく好きにはなれませんでした。しかし彼らのおかげで紙や服をつくることができていますし、感謝してはいるのですが、そこはもう気持ちの問題です。無理なものは無理でした。
工場にはいつも偉い人が5人くらいいて、仕事を監視して文句を言ったり注文をつけたりしています。彼らはいつもきれいな服を着て、ウールワームを嫌悪し、作業員を軽蔑しています。だからユウや仲間たちはいつも気分が悪かったし、仕事をしていて楽しいと思ったことはありませんでした。そして、彼らの気に入らない仲間は決まって再生区へと送られていました。偉い人は、とにかく絶対なのです。
しかし今日は少し様子が変です。
「逃げたぞ、逃げたぞ」
「大変だ、大変だ」
みなバタバタと走り回ってそんなことを口走っています。ユウはいつも指示を出している髭の生えているメガネの偉い人に呼ばれて管理室で何人かの仲間と説明を受けることになりました。
「つまりはそういうわけなんだ。聞いたとおり虫が逃げてしまってね、とても困っている。だから今日は逃げた虫をつかまえてほしい」
仲間の一人が質問しました。
「ウールワームはどこへ逃げたんですか?」
「そんなことは私たちは知らん」
ヒゲメガネはそれだけ言うとくるりと向きを変えて管理室の奥へと歩いていきます。つまりは出て行けということです。ユウたちは部屋から出てウールワームを探すことにしました。しかし、あんなニョロニョロしたものがあちこちに隠れているのかと思うと正直ゾッとします。
あらためて仕事場を見回してみると、マユはありますがたしかに飼育区にはウールワームは見当たりません。きっとここにはもういないんだろう。ユウはそう思ったので、とりあえず外に出ることにしました。しかし外のどこにいるのか検討もつきません。
「君も?」
外に出てすぐに声をかけられたので振り向くと、そこにはミオがいました。
「そうなんだ。やっこさんにウールワームを探してこいって言われてね。でもどこにいるのか検討もつかないんだ」
「奥のほうが怪しいと思って見に行くところなんだけど、君も一緒に行く?」
「行きたいけど怒られないかな?」
「理由があるからきっと大丈夫」
ユウはミオの後ろについて歩いていきます。いつもは通らない工場の横を通り抜け、奥にある製紙工場よりさらに奥に向かいます。このあたりからは灯りがぐっと少なくなっているし、レンガがなくなって地面もデコボコだらけで危ないので本当は入ってはいけませんが、今日は特別です。破ったときの罰則も一緒に書かれた立ち入り禁止の看板もありましたが、それも見なかったことにしました。この辺りは工場のある場所と比べるとずっと狭くなってきているようにユウは感じました。背中を押す風が少しずつ強くなってきているからです。そして例のうなり声も聞こえてきます。
「ねぇ、僕はいつも思うんだ。この音を聞くたびに世界にはもしかしたら目に見えない怪物がいるんじゃないか、って」
「君は本気で言ってるの?」
「誰にも見つけてもらえない事が悲しくてこうやっていつも鳴いてるんだ。そうは思わない?」
少し考えてから、ミオは答えました。
「ア·バオ·ア·クー」
「なんだいそれ?」
それは姿の見えない怪物なのだと教えてくれました。ユウがいつも想像しているのとは少し違いましたが、よく似ている気もします。やっぱり姿の見えない怪物はいるんだ!
「なんかくさいよ」
そう言ってミオは立ち止まりました。クンクンとにおいを嗅いでみると、確かににおいます。このにおいはユウもよく知っています。仕事場の、ウールワームのにおいです。しかし、灯りが弱くてよく見えません。いったいどこにいるのでしょう。ミオを見ると、顔を少しかたむけてニヤッとしています。何か言いたそうです。
「実はライトを持ってきてるんだ。今からつけるよ」
ライトはそんなに明るいものではありませんでしたが、まわりを見るには充分なものでした。この辺りの景色はユウも初めて見るものです。上も下も横もタイルが貼られておらず土と石がむき出しになっています。そしてどうやらこの先には進めないことがわかりました。これは想像ですが、おそらく東山駅の一帯は三角形になっていて、駅のほうが底辺、この辺りが頂点になっているようです。その頂点のくぼみに、ウールワームがびっしりと貼りつき、うごめいています。もしミオがライトをつけてくれなかったら、おそらく二人してこの生きた壁にぶつかっていたでしょう。考えると全身があわだちました。ミオは壁に近より、興味ぶかそうに壁とその周辺をながめています。ユウは黙ってその様子を眺めていましたが、ふといたずらをしようと思いつきました。大きな音がすれば、きっとミオはびっくりするはずです。
大きく息を吸い込んで声を出そうとしたその時でした。ミオは振り返ってこう言いました。
「どうしてここに集まっているんだろう。君はどう思う?」
目が大きく開いていて、なんだかうれしそうです。吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出しながらユウは考えました。どうしてここに集まっているんだろう。駅のほうではなくて、どうしてこちら側なんだろう。何か理由があるのだろうか。
「この先は行き止まりかな、それともまだ続いているのかな。君はどう思う?」
「行き止まりだね。だってここに壁がある」
「そうかな。ミオにはウールワームに見えるよ」
「ウールワームが貼りついている壁じゃないか」
「でも君はここが壁だったなんて知らない。そうだね?」
「それは認めるよ」
「だったらここはまだ壁じゃないよ、君。つながっているのかもしれない」
「つながる?一体どこにつながるっていうんだい?」
「分からないんだけどね。でもミオはあえて挑戦しようと思う。この生きた壁の奥に」
「この奥に一体何があるっていうんだい?」
「Hello, world!」
ミオは両手を広げてそう言いました。
「なんだい藪から棒に」
「『空』って知ってる?」
「知ってる。本に出てくる空想上の大きな天井のこと」
「それは実在すると思う?」
「しない。見たことないからね」
「どうして?」
「どうしてって、そんなものどこにもないじゃないか。この世界の天井はレンガと土でできている。子供だって知ってるぜ」
ユウは空があったと言われる天井を眺めてみました。でもそこにはいつもの通り、天井があるだけです。
「ねぇ君、もし空があるとしたらどうだろう」
「バカバカしい。そもそも僕はこの鉄道がどこまで続いてるのかさえ知らないんだぜ? それ以上のことをどうやって知ればいいんだ」
「知らなければ知らない。知れば知ったことになる。方法を先に考えるなんてナンセンス」
「なんとも言えないな」
「ミオと君は、世界を知る最初の人間になるんだ。誰も知らない世界がこの奥にあるとしたら、君は見てみたいと思わない?」
「この虫の奥に?」
「この虫の奥に」
うしろの駅の方から嫌な風が流れてきます。風は鉄道のうなり声と工場の喧騒を運んできます。目の前には探していたウールワームがたくさんいて、そしてその奥には可能性があるそうです。ユウはいつも欲しいものがあるときに無意識に手をのばします。足でも口でもなく、手をのばすのです。しかし今回は引っ張られる形で手をのばすことになりました。ミオはユウの手を取り、歩き始めました。そこになにがあるのかはまだわかりませんが、ユウは自分の意思で、一歩目を踏み出しました。