第九話 悠々閑適
バトル回に比べて、日常回は難産になる。そんなSIOYAKIです。
◇
「桜さんが居ると、この家が温かくなった気がするんだ」
純和風とは程遠く、しかし完全な西洋建築という訳でもない。近現代では、ごく一般的と言える一戸建て。
周囲の家屋と殆ど同じく、些細な違いが拘りだろうか。住宅街の景色に紛れて並び立つ一軒家の一つが、少年の生まれ育った場所である。
家庭用と言うには少し大きめのオーブンを前に、エプロンと鍋掴みを装備している黒髪の少年。
澄ましていれば、まるでなよ竹の輝夜姫。そんな美麗な少年の傍らに浮かんだ半透明の幽霊は、キッチンを見回し一つ思う。
(今日も、誰もいないんですね)
寂しい。西行寺玲菜がこの家に感じるのは、そんな感想。人の気配と言う物が、どうにも不足している。
響希に憑り付きこの家に来て一月近く、玲菜は響希の家族を数回程しか見ていない。三週間が経過したと言うのにも関わらず、だ。
響希が言うには、母と叔母との三人暮らし。特に看護師である母は、看護師長としての立場もあって忙しいのだと。
朝早くに出発して、深夜遅くに帰って来る。夕方に家を出て、明け方に帰って来て日中は寝ている。或いは、そもそも家に帰って来ない。
不定期が過ぎるシフトと、責任者としての立場。それを考慮すれば、ある程度は仕方がないのだろうと思う。だがそれにしても、度が過ぎているとも感じるのだ。
まるで顔を合わせる事を避けているかの様に、腫れ物にどう触れて良いか分からないと言うかの様に。
それも母子双方揃ってだ。玲菜ですらそう感じる程に、親子間の会話は少ない。互いに顔を合わせても、言葉に詰まってばかり居る。
(……家族なのに、どうして何でしょうか)
亡霊となった今では微かにしか覚えていないが、それでも玲菜にだって家族は居た。掠れた記憶の向こうにあるのは、それでも温かだと思えた情景。
断じて、冷たい場所ではなかった。冷えた関係性であって良い物ではないと、玲菜はそう思っている。故にこそ彼女は真っ直ぐに、思った事を響希に問うた。
どうして親子なのに、そう問い掛けた玲菜に響希は苦く笑う。そうして彼は、しかし語らず口を閉ざした。
話したくないと言うよりは、話しずらいと言う態度。言葉を濁したその事実に、追及する程の無神経さは少女にはなかった。
話せる様になったのなら、何時か語ってくれるだろう。そう結論付けて、それでもやはり玲菜はこう思うのだ。
この家は寂しい。一家団欒の温もりと言う物が欠けている。それはきっと、とてもとても悲しい事なのであろうと。
(けど、響希さんは、其処まで気にしてないような。……一体どうしてなんでしょうか?)
そんな風に悲しく思う玲菜と違って、響希の表情に其処までの暗さは存在しない。
其れはある種の慣れも確かにあるのだろう。だがそれ以外にも、確かな理由が其処にはある気がした。
その要因が何か、玲菜には分からない。それでも、きっと悪い物ではないのだろう。
もしもそれが悪い物だとすれば、彼がこんなにも柔らかい表情をしている筈がないのだから。
「ん。そろそろ、かな?」
タイマーの高い音が響いて、響希はキッチンに置かれた木の椅子から立ち上がる。
とてとてと小走りに、オーブンに近付き膝を屈める。片足をついてから扉を開くと、甘い香りが充満した。
中から出て来たのは、一口サイズの小さなクッキー。チョコレートが付いたそれを一つ摘まむと、味見と称して口にする。
焼きたて故の熱さに舌を痛めつつ、それでも味は及第点。売れると言う程ではないが、子供の趣味としては上々の出来だろう。
「美味しそうに焼けましたね~。お菓子作りも、得意なんですか~?」
口に広がる優しい甘みに、響希は整った顔をふにゃりと笑みで崩す。
そんな響希の肩口に寄り掛かりながら、玲菜は覗き込んで涎を垂らした。
頬を緩めた響希を羨ましそうに玲菜が見るが、彼女は血肉も通わぬ幽霊だ。流石に飲食を行う事は出来ない。
手を伸ばしても掴めない現実に、そんな事実を思い出して落ち込む玲菜。そんな姿に苦笑しながら、響希は大した物ではないと謙遜した。
「自炊の延長だから、大した物は出来ないけど。少しは、ね」
温かい物を食べる為には、自炊をする以外に術はない。そんな母子家庭で育ったからこそ、身に付いた調理技術。
学校で調理実習を習った事を頼りに、最近では料理本にも目を通す様になった。それでも我流に近いそれは、自慢できる程の事じゃない。
市販の物を使った方が、何倍も美味しいと言えるだろう。それでもお菓子を作る理由の半ばが趣味ならば、もう半分は。
「取り敢えず、手作りのお礼の方が、話題にはなる……よね」
親友である恭介より与えられた無茶振り対策。武梨綾斗を仲間に引き込む、その為の第一歩。
先日の一件へのお礼を兼ねて、手作りお菓子を持って行く。自由になるおこずかいも少ない響希の、それはそんな苦肉の策だ。
「もっとちゃんとしたのが作れれば、良かったんだけどさ」
こんがりとしたきつね色のクッキーを、皿に移しながら自虐する様に語る。
本来ならば、人に出せる程の物じゃない。そんな風に語るのは、物の出来以上に本人の性格が故であろう。
そう思う玲菜だが、彼女ではそれを保証する事が出来ない。幽霊は食事が出来ないのだ。故に一緒に味見をして美味しいと、そう言ってあげる事すらも出来はしない。
(いいえ、出来ないと諦めるのは早いですッ! 頑張ればきっと何か手段があるかもしれませんッ!)
神棚に捧げられた供物などが、気が付けば消えていると言う怪談話は存在している。幽霊が現実の物を奪うと言う逸話は、決してない訳ではない。
そんな知識がある訳ではないが、それでも直感的に出来ない事ではないと悟る。そんな玲菜はどうすれば出来るだろうかと、頭で考える前に行動に移った
「うむむむむむむむぅぅぅ」
「……何してるのさ」
「うむむむむむむぅぅぅ。気合を入れればー何とかなるかとー。うむむむむむむぅぅぅ」
焼き菓子一つに手を向けて、何故だか唸り始める幽霊。そんなシュールな光景に、思わず響希は息を吐く。
まるでスプーン曲げをしようと企む子供の如く、無意味に力み続ける彼女。冷静に考えれば愚かしい姿だが、それでも悪い気はしない。
それはきっと、少女が本気だからだろう。心の底から食べたいと、その為に努力している。
例えやり方が間違っていても、それ程に感情を向けられる。その事実に嬉しいと思う感情が湧かない訳がないのである。
とは言え、所詮は幽霊。ポルターガイストの要領で物を浮かべる事は出来ても、食す様な真似は出来ない。
気合と共に浮かび上がったクッキーは、されど少女の身体を摺り抜けて落ちていき――床に当たって砕ける直前に、横合いから伸びた白い手が掠め取っていた。
「ふぉぉぉぉぉ!? お菓子落ちる前にナイスキャァァァッチッ! そしてそのまま、お口にシューッ! 超・デリィィィシャスッ!!」
「あぁぁぁぁぁっ!?」
調理台の直ぐ傍にてヘッドスライディング。落ちる直前に掴んだお菓子を、そのまま口に投げ込み咀嚼する。
何処からともなく現れたのは、ピンクの色した乱入者。だらしない恰好をした女性にお菓子を奪い取られた玲菜は、悲痛の叫びを上げていた。
「もぐもぐもぐもぐ。いやー、久しぶりのお菓子は良いねぇ。ってか桜さん、そう言えば固形物食べたの二週間ぶりくらいかもー」
乱入してきたのは、白地のTシャツとパンツ一枚と言うだらしない恰好をした豊満な女性。丁度結婚適齢期の、よく見れば美しいと言える女。
そんな彼女は己を恨めしそうに唸り声を上げる幽霊には気付かず、寝癖に乱れた桃色の髪を片手で掻く。そしてもう片方の手を皿に向かって伸ばす女性に、響希は少し呆れる様に息を吐いてから口にした。
「桜さん。お籠りはもう御終いですか? ……それと、またご飯食べてなかったんですね」
「んー? いやー、それがね。諦めましたよ。色々と。桜さん、もうダメー」
もぐもぐと口を動かし、口の中身がなくなる前に次へと手を伸ばす。そんな行儀の悪い女性が、響希が寂しく思わぬ理由の一つ。
龍宮家の同居人にして、母方の妹。響希にとっては叔母に当たる彼女こそ、本人は酷くだらしないのに他人を着飾らせるのが好きと言う傍迷惑な趣味を持つ翻訳家。龍宮桜その人だ。
「また担当さんに怒られちゃいますよ」
「ふふふ、甘いね。響希ちゃん。このチョコチップクッキーのチョコより甘いぜぃ」
龍宮桜には一つ、悪癖と言うべき習性がある。響希がお籠りなどと称するそれは、一言で言えば高度な引き籠りだ。
仕事の締め切りが迫って来ると、彼女は集中する為に自室に籠る。ポータブルトイレと一月分の水と食料。サバイバルをするかの如き完全装備で、一歩も表に出て来なくなるのである。
効率良く仕事を進めていれば缶詰する必要もないだろうに、ギリギリまで己で追い詰めてしまうのは芸術家気質と言う物か。
毎度毎度締め切りが迫った時期に自分で引き籠る。そんな彼女が表に出て来たと言う事は、仕事が終わったか仕事を諦めたかのどちらかだ。
「んまんま。締め切りなんて、何時も通りですよ。ぶっちぎってやりゃ良い訳ですさー」
「……確か、今回は結構重要な案件だって言ってた様な。えっと、今度映画化される作品の、台本を日本語訳にする作業でしたよね?」
「んまんま。馬鹿だなー響希くんちゃんは。今の桜さん的に、美少年の手垢を桜さんの脂肪に変える作業以上に重要な事なんて何もないのですよ。あ、最近ウエストサイズが不安になって来たんだよねぇ。年かー、年かー」
そして、今回は後者だった様である。重要な仕事を放り投げ、甘味を貪る姿は正しく駄目な大人。
また締め切り日になったら慌てるんだろうなと思いながら、全てを食べられてしまう前にと響希は焼き菓子を別の皿へと移動させる。
「んまんま。いやー、相変わらず良いですなー。え? 何が良いって? そらあれよ。味以上に、男の娘の手で捏ねた物と言う付加価値が――」
「全部は食べちゃ駄目ですよ。お礼の品ですし、夕ご飯が食べられなくなりますからね」
「はーい。桜さん了かーい! あ、それと晩御飯はチーズインハンバーグで! うぇへぇっへぇぇぇ、まぁた体重計=サンがお亡くなりになるぜぇ」
取り分けた皿を手渡して、全部は食べるなと釘を刺す。そんな響希に了承を返すと、桜はお菓子を抱えて居間へ向かって歩き出す。
適正体重を十数キロはオーバーした身体でソファを沈ませると、片手に菓子皿を、片手にテレビのリモコンを、完全装備で女はだらけ始めるのだった。
リビングを一人で占領して、だらけきった姿を晒す三十間近。響希の親族だけあって、身なりを整えれば綺麗であるだろうに、女子力をゴミ箱にダンクし切ったその姿。
ボロボロと食べ滓を零す女性を見詰めて、また後で掃除機をかけ直さないとと予定を立て直す。そんな響希の直ぐ傍で、玲菜は怪しい者を見るかの様に桜を見詰めて疑問を零した。
「え、っと、あの人、響希さんの叔母さん、ですよね? 前に見た時と、大分違うような」
「確か前に玲菜ちゃんが会った時は、お籠りする直前だったからね。仕事前と仕事中と仕事後で、桜さんは大分テンション違うから」
この三週間。たった一度だけ遭遇した事がある同居女性。その際には会話と言う会話もなく、血走った目でぶつぶつと呟く様に喋っていた。
そんな怪しさ全開の姿と随分違うと、何処か呆気に取られた様に語る玲菜。彼女の持つ当然と言うべき疑問に苦笑交じりに返しながら、響希はその笑みの質を少し変えた。
「桜さんは、少女趣味で僕に女装させるし、自分の体調管理も出来ないし、仕事中はトイレにも降りて来ないし、仕事が終わっても家から一歩も出ないし、お風呂に入らないから臭いがアレだし、行き詰ると担当さんの相手を僕に任せて逃げ出す。……ぶっちゃけ、超が幾つも付くくらい、見ての通りのまるで駄目な大人だけど――」
龍宮桜は、正直言って駄目な大人だ。周囲に迷惑ばかり掛けている、碌でもない人だと言えよう。
それでも、響希にとっては日常の象徴。帰るべき場所の証明。家族の情を感じさせてくれる人。だからこそ――
「桜さんが居ると、この家が温かくなった気がするんだ」
龍宮響希は、この叔母の事が好きなのだ。無茶や無理すら受け入れる程に、嫌われたくはないと思う程に、この温かさを好いている。
故にこそ、こんなにも柔らかく笑うのだろう。西行寺玲菜はその笑みを見て、考え違いを一つ悟る。この家は確かに冷えているのだろうが、それでも熱がない訳ではないのだと。
ボロボロとゴミを散らかす叔母の姿に、仕事が増えると呆れる響希。
呆れながらも何処か楽しげな表情に、玲菜も同じ様な笑顔を浮かべて少年を見詰めるのだった。