第六話 舞台開幕
◇
「さあ、ファーストライブのスタートだ!」
いよいよ当日、後数分に迫ったファーストライブ。簡易的に作られた舞台の大きさ、用意された音響設備共に適当。
その道のプロが使う専用の設備に比べれば遥かに劣るが、学生の活動としては十分過ぎる程の物。ならばライブの規模も程々、適した当たりに納まるだろう。
(大丈夫。そんなに人は、来ない筈)
恐らく人が十数人。多くても五十は超えなくて、身内も少なくはないだろう。
目的を考えれば人は多い方が望ましいが、折角の休日に知名度が殆どない学生バンドに然程人が集まる物か。
不足があるのは設備の類だけではない。最短で為そうと言うのだから、足りない物は多くある。
衣装を用意する時間はなくて、服装は唯の学生服。朝からリハーサルは何度も行い歌詞は覚えているが、それでも人前で歌う事には慣れていない。
そんなライブだ。然程人は集まらない。そう自分に言い聞かせる。
人前で歌う機会なんて音楽の授業以外にはなくて、胸がはち切れそうな程に不安と、胃の中身を吐き出したくなる程の緊張を感じている。
それでも響希はマイクをその手に、己にそう言い聞かせると、呼吸を一つ吸い込み吐き出した。
(大丈夫。きっと大丈夫、だから)
終わってしまえば大した事ではなかったと、そう言えるお遊戯レベルの部活動。そうと考えれば、不安に震える理由はない。
目前に迫った自分の舞台に思わず逃げ出したいとさえ思えてくるが、逃げてはいけない理由もある。そうと考えれば、緊張を続ける意味はない。
(頑張ろう。僕が頑張れば、それに意味がある)
響希は自分が歌う理由を見詰める。
目があった半透明の少女は、キョトンとした後に微笑んだ。
(最初の一歩。小さな数を重ねて、君の助けになれるなら)
少しずつ数を繰り返して、人が増えていけばそれで良い。きっと幽霊屋敷の話は、何時か必ず忘れ去られる。
その一助となれば良いのだ。ならばきっと、それはとても簡単な事。
そんな簡単な事だけで彼女の一助となれるのだ。ならば、前を見ない理由がない。
(やろう。頑張るんだ)
温かいお月様。彼女の為に為すのだと心に決めれば、それだけで小さな勇気が湧いてくる。
それはちっぽけな勇気に過ぎないとしても、学生ライブを始める原動力には十分に過ぎるのだ。
「それじゃ、そろそろ始めようぜ」
常の笑みを浮かべたままに、ギターを調律していた恭介が時計を指差す。
時刻は定刻五分前。舞台裏に作った簡易な控室から、舞台に上がる時が来たのだと彼は笑う。
「うん」
そんな恭介に頷いて、響希は手にしたマイクを握り締める。
腹は既に括ったのだ。ならば此処に一歩を踏み出し、駆け抜けるのみである。
「二人とも~頑張ってくださいね~」
幽霊少女の声援を受けて、響希たちは頷きと共に舞台に上がる。
屋敷の広大な中庭に建てられた檜舞台。其処に一歩を踏み出した響希は――
「え」
その数が生み出す熱気に、一瞬で飲まれた。
人が居る。人が多く居る。多く居ても五十人と、そんな見込みが大きく外れた。
歴史ある洋館の中庭は一軒家が余裕で建つ程には広く、其処を埋め尽くす程に人が居たのだ。
(なんで、こんなに居るのっ!?)
不安と緊張の余りにこれまで確認していなかった少年は、ここで初めてその膨大な数を認識したのだ。
春風が吹く中、クッション一つで座る人の数。百を軽く超えているのではないかと言う数に、響希は唯飲まれる。
たかが学生バンドにどうしてこれ程の数がと疑問に思って、後ろを振り返るとギター片手にドヤ顔でサムズアップを決める親友の姿。
「全力出したぜ」
(出し過ぎだよぉぉぉぉっ!?)
小声で語る青少年。だいたい恭介の所為である。
結城恭介のネームバリューが、この結果を産んだのだった。
突拍子もない事を始める自由人。そんな恭介の活動は、町の内外問わず知られている。
ましてや彼は高性能な万能超人で、やる事為す事高レベルに完成されるのだ。注目を集めぬ筈がない。
他に娯楽がないと言う程に田舎ではないが、地方都市の域を出ない柊町。
何か仕出かす事で有名な少年が全力で人集めをすれば、相応の数は揃う物なのだ。
「さあ、歌おうぜ響希。な~に、多くて数は想定した十倍程度だ。臆する必要なんてねぇ」
軽く背を叩いて、恭介は舞台の中央へと進む。
人の数が生み出す熱に飲まれながら、ガチガチに固まった響希は手足を同時に動かしながら後に続いた。
そうして、舞台の中心に立つ。人々の視線が一点へと集まった。
「っ」
見られている。余りに多くの人に、一斉に注目されている。
腹を括った筈なのに、一瞬で決意が吹き飛んでいる。それも当然だ。響希に出来たのは小さな勇気。そんな小さなそれでは、この熱気には立ち向かえない。
(歌わないと)
それでも歌おう。歌わないとと、響希は唯そう思う。
マイクをその手に握り絞め、時間が刻限を迎える中、響希はその意志を如何にか定めた。
結城恭介の伴奏が始まる。ギターによる前奏から、響希が歌う時が来る。
響希の歌うタイミングが訪れて、少年は大きく息を吸う。そして、声を出そうとした。
「……」
だが、音が出ない。声が、其処から出なかった。
歌詞が、思い出せない。覚えた筈なのに、真っ白になったのだ。
人に慣れていないツケが来た。この今に人々が注目する中で、響希は第一声を発せなかった。
そんな彼の異常に気付いたのか、恭介はその曲調を僅かに変える。
前奏を敢えて長く繰り返して、観客に異常を気付かせぬ様にと歌い出しを遅らせた。
(あ、う……)
だが、そんな対処は何時までも出来ない。一度ならず二度までも、響希は歌い出せていない。
そんな形が続けば、誰かが不審を其処に抱く。一向に進まない前奏に、一体どうしたのかと疑念を抱く。
(歌わないと、早く、何でもいいから、歌わないと)
人に注目を受けて、それだけでも一杯一杯になっていた少年だ。
その視線に疑念が入れば、混乱は更に大きくなる。疑念がその質を悪化させていく光景に、その困惑を抑えられない。
歌わないと、そんな事は分かっている。なのにどうして歌えない。
人の数が増えただけ、大した事じゃない筈だ。緊張を飲み干して歌えば良いのに、どうしても歌詞が浮かばない。
瞳が揺れる。泣き出しそうになる。
その理由は見っとも無さで、結局自分は何も出来ないのかと。
「じゃあ、少しインチキ、しちゃいましょう」
温かな月光が、ふわりとその怯える心を包み込んだ。
驚きで顔を向けそうになる響希の耳に、前を向いてと囁く声。
柔らかく微笑んだ西行寺玲菜は、人に見えない事を良い事に此処に一つのインチキをすると決めたのだ。
「私が歌うから、一緒に歌おう? 大丈夫。響希さんが歌ってくれた一つだけですけど、全部ちゃんと覚えてますから~」
半透明の亡霊が、そう儚く微笑み告げる。そうして玲菜は、拙い歌を此処に紡ぐ。
その声を聞いて響希は漸く、混乱に区切を付ける。少年は此処に心を決めて、その双眸で前を見た。
傍らには、お日様の様なお月様がある。見守られているのだ。此処までされて、もう無様は見せられない。
タイミングを計っていた長い前奏は其処で終わって、そして続くは曲のさわり。ここから先が楽曲本番。もう響希は躊躇わない。
音程を外しながら歌う幽霊の声に続いて、響希はその音を紡ぎ始めた。
(君の為に、僕は歌おう)
胸に想うのは、唯一つその感情。
温かく思えた胸の熱と共に、響希は想いを音へと宿す。
(君と共に、僕は歌おう)
デュエット相手のその声は、自分達以外には届いていない。
ハッキリ言って音痴なそれは、嗚呼けれどきっと何より尊いのだと分かっている。
だから響希も負けない様に、心の底から全力で歌う。
その声に宿った想いはきっと、たった一人で怯えを隠して歌うよりも遥かに重く強い物。
(大丈夫。もう何も怖くはない。恐れる物なんて何もない)
傍らに寄り添う月があるなら、もう何も恐れる必要などはない。
どれ程に見詰める瞳も、己に不相応と思うこの立ち位置も、全て恐れるには足らぬのだ。
ならばそう。感じるのは恐怖じゃない。
共にあって安らげる人と共に、歌う今に感じる想いが怖れである物か。
それはきっと楽しさだ。共に歌える、為に歌える、其処に感じるのは喜びだ。
我が生の喜び。此処に歌えるその喜び。君と共にある喜び。その全てを、此処に歌に込めて伝える。
(今は唯、誰でもない君の為に――全力の想いを込めて歌うんだ!)
君の為に全霊を込めて、此処に想いを紡ぐのだ。
その歌が、素晴らしい物でない筈がない。
故に歌い終えた少年を、大歓声が迎えたのは必然の結果と言えるだろう。
『オォォォォォォォォォォォッ!!』
歌に想いを込めるのが、彼にとってたった一つ許された才能だ。
そんな少年が其処に全霊の想いを込めれば、その歌はどれ程に練磨されるか。
唯一つ言えるのは、この日彼が紡いだ歌は過去最高。彼にとって、それ程の出来であったと言う事。
そしてそれを耳にした人々は、正しく幸運と言えるのだろう。心を揺らす生の音に、彼らは夢中となったのだ。
故に、それもまた当然の帰結。
『アンコール! アンコール!』
観客からの大歓声は、もう一度と望むそれ。
たった一度の小ライブで終わるには、余りに惜しいと感じるその感動。
それはきっと、響希が味わう初めての物。
誰よりも出来る人に手を引かれ続けた少年が、称賛されて求められると言うのは初めての体験だったのだ。
「悪いもんじゃないだろ? こういうのもさ」
ニヤリと笑って、仕掛け役はそう告げる。
きっと彼の歌ならば、こうなるとは分かっていた。ならば彼にとって、予想外などありはしない。
「はぇ~。すっごいですね~」
共に歌った玲菜は、己の為した役の意味すら知りはしない。
そんな天然思考の幽霊は、ふわふわと浮遊しながらのんびり語る。
「それで~、どうするんですか~」
「そりゃ勿論、決まってる。な、響希」
特に何も考えずに、首を傾げる天然幽霊。
確信犯な笑みを浮かべて、きっと答えが分かっている万能超人。
そんな二人に笑みを返して、やはり響希の答えは決まっていた。
「歌おう。今はすっごく、歌いたい気分なんだ!」
目を輝かせて、そう語る響希に二人は頷く。
そして始まるアンコール。一度や二度では終わらずに、日が暮れるまでそれは続く。
全てが終わって疲れ果てて、それでも笑顔で笑えていた。
きっとこれ程に充実した時は他になかったのだと、そう思える程に満たされていた。
想いが届く素晴らしさ。歌を歌う楽しさを、其処で響希は確かに得た。
それは誰かにとっては小さな変化に過ぎずとも、彼自身にとっては大きな一歩。
バンドをしよう。歌を歌おう。こうして誰かに、想いを届けよう。
龍宮響希と言う小さな小さな少年は、自分の意志で初めてそう思えたのだった。