第三話 幽霊屋敷
◇
「ふぅ~。いい仕事しましたぁ~」
響達が通う柊中学。其処から徒歩で三十分は歩いた場所にそれはある。
白壁は苔生して、地面から生えた蔦に覆われている。広い庭は荒れ果てて、噴水には既に水気がない。門は金具が錆びてズレていて、出入りするにも苦労しよう。
嘗ては風光明媚な洋館だったのだろう。美しい白亜の建物に違いない。
一見してそう分かる程に優れた建物はしかし、管理者が居なくなって久しい今は唯の廃墟と変わらない。
その建物を前にして、四人の少年少女は息を飲む。
思っていたよりも風情がある。確かにこれは何か出そうだ、そう思わせる代物だった。
「これ、危ないんじゃないか……いや、オカルト云々じゃなくてさ」
四人。響希と少女達とそれ以外。此処に加わったもう一人は、地味な印象を拭えぬ少年。
明日香と優を案じて行動を共にしたのは、彼女達共通の幼馴染でもある佐山卓也と言う人物だ。
「だったら帰れば、アンタは呼んでないし」
「……お前を置いてく訳には、いかねぇだろ」
「なんでよ」
「なんでって、そりゃ」
腰が引けている少年を、プライド故に引けない少女が睨み付ける。
そんな明日香に対して抗弁する卓也は、しかし理由を言えずに黙り込む。
少年の胸中にあるのは、青少年特有の悩みである。
恋する少女に届かないと分かってるから、意気地なしは言葉を濁した。
「ま、アンタなんかどうでも良いわ。さっさと入るわよ」
思春期の葛藤に気付く事もなく、明日香は己の怯懦を隠す様にドシドシと歩を進める。
その後を慌てて追い掛ける卓也の背中に、二人の心情を理解している優は苦笑を浮かべていた。
複雑なその人間関係。だが苦笑いで済まないのが響希の立場だ。
結城恭介に恋慕を抱く白鳥明日香にとって、龍宮響希は邪魔者以外の何でもない。
そんな白鳥明日香を昔から好いている佐山卓也にとっても、龍宮響希は気に入らない恋敵の友人だ。そんな彼を見る目には、知らず敵意が宿っている。
(居心地、悪い)
まるで針の筵。だがだからと言って、何も言わずに勝手に逃げたら明日が怖い。
屋敷から感じる本物の気配に恐怖を抱きつつも、仕方がないと諦めた響希は三人の後に続くのだった。
響希はオカルトに対して、若干では済まない苦手意識を抱いている。
幼い頃から目に見えた光景に、恐怖の情を抱いたのは昨日今日と言う話ではないが、遥か昔と言う訳でもない。
死した人や死した物。そう言ったモノと触れ合うのは日常で、嘗ては恐ろしいとも思わなかった。
そんな感情が塗り替えられたのは、一年程前に起きた一つの事件が切っ掛けだ。
神隠し。被害にあったのは彼ではなくて、目の前で巻き込まれたのは恭介だった。
幸いその時点から優れた片鱗を見せていた少年は、帰還してからはその万能超人っぷりに磨きを掛けていた。だから罪の意識は余りない。
だが自分を庇って何処かへ消えた。そんな光景はトラウマとなっている。故に響希は正直言えば、率先して異常事態には関わりたくないと思っていた。
ましてやこの廃洋館。感じる冷たさは、間違いなく本物だった。
何処からともなく吹き付ける風は、初春のそれとは思えぬ程に冷たいのだ。
キィキィと扉が音を立てる。一歩一歩と進む歩が、ギシギシと響いている。
蔦に覆われた窓からは明かりが差し込まず、長い廊下は一寸先も見えぬ程に暗かった。
「…………」
無言で進む中、誰もがその雰囲気に飲まれていく。
オカルトを信じないと断じた少女ですら、見えない何かに恐怖を抱きつつあった。
だから、だろうか。空気を換えようと、栗毛の少女が口を開いた。
「龍宮君って、髪綺麗だよね。どんなシャンプー使ってるの?」
「……え、と、普通の。良く、分かんない」
一番近くに居た響希へと、そう問い掛ける明石優。
声を掛けられた少年は、即座に言葉を返せずにしどろもどろに口を開いた。
そんな二人の会話を聞いて、前を歩く少年も口を挟んだ。
問い掛けるのは並みの少女よりも美しい、そんな少年の腰まで届く長い髪の理由である。
「ってかお前、何で男の癖に伸ばしてんだよ」
「……切ると、叔母さんに、怒られるから」
「は? 何だそれ」
女扱いされたい訳ではない。そんな少年がどうして長髪なのか。
抱いた疑問への解答は、響希の家族が故だった。同居している母方の妹が、極め付けの少女趣味なのだ。
「綺麗だから、勿体無いって……」
綺麗な髪だから、切るのは勿体無い。黙って切った時には、それを後悔する程に怒られた。そんな経験が故に、響希は髪を伸ばしている。
別にその叔母さんが、理不尽な人物と言う訳ではない。響希も彼女を嫌っていない。寧ろ好いている。
看護師である為家を空けがちな母に変わって、翻訳家の叔母は少年の面倒を何度も見てくれた人である。
だから嫌われたくないと思う。だから自分の好みに合わずとも、その要求を受け入れてしまうのだ。
「言われたから、言われたままに伸ばしてるって……アンタ、自分の意志はないの?」
そんな響希の言葉に、反応したのは最前列を歩く少女だ。
金髪の少女は顔を向けると、複雑な感情の籠った瞳で少年を睨み付けた。
女扱いされる。それを響希が嫌っている事は分かっている。
虐めっ子は虐められっ子を意外と見ている物だ。だからこそ、そういう趣味がないと分かっていた。
「……僕は、だけど」
「家族の命令に従ってる。嫌なのに嫌って言えない。ほんっと、バッカみたい」
何か言い返そうとして、しかし言い返せない少年。
そんな彼の自分のなさに、重なる部分を忌々しいと思いながら、白鳥明日香は吐き捨てる。
「それなら女装の方がマシよ。流されるだけって、一番最悪じゃないの」
「……っ」
それは一番最悪だ。自分で決めたのではなく、決められて逆らえないなど馬鹿らしい。
自分への苛立ちも込めた令嬢の言葉に対し、相手を見る余裕もない響希は気付きもせずに俯いた。
そうして、場は再び暗くなる。明日香の事情を知るが故に、優も卓也もフォローが出来ない。
所詮八つ当たりであると理解する明日香も、理不尽な怒りを向けられた響希も、誰もが沈黙したままに歩を進める。
歩く道先は、何処までも暗く。道の終わりはまるで見えない。果たしてこの暗闇に終わりがあるのだろうか、誰かがそんな風に思った。
静けさの中に響く無数の足音。一つ多いんじゃないか。誰かがそう口にした。日の差さない窓を揺らす風が、余りに大きいのではないかと誰もがそんな風に感じていた。
そんな筈はない。そんな筈はない。そんな筈はない。
全ては唯の勘違い。この空気に飲まれているだけだと、胸を張る様に誰かが口にして――びしゃりと、音がした。
色は赤。赤い色が、壁に染み付いている。
ドロリと垂れるその色は、まるで零れ落ちる血肉の如く。赤い手形が幾つも張り付く。
びしゃり。びしゃり。びしゃり。嫌な音が止まらない。
凍り付く少女達の目の前で、零れ落ちた血肉の色は一つの言葉を此処に残す。
【でていけ】
言葉は、それだけだった。
たったそれだけに、万感の思いがあったのだ。
『きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?』
「くそっ! だからっ!!」
思わず悲鳴を上げて、腰を抜かす二人の少女。同じく恐怖を感じているが、必死に歯を食い縛って耐える少年。
佐山卓也は二人の少女の手を取ると、引き摺ったままに走り出す。両手が埋まってもう一人には伸ばせない。其処に申し訳なさを感じながらに、それでも振り返りすらしなかった。
「…………」
走って逃げ出した三人。一人残された響希は、呆然とそれを見ている。
真っ赤に染まった白壁に、張り付いた赤い掌。其れを見詰める少年の瞳には、恐怖の情など欠片もなかった。
何しろ、見えていたのだ。彼にだけは、その姿が――
足がない少女だ。病弱を通り越したその肌は、白く透き通って向こう側までも見える。
白い髪に白い肌。賞味期限切れのトマトジュースを手にしたその少女は、成し遂げた笑顔で額を擦った。
「ふぅ~。いい仕事しましたぁ~」
真っ赤な手を腰に当て、残ったジュースを大きく呷る。
当然中身のない少女が飲める道理もなく、身体を素通りして地面へと。
ボトボトと零れたトマトジュースで、床に赤い池を作り上げた少女の幽霊。
如何にも人畜無害にしか見えないその少女は、ふと見詰め続ける視線に気付いて響希を見た。
「…………」
「…………」
「…………見えてる?」
「…………うん」
きょとんと首を傾げて、問い掛けるのは白い幽霊。
彼女が必死に文字を書いてる姿から見ていた響希は、何とも言えずに頷いた。
「はぇ~。世の中には、不思議な事があるんですねぇ~」
不思議な事筆頭から、そんな認定を受ける。
幽霊には言われたくなかったと、そんな風に思いながら響希は天を仰ぐのだった。