第十六話 寸草春暉
寸草春暉――父母の恩・愛情は大きく、それに子がほんのわずかさえ報いるのがむずかしいことのたとえ。
◇
時刻は深夜。時計の針が頭上で揃い、新たな一日を告げる時間。龍宮響希は玄関先で、母の帰宅を待っていた。
看護師である龍宮楓は、シフト制で仕事をしている。今日は準夜勤と言うシフトの為、特に異常がなければもう直ぐ帰宅の時間であろう。
「ただいま」
響希の予想に反することなく、家の扉がゆっくりと音を立てて開く。立ち入って来た女性は疲れを隠せぬ声で、そう小さく口にする。
声量からして、返事を期待してなど居ないのだろう。時間も時間だ。そう考えても不審はない。だから、と言う訳でもないが、返事の言葉は少し遅れた。
「……お帰りなさい」
何かを言おうとして、つっかえる様に。それでも如何にか口にする。そんな言葉は、帰宅の声に負けず劣らずの小さな物。それでも、掠れる様な声であっても、目の前の女性には届いていた。
「あ――」
濡羽の様な黒髪に、人形の様に整った容姿の熟れた女。響希の身体をより女性的にして、年を取らせたのならばこうなるだろうと言う美貌。
精神的な疲労からか若さは見えずらいが、退廃的な色気にも似た艶やかさがある。そんな女性は目の前にある予想外な光景に、少年と同じく何を言うべきかと固まった。
「――もう、遅い時間よ。……早く、寝なさい」
それでも、流石は大人と言うべきか。直ぐに己を取り繕うと、常識的な言葉だけを口にして靴を脱ぐ。
そのまま玄関から上がると、響希の横を通り過ぎていく。まるで深くは関わりたくないのだと、言外に示しているかの如くに。
「あの!」
何時もなら、これで話は御仕舞いだ。一言だけ言葉を掛けて、一言だけ返って来る。この親子の間にあるのは、何時もそんなやり取りだけ。
けれど今日は、それではいけない。話さなくてはいけないことが、確かにその胸には存在している。だから響希は手を握り締め、何時もよりも一歩踏み込んだ。
「話が、あるんだ」
胸が高鳴る。鼓動が激しくなる。最早煩い程に、心臓が鼓動を上げて緊張を示す。何と返ってくるだろうか、そう予想するだけでも胃が痛くなる。
それでも、一歩を踏み出した。ならば、変化は其処に起きる。簡単な言葉のやり取りだけで、終わらない親子の対話。それを響希は、望んだのだから。
「……それは、今じゃないといけない話?」
「今じゃ、なくても……でも、出来れば――今、話したい」
「そう。……なら、先ずは掛けましょう。大事な話なら、尚更ね」
我が子の瞳を見詰めて、静かに楓は口にする。大切な話ならば、玄関先で語り合うのは無粋であろうと。
故に母の先導の下、二人は部屋の中へと進む。居間の隣、台所にある椅子に腰掛けると、大きな机を挟む形で向き合った。
「…………」
「…………」
向き合って、さて何を語るべきだろうか。どう切り出せば良いのだろうか。響希は一瞬、言葉に迷った。
彼が語らないのなら、当然楓も話さない。そんな居心地の悪い静寂が暫く続いて、それでも言い出す言葉に迷って、響希はその肩を叩かれた。
「響希さん。ファイトです!」
「う、うん。そう、だね」
背後から応援するのは、半透明な幽霊少女。玲菜が両手を握って告げる、そんな言葉に腹を括る。
此処まで来たんだ。もう後には退けないのだ。ならば迷うよりも前に、拙い言葉で良いから全てを伝えよう。そう腹を括った響希は、漸くに沈黙を破るのだった。
「あのね、母さん。その――新しい、友達が出来たんだ」
「……そう。それは、良かったわね」
会話の切り出しは、そんな言葉。協力を望むなら、その理由を話さなくてはいけない。だから、その大前提からと。
そんな意図を知らない楓は、僅かに悩む。我が子の発言にどんな反応を返して良いのか、分からないから口にしたのは毒にも薬にもならぬ声。
「うん。それでその人、武梨綾人くんって、言うんだけど。その友達の妹が、母さんの病院に居る。重い病気で、けど体力がないから、手術も危ないって」
「武梨――――525号室の、小春さんのことかしら。……そう、ね。確かにあの子は、危ない状態と言えるわ。身体も、心も、両方とも」
其処に何かを思うこともなく、響希は言葉を続ける。事此処に至って漸く、楓は曖昧にだが話の内容が見えて来た。
母の働いている病院に、友人の身内が居る。それを前提に、何か頼みたいことがあるのだろう。曖昧にだがそう判断していたからこそ、彼女は続く言葉に戸惑った。
「だから、その、元気付けようと思って。――僕、今、バンドをやってるんだ」
「……話が見えないわ。それが、どういう風に繋がるの?」
前後の脈絡が見えない。拙い子供の説明では、今一筋が通らない。元気付けようと言う話が何故、バンドをやっているという言葉に繋がるのか。
会話が苦手な人間にはよくある話だ。話しておくべき前提が抜けている。原因と結果の間にあるべき、過程を説明出来ていない。だからそれを説明する様に、言われて響希も慌てながらに口を開く。
「歌で、元気を出して貰おうって、キョウちゃん達と話して」
「…………」
気が逸っているのだろう。如何にか伝えようとして、空回りしているのだろう。そう自分でも気付いていて、だからかえって悪化する。
「それに、キョウちゃん達は、募金活動で、先進医療に掛かるお金を集めようって」
「…………」
そんなそれは余りにも、稚拙が過ぎる説明だろう。言葉の前後が可笑しくて、文章と言う体を成してはいなくて、少し頭を捻らなくては理解できない言葉だ。
「身体に余り、負担が掛からない手術を。それで、その前に、元気付ける為に、バンドでライブをしようって、皆で決めたんだ」
「…………」
だから一言一言噛み締める様に、理解したなら表情が変わる。その言葉を理解すればこそ、眉間に皺が寄っていく。少年の発言は、余りに考えなしな物だと感じたのだ。
「だから、その、お願いがあるんだ。病院から、出れないあの子の前で、歌う機会が欲しい。手伝って、欲しいんだ」
「…………響希、貴方。自分が何を言っているか、分かっているの?」
「え?」
頭を下げて頼み込む響希に対し、彼の母が返す答えは冷たいもの。疲れた様な声音のまま、彼女は諭す様に言葉を告げる。
「募金活動は良いと思うわ。あの子の身体を思えば、負担が少ない医療をと言うのは納得できる。恭介くんが音頭を取っているのなら、悪いことにはならないでしょうし。こっちで申請書類一式用意しておくから、お金が集まり次第言ってくれれば直ぐに動くわ」
武梨小春の窮状は、龍宮楓も知っている。二親の居ない孤児院の少女では、保険の効かない医療などを受けるのは難しいとも。
その点、募金活動と言うのは良いアイデアだ。通常の手術よりは助かる可能性が高く、家族が必死に頭を下げるのならば周囲の人にも伝わるだろう。
募金を悪用する可能性もなくはないが、結城恭介と言う少年が音頭を取るなら間違いは起こさないだろう。そういう信頼も確かにあった。
だから、募金活動には賛同する。先進医療で小児がんに対処すると言うのも良いだろう。問題点はもう一つ、病院でライブをしようと言うその発想だ。
「けど、ね。バンドのライブは反対よ。病院で大きな音を立てるのはいけない。それは響希にも、分かっていることでしょう」
「でも」
「病気や手術の関係で、昼間寝ていないといけない人も居るわ。予後余り時間が経っていなくて、大きな音がストレスになる人も居る。……人の命が掛かっている場所なの。子どもの我儘で、済む話じゃない」
「僕は――」
騒音を立ててはいけない場所と言うのには、相応の理由がある。少なくとも病院では、大勢の患者に負担を掛ける様なことは行えない。人の命を、預かっている場所なのだから。
聞いたからには許可など出せないし、協力などは論外だ。看護師長と言う立場で侵入の手助けなどしてしまえば、最悪懲戒免職となる可能性もある。口には出さないが、大人と言うのは簡単ではないのだ。
「言葉じゃダメなの? 歌じゃないとダメなの? いいえ、違うわ。元気付けるだけなら、頻繁にお見舞いをすれば良いの。恭介くん達が募金活動で来れないなら、貴方だけでも傍に居てあげなさい。響希」
「…………」
だから否定して、彼女は対案を口にする。歌を届ける必要などはないのだと、そんなことをしなくても人に想いは届くのだと。
何の為に言葉があるのか。元気付けるだけならば、すぐ傍で言葉を掛けてやれば良い。それならば、誰に迷惑を掛けることもないのだから。
「話はこれでお仕舞い。申請があれば直ぐに手術が出来る様に、準備はしておくから。安心して、今日はもう寝なさい」
楓はそう口にすると、席を立った。無言で俯いた響希をその場に残して、彼女は自室へと。
響希は立ち去っていく背中を見る。何時もの様に、何時だって想いが届かなかった背中を見る。母を説得する事は出来なかったのだと、そんな事実を前に思う。
これで良いのだろうか。母が言う様に、言葉だけで伝えられるのか。それで本当に、如何にかなってくれるのか。そうは思えど、その背中は遠いから、言葉はどうしても詰まってしまって――
「響希さん。伝えましょう」
響希が一人だったのなら、此処で終わりだ。少し勇気を出して踏み込んだけれど、親の正論を前に言葉を失う。それで終わってしまう話。
「それで良いんだって思えないなら、響希さんの想いを伝えましょう」
けれど、今の彼は一人じゃない。視えない少女が其処に居て、少年を元気付ける。震えるその手を握り締め、絡ませながらに伝えるのだ。
「“それじゃあ、駄目なんだ”と」
「玲菜」
これで良い筈はないのなら、伝えるべきは否定の言葉。理屈を語ることが出来ないなら、感情をぶつけるべきなのだ。
寄り添う少女の言葉に頷いて、手を握ったままに響希は立ち上がる。そうして立ち去る背中を見詰めて、彼は想いを叫びと上げた。
「それじゃあ、駄目なんだ!!」
その背を呼び止める様に大きな声で、響希は叫んだ。その声の大きさに思わず、立ち止まった母の背中。
其処へ向かって、響希は己の想いを口にする。それでは駄目だと言う理由と共に、彼は己の感情を吐き出すのだ。
「だって、僕は、話すのが、上手くない! 何を言っていいのか、どう伝えれば良いのか、僕は全然、へたっぴで、キョウちゃんが居ないと、何も出来なくて――」
何時だってそうだった。龍宮響希は何も出来ない。言葉を上手く伝えることすら、少年には出来ないことだった。
何を言っても想いは届かず、他にどうすれば良いのか分からない。拒絶を示す背中を見たら、それ以上何も言えずに黙り込む。何時だって、龍宮響希はそうだった。
「今だって、今までだって、ずっと、ずっと、母さんにも、上手く伝えることが出来てなかった! 言葉だけじゃ、僕は全然駄目なんだ!!」
思い出すのは、彼と出逢う前。恐ろしい物が視えると語って、嘘吐きとして罵られた。
そんな響希は何時も一人で、遠く遊ぶ子ども達を見詰めていた。羨ましいと思いながら、それを伝えることが出来なかった。
だって、自分でも異常だと気付いていた。他の人には視えなくて、自分だけが可笑しいのだと知っていた。言われて当然と、その程度には分かっていたのだ。
思い浮かべるのは、少女と出会うよりも前。日が暮れると何時も、恐ろしい物の声が聞こえた。
欲しい欲しいと襲い来る禍つを前に、震えているしか出来なかった。それが多くを奪う中、恐怖を伝えることすら出来なかった。
だって、もっと怖いだろうに、立ち向かっている友達が居たから。失われた者に涙する母親が居たから、自分が怖いなどと言ってはいけないと思っていたのだ。
そうとも、龍宮響希はそんな人間だ。己に出来ることなどなく、縮こまって震えていた少年だ。誰かの背中に隠れて、守って貰うしか出来なかった人間だった。――あの時までは。
「だけど、だけど、さ。そんな僕でも、出来ることがあったんだ」
傍らに寄り添う少女を思う。恐ろしい物ばかりだった死人の中で、優しい日溜まりにも思えた少女を感じる。繋いだ手に感じるのは、熱を奪う冷たさと心に沸く温かさ。
彼女と出逢い、共に歌った。一人では立てない場所で、一人ではないから歌い切れた。そんな拙い技術のライブ会場は、それでも大盛り上がりとなった。産まれて初めて、響希は何かが出来たのだ。
――スゲェよ。お前。なんつーか、兎に角スゲェわ。
「凄いって、言ってくれた人が居る。僕の歌を聴いて、そう言ってくれた人が居る」
苦手なクラスメイトと一緒に居る人物。その程度の認識でしかなかった少年が、初めての歌を褒めてくれた。
佐山卓也と言う少年が伝えてくれた感動の言葉が、確かな成果を感じさせた。自分の声が、誰かに届いたのだと感じたのだ。
――凄い楽しそうで、凄い嬉しそうで、そんな想いが凄い凄い伝わって来て。兎に角凄いって、それしか言えないくらい。
「想いが伝わったって、そう言ってくれた人が居る。僕の歌を聴いて、そう言ってくれた人が居るんだ」
虐めっ子の親友と、そんな立場に居た少女。明石優の言葉を受けて、確かな自信が生まれていた。
何も出来ない自分だけれど、この声だけは胸を張れる。この歌ならばきっと届く。そう確かに、心の底から思えたのだ。
「ずっと望んでいた。ずっと願ってた。きっと、きっと、僕が本当に望んでいたのはこれだったんだ」
そう振り返ってみれば、ああそうだと自覚する。己が心の底から望んでいたこと。龍宮響希が抱いた心の芯は、きっと其処にあったのだろうと。
「誰かに聴いて欲しい。誰かに伝わって欲しい。他でもない、母さんに声を届かせたい。ずっとそう願ってきた」
彼と出会う前のあの日も、涙と共に母に拒絶されたあの日も、心の奥底で願っていたのはそんなこと。確かな想いを、ずっと誰かに伝えたかった。
「だけど僕はへたっぴで、言葉も勇気も足りなくて、何時だって何を言っていいのか分からなくて、いざその場に立つと頭の中が真っ白になって――だけど、だけど、僕の歌は、届いたんだよ!!」
けれど言葉にしても伝わらない。傍に居ても届かない。何時だって響希はそうだった。自信が出来たのは歌だけで、それ以外では不可能だと感じている。
だから、歌なのだ。言葉は何時も届かないけど、それだけは届いたから、歌なら必ず届くと自信が持てる。少女を想って歌えたならば、この想いは届くのだと断言出来た。
「だから、お願いだよ、母さん。小春ちゃんの為に、僕は歌いたいんだ!」
「…………そう。それが、貴方の」
少年はまだ少し、誤解している。己に在るのは歌だけなのだと、そうでなくては届かないのだと。それが誤解でなければ、この今に伝わる想いは何だと言うのか。
言葉でも、本気ならばきっと伝わる。それにまだ気付いていなくて、気付かせたのならば何かが変わるのかも知れない。それでも楓には、其処まで語る余裕がなかった。
だから、彼女が伝えるのは唯の一つ。苦笑しながら振り返った女性は、静かな声音で確かに言葉を響かせた。
「平日の昼間、お昼休憩の時間なら、少しだけ警備も緩くなるわ。日中の巡回と合わせれば、資材の搬入と言う形で大きな荷物の出し入れも出来るでしょうね」
「母、さん?」
「……歌う日が決まったら、早めに言いなさい。何日か前に伝えてくれれば、十分程度の時間くらいは作れるから」
伝わる言葉に心が動いて、せめてそれだけはと約束する。そんな母の言葉を理解して、響希の表情が変わっていった。
まるで向日葵を思わせる様な、晴れやかな笑顔。何の影もない素直な笑みを見たのは、果たして何年振りのことであったのだろうか。苦笑と共に感じるのは、そんな情けなさにも似た想い。
「母さん! ありがとう!!」
「……ええ。大丈夫、ちゃんと手伝うから。今日はもう寝ておきなさい。それと、やるんだったら、しっかりね」
「うん!」
喜ぶ我が子の傍らに、薄ぼんやりと浮かんだ影。僅か警戒するも、響希の表情を見て安堵する。恐れる色は、欠片たりともなかったから。
きっと良き出会いであったのだろう。悪いものだけではなかったのかも知れない。そんなことに今更気付く程に、彼女は目を逸らし続けていたのだろう。
何となく、それではいけないと想えた。きっと、だからなのだろう。立ち去る彼女の頬には、僅かな笑みが浮かんでいた。
そうして、そう遠くはない距離を歩く。居間の直ぐ隣にある自室の扉を開け、スーツの上着を壁に掛けると布団の上に腰を下ろした。
「……ふふっ。全く、あんなに燥いじゃって」
思い浮かべるのは、己の言葉に喜んでいた我が子の表情。今も壁一枚を挟んだ向こうから聞こえてくる、視えない誰かと燥ぐ声。
久し振りに浮かんだ笑みは、影のない素直なもの。まだこんな風に笑えたのかと、己で驚きながら苦笑する。大人としても親としても、失格だったなと想いながらに。
「ちょーっと意外だったかなー。いざとなれば、援護射撃しようかと思ってたんだけど」
「あら、桜。……貴女、何処から出て来てるの」
「姉さんの私室の押し入れ? 中々ジメジメしていて居心地が良いとですよ」
ふと聞こえた声に顔を向ければ、押し入れの隙間から顔を出す妹の姿。何時も通りだらしない格好の彼女は、ここから居間の様子を伺っていたのであろう。
それを隠さぬ桜の言葉に、楓は思わず苦笑を深める。見られたくはないところを見られたと、そう恥ずかしがる情はない。それこそ、今更に過ぎる話であるから。
「姉さんの事だから、何言われても退かないかな~って思ってたんだけど。実際、下手しなくても退職の危機じゃない?」
「……そうね。本当なら、断っているべきだったと思うわ。何と言われようと、間違いは間違いだと言って上げるべきだった。正直、今でも賛同なんてしていないもの。もっと良い方法があるんじゃないかって」
どんな理由があれ、大人が手を貸すのは間違いだろう。悪戯で済む子どもと違って、彼女たちには義務と責任が存在している。
本当ならば、諭し導くべきだった。歌ではなく、言葉でも届くのだと。だからそれを出来なかった自分は、間違っているのだと感じている。
ならば何故、と。そう思うのは当然だろう。桜は仰向けとなったまま、姉に向かって問い掛けた。
「けど姉さん。ならどうして、承諾したの? 実際姉さん、響希くんのこと苦手だったじゃない」
「……其処まで、気付かれていたのね」
「そりゃぁ、同居人ですからねぇ。……実際問題、響希くんって相当厄いし。家族の絆があっても、受け入れるのキッツイ子でしょ? ぶっちゃけ無関係な立場なら、塩撒いて離れるのが正答だと桜さんは本気で思いますので」
神籬と言う資質。神の贄として総意に選ばれた少年は、陰陽両面にて多大な器と成れる者。それを得たのならば、化外は神の如き力を発揮する。
そうであるが故に、不吉を寄せ付けてしまう。実家がそう言った知識に秀でる家系でなければ、結城恭介と言う少年が居なければ、一般的な生活すら不可能だったであろう体質だ。
如何に家族の情があれ、受け入れることは難しい。ましてや姉は、愛する人を二度に渡って失っている。彼に関わり続ける限り、女としての幸福などは望めない。ならば関わることこそが、間違いだと言えるのだろう。
「それで母親代わりまでしてるんだから、貴女も相当の物よ。桜」
「正しいことと楽しいことの違いかな? 利益と損益だけで判断した人生が、幸福な物になるとは決まってないじゃん。それに――本気で向き合ってきた、良い男の子も居たことだしね」
そんな桜の言葉はある種の真理だ。恐れたが故に距離を取った楓よりも、よっぽど親としての役を果たしている。
自嘲と共にそう語る楓に、桜は笑いながらに返す。関わることが愚かであっても、賢い生き方が幸福だとは限らない。桜はそう想うのだ。
「ま、桜さんのことはどうでも良いとですよ。問題は姉さんが、な~に考えて嫌ってた響希くんに手を貸すのかって話でしょ」
「……嫌いじゃないわ。嫌う筈がない。嫌いたい訳ではないの」
己の事情など、大したことではないだろう。そう言い切って話を戻した桜に対し、楓はその言葉を否定する。
苦手としていた。関わらない様にしていた。それでも、嫌ってはいなかった。愛していたいからこそ、彼女は我が子を遠ざけた。
「お腹を痛めて、産んだ子だもの。愛したいと想っている。憎みたい筈ないじゃない」
「だから、距離を空けていた、と」
「だって、そうでもしないと、あの子に恨み言を言ってしまう。そう思って、しまったから」
あの日、既に限界が近かった。どうしてこんな子を産んでしまったのか、そう思ってしまう自分を感じた。
吐き気がした。嫌悪を感じた。腹を痛めて産んだ愛しい我が子に、どうしてそんな風に思ってしまったのか。己で己が許せなかった。喉を掻き毟りたくなる程に、女は愛が深いから。
「そんな母親失格の親だけど、それでも、想うことはあるの。切っ掛けに気付くことすら出来なかった程に遠いけど、何も感じない訳じゃないの」
だからこそ、だろう。愛し続ける為に距離を空けた。だから、まだ愛している。そうであればこそ、このままでは居られない。
愛し続ける為に距離を取った。そうするしかなかった己の弱さ。それに向き合う時が来た。我が子が進んだのだから、母が進まずしてどうするのか。
「自信がなかったあの子が、少しだけ変わった。変わろうとしていた。……だったら、私も踏み出さないと駄目じゃない。そう、想った。唯、それだけの話なのよ」
まだ、一杯一杯だ。時が傷を癒すと言うが、己の弱さはあの日のまま。だから向き合うだけで限界で、上手く導ける気がしない。
それでも、愛していたいと願っている。だから情けない形であっても、真っ直ぐ進んだ子の背を押したい。応援したいと感じていた。母の愛は深いから。
その結果、間違えてしまっても良いのだと思えている。そんな楓の顔に浮かんだ笑みは晴れやかだったから、桜は仰向けのまま適当な返事をするのだ。
「ま、良いんじゃない? もし今の仕事首になったら、どっかの編集部紹介できるしー。結構人居ないって言ってるとこあったから、看護師より家に居る時間は長くなるっしょ」
「そう、ね。それも良いかもしれないわね」
ゴロゴロと寝転がりながら、気のない素振りで語る妹の言葉に苦笑する。だらしがないようで、意外に聡い桜のことだ。距離感を保ちながらに気を配っているのだろうと、分かっているから苦く笑った。
「んじゃ、偶には飲みますか」
「ほんっと、何処に隠しているのよ。……余り、飲み過ぎないようにね」
「そう言うならばー、付き合いたまえー。姉さんが見張ってないと桜さんは、明日二日酔いで御手洗を占拠してしまいますぞ」
「……全く、貴女は。私、明日も夜から仕事あるんだけど」
一体何時仕込んでいたのか、人の私室の押し入れから一升瓶と二つのコップを取り出す妹の姿に頭を抑える。
それが気遣いの類と分かって、だからこそ苦笑しながらも受け取る。そうして楓と桜の姉妹は、夜明け頃まで杯を交わすのだった。




