第十一話 掩耳偸鈴
◇
そろりそろりと後をつける。街並みの中で建物の影に隠れて、道行く人はその不自然さに首を傾げながらも去っていく。
尾行と言うには稚拙。行動と見ても異質であろう。それでも、所詮他人は他人である。我が意識する程に、彼は我を思わぬもの。
見知らぬ他人など、数瞬後には忘れるだろう。他とズレがあるならば、余計に人は目を逸らしたくなる。己の内で勝手に理屈を付けて、納得できる生き物なのだ。
そうであるが故に、長く注目される事などない。そうであるが為に、違和は最小限に過ぎる物。それで終わってしまうから、稚拙であっても気付かれると言う事がない。
一体誰が、自分は追われているなどと、何の根拠もなく思い込むのであろうか。多少意識に浮かぶ事はあれ、理屈も証拠もないそれを、心の底から信じ込むのは少数派だ。
少なくとも、武梨綾人と言う人物はそうではない。である以上は稚拙な尾行者達には気付けずに、彼は目的地へと到達する。そうして彼は階段を下って、地下の扉の中へと消えた。
彼を少し後方から、追い掛けていた響希は表情を凍らせる。頬が引き攣るその理由は、彼が内へと消えた大きなビルが理由であろう。
「え、此処に、入るの?」
「ビルとビルの隙間に~、地下への階段があります~」
ふわりふわりと浮かんだ幽霊が、目に映る光景を端的に語る。此処は繁華街の一区画、如何にもな店が立ち並ぶ場所。
右を見ればピンクのネオンが、左を向けば情報斡旋所と言う何を紹介するのかも分からぬ店。そんな並びにある、地下へと続く階段。
其処へ続く階段の横。まだ夕刻故に点いてはいない電飾には、BARと言う英語が三文字。流れる筆記体で描かれた店名は、響希の知識では読めない単語。
明らかに子供が立ち入ってはいけない場所だ。背伸び云々以前の話、余りに壁が高過ぎる。まるで気圧される様に、少年は震える声で弱音を吐いた。
「此処、絶対変なお店、だよね。や、やっぱり、明日に」
「今日やるって、決めたんだろ?」
「だ、だけど、さ」
怖気付いて進めなくなる。それは彼の弱さであって、同時に彼の善良さでもある。こうした光景に怯むと言うのは、擦れてはいないと言う事だから。
店へと続く階段の前で立ち往生して、今日は帰ろうと言い出す響希。ある意味では善良なその姿に苦笑しながら、恭介はその肩を叩いて言葉を掛ける。
明日に回すのは、止めるんじゃなかったのか。そんな言葉に対して迷う様に、それでも響希は抗弁してしまう。
彼が決めた想いは、決意と言うにも覚悟と言うにもまだ軽い。難易度が低いと思っていたから、こんな場所に来るなど想定外だ。
「はぁ、仕方ないか」
恭介は深い息を吐く。嘆息と共に髪を掻き、そして同時に思いを飲み干す。まだ軽い思いでは、此処で進めと言うのは酷であろう。
怯えながらも、一目散に逃げようとしないだけ以前の響希よりマシだ。その変化に一先ずは納得して、ならば此処では嘗ての様に動くべき。そう判断すると、恭介は一歩を踏み出した。
「最初の一歩としちゃ難易度高いのも事実だし、俺が先に行くか。後からでも良いから、ちゃんと付いて来いよ」
「きょ、キョウちゃん。ま、待ってよ!」
「あわわ~。恭介さんは~怖い物なしですね~」
迷わず怯まず立ち止まらず、階段を下り進んで行く。その足取りは流れる様に、そうとも彼はこの程度では揺らぎもしない。
そんな背中を追い掛ける。嘗ての様に、何時もの様に、何時だってその背を追い掛ける。前を歩く背中があるなら、軽い思いであっても進めたから。
そうして少し歩いた先、其処にあるのは一枚の扉。準備中と言う看板が掛かったその扉を、恭介は迷わず開いて踏み込んだ。その先には、彼らにしてみれば、別世界とさえ思える光景が存在していた。
「階段を下ると~、其処は大人な世界でした~」
「こ、これ、バーとか、クラブとか、そういうのだよね。僕、実物は、初めて見た」
ビルの地下一階。静かな音楽を流す光景は、場末のバーと言う表現が似合うだろうか。それ程に手狭と言う訳ではないが、大きな酒場と言える程に広い訳でもない。
テーブル席が十と少しに、こじんまりとしたステージが一つ。無数の酒類が並んだ棚の対面には、カウンター席が幾つかある。地下だからであろうか開店前にも拘わらず、酒の匂いが僅かに空気を淀ませていた。
「武梨君。どうして、こんな所に」
「そりゃ、聞いてみりゃ分かるだろ。すいませ~ん!」
「怖い物なしだ!?」
キョロキョロと小動物の如く、周囲を見回す響希。そんな彼の疑問を軽く流して、そのまま恭介は声を上げる。
その声に気付いたのか、それとも扉が開く際の音に気付いていたのか、カウンターの端にある扉が開く。スタッフルームから出て来たのは、整えた顎鬚にフォーマルなベスト姿の男。三十半ばを過ぎた程度のガタイが良い男性は、声の主に気付いてその目を丸くした。
「ん? その制服、柊中のか? 懐かしい、ってか、ガキがこんな店に来るのは早いぜ」
「ご、ごめんなさいッ!」
叱り付けるのではなく、物の道理を説くように、笑みを浮かべて語る男性。その言葉は最もだと、だから謝罪をした訳ではない。
悪事が見付かった時に、怯えて咄嗟に謝る様な物。それを証明するかの様に、響希は恭介の背に隠れる。小学五年生の女子平均にも僅か満たない彼の身長は、中学生にしては高身長な恭介で無くとも隠せただろう。
「いや、此処の店に用があるんじゃなくて、人に用があると言いますか。知り合いを追い掛けて来たんですよ」
己の背中に隠れて、顔だけ出して覗き見ている響希。同じく見えてもいないだろうに、その行動を真似する玲菜。
そんな二人の姿に内心で苦笑しながら、それを表にも出さずに恭介は語る。万能超人などとも揶揄される所以は、こうした対応力の高さが故でもあるのだろう。
「知り合い? ガキの知り合いっつーと」
「すんません、マスター。今から仕事に入りま――って、おまっ!?」
少年の胆力に驚きながらも、表情を崩さずに対応するバーのマスター。誰を言っているのだろうかと彼が頭を傾げている途中で、目的の人物は合流した。
カマーベストに黒のメンズパンツ。貸与された制服姿に着替えていた綾人は、見知った顔を前に驚愕する。そうして理解が追い付いて、状況の不味さに頬を引き攣らせた。
「んだよ、お前の知り合いかよ。綾人。ってか中坊の知り合い?」
「あ、いや、それは――」
不味い。不味い。不味い。不味い。思考はその単語だけで埋まってしまい、咄嗟に対処の言葉が出て来ない。
何を言っても、この状況は打開不可能。彼の立場で何を言おうと、彼らの発言次第で覆される。そうであればこそ、尾行に気付けなかった不甲斐なさに其処で気付いて。
「いやー、俺ら武梨先輩に用があったんですよ。先輩が中学に居た頃から、結構世話になってたんで」
「な――っ」
「え? キョウちゃん?」
そんな窮地を助ける言葉は、その窮地を呼び込んだ元凶より語られた。綾人が何故に焦っているのか、この場で即座に気付けたのは恭介だけだったのだ。
故に口から出まかせを。咄嗟にカバーストーリーを作り上げて、あたかも真実が如くに語る。その行動に驚く響希や綾人に意識が向かない様に、声を大きく身振り手振りも合わせて騙る。
「いやー、先輩にはほんっと昔から色々助けられてて。この間も偶然会った時、不良に絡まれてたんですけど、先輩に助けて貰ったんですよねぇ。んで、そのお礼も兼ねて、まぁこっちの響希って奴が菓子作り得意でして、差し入れにって訳です。御迷惑かも知れませんが、俺ら昼間は学校なんで、この時間じゃないと渡せないんです」
「へぇ、高校は中退したって聞いてたが、武梨テメェ、昔は意外と良い先輩やってやがったのか?」
「え、あ、別に大した事は」
「そんな謙遜してんじゃねぇよ。学外に出た後も慕ってくれる後輩なんて、早々作れるもんじゃねぇんだぜ」
「……うっす」
微量の真実を混ぜ込んで、言葉の強さと勢いで信じさせる。この程度の事に嘘を吐く者はいないだろうと、彼は騙していないだろうと、そう思い込ませれば勝利である。
慣れているかの如く、淀みない手腕はまるで詐欺師だ。嘘と分かっていても、思わず納得してしまいそうになる。そんな真に迫った口調の語りに、呆れれば良いのか感心すれば良いのか。
響希や綾人が戸惑っている間にも、恭介の手番は続いていく。所詮即興の話であるから襤褸が出てしまうより前に、彼は己の要望を通し切ってしまうのだ。
「あ、マスターさん。先輩、少し借りても良いですか? 準備中に申し訳ないですけど、やる事やったら直ぐ帰るんで」
「応、良いぜ。武梨、外で後輩達の相手をしてやれ。いくらテメェの知り合いだろうと、こんな場所にガキが長居するべきじゃねぇからよ」
「うっす。すんません」
「ありがとうございます。マスターさん」
一見すれば誠実な対応をしている様に見える恭介に、マスターは笑って許可を出す。感謝の言葉を一つ告げると、そのまま彼は扉を出た。
地上へ向かう恭介の後を、響希と玲菜は一礼してから慌てて追い掛ける。そんな彼らが何を企んでいるのか、警戒しながら綾人もその背を追うのだった。
そして、店の入り口から少し離れた路地裏。ゴミが散乱し、饐えた臭いがする猥雑とした場所。その壁に寄り掛かりながら、綾人は鋭い視線で恭介へと問い質す。
「……んで、テメェ。さっきのアレは何の演技だ」
「労働基準法第五十六条」
「あ?」
「使用者は、児童が満十五歳に達した日以後の最初の三月三十一日が終了するまで、これを使用してはならない。……詰まりはだ。俺らが仕事をするのは違法って訳だ。例外事項も確かにあるが、酒場は流石に不味いだろ?」
彼らは今年、中学二年生となった身だ。新年度が始まって一月弱しか経ってはおらず、早生まれであっても14歳が少々居る程度。
法律に従うならば、彼らは未だ児童と言う身。児童労働は、基本として違法となる。子役や新聞配達など特別に許可された仕事を除けば、働いてはいけない年なのだ。
ましてや、個人経営とは言え、繁華街にある飲み屋。其処の店員として仕事をするなど、違法も違法。弁解不能な犯罪行為と言えるだろう。
そんなもの、経営者ならば知っているべき事。でありながらも、中学校の制服を着た二人の姿にマスターが焦った様子はなかった。ならば、彼は知らないのだ。
児童と知らずに、仕事をさせている。履歴書に嘘でも書いたのだろう。年齢詐称をした側が襤褸を出さない限り、された側は往々にして気付けぬのだから。
「……脅す気かよ。テメェ」
「だったら、こんな下手な芝居は打たねぇよ。少し探れば粗が出る。その程度の代物だからさ」
「ちっ、なら何の為だってんだ」
「一つは、俺からの礼代わりさ。響希を助けてくれたのは事実だからな。だから、今回は話を合わせた。お前、年齢詐称してんだろ?」
「目敏い奴だな。ってか、それだけかよ」
「そりゃ、そういう能力が必要だった訳だからな。それに、コイツは理由の一つ。もう一つ、ってか本命はこっちだ」
隠し事を暴かれて、しかし脅す気はないと言う。そんな言葉に少々罰が悪くなる想いを感じながら、それでも綾人は変われない。変わってはいけない理由がある。
本質的には、彼もまた善良なのだろう。言葉の節々に感じる逡巡にそんな感想を抱きながら、恭介は本題へと入る。その為にも、背に隠れていた響希の身体を押し出した。
「え? 僕が、言うの?」
「そりゃそうだ。その為に来たんだろ」
押し出された響希は戸惑うが、しかし退く事は許されない。背中を押した少年が、ここでの逃避を許さない。
立ち入れない場所から、引き摺り出す助けは確かにした。此処まで来れば、もう軽い覚悟でも十分だろう。これ以上に何かをするのは、彼の成長を阻む余分にしかならないのだ。
「あ゛? テメェが、俺に? 何の用があんだよ?」
けれどそんな理由は、彼らだけの理由でしかない。目の前に居る不良少年にとってみれば、全く関係ない事だ。
隠して置きたかった事を暴かれて、そんな綾人も良心の呵責を覚えていない訳ではない。マスターが善人であればある程、ままならない現実への憤りが湧いてくる。
行き場のない憤りや苛立ちは、現状への怒りへと変わっていく。無関係の理由でその内実を表層に晒した彼らに対し、怒りを覚えない訳がない。それでも手出ししないのは、それが八つ当たりに過ぎないから。
それでも怒りを抱いている。ならば空気は悪くなる。不快を隠さず睨み付けてくる強面に、響希は思わず心の底で弱音を吐いた。
(……空気、最悪だよぉ)
「響希さん、頑張って下さい。明日の為に~、ねばーぎぶあっぷですよ~」
弱音を吐いても逃げ出さないのは、きっと傍らに彼女がいるから。握り拳で応援する幽霊少女が居るから、響希は決して一人じゃない。
背中で見守っている友達のお膳立ても確かにあって、何かがあれば如何にかしてくれる。そんな信頼もあったから、響希は震える足を前に進めた。
(そうだ。明日に後悔しない為、今日に一歩を踏み出すんだ)
「あ、あのッ!」
「んだよ」
「こ、これ!」
後悔しない為の一歩。その歩幅は短くとも、一歩を進んだ事は確かな事実。ならば其処には、変化が起こる。
鞄から取り出した小袋を両手に、俯いたまま手渡す。目の前に突き出されたそれを、訝しみながらも綾人は手に取った。
「あ? こりゃ、菓子か? しかも、手作りかよ」
「この間の、お礼にって! 作って、みたんだ」
「……お前がかよ。女みてぇなのは、顔だけにしとけや」
「あ、あぅぅぅ」
中身を確認して、手作りであると言う所に呆れてしまう。それは女子の趣味ではないのかと、つくづく目の前の少年は男らしくない。
艶のある長い黒髪に、綺麗に整った目鼻立ちと低身長。男子制服を着ていなければ、女にしか見えない。それも並大抵のではなく、トップアイドルも目指せるのではないかと言うレベルのだ。
叔母の影響により、所作や趣味すら女性的に育った少年。そんな響希に向かう視線に、呆れと侮蔑の色こそあったが、怒りは最早存在していない。
それでも、そういった色と言うのは濃く出てしまう物。二メートル近い長身からの蔑む様な視線は、内気な少年にとっては些か以上に重い圧を伴う物だった。
「ってなんだよ、んでこの程度で泣きそうになってんだよ、クッソ面倒くせぇなぁ」
思わず目が潤んでしまって、震え始める響希の姿に息を吐く。面倒だと感じるのは、傍に居る過保護な相手に対する評価でもあった。
頬を膨らませる幽霊の姿は見えずとも、視線に何やら冷たい物を感じさせる少年の姿は目に映るのだ。先のやり取りを見る限り、アレを敵に回すのは面倒だ。そうでなくとも、泣かせてしまうのは気分が悪い。
「はいはい、ありがたく貰いますよ。食えば良いんだろ、食えば」
だからそんな風に吐き捨てて、受け取った小袋を開く。中にある焼き菓子を一つ取り出して、口に含むと綾人はその目を丸くした。
「んだよ、旨ぇじゃんか。甘いけど」
「そりゃクッキーだから、当たり前だろ」
「……コイツは、何時まで日持ちするんだ?」
「え、えっと、防腐剤とか、使ってないから、一日二日しか。作ったの、昨日だし、出来れば今日中に」
「ちっ、使えねぇなぁ」
「な、何で!?」
味には高評価を貰えたのに、何故に日持ちしないと言うだけで罵倒されるのか。訳が分からず響希は戸惑う。
ともあれ、踏み出す一歩目としては十分だろう。綾人の視線にはもう、怒りも侮蔑も存在しない。ならば此処から、更にと踏み込む事は然程難しくはなかったのだ。
「んで、これだけか? なら、俺は戻るぜ」
「あ、その、もう、一つ、ありまして」
「ああ? んだよ」
そうとも、話せば分かる。語り掛ければ、応えを返してくれる。武梨綾人は、そういう人物であると分かった。
だから、此処で本題に入るとしよう。まだ怖いと言う思いはあるけど、彼とならばやっていけるとも思えたのだから。
「ぼ、僕たちと、バンドをやらない!?」
「バンド?」
「そうさ、俺達はバンドチームを作って活動してるのさ。バンド名は、しかしまだない!」
「絶賛募集中です~」
決意を固めて語る勧誘。その背で見える人と見えない人が賑やかしをしているが、綾人は一先ず彼らの事は考えない事にする。
そのテンションの高さに、付いて行こうとは思えない。そうでなくとも、考えるべきはそれではない。そう思ったから、綾人は何故だと問い掛ける。
「……何で、俺なんだ?」
「え、っと、何でって言われると」
その問い掛けに、答える解を響希は持たない。勧誘しようと最初に決めたのは、彼ではないからどう答えるべきか分からない。
自然視線は発案者へと。同じく背後の恭介を見た綾人は、関わりたくなさそうな顔をしながらも、彼に向かって再び問い掛けるのだった。
「何で、俺なんだよ。テメェ」
「ティンと来たからさ!」
「んだ、そりゃ?」
「更に言うなら、風が語るのさ。お前が良い、ってな」
「……訳わかんないよ、キョウちゃん」
選んだ理由は感性です。直感だけが理由と言われて、戸惑わない人間などそうは居ない。
響希も綾人も、その大多数に含まれる側の人間である。お前が何を言っているのか分からない。そんな視線を受けながら、恭介は決して揺るがない。
「俺の勘と風が言っている! 武梨綾人! お前、実はドラム出来るだろ!!」
「……意味分かんねぇ。何気に合ってる辺り、マジで意味分かんねぇ」
「合ってるの!?」
「死んだ親父が、昔やってたんでな。真似事レベルだけどよ。遺品にあったから、叩いて遊んでた時期はある」
「当たってますね~。恭介さん、凄いです~」
不可解だ。理不尽だ。意味が分からないにも程がある。それでも事実として見抜かれたのなら、認める以外の術が綾人にはない。
呆れと困惑と称賛と、異なる視線を三人から受けて恭介は笑う。この星の自然は弱っているけれど、些細な事しか出来ないけれど、それでも世界は彼の味方だ。
「なら決まりだな! これでボーカルにギターにドラムが揃った! 漸く、漸くバンド名の決定に移れるな!!」
「勝手に決めんな。俺はやらねぇ」
彼らがバンドをしている事は分かった。どういう訳か自分の能力を知り、勧誘していると言う事情も分かった。
それでも、それに従う理由がない。それに従える、理由がなかった。だから綾人は舌打ちと共に、巻き込むなと告げる。
「え、やって、くれないの?」
「……んな目で見てくんじゃねぇよ。何か悪い事してる気分になるだろうが」
「事実、悪い事してますよね~」
「違法行為バリバリだな」
「うっせぇよ。そういう問題じゃねぇ。……いや、そういう問題、か? まぁ、兎も角だ。俺にはテメェらと遊んでる様な時間がねぇのよ」
拒絶は告げた。ならば此処に居る必要はない。彼らと付き合う、時間などは何処にもない。
「金が要るんだ。少しでも早く、少しでも多く、間に合わなくなる前に」
誰に語るでもなく、小声で呟く。武梨綾人には時間がない。法を犯してでも、何をしてでも、お金が要るのだ。
「なぁ、武梨。最後に一つ、聞いて良いか?」
「何だよ」
「児童労働ってのは、雇い主も違法とされる。お前、それが分かってやってるのか?」
「分かってるよ。……分かってて、やってんだよ」
立ち去る間際に言葉を掛けられ、それでも綾人は止まらない。罪の意識を自覚して、それでも止まって良い理由がない。
「……そうだよ。そうでもしねぇと、いけねぇんだ。俺は、必ず。そうさ、アイツだけが、もう俺に残った最後の――」
止まってしまえば、失われてしまうから。最後に残った小さな少女の笑顔を思い浮かべて、だからこそ武梨綾人は立ち止まる事をしなかった。
「断られちゃった」
「ですね~。困りました~」
「…………」
止まらないから、彼はもう姿を消している。その背中が勤務先へと戻った後、勧誘失敗に落ち込む響希と玲菜。
そんな二人とは違い、恭介はその拳を握り締める。彼にしては珍しく、笑顔が消えたその表情。風が音を拾ってくれるから、小さな音すら聞こえてしまう。
響希や玲菜が気付けなかった綾人の本音。呟く様に吐露してしまったその弱さに、そしてその先にある想いに、察してしまったからこそ、恭介は確かな怒りを感じていた。
「分かっててやってる、か。……お前、何も分かってねぇよ」
「キョウちゃん? 怖い顔して、どうしたの?」
「いや、ちょっとな。少し、気に掛かる事があったのさ」
「気に掛かる、事?」
それでも、彼らにそれを向ける心算はない。まだ守られる側に居る少年に、気付かせる訳にはいかない。そして、あくまでも推測であって、確証なんて何もない。だからこそ、恭介は何時もの笑みで真意を隠した。
「……取り敢えず、お前ら先に帰ってな」
「先にって、キョウちゃんは?」
「俺はもう少し、あいつをつけてみる。仕事終わりまで張り込むから遅くなるだろうし、響希と玲菜は先に帰った方が良い」
だからこそ、推測を確信に変えよう。この推測が真実ならば、己は彼を許せなくなる。結城恭介だからこそ、武梨綾人の所業を許せなくなる。
そんな怒りの姿を見せたくはなかったから、それに遅くまで付き合わせたくもなかったから、恭介はそんな風にいつもの笑みを作って語るのだ。
「……僕も、残るよ」
「響希?」
「武梨君の何かが、気に掛かってるんだよね。キョウちゃんがそう言う時って、大体何かある時だから」
それでも、それは彼を甘く見ている言葉だ。まだ決意は軽くて、覚悟と言える物などなくて、それでも響希に気付ける事はある。
ずっとその背を追って来た。彼に守られて、恭介の背中を見続けて来たのだ。だからこそ、そんな響希だからこそ、その僅かな変化にも気付ける。彼の作り笑いなど、龍宮響希には通じない。
「僕に勧誘を任せたのは、キョウちゃんだよ。だったら、それは、僕も知らないといけない事じゃないのかな?」
「……ふっ、言う様になったじゃないか。良し、なら暫く付き合って貰うぜ。勿論、桜さんにフォローの連絡した後で、だけどな」
思っていた程に、彼は成長していなかった。それでも、全く変わってない訳でもない。少しずつ、その変化は確かに起こり始めている。
だから、きっと甘く見ていたのだろう。怒りを隠し通すような、そんな必要なんてなかった。そう思い至れたから、浮かべた笑みに嘘はない。
「桜さん、大丈夫ですかね~? 響希さんが居ないと~、夕御飯食べられなさそうです~」
「あ、あり得る。今日は何も、用意してなかったしなぁ」
「何、あの人はあれでやる時はやる人さ。それに一晩位、どうとでもして貰わないとな」
爽やかな笑みと共に、片手で携帯を操作する。ラインを通じて保護者へと帰宅が遅れる旨を伝えて、尾行調査は以後も続行。
「さ、スニーキングミッション続行だ。目標は武梨綾人。アイツがバンドに入れない理由の調査ってな」
『おーっ!』
彼が止まれない理由を知る為に、今度は誰もが知りたいのだと思えたから、皆で揃って拳を振り上げ叫ぶのだった。
掩耳偸鈴――鈴の音が聞こえないよう、自分の耳をふさいで盗む。良心に背くことをするたとえ。愚者が策を弄するたとえ。




