第一話 龍宮響希
◇
「そうだ。バンドをしよう」
全てはたった一つ。そんな言葉から始まった。
桜の花弁が、まだ少し肌寒い風に舞う季節。人気のない校舎の屋上に、佇む人影が二つ。
片や漫画本を手に寝転びながらも、何処か清々しいと言う印象を与える茶髪の少年。もう一方は長い黒髪を腰元にまで届かせた、制服姿でなければ少女にしか見えない少年。
学生服の首元には同じ二年を表す校章。互いにジャンルこそ違うが、共に見目麗しい少年達だ。
そんな二人の内一人。茶髪の少年は漫画本を閉じて身体を起こすと、唐突にも程がある言葉を口にする。会話に脈絡がない所か、先ほどまで黙っていたと言うのにこの発言。共に過ごす少女の如き少年は、溜息交じりに言葉を返した。
「……行き成り、何言ってるのさ」
その声もまた澄んだ朝に聞こえる小鳥の囀りが如く。日本人形の様に綺麗な濡羽色の髪と整った顔立ちに、しかし何処か自信のなさを滲ませるその表情。
まだ変声期も二次性徴も訪れていない少女の如き少年――龍宮響希は何時もの病気かと問い掛ける。
「また漫画の影響? こないだはサッカーで、その前はバスケだったよね。……どれも何か、最終的に凄い事になったしさぁ」
その可愛いらしい瞳に精一杯の冷たさを伴わせながら、響希はたった一人の友人――結城恭介の顔を見詰める。
アメリカ系イギリス人を母に持つ少年は、中学二年だと言うのに既に高校生以上の身体能力を有している。アメリカ帰りの帰国子女と言う立場もあってか、幼い頃から行動力が群を抜いていた。
漫画やテレビに影響されて、時折突拍子もない事を言って行動を始める。
思い付いて個人の枠内でするなら兎も角、恭介は何時も周囲を巻き込んで事を大きくし過ぎるのだ。
一体誰が、中学生がスポーツしようと言い始めて、一週間後にプロチームの強化合宿に参加する破目になると思うのか。一体どうして、芸術の勉強がしたいなどと言った翌日には花の都パリに飛んでいるなどと考えられるか。
どんな伝手を使っているのか、やる事為す事とんでもない少年。そんな恭介に巻き込まれて、渦の中心で溺れる様に流され続けるのが響希の日常風景だった。
だから今度は何に巻き込まれるのか。本人曰く冷たい目線――と言う名の上目遣いで、響希は恭介を睨み続ける。
そんな並みのモデルやタレントよりも可愛らしい不満の表情に、恭介は一瞬新しい扉を開き掛けながらも首を横に振って気の迷いと振り払う。そして給水塔に手を当て勢い良く立ち上がると、拳を握って独自の謎理論を口にするのであった。
「秋はスポーツなら、春はロックで良いと思う。芸術も含めて全部取っていくのは、流石に秋が欲張り過ぎないか?」
「なに、その意味不理論」
相変わらずなその調子に、何を言ってるんだと目を細める。
幾ら表情を険しくしても可愛げしか浮かばない少年に、恭介は悪童の如くニヤリと笑いながらに提案した。
「ま、とにかくだ。俺達もさ、今日から中学二年な訳だし? 何か新しい事に挑戦するってのが、青春だって思わないか? 思うだろう? 思ってくれよ!」
「……進級したんだから、少しは落ち着けって言われると思うよ」
「落ち着くのは、何時でも出来る。だが青春は、今しかないっ! なら俺は鮪の如く、何時までも走り続けてみせようさっ!」
「ほんっと、なんなのさ、その元気……」
まるで演説するかの如く、派手な身振り手振りで主張する恭介の姿。抵抗は無意味だと分かっていて、だからせめてと響希は不平不満だけを零す。そんな彼に苦笑して、それでも恭介の思考は変わらない。
「それにさ、バスケもサッカーも、俺だけが遊んでたみたいだったろ?」
「まぁ、ね。素人チームで全国優勝メンバーに挑もうって、ノリが馬鹿丸出しだった訳だしさ。……それでもハットトリックとかやってたキョウちゃんは、ほんっとどうかしてるって思うんだけど」
何よりも、恭介は響希と何かがやりたかった。一緒に困難に立ち向かう。それを望んでいたのだ。
結城恭介は万能超人とでも呼ぶべき人物だ。スポーツも勉学も他の追随を許さずに、全国一位どころか既に社会人レベルで通用する程の穎才だ。天才ではなく穎才。彼が本質として努力の人であると、誰よりも傍に居た響希は良く知っている。
だからこそ、響希はこの一番の友達に、僅かなコンプレックスを感じていた。
背の順万年一番目。学生服がなければ、性別すらも分からない。小学生の女子にフィジカルですら負けている。そんな容姿と体力に不満がない筈もない。
それでも嫉妬よりも友情の方が強いから、手を引かれて進むのが好きだから、だから響希はその背を追い掛けているのだろう。
だが恭介は共に何かがしたいのだ。轡を並べて進みたかったのだ。
だからこそ今に甘んじている響希に対し、彼は踏み出す一歩を求めている。
そしてその一歩。天恵とも言うべき発想が、先程まで読んでいた漫画にあったのだ。
「それで俺も反省した訳だ。青春は一人で行うに非ず、達成すべき目標は高くなければやり甲斐がないが、自分一人で挑んで楽しいで終わっちゃいけないって事だよな。――だからバンドだっ!」
「……その心は?」
「バンドだったら、響希がメインボーカル張れるだろ?」
「……え?」
それは内向的な少女が、絆を通して前に進む為の物語。軽音楽の活動を通じて、確かな自信を得ていく物語。正しく、今の響希にとって相応しい物。
「ん? どした? んな鳩が戦術核ぶつけられた様な顔して」
「えぇぇぇぇぇぇぇっ!? ぼ、僕がボーカル!? ってか鳩死んだぁぁぁぁっ!?」
「驚き過ぎだな。そしてツッコミもキレがない。核が落ちれば鳩だけでなく街も死ぬぜ」
「って、そうじゃないよっ! そういう問題じゃなくて――」
だが自信のない少年に、それは難度が高い要求だ。
背中に隠れ続けていた少年に、それはとても難しい問題だ。
確かに、響希は歌が得意だ。だが趣味で歌う事と、人前に立って歌う事は違う。
行動力に溢れ過ぎている恭介の事だ。ここで頷けば数日以内にはライブハウスで初ライブと言う展開にも成り兼ねない。いいや、確実にそうなるだろう。
付き合いの長さ故にそうと分かった龍宮響希は、その流れを必死に食い止めようと理屈を口にした。
「僕がメインボーカルって、バンドやりたいのはキョウちゃんじゃ」
「何言ってんだよ。さっきも反省したって言ったばっかだろ? それに真面目な話、バンドをやるなら響希の声と歌唱力を活かさない手はない」
しかし響希の理屈は、恭介の理屈にバッサリ切られる。
結城恭介は知っているのだ。凡人でありながら多才を偽れる程に、努力を重ねたこの少年は理解している。龍宮響希の歌声は、もう趣味の範疇にはないのだと。
俗に言えば、売れる声だ。響希の歌声は、確実に大衆に受ける物なのだ。
変声期を前にした歌声は、オーストラリアの有名な合唱団に混じっても遜色がない程に。親族に音楽関係者が居る事から、昔から音楽に慣れ親しんでいてその音感も磨かれている。ヴィジュアルもまた日本人の少女としては理想的。
ここまで要素が揃っていれば、後必要なのは自信だけ。
それだけを如何にか出来たならば、人気バンドを作れるのだと結城恭介は確信していた。
「うっ、けど……メンバーとか、色々、どうするのさ。僕、楽器、全く弾けないよ」
そんな自信溢れる友人に、不安そうな表情のままに抗弁する。
歌う事は好きだが、本人主観では趣味の域。楽器の類を真面に弾けないとなれば、不安は更に募る物。
「響希はボーカルオンリー。俺は何でも一通りは出来るから、メンバー次第。出来ればドラムとギターベースの三人欲しいが、……最悪は俺がギター使っての二人組バンドだな」
「キョウちゃんが、割と本気で考えてる。……え、もしかしてこれ、本当にやらないといけない流れ?」
だが既に、恭介の中で形は出来ている。その脳内では既にどんな形になるか決まっていて、此処までくれば最早反論に意味はなかった。
彼はやる。確実にバンドを始める。それも個人の趣味レベルでは済まさずに、明らかにプロの業界を見据えた本気レベルで突っ走るであろう。
それが分かって、前面に出されると理解して――響希の心を占めるのは、決意や覚悟などではなくて弱気の虫だ。
「む、無理だよ。キョウちゃんに付いてくだけなら兎も角、僕が前に出て歌うなんて」
不可能だ。出来る筈がない。自分が主役なんて、絶対に似合わない。
何時だって、そうだった。何時だって、響希はそうだった。友の背を追い、その手に引かれて前に進む。そんな少年だったから、自信なんてある訳ない。
女の子にしか見えない容姿と、そしてもう一つの人に言えない事。
二つの理由で虐められてた響希の手を、何時だって握ってくれたのはたった一人の友人だった。
――うっし、これで俺らは友達な!
公園のブランコで泣いていた響希に、手を差し出したその姿。
少年はずっと忘れない。一緒にいれば安心で、手を引いてくれるなら絶対で、だから追い掛けているだけで良かったのだ。
背中を押されたとしても、きっと自分じゃ失敗する。大勢の前に出て歌う事など、今の響希に出来る筈もない。
そんな弱気に負けて首を振った少年は不安そうな表情で、考え直そうと恭介を縋る様に見る。その上目遣いに心を揺らしながら、一呼吸をして結城恭介は口にした。
「……やれないってんなら、仕方ない。ま、強制じゃ意味ないからな――と言うとでも思ったかっ!!」
「ふぁっ!?」
何時もなら、こんな表情をされたら引いている。だが今日の彼は、何時もと一味も二味も違っていた。
泣き言など知らない。不安なんて勢いで振り払い乗り越える。強引とも言える程に強く背を押して、馬鹿丸出しに言葉を口にするのだ。
「響希の意見は聞いていない! 聞く耳持たない訳ではないが、聞くのは全部終わってからさっ!」
「それ実質聞く耳持ってないよねっ!?」
「そして目標はでっかく! 日本武道館で満員御礼ラァァァイブッ!!」
「目ひょぉぉぉぉう!? 絶対それ、中学生が目指す事じゃないよぉぉぉぉっ!?」
甘かった。ライブハウスなどでは甘かった。
この行動力溢れる愚者は、本気でトップを狙っていたのだ。
勢いと熱意の押し込みに、内面の鬱屈が流される。
鬱屈したままでは止められないと響希は此処に焦りを抱いて、しかし鬱屈してもしなくても結城恭介は止まらない。
「そんな訳で俺は、活動に必要な物を二・三日中に集めてくる! メンバー集めは任せたぞ!!」
「キョウちゃん!? 明日の学校は!? そもそも僕、キョウちゃん以外と真面に話せない! ――ってか此処、六階建ての屋上だよっ!?」
学校の屋上にある給水塔。それを足場にフェンスを乗り越え、笑いながらに背中を向ける。
ツッコミ所しかない言動と行動に響希が思わずノリツッコミを行うが、恭介は異にも返さず空へと跳んだ。
「明日明後日は自主休校! 人付き合いなんて慣れだ。為せば為る! そして高さがどうしたっ! 青春の情熱は、そんな物では阻めないっ! I can Fly!」
ノリと勢いで空へ、紐なしバンジーをする結城恭介。すわ落ちたのかと響希が大慌てで走り寄れば、万能超人は窓際の足場や壁の凹凸に手を掛けながらするすると下りて行く。
そのままスタリと綺麗に着地して、元気良く校庭を突っ切って何処かへと走り去ってしまった。
「あ、あり得ない」
残された響希は思わず、そう呟く。その言葉は彼の出鱈目さか、押し付けられた役割故にか。色々と規格外な友人の無茶振りに、頭を抱えて溜息を吐く。
アガリ症で対人恐怖症気味、中学校は学区的に話し辛い相手が多い。バンドのメインボーカルを張ると言うだけでも一杯一杯だと言うのに、その上メンバー集めをしないといけない。そんな現実を前にして、響希はへたり込んで腰を落とした。
「ほんっと、これからどうしよう……」
綺麗な髪を汚しながらに、響希は引き攣った表情で呟く。山積みの問題を思い浮かべて、何度目になるかも分からない溜息を吐くのであった。
龍宮響希。13歳。
生まれは2月の建国記念日で、現在中学二年生。
学校の始業式の日に押し付けられた無茶振りに、どうすれば良いのか悩んでいます。