第二話
アシュロンは追いすがる闇を払いのけるように、声を挙げようとした。しかし、思ったように声が出ない。
ああ、これは夢だ。悪夢なのだ。
追いすがる闇が蛮族の男に変容した。顔に複雑な刺青をした男だ。
刺青の男が俊敏に動き、手にした剣を振るった。蛮族に似つかわしくない、豪華な装飾の施された剣だった。柄が絡み合う四匹の蛇を模しており、柄頭の部分で一つの青い宝石を銜えていた。
蛮族が、剣をアシュロンの脇腹に突き刺す。
アシュロンは自分の体が熱くなるのを感じた。そして、アシュロンは力なく膝をついた。
目の前には今にもアシュロンを切り刻もうと、鈍色の鉄が迫っていた。
だが、刃はアシュロンに届くことは無かった。
アシュロンの目の前で、全身を輝く甲冑に包んだ騎士が、蛮族の剣を耳鳴りな金属音と共に受け止めた。
アシュロンの耳に背後から少女の声が聞こえた気がした。アシュロンが振り向いた先には幼い少女がいる。顔がぼやけてよく見えないが、アシュロンにはどこか懐かしい感じがした。
少女がアシュロンを呼んだ。
ふと、アシュロンが騎士の方に向き直ると、騎士は蛮族と鍔迫り合いしながらも、無言で、行け、と首を振る。アシュロンは兜の隙間から覗く目に、今は亡き父の面影を感じた。
気が付けば、脇腹の傷も消えていた。
少女の指し示す先にアシュロンは光を見た。
ああ、これは夢だ。だが、今はもう悪夢ではない。
大きな音がした。重く響く詰まったような音は、小麦の詰まった麻袋を投げ落としたような音だ。
呻き声を上げていた傷病者達も、その一時は何事かと声を潜めた。次いで、女性神官が慌てる様子もなく、アシュロンに駆け寄った。アシュロンは寝台から転げ落ちていた。
女性神官がアシュロンを宥めるように寄り添うと、意識を取り戻したアシュロンは、周囲の状況から自分がまだ生きていることを理解した。
アシュロンは異様な体のだるさと熱を感じた。そして、それは脇腹に深い傷を負った為だと理解した。アシュロンは脇腹の血の滲む包帯を見つめて、大きくため息をついた。
女性神官では力が足りなかったのだろう。しばらくして、男性神官と傭兵らしき男が、アシュロンを助け起こすために呼ばれた。
「すごいな、意識を取り戻したのか」
男性神官が驚いて声を上げた。
「とりあえず、寝台に寝かせるんだ。君も手伝ってくれ」
男性神官の指示が傭兵らしき男に飛んだ。男二人で抱え挙げられたアシュロンは、再び寝台に横たえられた。
「その図体は伊達じゃねえんだな」
傭兵らしき男も男性神官に同意した。
「まあな」
アシュロンが力なく答えた。
神官達はやることが山積みなのだろう。アシュロンの顔色が良くなっている事に気が付くと、足早にそれぞれの作業に戻った。
残されたのは、アシュロンと傭兵らしき男だった。
彼の名はガル。キャラバンの護衛隊の一人だ。小柄な体格で、剣の扱いも抜群だが、ナイフの投擲や弓の扱いに特に秀で、目端が利く男だった。
「他には誰がやられた?」
アシュロンは、気になっていた質問を、直裁に投げかけた。
「アナンとルード、それにジャラのおっさんが死んだ。他にも怪我人ばっかだよ。よくまあ、生き残れたもんさ」
ガルがやれやれといった仕草を見せた。
「あいつらは?」
ここでいうあいつらとは、蛮族のことだ。
「逃げ帰ったよ。くそったれどもめ」
ガルが吐き捨てるように言った。
「軍の急使が戻ってきてるらしい。三日後には援軍の先遣隊も来るそうだ」
ガルの言葉に少しだけ安堵したアシュロンは目を瞑った。この城塞にどれだけの損害が出ただろうか。蛮族は何故あれほどの襲撃をかけてきたのか。あの蛮族の隊長はどうなっただろうか。取り止めもない疑問が意識に浮かんでは消えた。どれも、アシュロンが考えても仕方のないことだ。今のアシュロンの仕事は一つだった。
「そういえば、キャラバンはどうするんだ?」
「ん?ああ。護衛が怪我人ばっかで旦那達も困り果ててるよ。とりあえず、軍の増援が来るまで待って、そっからは軍と交渉だな」
「そうか。どちらにせよ俺はしばらく動けそうもないな」
「そらそうだろ。その怪我で動き出したら、俺がひっくり返るわ!交渉は旦那方に任せて、ゆっくり養生しなよ。報奨金もたっぷりでるだろ」
会話が一段楽すると、手を振りながらガルが部屋を後にした。
ガルは軽い調子の男だが、その実力は確かだ。今回の戦闘でも掠り傷一つ負っていない。これが臆病に逃げ回っていたからではなく、勇敢に戦った結果だというのだから恐れ入る。
「養生か」
アシュロンは一人ごちた。
アシュロンは今年で二十六。戦うことを、日々の糧を売るための方法として選んでから、十一年が過ぎていた。五年は正規兵として帝国に仕え、残りの六年を傭兵として働いた。
帝国は他国に比べて事情が特殊で、国内の傭兵家業を認可性にしていた。流れの傭兵は金で雇ったは良いものの、悪くすると夜盗化するためだった。そして、帝国で傭兵になる為には、最低三年間の軍務経験が必要とされた。
帝国には兵役義務がある。兵役は、十五歳から三十歳の間の任意の三年間行う必要がある。そして、多くの場合、一年区切りにすることが許されていた。また、長男は免除され、裕福な者に対しての、税による免除制度もあった。つまり、傭兵になるには免除を受けずに、兵役を終えることが必要だった。
本来、五年も傭兵として戦働きをすれば田舎に家を構え、小さな畑を始めるくらいの蓄えはできる。十年となれば、細々と隠居することさえできる。しかし、傭兵となった者は死ぬまで傭兵をする。なぜなら、帰る場所があるものは、兵役を勤め上げた時点で、故郷に帰るのだ。
「養生か」
アシュロンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。