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美しい鼻血  作者: 子々
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第8章 信じてる




 その日、家に帰った僕は、ナイフを机の引き出しにしまい、衣類を紙袋に収納し、押し入れの中に置いた。

 ゾワゾワと身体中がうずく。犯人を捜しだすことは不可能だろうし、自分の「少年リッパー」としての過ちを悔やみ、神様に許しこう気もない。ならば、どうしてこんなにうずくんだろう。


 僕はカーテンを開け、窓からゴミ捨て場を見下ろした。哀子がゴミを漁っていた。そういえば、最近哀子に会いに行っていなかった。哀子は僕が見ていることに気付かず、ひたすらゴミ袋を開けては漁って、時たま顔を突っ込んで奥まで必死に探していた。


 なんて惨めなんだろう。復讐遊びを止めた僕たちは、その瞬間縁が途絶えた。僕たちは人の不幸の上で繋がっていたのだ。僕はカーテンを握りしめた。眉間に力がこもり、全身が緊張したように強張る。僕は足を縺れさせながら、引き出しからナイフを取り出し、ジッと見つめた。身体中が汗ばむ。僕はナイフが手元にないと落ち着かないようで、なおしても、なおしても、僕はナイフを手元へ戻してしまう。また誰かを切りたくなってしまう。傷が見たくて堪らなくなる。


 そういえば担任が「人を傷付けるということは、自分自身のことも傷付けるということなのです」と泣きながら語ったことを今更思い出した。クラスでいじめがあったときだった。もう彼女は死んでしまったけれど、第三者のくせに泣きながら訴えるなんて、きっと先生は人が傷付くことが許せない人だったのだろう。僕が、友達に合わせて何となく笑顔を作っていたとき、担任だけ気付いてくれたこともあった。先生の「信じてる」は僕にちゃんと通じているのだろうか。もしも今、先生が生きていたら僕は宣言出来たかもしれない。「もう人を傷付けて生きるのは止すよ。ありがとう、先生」そう言って、はにかんで笑っていたかもしれない。もう、機会は奪われてしまった。唯一、僕を信じて、僕を泥沼から引っ張り出そうとしれくれた先生は、死んじゃった。


 人が一人僕の周りから消えただけなのに、何だか気分が重く、鼻の奥がワサビを食べたときのようにツンとした。

「信じてる……」

 僕は先生の言葉を思い出して呟いてみた。そうしたら、一気に涙が溢れた。本当にマリア様のような人だったんだと、今更知った。

 ナイフをソッと引き出しの中へ戻し、再度窓からゴミ捨て場を覗いた。哀子はもういなかった。久しぶりに明日会いに行こうと思った。




 土管から膝から先だけが出ていた。覗きこむと哀子が、棺に入る時のように仰向けに寝転がり、手を胸の上で組み合わせていた。

「久しぶり、ちゃんと生きていたみたいで安心したよ」

「……そう。生き残るの大変だったわ」

 まるで戦争に行ってきたような言い草だ。哀子は首を縮め、目だけで僕を見た。

「傷が増えてるみたいだけど……」


 哀子の足には生傷がいくつも出来ていた。それだけじゃないのよ、と哀子はズルズルと体をスライドさせながら、土管から出てきた。そして、僕の前に立ち、腕まくりをした。そこにも傷はいくつも浮いていた。哀子の顔にも傷があり、それは痛々しく腫れ上がり変色している。

「昨日、ゴミを漁っていたら近所の人に見つかったの。しょっちゅう荒らされるから待ち伏せしていたらしくって。それでちょっと殴られてしまったの。電話番号教えて帰ったら、家に連絡がいってて親が……」

「そうか、大変だったね」


 僕が少し目を離した間にそんなことがあったことに驚いたが、こんなありきたりな言葉しか出てこなかった。哀子が相手だと、これぐらい平気だと思ってしまう。それなのに、僕は哀子の顔を直に見ることが出来なかった。

「もう、あのゴミ捨て場にはいけないから違うゴミ捨て場を探さなくちゃ。生きるのって大変ね」

「普通の子どもはもっと楽だと思うけど」

「そうなの? じゃあ、草太は楽? 生きるの、楽?」


 哀子の顔を見たくないのに、哀子は僕の目を見るために顔を捻らせる。そのため、どうしても背けることが出来なかった。まるで、ホラー映画のスプラッターシーンを間近で見ているような気分だ。

「僕は、楽な方だと思う」


 首が痛くなるほど俯いてそう言うと、哀子は腰を曲げて、僕の顔を覗きこんだ。そして、そんな風には見えないけど、と呟き苦しそうに笑った。唇がぶるぶる震えて、喉奥が苦しくなって、眉間が痙攣した。昨日、しまいこんだナイフも今は僕のポケットの中にあって、それを握りしめている自分が可哀想で哀れで、早くこんな僕から逃がしてあげたくて堪らない。


「ねぇ、そういえば、殺人事件はまだ続いているの?」

 おもむろに土管に戻りながら哀子は言った。僕は哀子の隣に座り、ポケットから切り抜いておいた新聞記事を見せた。「少年リッパー」を名乗る殺人鬼の残したメッセージの内容を見て、哀子は眉をしかめた。そして、記事を隅から隅まで丹念に読み、丁寧に折りたたみ、僕に返した。


「この殺人鬼は子どもなのかしら。大人を恨んでいるんだもの、きっとそうよね」

「分からないよ。大人の中にも大人を恨んでいる人がいるかもしれないし……」

「ううん、きっと子どもよ。きっと、子どもが犯人。それも、私たちと同じ歳ぐらいの」


 哀子の目が一瞬光ったように思った。僕は新聞記事をポケットにしまいこみ、その際に指先にナイフが触れた。哀子の言葉には絶対的な自信があるように思えた。いつもよりも強い口調、強い目、どこからそんなものが出てくるのだろう。背中にじわりと汗が滲んだ。

「哀子は僕のあげたナイフ、まだ持ってる?」

「もちろん持っているわ。ポケットの中にいつも忍ばせている。これがあると安心するの。おかしいと思わない? 人を傷付ける凶器なのに、安心するの」


 先ほどまでの強いものが何も残っていなかった。ポケットからナイフを取り出し、柄の間に折りたたまれた刃を取り出して、僕に向けてかざした。刃は錆びついている。僕もポケットからナイフを取り出して、哀子に向けてかざした。ナイフの刃とナイフの刃が反射し合い、光沢を一瞬放った。


「何人もの血を吸ってきたナイフって貴重よね。それが今ここに二つもあるなんて」

「作ろうと思えば、何本でも作れるさ」

 僕はナイフの刃をしまい、ポケットの中へと滑りこませた。哀子は未だにナイフを目前に掲げ、恍惚とした瞳で見つめていた。

「血を吸いすぎたから、血が欲しいって嘆くの。それっておかしい?」

「え……?」


 どういう意味? と訊こうとした時、ひやりと首に冷たさを感じた。その瞬間、僕は石のように固まり、動けなくなった。一気に身体中に汗が滲み出す。僕の首筋にナイフの刃が密着している。唾を飲み込むだけで、刃先がぶすりと僕の首の皮を切り込んでしまいそうだった。僕は瞳だけを横へ動かして、哀子の顔を見た。哀子の虚ろな目とかち合った。

「私、やっぱり変かしら。こんなことを言うなんて、やっぱりおかしいのかしら。ねぇ、私が変になったのって、誰のせい? お母さん? お父さん? 先生? クラスメート? それとも、草太?」

「…………」


 声を出すのもままならない状況だった。虚ろな目は、徐々に険悪になっていき、眉間をぴくぴく震わせ始めた。まるで、僕を一生恨み続けてきたような鋭い瞳で睨みつけてくる。狭い土管内のため、逃げ出すことも出来ず、僕はただ哀子の顔色を伺うことしか出来なかった。ぷつん、と、少し首筋に血が滲んだ。そして、哀子は僕の首筋からナイフを離し、ふぅ、と息を吐いた。哀子も相当緊張していたらしく、よくよく見ると額に汗が滲んでいた。僕は切れた皮膚を掌で覆い、一気に脱力した。哀子もぐったりとして膝を抱え、頭を膝に埋めた。そして小さな声で、ごめんなさい、と言った。


 僕の中で、沢山の虫がざわざわ駆け巡っているような違和感がした。哀子のナイフはどうしてあそこまで錆びて、刃先もボロボロに欠けていたのだろう。僕の脳は、今起こっている殺人事件と哀子を結びつけようとしていた。もしかしたら、哀子が「少年リッパー」の名を語って殺人を起こしているとしたら、新聞記事を見て自信に満ちた言い方も納得がいく。殺害された人たちの傷はこのナイフと同じ型だと報道していた。僕たちの他に、このナイフと同じ者を持っている人物がいるのだろうか。僕たちに罪を被せようとしたとしても、使ったナイフの種類まで分かるのはおかしくないか。


 哀子が、人を殺した?


「ねぇ、草太」

「な、に……」

 哀子は僕を見た。

「信じていた人が、殺人鬼だったらどうする?」

「な、何でそんなこと訊くんだよ」

 僕はどきりとした。

「……前言っていたでしょ、女の人が死んだって。あれ、草太が切った人よね?」

「それが? あれは、ただ切り所が悪かっただけだ」

「でも、たとえ切り所が悪くて、殺す気がなかったんだとしても、殺人犯になったのよね。その時点で。もちろん、私も共犯だけど、私はそこまで深手を負わせた時の感触とか知らないし、それで草太が人を殺すことに快感を覚えてしまっても不思議はないと思うの」

「何が言いたいの?」

 一呼吸置いて、哀子は口を開いた。

「“少年リッパー”を語った殺人鬼って、草太なのかな、って思っただけ」

「何言ってるのさ。そんなわけないだろ?」

 自分の手が異様に震え始めた。僕は慌てて手と手を擦り合わせて、出来るだけ震えていることが分からないようにした。哀子はしばらく黙ったまま、僕の顔を凝視した後、ふっと笑みを浮かべて、

「そうね、そうよね。ごめんなさい、疑ってしまって」

 と、言った。僕も笑い返したが、頬が引きつり上手く笑えなかった。そう、まるで嘘を吐いた殺人鬼のように、僕の全筋肉が緊張していた。



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