第6章 役立たず
その夜、僕は一人で復讐遊びに狩り出した。
哀子がその日、土管の中にはいなかったからだ。僕は少しばかり心配になったが、僕が気にすることじゃないだろう、と思い、パチンパチンとローラーブレードのベルトを止めた。
ポケットの中に手を突っ込んで、ナイフがあることを確認し、よし、とまるで試合前の選手のように小さく気合を入れる。サングラスとネックウォーマーをつけ、帽子を被り、僕は慣れた足取りでローラーブレードを滑らせた。今日の風は冷たく、じめじめしている。空は雨雲で覆われている。
しばらくターゲットを探してウロウロしていると、雨が降り始めた。そういえば、今朝のニュースで夜に雨が降ると言っていた。雨は激しさを増すばかりで一向に止む気配を見せない。今日は止めておこうかと思ったとき、前方でゆらゆらと揺れる傘を見つけた。僕は引き返しかけた足を止めて、傘の方へ走りだした。
ナイフが掌から滑り落ちないように力の限りに握りしめ、傘を差す人にだけ視点を合わせて、まるで遊び相手を見つけた幼児のように、僕はまっしぐらに走った。どうやら男の人のようだ。雨音に掻き消されてローラーブレードの音が男の人には聴こえていないらしく、僕の忍び寄る気配に全く気付いた素振りを見せない。僕の口に不適な笑みが浮かんだ。
ナイフを構えた。男の太股が切れるように少し前傾姿勢になり、狙いを定める。既に何度も経験している僕にとってはもう手馴れたものだ。
ラケットを振るように思い切り振り切ると、肉が切れる感触がした。男の一瞬の悲鳴。僕は急ブレーキをかけて、男を蔑んで、痛がる姿を見て、立ち去ろうとした。
すると、足元に異様な重さを感じ、滑り出そうとした足が進まず、濡れたアスファルトが滑り、僕はその場で派手に転倒してしまった。足元を見ると、男が僕の足首を掴んでいた。僕は舌打ちをし、男を振り払うべく、足を上下に振った。しかし、男は僕の足首を離さない。ローラーブレードを脱ごうと手を伸ばしたが、男は僕の足を伝い、太股に体全体でしがみ付いてきた。僕はとにかく抜け出すことに必死だった。男は僕を見てにやりと笑みを浮かべると、口を大きく開いて「誰かー!」と大声で叫んだ。僕は体中の毛が瞬時に逆立ち、ゾクゾクと背筋を震えさせた。家中の電気が徐々に点き始め、僕は舌打ちをした。もうろうとする頭を必死に回転させて逃げる方法を考えるが、混乱する脳では良い案が全く浮かんでこない。
そのとき、僕はハッとした。手にナイフを持っている。これで男をめった刺しにしてしまえば……。僕は男に一瞥くれ、ナイフをジッと見つめた。もう迷っている場合じゃない。僕はナイフを力いっぱいに握りしめ、大きく振り上げた。そのとき、鈍い音が雨音に混じり、僕の耳に流れ込んできた。僕は音のした方を見た。雨で視界が奪われ、何が起こったのかすぐには分からなかった。そして、微かな期待の言葉が漏れた。
「あ、哀……っ……え……」
気絶した男の背後に立っていたのは哀子ではなかった。僕の担任の先生が手に石を持ち立っていた。何で先生がこんなところにいるのか訳が分からなくなり、僕は言葉を失った。先生は僕を見下ろして呟いた。
「逃げなさい。さぁ、早く」
「なんで……」
「早く!」
僕は先生から目を反らすことが出来ず、混乱する脳を必死に整理しながら僕は立ち上がった。アスファルトの地面が滑る。今日、学校での先生の表情と言葉がフラッシュバックする。先生は僕が草太だと知っているのか? 僕は何度も躓きながら、ローラーブレードを必死にこいでその場から立ち去った。
次の日も、その次の日も、先生はいつも通り、笑って授業をしていた。僕の思い違いだったのかと一安心したが、僕が日直だった日、先生は僕に言った。
「先生、信じてるから」
夕日を浴びて優しく笑みを浮かべる先生は、マリア様のように綺麗に見えた。
「無差別通り魔事件」は僕の計画通り、連鎖反応を起こし、各地で頻繁に出没し始めた。だけど、そう易々といくわけもなく、僕たちの計画をきちんと理解しているのかいないのか、子どもを狙った通り魔や、老人を狙った通り魔が現れだした。正直、僕はニュースを見て、ああ、失敗したな、と思った。通り魔を起こした人たちは次々に逮捕されていき、一時の波が起こった後は、一気に通り魔の数も減り、以前までは日夜報道され、討論されていた通り魔事件も、あっという間に聞かなくなった。自殺の連鎖反応同様、数日間だけの出来事だった。僕のように失うものがないと断言できないような人間は、後ろめたさを持っている。だから失敗するんだ、すぐに捕まるんだ。役立たずめ!