第1章 ゴミを漁る宇宙人
少しばかり流血がありますので、苦手な方はご注意ください。
携帯からご覧の方は、文章が所々読みづらいと思います、すみません…。
親愛なる「AI」へ
君はよく溜息を吐き、頭を抱えて何かを悩む。僕はその様子を見るたびに、胸が締め付けられるような感覚がする。君をこんな風に悩ます、この世の中がいけない。だから、僕は立ち上がるよ。君のために。僕は君を守るために立ち上がる。君のために。君を守るために。僕は立ち上がろうと思う。
「人間は生きるためだったら何だってやる醜い生き物さ。それは強盗だったり、援助交際だったり、羞恥を晒すことだったり、もしかすると人を殺すことかもしれない。それは人によって異なるが、生きる手段は二通りしか存在しないんだ。自分を傷付けて生きる方法と、他人を傷付けて生きる方法の二つだ。人は前者か後者かに分けることが出来る。そう、結局闇から逃れて生きることなんて出来ないんだよ」
はっきりと記憶はない。顔すら思い出せない。だけど、男は僕の頭を大きい手で撫でながらそう言った。嘲笑うような声で、僕を笑った。僕は言った。
「じゃあ、人は人を傷付けてもいいんだね? 仕方がないことなんだね? だったら僕、生きるよ! 生きてみるよ! ありがとう、おじちゃん」
男は、何度も深く頷いて、
「ところで、君はどこの子だい?」
小首を傾げて僕に訊いた。
僕の部屋の窓からゴミ捨て場が見える。
そのゴミ捨て場に週に一、二度やって来る一人の女の子は誰が捨てたかも分からないゴミ袋を破き、中身を漁っていた。僕はその光景を部屋の窓からジッと見つめ、少女が近所の誰かに見つかり、殴られる様子をひたすら想像して遊んでいた。しかし、この辺りに住む人々は夜中には滅多に出歩かないため、この醜い少女を殴りつける者はいなかった。
僕は押入れの中で、膝を抱えて少女のことを考えるのが日課だった。少女はどうしてゴミを漁っているのだろう、少女は何者なのだろう、少女の血は何色なのだろう。
僕の中では、少女は未知の生物のようだった。どこか別の星からやってきた宇宙人が、人間の中に溶け込むために格好だけを似せてみたが、人間の生き方が分からない。自分の星に帰りたいと願うけれど、宇宙船が迎えに来てくれない。仲間に見捨てられた宇宙人は、それでも置いてきぼりにした仲間を待ち、人間の中で、訳も分からずに生きている。僕は釘で、押入れの壁に宇宙人を削り書いた。
それから僕は押入れから出て、リビングへ行った。手探りで電気を点け、躊躇いながら蛍光灯は光りを灯した。食器棚の隣にある、茶色い棚のひきだしを開けると、蛍光灯の光りを受けて光沢を放つハサミが口を閉じて僕を見上げていた。いつもこの瞬間に心臓が鳴り始める。このとき、僕は自分が生きているのだと自覚する。ハサミを手に取ると限界まで刃を開き、ゆっくりと自身の人差し指の腹に置き、スーッと手前へスライドさせた。一瞬、ビリッと電流が走ったような痛みがし、顔を歪めた。それからは何の痛みもなく、瞑った瞼を上げて、人差し指を見た。人差し指の腹はぱっくりと割れ、まるでファスナーを開けたように皮膚同士が離れていた。血がどろりと窮屈な僕の身体の中から解放され、溢れだす。僕は小さく安堵の吐息を漏らして、救急箱の中から絆創膏を取り出し、血をティッシュで拭ってから貼りつけた。リストカットをする勇気も、アームカットをする勇気も、死ぬ勇気も僕にはなく、単なる自己満足の自傷行為だ。
父親が帰ってくる前に部屋へ戻り、時計を確認して窓の外を見た。少女はすでにゴミ捨て場にいた。近所の人はカラスの仕業だと思い、錘を付けた網を掛けたらしいが、それは勿論意味をなさない。
少女は丁寧に結び目を解いてゴミを漁っていた。僕はその様子を眺め、学校帰りに拾っておいた直径三センチ程の石をポケットから取り出した。窓を開けて、無我夢中でゴミを漁っている少女目掛けて思いっ切り投げると、思ったよりも小さな鈍い音を立てて、少女の頭に命中し、跳ね返った。少女は頭を抑え、がくんと体勢を崩した。僕は慌てて、カーテンを閉めた。それと少女が振り返るのがほぼ同時だったため、顔を見ることはなかった。
「君は、宇宙人なんでしょ?」
そう訊くために、次の週の深夜の一時頃、僕は小走りで家の方へ向かっていた。その日はぽつんと月が独りぼっちで浮かぶ、肌寒い日だった。
大きな闇に飲み込まれたアスファルトの道路に、ぽつり、ぽつり、と赤い絵の具のような血液が点々と痕を残していた。生気を失いかけた街灯に照らされたそれは、赤々と栄え、すぐにその血液が少女のものだと直感した。街灯の生気をその血液が吸収しているように、生き生きとした血だ。僕はその場にしゃがみこみ、血液の中へ人差し指の腹を浸した。ぬるい。僕はごくりと唾を飲み込んだ。少し固まりかけた血を、指に付けて、自身の目の前まで持っていき、じっくりと眺める。血の色を見る限り、僕と同じのようだ。
しばらく観察していると、一口味見をしたい衝動に駆られたが、僕はかぶりを振り、止めておいた。僕は異常者ではないつもりだし、吸血鬼でも蚊でもない。指先に付いた血を親指と人差し指の腹で擦り合わせ、指紋の繊細な線の隙間にねじ込み、ポケットの中へ滑りこませた。
血液は案の定、ゴミ捨て場へと続いていた。もしかしたら、そこにいるのはいつもの少女ではなく死体かもしれない。それだと少し、ショックだ。だけど、それが少女の死体なら僕は喜ぶだろう。更にそれが、迎えの来ない仲間に絶望し、自ら命を絶ったのだとしたら。そう考えると、僕の心臓は速さを増すばかりで落ち着かせることが出来なかった。
ゴミ捨て場にはいつも僕が見ている姿があった。まるで憧れていた映画の世界に入り込んだような感覚だ。少女は僕の存在に気付くことなく、ただひたすらにゴミを漁っていた。少女はボロボロに汚れた服を着て、髪が無造作に四方八方に飛び跳ねていた。血液は彼女の腕から流れ落ちたもののようだ。その箇所だけ赤く染まっている。
「何してるの?」
少女が気付くまで黙って観察しておくつもりだったが、声が無意識に出てしまった。少女がゴミを漁っている理由が判明したからだ。僕はどうせ何か使えるものでも持って帰っているのだろうと思っていたが、それは的を外れていた。
少女はゴミを食べていたのだ。それも、まるで豪華な食事でも頬張るように、何の躊躇もなく、ガツガツと口の中に入れていた。少女は僕の方を向き、隈の出来た虚ろな目を丸く見開いた。唇は荒れに荒れて、血の塊をつくり、鼻血が滴っていた。
失敗した、と思った。
少女はれっきとした人間だ。僕の理想像がガラガラと音を立てて、一気に崩れた。この少女は、孤独を苦とも思っていない。
「そんなの食べたら死ぬよ?」
少女は警戒心をむき出しにした瞳を僕に向け、唇を噛みしめた。歯が唇に食いこんだらしく、血が流れた。この少女は至るところから血液を流すのが好きらしい。僕がみる限り、三箇所から血が垂れ流しになっていた。
「しょっちゅうここに来るよね。僕、あそこから君のこと見ていたんだけど……。気付いてた?」
自分の家を指さして言うと、少女はそっちへと頭をぐりんと回し、しばらく僕の部屋の窓を見ていた。そして、石のことを思い出したらしく、頭を抑えながら僕を睨みつけた。
「あの時は石をぶつけてごめんね。まさか命中するとは思わなくて。痛かったよね、怪我はしなかった?」
他人事のようなセリフを吐く自分に呆れた。少女は野良犬のように僕を威嚇しながら、じりじりと後退している。僕との距離を広げながらも、少女は逃げようとはしなかった。
「お腹が空いてるんでしょ? じゃあ、これあげるよ。君にあげようと思って買っておいたんだ」
そう言って、鞄の中からさっきコンビニで買っておいたパンを掲げて見せた。少女は目をさっきよりも更に大きく、今にも目玉が落ちてしまいそうな程に開いた。僕の口元はピクピクと痙攣しつつ、にやにやと嫌らしく笑っていた。
少女がごくりと唾を飲み込むのが分かった。それがスタートの合図を知らせるピストルのように、彼女は僕の持つパンに向かって飛びかかるように駆け、強引に取り上げた。そして、物凄い勢いでビニールを破き、パンを口に押し込みだし、あっという間にパンはなくなってしまった。少女は自身の掌についたパン屑まで丁寧に舐めとった。食べ終えた少女は、上を見上げながら脱力の吐息を漏らした。そして、ガチガチと歯を鳴らしながら、バサバサと雨が降るように泣き出した。そのせいで、鼻血と鼻水が混じりあい、口の中に流れこんでいく。それでも少女は思う存分泣き続けた。顔の皮膚がふやけてただれてしまいそうな程、泣いた。
「おいしい?」
「…………おいしっ……」
顔を両手で覆いながら吐くように言った。何だかとても晴れ晴れしい気分になった。
「ねぇ、交換条件みたいでなんだけど、君の腕を僕に見せてくれないかな?」
少女は何も言わずに、躊躇することなく袖をまくりあげた。露になった腕から、ドロドロと真赤な血液が手首を伝い、掌を伝い、地面へと流れ落ちていた。ごくりと自身の喉がなるのがはっきりと聴こえた。
「すげぇ……」
ぽつりと唇の隙間から言葉が漏れた。
少女の腫れた目はもう警戒心を無くしていた。
「そんなに血を見るのが珍しいの?」
どことなく僕を見下したように発せられたセリフに、
「こんなに汚れた血を見たのは初めてだから驚いているんだよ」
と、皮肉ってみた。少女は口角を吊り上げて、短く笑った。本当はこの少女の血が凄く凄く綺麗に見えたけれど、それをあえて彼女に伝える必要はないだろう。
「君がどうして血を流しているのかとか、ゴミを食べているのかとか、そういう素性は訊かないことにするよ。だけど、名前だけは教えてもらってもいい?」
「……哀子。哀しい子って書いて、哀子」
少女は少し考えてからそう言い、黄ばんだ歯をむき出しにして笑んだ。そして、哀子は僕の名前を尋ねた。僕は自分の名前を名乗り、漢字も教えてあげた。手の甲で鼻血と鼻水を拭いながら、哀子は目を輝かせ、
「素敵な名前ね。あなたの親、いいセンスしているわ」
と、言った。手の甲についた血が街灯に照らされて、鮮やかに輝く。
「君の親もいいセンスをしているね。自分の子どもに“哀しい子”なんて当て字をしちゃうなんて」
僕がそう言い返すと、哀子は複雑そうに表情を歪めた。
「ほんと、殴りたくなるよね。あいこ、だなんて」
そう言いながら、頭を掻き毟った。フケと埃が一気に舞い上がった。
「君は、宇宙人じゃないんだね」
哀子は、笑窪を作りながら笑い、照れ臭そうに「分からない」と言った。
貴重なお時間を割いて、お読みくださりありがとうございます。
このお話はプロローグ、エピローグを含めて12・13回分で終わる予定です。
毎日更新しますので、お時間のあるときにでも覗いてやってください。
2007.10.12. 子々