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美しい鼻血  作者: 子々
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第10章 お母さん



 ガシャンと受話器が手から滑り落ちた。受話器の向こう側から「もしもし? もしもし?」と男の声がしたが、僕の頭の中には入ってはこなかった。

 僕の母さんが殺されたらしい。


「君のお母さんがね、少年リッパーに殺されてしまったのだよ。死体は見るも無惨な姿で……。あ、いや、そう気を落とさないでくれ。ちゃんとおじさん達が犯人を捕まえてあげるから」


 母さんが死んだ。死んだのか。ああ、そうか、殺されたのか。僕は電気の点いていない部屋の中で、ぶつぶつと独り言を呟いた。母さんは夜に仕事場へ行くのだから、少年リッパーに殺されてもおかしくはない。でも、何で少年リッパーは現れた? ナイフはもう、僕らの手元にはないはずなのに。


 母さんが死んだのは仕方がない。あの人はただの他人だ。死んだところで哀しむ必要なんてない。それよりも大事なのは、誰に殺されたのかということだ。

 受話器を床に放置したまま、僕は押入れにいる哀子の所へ行った。そして、警察の人が言っていたことをそのまま伝えた。哀子は怪訝に眉を潜め、顔を強張らせた。


「お母さんが死んだの?」

 今にも消え入りそうな声で言った。

「今はそんなことどうだっていいんだ!」

 僕は哀子の肩を掴み、大きく揺さぶった。哀子は呆然としたまま、僕の顔を見ていた。

「何が? 何がどうだっていいの? それが一番問題なんじゃないの?」

「違う! そんなことどうだっていい。僕が言いたいのは、誰が少年リッパーを名乗って殺人を犯しているのかだ!」


 哀子は僕を化け物でも見るかのような目で見て、僕の名前を呟いた。その瞬間、僕は身震いをして、体が小刻みに震え出した。哀子は唇を噛みしめながら、僕を哀れむように見て、肩を掴む僕の手にソッと触れた。

「なんで……血が?」

「え……?」


 僕は自分の手をゆっくりと目の前へ掲げた。暗い部屋の中でも分かる、赤い赤い血が僕の手にべっとりとついていた。僕は自信の掌と哀子の顔を交互に見つめながら、真っ白になってしまった頭をふらふらと停止寸前にさせながら、愕然とした。


「哀子……。僕が、母さんを殺したの?」

 哀子は餌を待つ鯉のように口を開閉しながら、頬を上下に引きつらせていた。僕はあることを思い出し、慌てて机の引き出しに手をかけた。無我夢中で引き出しを開けて、中を確認した。そこには血のついたナイフと、錆びたナイフが置いてあった。

「僕が、母さんを、殺した……」


 僕の声が余韻を残して消えていく。一気に体中の力が抜け、僕はその場に崩れた。何も考えることが出来なかった。今にも警察がのりこんできて、僕を捕まえて行ってしまいそうだった。哀子は押入れの中から僕を見ていた。僕は、薄暗い天井を見ていた。

「草太、ねぇ、逃げよ。逃げちゃおうよ。捕まる前に遠くへ逃げようよ」

「逃げても、逃げても、きっと捕まえに来る。僕を殺すために、みんなが僕を捕まえに来るよ」


 ならばいっそのこと……。


 僕は引き出しにぽつんと置いてあるナイフを手に取った。血のついたナイフを月光に当てて、喉元に刃先をつけた。

「それなら、自分で死ぬよ。そうすれば、可哀想な一家殺人事件の被害者ってことになって、哀しんでくれる人がいるかもしれない」


 喉に刃先が食い込み、少し血が溢れた。僕はどうしてこんなに動揺しているのだろうか。死ぬのだって、捕まるのだって、恨まれるのだって、怖くなんてなかったはずなのに。自分で命を絶ってしまう方を選んでしまうほど、僕は何を恐れているんだ。それでも、僕は恐怖の渦に飲み込まれて、今にも息を止めて心臓を止めてしまいたくなる。


「待って!」

 哀子が叫んだ。僕の手を叩き、ナイフを弾き飛ばした。ナイフは虚しく飛んでいき、少し回転した後、ぴたりと静止した。哀子は僕の顎を掴み、強引に上を向かせ、首元をジッと観察しだした。息苦しくて声が出ない。しばらく凝視した後、哀子は僕の首筋に垂れる血液を指先で拭い取り、味見をするように口に含んだ。そして次に、僕の手に付いた血を指先でスーッと取り、舐めた。すると、いきなり咳き込みだし、嗚咽した後、にんまりした笑みを浮かべ、僕の肩を叩いた。


「大丈夫。これ、血じゃないみたい」

 僕は慌てて、手についた血と喉に流れる血を舐めてみた。味は明らかに違った。

「絵の具……?」

 僕と哀子は不安な面を合わせた。


 すると、部屋のドアをノックする音と、ドアノブが下げられる音が響き、僕と哀子は同時にビクッと肩を揺らした。僕らは部屋のドアの方へ顔を向ける。ドアがスローモーションのように開いていく。ドアを見たまま、僕たちは固まった。ナイフすら手に握ることが出来ず、額に汗が滲んだ。唾を飲む音がしっかりと僕の耳に届いた。

「父さん……」

 ドアの隙間から父さんの姿を見た。父さんは僕を冷ややかな目で見下ろし、その瞳には光りが灯ってはいなかった。

「父さん! 大変なんだよ。母さんが……」

「ん? 君はどこの子だい? 人の家に勝手に上がりこんで」

 僕は言葉を失った。今のセリフは哀子に向けられたものではない。父さんの目は僕を捕らえている。

「父さん……」


 僕は父さんに手をのばした。久しぶりに見た父さんの顔はやつれていて、本当にこれが自分の父親だったか疑わしく思えた。でも、目の下にあるホクロは、僕の父さんと同じだ。


 すると父さんは突如目を丸く見開き、眼球を血走らせながら、青筋を浮かべた。何事かと目を見張る僕の手を勢いよく掴みあげ「なんだ、この手は! お前が母さんを殺したんだな!」と怒鳴り、僕の体をガクガクと何度も揺さぶりだした。そして、その痩せ細り、骨々とした手を僕の首に巻き、全体重を僕に落とした。急に息が通り道を失い、嗚咽も中途半端に出てきた。哀子に助けを求めようと掌で床を思いっきり何度も叩いたが、哀子の声も気配も感じられない。父さんの顔は、殺意に満ち溢れていた。恨んでいる、僕を。殺そうとしている、父さんが。哀子……。僕は横にいるはずの哀子へと閉じかけた目を向けた。そこに哀子の姿はなく、ただぽっかりと空間があるだけだった。


 愕然としたら、僕の目は一瞬で閉じ、頭には「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」と連呼してその二文字だけが並んでいた。

「あ…い……」

 父さんの口から微かに漏れた「あい」という言葉。僕は父さんが哀子の名前を呼んだのかと思ったが、父さんは哀子の名前を知らない。

 意識が飛ぶ瞬間に見えたのは、父さんの背後でナイフをかざす哀子の姿だった。



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