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キミの隣を  作者: 安和
3/3

どうして

 傷つきたくない。悲しいのは嫌。こんな思いをするのも嫌。貴方の周りにたくさん居る女の人達の様に私を扱うなら別れて――――


 ――――嫌、別れないで。ずっと傍に居て。傷つきたくないのに、貴方の所為で泣きたくないのに、貴方みたいな人は嫌いなのに、どうして。どうして嫌いになれないだろう。どうしてこんなにも好きになってしまったのだろう。どうして。



 貴方が私をどう思っているかなんてわからない。多勢の中に一人でもいい。もう、それでもいい。貴方の所為で私は矛盾を抱えていて、悩まされて。でも、


――――どんな時でも思い浮かぶのは、偶に見せる、貴方の優しい笑顔。


 それを見せる相手が、私だけじゃないと、知っていても。


それでも私は、キミの隣を望む―――――――










――――――



 最近、よく眠れない。眠れないというより、夢見が悪い。まるで目を背けてきた現実と向き合えと、心の奥底の自分が言っているかの様に見る夢は基本同じだ。そう、悠史の。私から離れていく。彼の隣には、私は居ないんだという、夢。夢なんだと、たかが夢なんだと自分に言い聞かせても、それを嘲笑うかのように繰り返される夢。もう、疲れてしまった。


彼は私と別れたがっている、とまで思うようにまでなってしまった。でも


 肯定するのは、心が認めてくれなくて。だからと言って、否定するには自信が足りなかった。


どっちつかずな私。ぐるぐると同じことを繰り返している。



 ベッドから身を起こして、洗面所に向かった。そこには隈をつくってやつれた女の顔が映っていた。たった、たった一人の所為でここまで変わってしまうのかと、自分を笑った。ここまで好きになっていたのかと嗤った。恋って怖いと思う。ここまで人を変えさせる。ここまで人を堕としてしまう。『恋に堕ちる』と表記されるが、その通りだと思う。それが、たとえ当て字であっても。どこまでも、どこまでも堕ちていく。意味の中に『強く迫られてついに相手の思い通りの状態になる』があった。その通りに、私は流されて、そして。そして、もう、彼から離れられない。私からは。


 冷たい水で顔を洗って頬をつまんだ。痛みで少しは覚醒する。今日は外回りのある日だ。暗い顔なんかしていられない。



「シャキッとしないと……」



自分に暗示を掛けるように口に出す。そして、メラメラと怒りがこみ上げてきた。



「全部が全部、アイツの所為だーーーー!!」



 思いっきり叫んだ後に、近所迷惑だという事に気が付いた。すぐに居た堪れなくなった。



全部、悠史の所為なんだから!!



 そそくさと家を出て会社に向かう途中も、顔の赤みは引かなかった。





―――――


もう、まったく!!


 会社に着いても、河野君と外回りの挨拶が終わっても怒りは収まらなかった。と、いうより、照れが全て怒りに変わったというような感じなのかもしれない。でも、全部悠史の所為なのは変わらない。コンクリートの上をカツカツと怒りのまま音を立てて歩いていた。行儀が悪いと分かっていても、そうしないとやっていられなかった。



「お、おい、北澤……。大丈夫か? 何か変だぞ、今日」


「大丈夫!!」


「あ、あぁ……(本当に大丈夫か?)」



 河野君に何か言われたけど、気にする余裕なんて無かった。今日は外回りでお昼に紗江に愚痴がいえなかった。聞いて欲しかったのに!!


 夜眠れないのも、不安に思うのも、夢見が悪いのも、全部、全部全部全部全部―――――アイツの所為だ!!


なんでこんな思いをしなくちゃいけないの? どうして?ねぇ、どうして―――


 怒りは急に萎んで、怒りは悲しみに変わった。情緒不安定だ。この頃ずっとそうだ。安定なんてしなかった、出来なかった。放っておいた漠然とした不安はいつの間にか膨らんでいて、どうする事もできなくなってしまった。もう、無かった事にする事なんてできない。この不安を無くすには悠史が必要だ。それがどんな結果を招こうとも。


――――臆病な私は、ハッキリさせる事ができずにずっと、抱えている。


 気落ちした自分に活を入れるように軽く頬を叩いた。顔にチカラを込めて視線を前に向けた時、紫乃佳から表情が消えた。唖然、とした。信じられないものを見た。目に入る情報を信じたくなかった。これは、夢なんだと。これは悪い夢の続きなんだと。悪い事ばかり想像して、十分に休息が取れていなかった自分が見せる白昼夢なんだと、言い聞かせたかった。だけどそれは何度見ても消えてくれなくて。耳に入る声が夢である事を否定して。自分に優しく触れる手が自分じゃない女性を触れているのを見たくなかった。前のだって、忘れた振りしていただけだった。



「どうして―――」



 『離れていくな』っていったのは貴方なのに。私に縋ったのは貴方なのに。どうして。



「おい、北澤? どうかしたか?」



 どうして―――――?


河野君の声が、遠くに聞こえた。私の身体は目の前の二人以外の情報をシャットアウトしたように、変だった。周りに沢山の人がいるはずなのに、音で溢れかえっているはずなのに、良く聞こえない。聞こえるのは彼と彼女の笑い声。



「前に、何か居たのか? あれ……梨香じゃないか。すっごい着飾ってんな。誰かわからなかった」



 どうして、キミじゃなきゃ駄目だったんだろう。

どうして、他の人じゃ駄目だったんだろう。


 どうして、私はこんなにも好きになってしまったのかな。



「梨香といるの……すごいイケメンだなぁ。羨ましい限りだ。彼氏か……知ってるか、きたざ……」



 ポタッと滴が落ちる音がした。泣きたくなんてなかったのに、傷つきたくなんてなかったのに。ずるい。

キミはいつも私を振り回して、好きなように扱って、まるで玩具のように。そう、飽きたら捨てる玩具のように。



「待ってくださいよぉ~、若木さ~ん」


「……余所見しているからですよ」



 そう、前に居たのは同僚の梨香と私の頭の中から消えてくれなかったアイツ―――若木わかき 悠史ゆうし―――だった。どうして、二人がここにいるのだろう。前回も、私が外に出た日も他の女の人と歩いていた。きっと私には疫病神がついているに違いない。いや、実は私が知らないだけで、毎日別の女性と歩いているのかもしれない。でも、どうして、どうして梨香と一緒にいるのだろう。梨香は、私が悠史を知っているって知っているのに――――――



「北澤? 知り合いなのか?」


「っ!!」



 知り合い。そう、彼との関係なんてすごくあやふやなもの。恋人とも言い切れないし、私と彼を繋いでいるのは、体だけ。そう、身体だけ――――。


 私は彼に文句言える立場になんて、いない。周りから見れば、傷ついてなく理由なんて、ない、はずなんだ。

でも、梨香は、どうして? どうやってコンタクトを取ったのだろう。それに彼と私が『知り合い』だと知っているはずだし、私と河野君が外回りで、最後の会社がこの近くだと知っているはずだ。私が少しは動揺するのはわかっているはずなのに。偶然、なのかな――――?



 その時梨香がこちらを見て笑った――――気がした。 



その瞬間、私はその場から逃げ出した。河野君を置いて。



「――――!!」



 誰かが私を呼んだような気がした。でも、私はそれが誰なのかわからなかった。


早く、この悪夢のような現実から、逃げたかった。






「北澤っ。待てって。おいっ」



 長いような、短いような距離を走って、河野君に捕まった。 


泣きたくなんてなかった。傷つきたくなかった。そんな思考に反して心は素直で。素直じゃない私の口からは音の無い泣き声が漏れた。


 ぼろぼろ、ぼろぼろ。涙は止まってくれなくて。


何時も、キミを思って泣く時はキミが傍に居た。一回はそれで安心した。もう一回は不安が増して止まらなかった。だけど、まだ希望はあった。キミはキミの隣に私をおいていたから。でも、


 でも、そう思っていたのはまやかしだったのだと、今日、思い知らされた気がした。

それは、私の勝手な幻想なんだと。数ある女の内の一人で、代えのきく、人なのだと。


―――思い通りに動く、人形なのだと。



 河野君が何を言おうとも、私の耳には入らなくて。仕事はちゃんと終わってなくて、会社に帰る途中に私事で勝手に情緒不安定になって、泣いて。鬱陶しいと思われても、見捨てられてもおかしくないのに、河野君は戸惑いながらも取り出したハンカチで涙を拭ってくれて、ぎこちなくだけど頭を撫でてくれた。

 


「吐け」


「……え?」


「吐いたらすっきりするから。……全部、聞いてやる」



 優しく言われて、もう我慢なんて出来なかった。


 こんな辛い恋なんてしたくなかった。甘いだけが恋じゃないって知っていたけど、こんなに辛いなんて思わなかった。お互いに想いあって、偶に喧嘩したりして許しあって、二人でどこかに出かけたりして。ありきたりな事でも良い。そんな事がしたかった。こんな不安定なのは嫌だった。


 キミの隣に居たい。だけど、もう、その方法がわからないよ。


キミは何も教えてくれなくて、私はキミの事なんてほとんど知らない。偶に会って、身体を繋ぐだけ。

キミの隣に居るのはきっと奇跡、出会えた事もそう。物語のように全て都合の良いように『運命』で纏めてしまうのなら、私がこう想うのも、キミが戯れに私を構うのも、傷つけるのも構わないのも、それも『運命』なのかな。


 神様、もしいらっしゃるなら。あなたはすごく残酷です。人に平等に何もしてくれないのなら、あんな光景を見せなくても良いのに。こう思ってしまうのも、我が儘なのでしょうか。


 悪い事は何かに押し付けないと、責任転嫁させないと、弱い心は保てなかった。自分を保つ事ができなかった。だけど、これはあんまりだよ。


あの夢は予知夢ですか? 私が勝手に想像しているだけ? それとも、彼がそれを望んでいるのでしょうか。

 こうなる事は、必然だったというのですか? 


 あ、でも。さっきのはきっと、偶然なんかじゃなかった。梨香はきっと、私に見せ付けて言いたかった。その場所は、私の居場所ではないのだと。



「どうして、恋する相手は自分の理想と違うのかな」



 私は、ああいった人間は嫌いだったはずなのに。私は、もっと誠実な人が好きだと思っていた。



「……そうだな。まぁ、理屈じゃないって言うだろ?」


「…む。簡単に言って……。ホントに単純なんだから」



 涙に濡れた顔で睨みつけると、河野君は一瞬目を泳がせたが、またヘラリと笑った。



「そんなに悩むなら、はっきりさせれば良い」


「――――だからっ!!」


「悪い結果になったって、それはそれで良いじゃないか。一人に受け入れてもらえなくたってお前は一人じゃないだろ? 奈津原だっているだろ?」



 俺もな。そう言って私の肩を励ますように叩いた。そして、さっきまで泣いていた私に向かって『笑え』と強要してくる。そんな無茶な、と思ったけど、でも笑った。それは歪んでいたと思うけど、それでも、河野君は満足そうに笑った。そして私の涙を拭ったハンカチを見ながら言う。



「我が社のアイドル、北澤 紫乃佳の涙と化粧付きハンカチ。マニアに言えばきっと高く売れるぞ。売ってみるか?」


「馬鹿な事言わないで。さっきまで良いこと言っていたのに、それで台無しじゃない」


「……事実なんだけどね」



 余計な事で一気に台無しにした河野君にそういうと、疲れたように返答が返ってきた。その言い方が真実のように聞こえて、自分の頬があがっていくのを感じた。



「ふふ、やめてよ本当に。事実だったらうちの会社、変態がいっぱいじゃない。私のマニアなんてそんな物好き居ないよ」



 ありえない冗談に、自然に笑えた。あんな優しくも厳しい人達が変態であるはずがないのだから、本当にそういうのはやめて欲しい。でも、鬱な空気はなくなった。河野君に聞いてもらって、すっきりした。


 うん。ウジウジなんてしていたくない。今度会った時に、この関係をハッキリさせる。それが、別れを招く事になったとしても。涙が枯れるまで泣いて、そして、また前に進めば良い。私は、一人ぼっちじゃない。



「河野君」


「ん? 早く帰ろうぜ」


「……ありがとう」



 私の背中を押してくれて。


蚊の鳴くような小さな声しか出なかったけど、河野君はまた満足そうに笑ってまた私の頭を撫でようと手を伸ばした。


 けどそれは、私の頭まで届く事はなかった。途中で遮られたからだ。



「……どうして、あんたがここに?」



 そんなの、私も聞きたかった。


河野君の手を掴んだ男――悠史――はその手を離すと紫乃佳の腕を掴んで歩き始めた。呆然としている河野を置いて。



「いたっ。悠史、痛い。放して」



 私の腕を強く掴んだ悠史は私の言葉を聞き入れる事無く歩き続けた。近くの駐車場に着いた時、そこに置かれていた車に私を押し込んだ。押し込まれた反動でみた悠史の表情はいままで見たこと無いくらい無表情で、とても怖かった。


―――怒っている? 何に?


 状況が理解できない紫乃佳を車に押し込んだ悠史は運転席に乗り込むと車のエンジンをかけた。遠くに梨香がこちらに向かって走ってくるように見えたが、悠史はそれを一瞥しただけで車を発進させた。



「ちょっ、あの子置いて行って良いの? ねぇ?」


「知らん」


「ちょっと、今日おかしいよ。私だって仕事中だったのに、しかも河野君をおいて」


「うるさい!!」



 狭い車の中で声を荒らげた悠史はとても怖かった。触ったら、いや、近寄るだけで火傷してしまうほど悠史の気は立っていた。だけど紫乃佳は、どうして悠史がこんなに怒っているのか全くわからなかった。若干涙目になった紫乃佳を見た悠史は舌打ちをすると路肩に車を止めてどこかに連絡をし始めた。悠史が電話を始めてそう時間が経たない内に相手が出た。



詩音(シオン)か? ……煩い黙れ」



 漏れ出る声から相手が男である事はわかった。だけど何所にかけているのかわからない。悠史の口調から考えると、どうやら親しい相手のようだ。


―――悠史は親しい相手ではなければ、敬語を崩すことはないから。


 悠史は止まっている間に私が出て行かないように運転席側からロックをかけていた。そして電話の最中も、私から視線を外す事はなかった。逃げようとしていると思われたのか、すこし身動(みじろ)ぎした時に腕を掴まれてから、それもずっと掴まれている。



「ほっとけ。……まぁいい。紫乃佳の仕事の件は頼んだ」



 何所からどうその話が来て、そういう話で終了したのか全くわからない。それに、詩音という人物がどういう人なのかもわからない。

悠史は電話を終えるとそれを片付け、車を走らせた。私の腕を掴んだまま。私の危ないという注意は黙殺された。もう、車の行き先はわかっていた。


 何度も会い、何度も身体を繋げた場所。悠史の家だ――――。




――――――



 悠史は無言のまま私を車から降ろすと、マンションの自分の部屋まで引っ張っていった。私は悠史に何を言っても聞き入れてくれない事は道中で理解した。だから自分の腕を引っ張る悠史にされるがままについてきたのだ。部屋に入ると、悠史は乱暴に靴を脱ぎ捨て私を気にする事無く入っていこうとするので、私は慌てて靴を脱いだ。そして、私が居る時はあまり使われないソファに座らされた。いや、押し倒された、と言うべきなのだろうか。文句を言おうと悠史を睨むように見れば、無表情のまま立って見下ろしていた。



「何するの!」


「……あの男は誰だ」


「答えになってないわよ!」


「お前と一緒に居た男は誰だと聞いている」



 私の質問に答えようとせず、自分の聴きたい事を聞こうとする悠史に紫乃佳は溜め息をつきたくなった。目の前の男は相変わらず勝手だった。悠史から折れる事などない。自分から話さないと話が続かないと知っている私は溜め息をつきたいのを堪えて口を開いた。



「…同僚よ」


「何故、外に居た」


「今日は外回りなの。梨香から聞いてないの?」


「梨香? ……後原(シリハラ)の娘の事か。その娘と交流でもあるのか?」


「彼女も私の仕事仲間よ」


「そうか……」



 そう言って悠史は黙ってしまった。目に見えるほど怒っている雰囲気は払拭されたが、それでも悠史の表情は冷たかった。私は居心地が悪くなり早く帰りたかったが、悠史が、悠史の瞳がそれを許してくれなかった。あまりに冷え切ったその瞳に、まるで私が悪い事をしているようだ、と思った。河野君がせっかく背中を押してくれたのに、その勇気が萎んでしまいそうだった。だけど思う。理不尽だ、と。私は普通に生活していて悪い事をしているのはむしろ悠史の方なのに、どうして私が怒られなくちゃいけないの!!


 恐怖がメラメラと怒りに変わって爆発しそうになるまで膨らんだ。そう、爆発寸前まで。



「もう一つ、聞きたいことがある」



 なに、と思って悠史を見上げた。どうせ相手は私の答えなんて期待していないのだからわざわざ許可を取らなくても良いのに、と思う。怒りですこしその時の私は、怒りで目尻がつりあがっていたと思う。だけど、次の悠史の言葉で私は表情を消した。言葉も出なかった。



「……どうして、泣いていた?」



 あんたが言うな!!



 私はそう叫びたかった。悠史は分かっていない。自分がどれだけ自分勝手か。自分がどれだけ相手を傷付けているのか。自分がどれだけ――――私に影響を与えているのかを。


 怒りが溜まると、表情に出なくなるって本当なんだ。悠史が少し戸惑っているように見える。さっきまで怒っていたのに、滑稽だ。自分のした事がわからないキミも、そんなキミに振り回された私も。



「ハハハハ……」


「……紫乃佳?」



 乾いた笑い声が漏れた。あまりに馬鹿馬鹿しかった。そんな私をさらに不審そうに悠史がみる。そうしてまた、私の名を呼んだ。


その声が好きだった。名前を呼ばれると安心した。その声で他の(ヒト)を呼ぶのかと自分勝手に嫉妬もした。私が我慢すれば傍に居られると、勝手に信じていた。そんな事は無かった。それは今日証明された。さっきまで一緒に居たはずの梨香の名前を出した時の悠史は心底どうでも良さそうだったのだ。笑顔で話していたというのに。じゃあ、たまにしか笑顔を見られない私は、梨香よりもどうでも良いって事なんでしょう?


 そのうち私は肩を揺らして笑っていた。そうして笑っているとポトリと膝にしみが出来た。それを不思議に思って笑うのをやめて頬を触ると濡れていた。いつの間にか私は、泣いていた。私が泣いている事に気がついた悠史は何を思ったのか膝をついて私の顔を覗き込んだ。涙を拭こうと伸ばされたであろう手は途中で止まり、悠史の顔はどんどん強張っていった。



「ねぇ、悠史」


「しの、か……?」



 私の呼びかける声に答えた悠史の声は戸惑ったかのように震えていた。悠史の顔は悪いものでも見たかのように真っ青になっていた。



「私は。貴方にとってわたしは、何?」



 首を傾げてそう問いかけた。悠史は目を見開いて唇を震わせただけで何も言わなかった。それが答えだった。



私は自分の荷物を手にとって呆然としている悠史をおいて玄関に向かって歩いていった。掴まれていた腕を良く見ると少し赤くなっていた。それに少し眉を顰めて痕が残るかなと、考えていた。



「紫乃佳…」


「何?」



 靴を履いて出ようとすれば後ろから真っ青な顔をしたままの悠史に声を掛けられた。反射的に返事をした後、あぁと思い当たって渡されていた合鍵を取り出して悠史に差し出した。わざわざ鍵の事を言いに来たのだろう。すっかり忘れていた。だけど悠史は鍵をチラリと見ただけで受け取らなかった。それにムッとして悠史の手を掴んで持たせた。それなのに私が手を離したら、握ろうとしなかった悠史の手から鍵がチャリンと落ちた。



「どうして……?」


「どうして? 私にはもう(それ)は必要ないでしょう。もう来ないのだから」



 悠史はただ、私を見つめた。何時もの顔だ。余裕そうな顔。でも、今日はそれがおかしく見えた。無理につくっている様だ。よく見ると唇も、ギュッとつくられた拳も震えていた。でも、きっとそれは私が見せる願望。私が去ることは彼にとってきっと良いことなのだから。



「どうして……、なんで、もう来ないって……」



 ボソボソと言う悠史についに私はキレた。どこまでこの男は私の地雷を踏むつもりなのか。



「どうして? じゃあ逆に聞くけどどうして貴方は私が出て行くのを止めるの。出て行かないとでも思った? ずっと傍に居るとでも思ったの? こんな関係が、身体を繋ぐだけの関係が長続きするはずなんて無いじゃない!!」


「しの、」


「私はもう嫌なの、うんざりなの。貴方の行動に安堵する自分も不安になる自分も。なにより貴方の身勝手さに振り回されるのが!! 私は都合のいい女でも人形でもないわ!! もう疲れたの!! 私の為を思うなら放っておいてよ!! 中途半端な情けなんていらないわ!!」



 ボタボタと流れる涙を止める事無く私はマンションの外に向かって走った。降りた時のままになっていたエレベーターに乗り外に飛び出した。晴れていたはずの空が曇っていて雨が降りそうだった。そのまま走って家まで帰れば、途中でタクシーを捕まえればよかったのに私は少しの間悠史のマンションの前で佇んでいた。


 悠史が私を追って出てくる事は、無かった。






 降り出した雨の中私は歩いていた。傘など持って居ない。だからと言って買う気にはなれなかった。タクシーを拾うのも気が進まなかった。でも、それがいけなかった。


 強い雨の中を歩く人などそうは居ない。それにもともとこのあたりを歩いている人は少なかった。

気がついたときには身体が拘束され、口元に何かを押し付けられた。急激に意識が遠のく。



――――悠!!



 紫乃佳の小さな悲鳴は、雨の音にかき消された。









『ねぇ紫乃佳。ピンチの時に思い浮かぶ人って、自分が一番大事に思っている人なんだって』


『へぇ……』


『そんな時に恋人の顔が浮かんじゃえばすぐわかるよ』


『何が?』


『その人のことをすぐには諦められない、愛しちゃってるって事が。まぁ、私の持論だけど』


『何ソレ……。まぁそんな事はないと思うけど、参考にはするよ。ありがとう紗江』

 この男(悠史)にも色々有るんです。

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