浮き彫りになった不安
キミの隣に居られれば、それで良いと思っていた。
だけど、それを望む事が、こんなに辛いなんて思っていなかった――――――
ガタガタとパソコンのキーボードを叩いて、仕事をこなす。怒りのままにキィを叩いている気がするが、そんなことは今気にしていられなかった。隣の席の、ある程度仲のいい男の子の河野が気遣わしげに紫乃佳の方を見ているのに気が付いたけど、無視した。ガタガタとキーボードが音を立てるのは紫乃佳の力が入っているからではなく、古いからだ。気遣われる理由なんて、ない。
怒涛のごとく仕事を進める紫乃佳に、上司である林野部長が資料を持ってやってきた。
「今日はすごく気合が入ってるね。……さっき囲まれていたけど大丈夫?」
「ええ。私事ですので、いじめとかではないので大丈夫ですよ」
「そうか……。困っている事があったら相談に乗るよ。仕事の事じゃなくてもね」
そう柔和な笑顔で気遣ってくれる部長に、自然に笑みがこぼれた。手を止めて頭を下げた。
「部長……ありがとうございます。でも、本当に問題ないんです」
「いやいや。いつでもいいからね。……だけど、パソコンを壊す前に言えよ? 北澤」
「壊しませんよ!」
悪戯っ子のように笑いながら冗談を言った部長はそのまま去っていった。どうやら資料は他の人に渡す物だった様だ。そのついでにわざわざ声を掛けてくれたらしい。資料を渡されたのは隣の河野だった。資料にげんなりしながらも、河野はこちらを向いて笑っていた。
「部長って本当にいい人だよな」
「そうね。優しくて、人を良く見ていて、気配りできて、仕事も出来て」
「そうだよなぁ。俺もあんな男に……無理か」
「無理よ」
紫乃佳が笑って否定すると「ひでぇっ」と河野は言ったが、その顔は笑っていた。どうやら部長に声をかけられる前の紫乃佳は余程おかしかったらしい。大分気を使わせてしまったようだ。
その後も少し部長の話で盛り上がった。その中でふと何か思うことがあったのか、急に声を潜めてこそこそと話しかけてきた。
「そういえば、部長の父親って社長らしいぜ」
「えっ? そうなの?」
と言う事は部長は御曹司というヤツではないだろか。ここの社長はまだ若くて子供が居るような年ではない。むしろ部長と年齢があまり変わらない様に見える。学生の頃に始めたベンチャー企業とも噂がある。
部長の父親が何を扱っているかどうかはわからないけど、どうしてよその会社に?
その疑問は、河野の次の言葉で解消された。
「あぁ、噂なんだけどさ、父親はあの大手カラオケチェーンを経営していて、ココには社会勉強で入ったらしいぜ」
「カラオケ……社会勉強ってここ競争率高いのに良く入れたわね」
そうだよなぁ、と呟いている河野の横で、紫乃香は引きつりそうな顔を頑張って堪えていた。カラオケ……。そう、カラオケである。カラオケと言えば紫乃佳のトラウマともいえる最悪の場所で、今日私が機嫌の悪い原因である。部長によって安らいでいた心が、また怒りで荒れ狂ってきた。
また、力いっぱい、仕事に取り組み始めた紫乃香を見て河野は口を引きつらせていた。そうして目を逸らして溜め息をこぼした。
今朝何があったかといえば、綺麗めな女の子達に囲まれていたのだ。梨香を筆頭にして。予想はしていなかったと言えば嘘になるが、覚悟をしていなかった紫乃佳は圧倒されてしまったのである。
「あのイケメンだれ?」
「付き合っているの?」
「どこに勤めているの?」
「どういう関係?」
など。全てあの、皆は迎えに来たと思っている、正確には人を拉致しに来たあの、紫乃佳の騒動の全ての原因だと言える若木悠史の所為である。しかもすべて紫乃佳にとっては答えづらい質問である。代表的な質問に答えるとするならば、
Q:「あのイケメンだれ?」
A:私の知り合いです。それ以外に答えようがありません。
Q:「付き合っているの?」
A:分かりません。告白をしていなければされてもいないので、付き合っていないというのが正しいと思います。
Q:「どこに勤めているの?」
A:言葉を濁して教えてはくれませんでしたが、恐らくお金持ちです。ホテルに連れ込まれるときは大概スイートって呼ばれるところですし、ブランド物のスーツやらドレスやらくれます。(っていうかドレスはどこで着るんだよ。一般庶民はパーティとか出ないからっ!!)
Q:「どういう関係?」
A:セフレです。週に3回ぐらいは拉致されています。(あれ? 結構多くない?)
と言う事は素直に言えないので、ある程度ぼかした結果、アイツとの関係は友達以上恋人未満と言う事になりました。
……………それで、何故私はこんな報告をしなくてはならないのでしょうか。友よ。
紫乃香は社員食堂で買ったご飯をぐったりしながら食べ、その前では紗江が笑っている。怒ったり疲れたりしている紫乃香を遠巻きに河野が見ているが、気にしない事にした。
「恋人ですって言えばよかったのに」
「言えるかっ!! アイツの気持ちは分かったもんじゃないのにっ。いや、アイツは私のことをおもちゃだと思っているんだ。縁切ってやるっ!!」
「でも、好きなんでしょ? 縁は切りたくないんでしょ?」
「…うぅ………」
そんな紫乃佳の様子に、紗江は苦笑いを漏らす。それをみた私は頬を膨らませた。それを見た紗江は私の頬を突っついて空気を抜いた。多少間抜けな音がしたが、紫乃佳は気にしなかった。
「私の好みは部長みたいに気遣い出来て、優しい人だったのに!! どうしてあんなのを好きになっちゃったのかなぁ……」
「まぁ、確かに部長は良いオトコだけど。それを私に言われてもね……」
ふうんっと何かを考えるように紗江は頷いた、俯いて頭を抱えている紫乃佳はそれに気が付かなかった。そんな二人の下に、一つの人影が現れた。
「北澤、今いいか?」
その人物は先程まで話題に挙がっていた人物、林野部長だった。紫乃佳は喉まで出かかった悲鳴を押し込んで「はい」と返事をした。
「先程急に仕事が入ってね、急ぎの用件だから今から取り掛かって欲しいんだ」
「今、からですか?」
「あぁ、急げって言う割りに量は多いんだ。そこで河野が待っているから一緒に行くといい」
そう言われて部長の視線の先を見れば少し焦ったような、複雑そうな、なんともいえない顔をしていた。私はそれほど量が多いのかと焦った。しかし目の前には片付けていない食器。今いる場所からは返却口は遠い上に、人が多い。覚悟を決めて行くぞっと気合を入れたとき、目の前のトレーが消えた。正確に言えば部長が紫乃香の食器を持っていた。
「部長っ?!」
「これは僕が片付けておくから、急いでいっておいで」
「しかし……」
「これから大変なのは北澤達だろ? それにこれは僕が勝手にやることだから北澤は僕にお礼を言ってさっさと仕事に行きなさい」
そう言って微笑んでくれた部長に紫乃佳は少し頬を染めてしまった。最近強引に振り回されたり、誰かの自分主義過ぎる言動に、朝の質問攻めに疲れていて、部長の労わりが嬉しかったのだ。やっぱり林野部長は良い人だっ!と思いほんわかしていると、部長が紫乃佳を困ったように見ているのに気が付いて、慌ててお礼を言って河野の方に走っていった。
トレーをもって、返却口に行こうとしている林野に紗江は声をかけた。
「優しいんですね。どこかの下心丸見えの同僚と違って」
少し棘が入ったようなその口調に林野は止まって紗江の方を向いた。紗江は微笑んでいた。しかし彼女の表情を良く観察すると、目が笑っていないのはわかった。
そんな紗江に林野は器用に片方の眉だけ上げると、紗江と完全に向き合ってから口を開いた。
「……君は?」
「失礼しました。私、秘書課の奈津原 紗江と申します」
「君が、『あの』……」
どこか感心したような、いろいろ含まれたような声が、林野から漏れた。
「恐らく林野部長が思いになった事は間違いではありませんよ。私が『あの』奈津原です」
それに少し不機嫌そうな声で紗江は答えた。
「そうか……」と林野は少し考えるような表情をしたが、射抜くような目で見つめている紗江に気が付き、困ったように笑った。
「いや、少し噂と違ったものだから、気を悪くしたらごめんね。一番最初の問いだけど、僕は恋愛は自由だと思っているから、人がやることに口出しする事はないよ」
「……そうですか」
まるで紗江の言いたい事も全部わかっているという様な口調で話した林野に、紗江はどこか悔しそうな口調でそう答えた。そんな紗江に、林野は苦笑した。そしてここから去るために、声を掛けた。
「ええ。では僕ももう行きますね」
「はい。ありがとうございました」
今度こそ去って行く林野を紗江は探るような目で見ていた。少し考えるようにして、残っていたサラダをパクリと食べていると、今度は目の前に小柄な女性が座った。紫乃香の同僚の梨香である。
「……何?」
「冷たーい。ホント奈津原さんって紫乃ちゃん相手にする時と違いますね~」
「用件は?」
間延びした話し方で話す梨香を紗江は冷たく見据えた。用が無いなら関わるな、と言いたげな態度である。紗江のそんな反応に梨香は興ざめといったような顔をしながら答えた。
「紫乃ちゃんにカレシっていませんよね? 紫乃ちゃんどちらかといえば林野部長みたいなのがタイプですものね~?」
「そうだけど。紫乃香からそうやって説明されたんじゃないの?」
「そうなんですけど~。じゃ、付き合ってないなら私がもらってもいいですよね~」
そう言いたい事だけ言って、梨香は去っていった。誰を?かなんてそんなことは聞かなくてもわかっている。それを横目で見ながら紗江は残りのサラダを口に運んだ。そしてお茶を飲んで一息つくと、河野に連れられて、紫乃香が走っていった方に視線を向けた。そこにはもちろん、その二人の姿はない。紗江は疲れたようにため息を吐いて、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「告白できずに悠長に構えていると、盗られちゃうわよ―――――」
その言葉はもちろん、誰にも拾われる事なく消えていった。
―――――――――
「終わったあぁ~~」
急に追加された業務がやっと終わった。と、言うよりあれから半日では終わらない量だったのだ。緊急のものだけ終わらせて、結局全部が終わったのは翌日の昼。残業して早朝出勤したためにもう疲労困憊である。あぁ、帰りたい。嫌な事があるとすぐに家に帰って引きこもりたくなるのは学生の時からの悪い癖だ。紫乃佳は、んんーと背を伸ばすと早めの昼食をとる事にした。財布を持って出て行こうとすると、前から紗江がやって来た。
「これからお昼? ちょうど良かった、一緒に外にランチに行かない?」
「いいよ」
紗江の申し出に二つ返事で了承した。紗江は秘書課にいるエリートさんだが、何故かお昼のタイミングが合う。こちらの事を把握されているように合う。社長近辺で相当な仕事が無ければ、部署が違う紫乃佳といつも昼食を共にしているのだ。
今日は会社から少し離れた(離れたと言っても休み時間内に帰れる距離)カフェに来ていた。最近暖かくて気持ちがいいのでオープンテラスでいただく事にした。
出てきたのは海鮮パスタ。イカ、海老が乗っていてオリーブオイルのいい香りがする。幸せだと思いながらそれをほおばっていると、前から呆れたような視線を向けられた。
「はにようぉ(なによう)」
「別に、アンタは単純で良いよねって話」
「んっ……それ、どういう事よっ」
そうやって返せば紗江は楽しそうに笑う。それにムッとした顔を向けるとさらに笑われた。どうやら私はアイツでなくともからかわれるらしい。それが癪に障ったので、疑問に思い続けていたことを言葉にした。
「どうして私といつもご飯の時間が合うの? 秘書課って忙しいんじゃないの?」
「いいのよ、あんなの放っておけば。人はたくさんいるんだから。私はアンタの方が大事なの」
あんなの? 言葉に疑問は残るけど、真っ直ぐに大事といわれた事に頬を染める。真っ直ぐな言葉を言われなれていない紫乃佳はたとえ女の子からでも嬉しくて、照れてしまうのだ。紗江はそれを微笑ましそうに見て、紫乃佳の頭を撫でる。
「ちょっ、紗江っ?! やめてよ。恥ずかしいよ」
「可愛いわね。そんな事で照れちゃって。アンタの彼氏は言ってくれないの?」
「……言わないよ。それと、彼氏じゃない……」
口にした分だけへこんだ。いつも思っていても口にした方が傷つくみたいだった。パスタを食べていたフォークを置いて、俯いて唇をかんだ。そのとき前からボソッとした声と舌打ちが聞こえたして気がして紗江の方を見るために俯いていた顔を上げた。しかしそこはいつもの紗江の笑顔だった。気のせいかとホッとして笑うと、紗江もそれを見て笑おうとしていたが、何かを見てみるみる顔を強張らせていった。いったい何を見たんだろうとそちらの方を向いた。
「紫乃佳っ。ダメっ」
紗江がそう言ったが、もう遅かった。そこに居たのは控えめな笑顔が可愛い女性と、その女性と腕を組んでいる見知った男性――悠史――だった。
顔から血の気が引いていくのが分かった。やっぱり考えているのを現実としてみるのは違うらしい。だって前に見たのはこんな仲になる前―――付き合う前だ。
………付き合う? 本当に私は悠史と恋人なのだろうか。口で否定しながらもどこか信じてた自分に笑えた。
よくよく考えれば、知り合って結構経つのに悠史と外デートをした事がないことに気がついた。私も仕事が忙しいので気がつかなかったが、休日でもお昼に出かけた事はない。本当に私は性欲処理の都合の良い女だったのだろうか。そう考えた所為か、体が動かなかった。
ジッと見つめる紫乃佳たちに気が付いたのか、悠史にくっついている女性はにっこりとして悠史の腕を引っ張り何かを囁いた。悠史はそれに笑って答え、そんな悠史に女性は悠史の頬にキスをした。傍から見れば、仲の良いカップルである。私はもう限界だった。
「っ……ごめん」
千円札をテーブルにおいてその場から離れた。後ろから「紫乃っ、待って!」と言う声が聞こえたけど、それに気にせずに走って逃げた。
「あんのバカ……」
紗江はそう呟いてウエイターに代金を押し付けると紫乃佳を追って走っていった。
追いかけてきた紗江に大丈夫だと言って仕事に戻ってもらった。私も戻ると、よっぽど酷い顔をしていたらしく、皆に心配された。林野部長が仕事をしている紫乃佳の下に来て「もう、早退しなさい」と言った。仕事は30分前から全く進んでいなかった。
仕事に私情を持ち込むなんて最低だと思いながらも、きっとこの状態でここに居ても仕事は進まないし、周りに心配を掛けるだけだろう。部長に「すみません……」と謝りその厚意を受け取って早退した。
社から家に帰る途中、前からこちらを見つけて歩いてくる影に乾いた笑いが漏れた。今日はとことんついていないらしい。そもそも、コイツと会った事が間違いだったのだろう。
「紫乃佳? もう帰りか? 早くないか?」
「……そっちこそ、どうして外に?」
長いこと話したくなかった。名前を呼ぶ事もしたくなかった。正直に言うのならば、今日はもう会いたくなかった。相手の方を見る振りをして、違うところに焦点を置いた。こうすれば目の前のこの男もただの風景だ。そうまでしないと泣いてしまいそうで、怖かった。
反応が薄く、抑揚の無い声を出す紫乃佳に気付くことなく、悠史は話を続けた。
「あぁ、今日は外回りがあってな。車で帰るのはアレだから、途中から歩いて帰ることにしたんだ」
「…そう、なんだ」
デ-トじゃなくて? 思わずそう訊きそうになった。そんな自分に乾いた笑いが漏れる。どうやら自分はこの男の事が本気で好きだったらしい。昼間のことを考えるだけで、どろどろとした思いがこみ上げる。
何所までも何所までも、思考は悪い方に傾いていく。
「紫乃?……どうした、何かあったか?」
心配するのが珍しい。どうやら自分は末期のようだ、と紫乃佳は思った。こんな奴にまで心配されるなんて。歩道の真ん中で話している自分達はさぞかし邪魔だろう。だけどそんなことはもう気にならなかった。そして今日初めて、紫乃佳は目の前の男と目を合わせた。紫乃佳と目が合った瞬間、男は顔を強張らせた。相当すごい顔をしているらしい。コイツがこんな顔をするなんて。
――――別に心配してくれなくて良い。だって私はその他多勢でしょう?どうしてそんな顔するの?どうしてそんなに不安そうなの?私が居なくなったって何も変わらないでしょう? いつも私を捉えて放さないその意志の強い瞳が憎らしく思った。貴方は籠の外で自由に遊びまわっているのに、私は籠の中。貴方が外に連れ出してくれたことなんて、無い。
ねぇ、悠史。
「わたしは……」
「どうした? 聞いて欲しい事なら聞くぞ。ココで話したくないのなら移動してもいい」
私は、貴方の何―――――?
心の悲鳴が、抑えれレタ気持ちが口から出そうになった時、男の携帯が鳴った。男は携帯を取り出して相手を見ると眉を顰めた。少し不機嫌そうな顔をして「もしもし」と電話に出た。
「はぁっ?! いや、ちょっと今は――――」
そう言って男は紫乃佳を見た。どうやら仕事の電話らしいが、口調が大分砕けている。同僚だろうか?男が外面を被ってないなんてと、途中まで考えて自分には関係ないと考えるのをやめた。どうせ呼び戻しの電話だろう。帰る途中ってさっき言っていたし。「大丈夫」と言って手を振って男と別れた。何か言っているような男の声は、町の喧騒にまぎれて聞こえなくなった。
男と――悠史との会話をしなくてよくなってホッとした。もう、何も考えたくは無かった。
これ以上考えれば全てを吐き出すまで泣き続けそうで、怖かった。
フラフラと帰っていると、どうしてだか悠史の家の前で着てしまった。最近拉致されてここで寝泊りしている所為だろう。そろそろ家に帰って、掃除と洗濯をしなくてはならない。自分の家に帰ろうと、ふっと道を見れば、まだ夕方にもなっていないお昼なので、皆仕事に出ているのか人通りは少ない。明るいときに来た事がなかったので、こんな風なのかと思いながら足を前に出したら後ろから急に手を掴まれて引っ張られた。何がなんだか分からなくて暴れると後ろからギュッと抱きしめられた。
この匂い、香水なんか使っていない、それでも優しく香るミントの香り。
私、知ってる――――
「紫乃、俺だ」
道端でやはり思った通りの人物――悠史――に抱きしめられた。人通りが少ないといっても居ないわけじゃないので、恥ずかしくて少し暴れた。悠史は気にすることなく私の手を引いて、自宅に連れて行った。そうしてドアを閉められる。
そういえば、私は早退したとはいえ普段なら仕事をしている時間だ。特にコイツは外回りの帰り、それに電話もかかってきていたはずだ。それなのに、どうしてここに居るのだろう。
「仕事、どうしたの?」
思ったことをそのまま口にすれば、何を思ったのか悠史は顔をクシャッとさせて私を抱きしめた。抱きついた、ような気もした。
「紫乃……俺から逃げるな……離れるな……」
抱きしめた悠史は何故か泣きそうだった。初めてみた顔に、初めて聞いた縋りつく様な声色。でも、紫乃佳の心には響かなかった。泣きたいのは紫乃佳の方だ。どうして悠史が泣きそうなのか全然分からなかった。
昼間のを見て、悲しくなったのは、泣きたくなったのは、私の方なのに。もう私はいらないかと思ったのに貴方はそうやって私の下に来るから、私は貴方から離れる事はできない。きっと惚れた弱みとかいうものなのだろう。それとも母性なのかな。縋られると突き放せない。
まだ日は高いというのに、ベットルームに連れて行かれた。その後の行為は、いつものように性急なものでも、欲望のままのようなものでもない。私がここに居るのを確かめるような、そんな抱き方だった。
疲れていたのか、悠史は終わると寝てしまっていた。仕事はどうしたのだろう。今思えば、私は一度濁された事をいい事に何をやっているのか追求しなかった。どこに勤めているかは教えてくれなくても、何をやっているのかぐらいは教えてくれたのかもしれないのに。私はこの人のことを、よく知らない。
だから先程言われた事が理解できない。
『俺から離れていくな』
そう言っても、きっと彼は私から離れていくのだろう。お昼見たときのように、彼の周りには綺麗な女性がたくさんいる。こんなに整った顔をした人が、モテないはずがない。どうして私の構うのか分からないけど、きっと毛色が違う私が珍しくて構っているだけだ。飽きてしまったら、きっと籠の扉を開けて、私の意思に関係なく大空へと放たれる。
傍にいるのは簡単だと思っていた。でも、現実を知った今、それを望むにはとても辛い。
貴方の隣には、誰がいますか――――?
貴方の目に、私は映っていますか―――?
隣で寝ている悠史を見ていると、勝手に涙が溢れ出した。好きになってはいけないと、思っていたはずなのに、気付いたら好きになっていた。
社会に出て、私は大人にならなければいけなかった。でも、『大人』が何を示すのか、わからない。
涙が止まらない。
ずっと考えないようにしていた不安。それが今日のお昼に浮き彫りになった。もう、どうしたらいいのか分からない。
貴方は寝ぼけたまま、私を抱きしめる。私の涙は、それでも止まらなかった。
「しの……」
掠れた声で、愛おしそうに呼んでいると感じるのは、きっと私の願望なのだろう。
今まではそれだけで安心できた。だけど―――――
―――今はただ、切なくなるだけだった。
貴方の傍にいることが奇跡に近くて、きっと幸せな事なんだ。
そう、自分を包み込んでいる腕の中で、自分に言い聞かせた。
浮かんでくる不安を誤魔化して、湧き上がってくる気持ちに蓋を被せた。