8.それから
「ほら、紗枝ちゃん。柳の木を伐ってからずっと虚ろなんですって。だけどなにも伐らなくてもねぇ。伐ったってどうせ治らないのにねぇ。だって、シンナー吸ってるって噂よ。嫌よねぇ。
あら、ドラッグ? そんな物にも手を出してたの? 嫌だ、怖いわねぇ。一体どういう育て方されたのかしら」
母は道の角に潜み、偶然聞いてしまった井戸端会議が終わるのを待った。
「子供にはあの家の辺りに行くなときつく言ってあるの。だって怖いじゃない。ううん、あの気味が悪い柳の木がじゃなくて、紗枝ちゃんよ。ほら、突然襲い掛かられたらって思うと」
(紗枝がそんなことをするわけがないでしょう!)
拳に爪を突き立てていた。掌から血がにじむ。
どうして言い返せないのか。今まで何度もしようとした。なのにどうしてできないのか。自分の娘のことを言われているのに。
(噂なんて気にしていないからよ)
母は言い訳をする。そういう自分になりたいと思っていた。けれど、やはりそれは無理だし、言い返せない本当の理由は見当がついた。
自分もあの噂話をしている人たちと同じように、娘の頭がおかしいと思っているからなのだ。
なんて酷い母親だろう。母は涙を流した。
***
柳の木を切り倒して以来、庭の花々は散り、遂には枯れてしまった。庭は日増しに荒れ、蝶などが寄り付かなくなった。
以前はよく通った風も、ぴたりと止んだ。
父は庭に新しく買った花を植え終えてから、青空を見上げた。
「一体どうなっているんだ?」
小さい頃に祖父がした話を思い出す。あの頃の父はまだ純粋で、それらの話を単純に信じていた。しかし小学生に上がり、高学年になるにつれ、世の中が信じていたほどには輝いていないと分かった。いや、もしかしたら、真実はやはりそうであって、だけど歳をとっていくにつれて忘れていったのかもしれない。今の父にはそう思えた。
祖父はよく縁側に座り、小さかった頃の父を膝に乗せて話をしてくれていた。家には昔から快い風がよく通っていた。
『あれは立派な柳だろう。実はあの柳はな、木の王様なんだ。見てみろ、王様の御蔭でうちの庭はほかの家と比べても別格だと思わんか』
そう言う祖父は得意そうだった。
『柳はずっとわしらを守ってくれている。立派な王様なんだ』
空に浮かぶ雲が移動している。この家ではどういうわけかピタリと止んだ風が、上空ではちゃんと吹いている。
父は柳があった方に顔を向け、深く息を吐いた。
「……そうか、王様がいなくなったから、他の植物たちもいなくなったのか」
さて、家の中に入ろうか。そろそろ妻が買い物から帰ってくるだろう。彼女と一緒にお茶でも飲んで、たまには肩を揉んであげるのも悪くない。
父が再び柳があった場所に眼をやると、そこに寝巻きのままの紗枝が呆然と座っているのに気づいた。父はどうすることもできず、すぐに目を逸らした。
家の中に入ると、妻が救急箱からバンソウコウを取り出していた。
「怪我したのか? 」
彼女は泣きそうな顔を上げた。また、誰かに何か言われたのだろうか。彼女はいつも強がっているが、本当はとても繊細で傷つきやすい女性だということを、彼は知っている。
「見せてみなさい」
掌に爪の跡があり、そこから血が吹き出ていた。父はバンソウコウを受け取り、傷の上に丁寧に貼った。
「こんなもんでいいのか? 」
「ありがとう」
そう言い、彼女が涙を流した。
「どうした、何があった?」
「……紗枝は? 」
「庭にいる」
「そう。また思い出に彷徨っているのね」
バンソウコウが一気に紅く染まった。
「どうして? 私は紗枝の為を思って、柳を伐ったのよ。紗枝を守りたかったから……。
それなのに……! 私は、ただ紗枝を守りたかっただけなのよ! 」
妻が泣く。父はその震える肩を抱き寄せた。
***
祖父は眼を開けた。恐れ多くも柳を伐る罪に加担したためか、柳の最期を見届けて以来、祖父の眼にはもはや何の像も映らなくなっていた。しかし、今は暗闇の中に光輝く粉が見える。それはこの世の物ではない、とても尊い光のようだった。
光の粉は集まり、一筋の糸となって祖父を導いた。
どの位歩いたのか分からない。だがいつまでも祖父の体は軽く、疲労を感じなかった。やがて光の粉が進むのを止め、たどり着いた先には、暗闇の中で光を放つ一本の立派な柳の木があった。祖父は駆け寄り、ひざまずいた。
しかし顔を上げて見るとそこに柳は無く、代わりに一人の美しい青年がいた。
「――お義父さん、お義父さん……!」
母が祖父に呼び掛ける姿を、紗枝はただ部屋の片隅に突っ立って見ていた。小さなころからずっと、母は祖父のことを嫌っているのかと思っていた。それなのに、祖父の名を呼ぶその必死な姿を見ていると、それまで母に対して思っていた考えが、誤解だったのではないかと思えてくる。
「救急車はまだ来ないの? あなた、車出した方がいいんじゃない?」
母は父と相談していたが、隅にいる紗枝に気づくと手招きした。
「そんなところにいないで、おじいちゃんの側にきなさい!」
紗枝は、言われた通りに祖父の側に行き、祖父の顔を見下ろした。
祖父の顔色は真っ青で、唇の色は青紫に近い色をしていた。しかし瞼はそっと閉じられており、とても安らいだ表情に見えた。
父は祖父の脈を取り、口元に手をかざして首を振った。
「駄目だ、もう……」
言葉を濁す父を、母はうろたえて「嘘でしょ」と何度も揺すった。
布団に横たわる自分を取り巻く家族の姿を、祖父は部屋の隅の方で客観的に見ることができた。彼の息子も、嫁も、彼の死をとても悲しんでくれている。それを知ることができて本当によかったと、祖父は思った。
母に呼ばれて祖父の抜け殻を眺めていた紗枝がふいに振り返り、白い歯を覗かせて笑った。紗枝は悪戯っ子のように足音を忍ばせて戸に近寄ると、祖父に手招きをした。
紗枝と祖父は、庭の柳の木があった場所に行った。
その場所で祖父は紗枝に、柳の木の青年に会ったよ、と話した。
「本当? 彼、どうしてた?」
元気そうだった、と答えた祖父は、今から自分も彼と同じ場所に行って来る、と紗枝に別れを告げた。紗枝は少し顔を曇らせ、「もう会えないの?」と尋ねた。祖父は顔を横に振る。
いつか、きっと会える。
「いつか?」
そう、いつか。それは紗枝がうんと年をとったときかもしれないし、もしかしたら、その後かもしれない。そう伝えると、紗枝は微笑む。
「おじいちゃんみたいにね」
そう、と祖父は頷く。
「おじいちゃん、見て」
紗枝はそう言い、土に植えていた数本の細い枝を指差す。
「彼の枝、こっそり挿し木にしているの」
紗枝はぺろっと舌を出し、笑った。祖父は目を丸くした後、けらけらと笑った。
一しきり笑った後で、祖父は紗枝と握手をし、別れの挨拶をする。
なあ、紗枝。
いつか会えるのを楽しみにして、元気に生きてほしい。
紗枝にはまだ人生がいっぱい残っとる。
悲しいこともあるだろう、でも楽しいことは自分次第でもっとある。
いつも笑顔でいなさい。
わしは紗枝の笑顔が大好きなんよ。
紗枝は笑った。大好きな人たちは死んで、悲しくて、寂しかったけれど、反対に、嬉しくて、わくわくして、有り難くて笑った。
小刻みに震える祖父の手は、血管が浮き出てごつごつしている。
ああ、祖父が木になったら嬉しい。
大好きなあの柳の木のように。
おわり。