ウェディングベル
喧嘩とはいえ容姿に対してのあまりの言われように、ナオちゃんは身体を小刻みにうち震わせていた。
まさに怒り心頭のご様子なのだ。
そして、「あぁ。あのチンピラむかつくわ!」と小さな声でつぶやいたと思ったら、今度は車窓から身体が飛び出しそうな勢いで乗り出し、顔面凶器に対して「はぁ? おっさん何ほざいとんねん! だいたい顔は関係ないやろ。それとなぁ、さっきからおっさん口くさいんじゃ、世間の迷惑になるから、そのくさい口はふさいどけよ。ぼけなす」
目には目を歯には歯を的なナオちゃんの応酬が顔面凶器に炸裂した。
「じゃかわしいわ! 発作かお前? ブサイクのくせしてごちゃちゃ言うてんな。文句があるなら直接こっちきて言わんかい」
「なんで、うちがそっちいかなあかんね! 口くさがこっちこい」
「おまえこそこっちこい」
「口くさが――」
もはや、こうなってくると子供の喧嘩以下の罵り合いはどっちが来るかの本末転倒堂々巡りの無限ループをむかえ、第三者からしたら馬鹿馬鹿しくて笑うしかない展開になっていく。
しかし当事者たちは真剣勝負の喧嘩なのでむなしくも無駄な時間だけが過ぎていく。そんな不毛な状況の中、ナオちゃんの放った「へたれやろ」の罵声がきっかけで、ついに事態は最終局面に入ろうとした。
それは、車窓から喚き散らしていた顔面凶器のおっさんが重い腰をあげて、高級外車から飛び出しこちらに向かって歩いてきたからだ。
顔面凶器は春なのにカラフルな半袖シャツを着ていて、その筋の人特有の大股で風をきるかのようにゆっくりとこちらの車に近づいてくる。
「こっちにこい」とナオちゃんが誘発したものの実際に向かってこられ、この先対峙したことを考えたら到底勝ち目などあるはずがなく血を見るような結末になるのじゃないかと不安がよぎる。
いったい、どうしたらここまで発展した喧嘩を丸くおさめることが出来るのだと頭を悩ましていたら、妻がとんでもないことを言い出した。
「あんた出番やでぇ」
最初、妻が何を言ってるのか分からなかったので聞き返す。
「出番って、何が?」
「何言うてんのよ。あんたがあのチンピラ何とかするのよ。あんなん出てきたら女のナオちゃんやったら太刀打ちできへんやろ。だから早よ行ってきて解決してきてえなぁ」
思わず私は「えぇっぇぇっ~~~~~」と唸ってしまった。
妻の言ったことは、私にとってまさに青天の霹靂、寝耳に水じゃないか。さきほどまで同乗してるとはいえ、二人の喧嘩のやり取りを傍観者として見ていて内容からアホらしいとさえ鼻で笑っていた自分がいたのに今はどうだ。
妻の一言によって突然の奈落の底に突き落とされ当事者になってしまう危機が迫ってきたのだ。
いやいやいや、これは無理無理。
こんな理不尽なことを受けていたら命がいくつあっても足りないじゃないか。ここは絶対に回避しなくてはならない。
「ちょ、なんで俺が出ていかなあかんのよ。そもそも、こんな事態になったのは……」
こうなった責任の元を全部言おうとする間もなく妻が話を遮る。
「はぁ? だいたいあんたがしっかりしないから、ナオちゃんが頑張ったのちゃうのか。それに、さっきまで、笑ってたやんブヒムヒは――とにかく早く相手してきてなぁ~。チンピラ待たせて車でも壊されたら大変やろ」
どうも妻は私の体が壊れるよりもナオちゃの車の方が心配のようだ。
「そんなん言われても、あんなん相手に無理やって。俺が出ていっても何ともならんし、向こうも男が出てきたらよりエキサイトしてしまうやろ」
「ほな、聞くけど、もし、あんたの変わりに私が出ていってなんかあったら、ブヒムヒはどうするの? もちろん助けてくれるよね。だって、それが夫婦ってもんでしょ。
まさか見捨てるつもりとちゃうでしょう。
だったら、そうなる前にあんたが出ていった方が話が早いやん」
妻の言ってることは全く意味がわからない。なんで、こんな時だけ夫婦の絆みたいなことを引き合いに出されるのか理解不能だ。
「とにかく、なんかあったらあんたの骨は拾ってあげるから、相手してきなさい。男らしいとこ私らに見せてよ!」
妻は、もはや行くしかないようなことを言ってきて私を追い込む。
それでも、やはり血を見そうなところに出ていくのは嫌だ。
どうにか言い訳して逃れる術はないかと思っていた時、突然に耳からウエディングベルを打ち鳴らす音が聞こえてきた。
音の出所はナオちゃんがかけていたカーステからが発信源で、歌が始まる前のイントロ部分のようだった。なんとも修羅場のような場面でタイミングの悪いウェディングベルの音色だったが、私はこの音を聞いて、15年前の妻との結婚式のシーンがなぜだが浮かんできた。
脳裏に神父が問うてきた誓いの言葉が木霊する。「あなたは、その健やかな時も、病める時も、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、これを守り、その命の限り、固く節操を守ることを誓いますか?」この局面での神父の声。これはきっと神の啓示なのだと私は思った。
そして、臆する自分にとどめをさすかのように神父は頭の中で私に問うてくる。「愛するもののために、あなたは命の限りこれを助けますか?」と……。
もちろん答えはイエスに決まっている。
私は気がつくと、妻に「行ってくるわ」と言って後部座席のドアに手をかけていた。