我慢の意味・律編
唇が触れ合うだけのキス。こいつ、俺を煽ることに関して天才。
キスなんてするつもりなんかなかった。
いかにも男慣れしてない奴に対しては、おろかな作戦だ。逃げられるに決まってる。
だけど我慢できなかったんだ。こいつが離れようとするから。
昔の男への嫉妬もあった。もう気持ちは残っていないと言っていたが、そういう問題ではない。
あの男は、まだ俺の知らないこいつを知っている。それだけで俺の嫉妬心を駆り立てる。
俺はこいつが欲しい。
誠司の嫁の亜美は、よく「立川美穂」の話をした。その『親友』の話を聞くたび、興味が増していった。
実際に会って、『興味』が『好き』に変わるまでに、時間はかからなかった。初めて会った時の、あの笑顔は忘れられない。
そして、不覚にも顔が赤くなるという失態を演じてしまったんだ。
亜美のフォローでなんとかなったが、なんで理由が『女性恐怖症』なんだ。おかげで美穂は、俺が亜美を好きなんじゃないかって誤解したじゃないか。
俺が『誠司との事に協力して欲しいなら、美穂に会わせろ』と脅したことへの仕返しか?
勢いでキスしてしまったが、美穂に拒む様子はない。淡い期待が胸に押し寄せる。
唇を離すと美穂を見つめた。
好きだ。
先程の熱情に溺れた俺ではなく、お前を大切にしたい気持ちを込めて優しく包み込もう。
お前が怯えないように。
「殴られるかと思った。」美穂はキョトンと、子犬のように目を丸くした。
こんな表情がたまらなくかわいい。
高まる熱情を全力で抑えつけ、耳元で囁く。
耳まで赤くなった彼女が、俺の腕の中で、小さく身動ぎした。
ダメだ。逃がさない。
彼女を捕える腕に力を込め、逃げ出さないように閉じ込めた。
「逃がさない。」
低い声でゆっくり言うと、美穂はびくっと震えた。
また恐がらせてしまったのか。
「だ、だれもいないのに、恋人同士のフリは、ひ、必要ないのではないでしょうか!?」
「怯えないで。捕って食いやしないから。」
たった今、捕って食った俺の言うことじゃないな。
余裕の微笑みを浮かべるが、余裕なんてこれっぽっちもない。
熱い思いに振り回されてばかりだ。
「もう『フリ』はやめよう。」
本当の恋人になってくれよ。躊躇なくお前に触れられる許可を出してくれ。
お前に、俺のものだという印をつけさせてくれ。
美穂は何か考えている風で、俺に捕らえられたまま小さくなっていた。体を預けたまま。
静かに時間だけが流れていった。
こいつ、まさか寝てないよな。
あり得ない想像をしたところで、静寂はやぶられた。
「ああ、そっか!」
小さな呟きだったが、近すぎるほど近くにいる俺に届くには十分な大きさだった。
「別れのキスだったんですね。」
別れの…キス?
思ってもいない展開に狼狽する。
「紛らわしいことしないでくださいよ。外人じゃあるまいし、チュッチュチュッチュと。キスっていうのは好きな人とするもんですよ。」
だからしたんだよ。好きなお前に。
「危うく勘違いするところでしたよ。」
別れのキスってのが勘違いだが?
今の流れのどこに、別れを連想させる言葉があった?
「鈍い…。この流れで、なんでソレ?」
期待をしていただけに、余計奈落の底に突き落とされた気分だった。
虚無感に苛まれ、俺は美穂の肩に力なく顔を突っ伏した。
「俺、『逃がさない』って言ったよね…」
呟く声にも力がなく、彼女の耳には届かないだろう。
「何ですか? もっと大きい声で話してくださいよ。」
大きい声?
出せたら出してる。お前の思考回路こそ、何とかしろよ。
「はあ〜。」
こいつの誤解を解くには、どうしたらいい?
「やっぱり『フリ』は、もう少し続けよう。我慢できなかった俺が悪い。」
そうだ。全ては、がっついた俺のミスだ。まだ手を出す予定ではなかったんだ。また一からやり直せばいいじゃないか。
また、一から…?
こいつを手に入れるのが、とんでもなく遠い道のりに思えて、めまいがしてきた。
こいつと思いを通い合わせる頃には、俺、ジイサンじゃねえか?
考えれば考える程、暗い未来しか思い浮かばず、考える事を放棄した。
美穂を助手席に乗せ、エンジンをかける。沈黙を守ったまま。
美穂も、こちらを気にしてはいるが無言だ。
気まずい空気の中、車を発進させた。
車を走らせながら、また考える。
いっそ告白してしまおうか?
はっきり言えば、いくら鈍いこいつでも理解するだろう。
そして逃げられるのか?
イヤ、キスされても逃げずにいたんだから、嫌われてはいない…はず。
しかし、こいつは俺の予想をはるかに上回る鈍さだからな。さっき抵抗しなかったのだって、ボーッとしてただけかもしれないよな。
…あり得る。
それどころか、事実そうだったのではないかという気さえしてくる。
「律…さん?」
瞬間、息が止まるかと思った。鼓動が大きくはねた。
空耳じゃないよな。
確かに今、名前で呼ばれたよな。あんなに名前呼びを拒んでいたのに。
「今…」
「あのね。私、律さんに我慢させるのは悪いと思ってる。でも、『フリ』はやめたくないの。だから、我慢して、もう少し続けてくれると嬉しいな。これが今の私の正直な気持ち。ごめんね。」
つまり、俺の気持ちはわかってるんだな。その上で続けようと。
鬼だな。
誠司と亜美の件を社内で知っているのは俺だけ。
亜美が社内で頼れるのも俺だけ。
社内の情報を得るのに、俺は不可欠ってわけか。今俺に抜けられると困るんだよな。
憤る気持ちを抑えながら
美穂を見つめる。
『律…さん』
前方に視線を戻し、先ほど呼ばれた時の、美穂の声を思い出す。
ちょっと鼻にかかる甘えたような声。緊張したのか、いつもより少し高い。
俺の心に甘美な渦を巻き起こす。
「お前、切り札出すのうまいな。いいよ。我慢するよ、できる限り。どれだけ我慢できるか、分からないけどな。」
もう一度、イヤ、何度でも。名前で呼ばれる快感に酔いたくなる。
正直それだけで、今、もう抱きしめたい。
我慢、できるだろうか。
チラと美穂を見ると静かに涙を流していた。
罪悪感を感じているのか。
「ごめんなさい。」
「泣くな。」
もういい、そんな事は感じなくて。
頭を撫でてやると、一気に美穂の涙腺は緩んだ。
やがて美穂は、泣き疲れたのか、すやすやと寝息をたてていた。
赤信号で車を止めると、隣で寝ている美穂を見た。
無防備に俺の方を向いて、まるで誘っているようだ。試しているのか、俺の理性を!
「美穂。美穂!」
「眠い〜。もう少し〜。」
ポカッ。と、頭を一つ殴ってやった。グーで。
理性が保たん。起きろ!
「痛い〜!」
「お前、あの状況でよく寝られるな!」
人に我慢しろと言いながら、ハードルを上げやがる。全く質が悪い。
「ごめんなさい。」
素直に謝る美穂に、気を取り直す。
「まあ、いい。どうする?この後。俺んとこ寄ってくか?」
しまった!
二人きりで部屋にいて、手を出さない自信は全くない。
「いや、待てっ! 家はダメだ。理性が…」
「え〜っ。」
不満そうな声に、思わず笑みが浮かんでしまった。
「なんだ。俺んち来たいのか? 来るなら覚悟しろよ。我慢はナシだ。」
「じゃ、いい。行かない。」
「即決かよ。」
少しは迷えよ。
「なら、うち来ますか?」お前んちならいいのか!?こいつの判断基準がわからない。
「それじゃ同じだろ。」
鈍いにも程がある!
しかし、腹も減ったし、時間ももったいない。
「8時か。まだ帰るには早いよな。腹減ったし、何か食うか。」
まだ別れ難くて、飯を口実に引き延ばす。
目についたファミレスに入り、向かい合って食事を取った。
食欲も満たされ、店をあとにする。
10時を少し回っている。
そろそろ送り届けてやらないとな。
「ごちそうさまでした。」
駐車場への道のりで、美穂がお礼を言ってきた。
「お昼のお礼。お弁当、美味しかった。ありがとう。また作ってよ。」
「もちろんです。何かリクエストはないですか?」
「卵焼き! 今日の、すごく美味かった。」
昼の卵焼きは実に美味かった。焼き色の具合も良かったし、甘さも控えめでちょうどよかった。
また作ってもらえるのかと思うと、心がはずんだ。
「いっぱい作って持っていきますね。」
満面の笑みを浮かべた美穂に見惚れ、次の約束をし忘れた。
大失敗だ。




