我慢の意味・美穂編
美穂編と律編、両方の視点で書いてみました。
唇が触れ合うだけのキス。いくら慣れていなくても、経験くらいしてる。
処女じゃあるまいし、これくらいで動揺なんてしないんだから!
いくら強がってみても、そうは見えない。
してます、動揺。思いっきり。
い、いつまでこうしてるの?
仮初めの恋人も、キスってするもんなの?
こういう場合って、怒ればいいのかな?
でも、気まずくなるのはイヤだし…
茶化す?
なんか、怒られそう。
泣いちゃおうかな。
そんなに嫌なわけじゃないから、涙も出ない…って、嫌じゃない?
うん、嫌じゃない。
私の意思ではないところで強引にされているけど、嫌じゃない。無理矢理だけど、触れた唇は反対に優しい。
嫌なのは、犀川氏がなんで私にキスしてくるのかわからない事。
今恋人同士みたいにキスしたって、意味ないよ?
ふいに温かな感触がなくなり、私を見つめる犀川氏の瞳とぶつかった。
先程の危険な雰囲気は消えていて、照れたように甘く微笑むと、わたしを抱きしめた。
「殴られるかと思った。」
殴る?
それが正解だったのか!?
囁かれた耳元がくすぐったくて身動ぎすると、彼の腕に力がこもった。
「逃がさない。」
熱い息を受けて、ますます動揺する。
「だ、だれもいないのに、恋人同士のフリは、ひ、必要ないのではないでしょうか!?」
「怯えないで。捕って食いやしないから。」
今!
たった今、捕って食ったじゃない!
私が目をむいて抗議しているのに、これっぽっちも気にしていない風で、
「もう『フリ』はやめよう。」
と告げてきた。
ますます混乱する。
フリ?
恋人同士のフリだよね。
それを終わりにするの?
ああ、そっか!
「別れのキスだったんですね。」
ようやく分かってホッとするが、ちょっと頭に来た。「紛らわしいことしないでくださいよ。外人じゃあるまいし、チュッチュチュッチュと。キスっていうのは好きな人とするもんですよ。危うく勘違いするところでしたよ。」
「鈍い…。この流れで、なんでソレ?」
あれれ? 何か間違えた?
犀川氏の頭が私の肩にめり込んできた。重い!
「俺、『逃がさない』って言ったよね…」
呟く声にも力がなく、私の耳まで届かない。
「何ですか? もっと大きい声で話してくださいよ。」
「はあ〜。」
…大きいため息が返ってきた。
「やっぱり『フリ』は、もう少し続けよう。我慢できなかった俺が悪い。」
そして、私を解放すると、車の助手席に座らせた。
すごく落ち込んでいる犀川氏が気の毒で、慰めようとしたが言葉が何も浮かんでこない。
ショックだ。犀川氏は我慢してこの関係を続けようとしてるのか。
実は犀川氏に黙っていることがあった。
さっき、『もうフリはやめよう』って言われたとき、寂しいって思っちゃったんだ。まだ続けたいな、って。
もしかしたら、彼はその気持ちに気付いて発言を撤回してくれたのかな。
だったら私が慰めるのは、おかしいよね。
でも、我慢出来ないほど『フリ』をやめたいなら、私の方から『やめていいよ』って言うべきなのかな。
考えるほどに段々辛くなってきて、気付けば、さっきの優しいキスを思い出していた。
無理。私から『やめていいよ』なんて言うのは無理。
たった一日一緒にいただけなのに、こんなにも心の奥底まで入り込まれているなんて。
もっと心を近づけたくて、精一杯の勇気を奮ってみる。
「律…さん?」
目の端で、びっくりした顔の犀川氏が、すごい勢いでこちらに振り向いたのが見えた。
「今…」
「あのね。私、律さんに我慢させるのは悪いと思ってる。でも、『フリ』はやめたくないの。だから、我慢して、もう少し続けてくれると嬉しいな。これが今の私の正直な気持ち。ごめんね。」
視線を前方に移し、少しの沈黙の後、犀川氏…律さんが怒ったように言った。
「お前、切り札出すのうまいな。いいよ。我慢するよ、できる限り。どれだけ我慢できるか、分からないけどな。」
「ごめんなさい。」
「泣くな。」
頭をヨシヨシされ、一気に涙腺が緩んだ。
迷惑だろうな。我慢して付き合う相手にこんなに泣かれて。
でも、涙も、涙と共に溢れでる感情も、止めることはできなかった。
好きだ。
好きなんだ、律さんが。
いつか終わりがくるまで…
ああ。長くても『ネズミーランド』までか。
どうか、その時まで一緒にいてください。
その時…私はどうするだろう。どうなるのだろう。
そうして私は、泣き疲れて意識を手放した。
「…穂。美穂。」
「眠い〜。もう少し〜。」
ポカッ。と、頭を一つ殴られた。グーで。
「痛い〜!」
「お前、あの状況でよく寝られるな!」
あ。ワガママ言った私がグーグー寝てたら、やっぱり気分悪いよね。
「ごめんなさい。」
ここは素直に謝っておこう。
「まあ、いい。どうする?この後。俺んとこ寄ってくか?」
お宅訪問!?
わ〜い。素直に謝ったご褒美だ〜!
「いや、待てっ!」
わん。ハウス、ハウス!
「家はダメだ。理性が…」
「え〜っ。」
浮上した気持ちが、急下降する。
律さんはニヤリと笑って、
「なんだ。俺んち来たいのか?」
と聞いてきた。
「来るなら覚悟しろよ。我慢はナシだ。」
えっ! お宅訪問、即『フリ』終了!?
「じゃ、いい。行かない。」
「即決かよ。」
そんな怒らなくても…
「なら、うち来ますか?」気を取り直し誘うが、
「それじゃ同じだろ。」
また怒られた。
「8時か。まだ帰るには早いよな。腹減ったし、何か食うか。」
8時ならデート終了でもおかしくない時間なのに、『帰るには早い』って言ってくれたのが嬉しい。
少なくとも、一緒にいるのが苦痛って訳じゃないんだよね?
目についたファミレスに入り食欲を満たした後、あれだけイヤだった『奢られる』という行為が、何か特別な関係のように感じられて心を浮き立たせた。
「ごちそうさまでした。」
お礼を言うと、律さんはニッコリと、
「お昼のお礼。お弁当、美味しかった。ありがとう。また作ってよ。」
と言った。
「もちろんです。何かリクエストはないですか?」
「卵焼き! 今日の、すごく美味かった。」
そんなんでいいのかと、ちょっと拍子抜けしたが、ちゃっかり心のメモに刻み込む。
『好物、だし巻き卵』
「いっぱい作って持っていきますね。」
子どもっぽく頷く律さんが可愛くて、肝心の次の約束をしていない事に気付かなかった。
大失敗だ〜。