ふいうち
午後もたっぷり動物園を堪能していたら、閉園時間だというので渋々そこを後にした。
はっ!
急に立ち止まった私に、犀川氏は
「どうした?」
と言って、手を差し出してきた。必死な私はすがりつく。
よほど顔色が悪かったのか、犀川氏が顔を寄せて覗き込んできた。
「何があったんだ?」
「…ンダ」
優しく尋ねられ、不覚にも涙がにじんできた。
「忘れた。パンダの剥製、見るの。」
「…」
「ハプニングがあったせいもあるけど、それだけじゃなくて、楽しすぎて忘れちゃってたよ〜!」
一瞬、犀川氏の視線が冷ややかに光ったけれど、その後すぐに困ったように眉毛が下がった。
「それ、俺、どう反応したらいいんだ? 大好きなパンダより、俺といた方が楽しいって言ってる?」
そしてニヤリとして、
「告白してんの?」
なに〜っ!
「ち、違います! 違いますよ〜っ!」
すがり着いていた腕を慌てて離して、手をブンブン振り回す。滲み出た涙も跡形もなく乾いた。
「深い意味なんてないですっ!」
「うん。深い意味なんていらない。ポロッとこぼれる言葉にこそ、本音ってでるもんな。」
「楽しかったのは本音ですよ。でも、でも!」
正直自分にびっくりだ。
ここに来てパンダが見れなかったのは、パンダ展で、国立科学博物館にパンダが出張していたときだけだ。それ以外、一度たりとも忘れた事はない。(ちょっと自慢なんだ。えへん。)
私がショックを受けていると、犀川氏はフッと小さく微笑んで、軽くわたしの頭にポンポンと触れた。
「逃げられたくないから、今日のところは引いといてやるよ。後、肝心なところはっきり言っとくな。俺、亜美ちゃんを女として好きなわけじゃないよ。お前、俺が彼女を好きだって誤解してるだろ。」
あ。線を引かれた?
私と違って『不倫なんてしませんよ』って。
突き放されたような寂しい気分と、犀川氏はそうやって真っ直ぐでいてほしいって気分とがない混ぜになって、なんともいえない複雑な気分を織り成した。
よっぽど変な顔をしていたのだろう。本日二度目のほっぺビローン攻撃を受けてしまった。
「痛っ! 痛たっ!」
伸びちゃうよ〜!
「もうっ! 犀川氏って、案外子どもっぽいんですね!」
「お前に合わせてやってんだ、感謝しろ。それとも、大人の扱いしてやろうか?」
危険な燈を瞳に湛え、私の顎に手を伸ばしてきた。
蛇に睨まれたカエルとは、まさに今の私!
「降参です。ごめんなさい。男女のアレコレに慣れてない私で、遊ばないでくださ〜い。」
「ふーん。慣れてないんだ。ますます楽しみたくなってきたな。」
「っていうか、いつまでここにいるんですか〜? 車に戻りましょうよぅ!」
「お前、色気ないな。」
眉根を寄せて、犀川氏が言う。
「む。知ってます。」
あれ? 元々なんの話をしてたんだっけ?
まあ、いいや。
犀川氏が車に向かって歩き出したので、私も着いていくとしよう。
「ね、犀川氏。」
「なんだ?」
「ホントに女性恐怖症?」「なんで?」
「赤面以外は、女に慣れてる。…気がする。」
私自身が男性に慣れているわけじゃないので、自信がない。女慣れしてる男性が、どういう態度をとるのかはわからない。でも、女性恐怖症の男性は、女性で遊んだりしないと思うんだよね。
「赤面を乗り越えた女とは、いろいろしてきたよ。」
「!」
なるほど。
「出来るんだ〜。」
「試す?」
「試しません。なんか、今日一日で、犀川氏の印象が、全然変わっちゃいました。」
そこで、ピタッと足を止め、こちらに振り返る。
「どんなふうに?」
「親切で優しい紳士から、優しいエロ親父?」
途端、腕で首を絞められた。死ぬ〜っ!
「違う、違う! 誉めてるの!」
「誉め言葉には聞こえないぞ。」
「く、苦しい。遠い存在だったのが、近しいヒトになったって意味ですってば。ゲホッ。」
「エロ親父はショックだ…」
ションボリしてるのを見ると、罪悪感が湧いてくる。
「う。ごめんなさい。ポロッとこぼれた言葉に本音が…」
ギロリと睨まれた。
手を捕まれて、また歩き始める。
「お前も。出会ったときと、印象がまるで違う。俺の想像の上をいくバカで、子どもっぽくて、素直で。すごくかわいい女だったんだな。」
「かわいい!?」
今、かわいいって言った!
確かに言った!
いや、冷静にね、冷静に。
「か、かわいいんですか?」
「ああ。」
やっぱり言った〜!
浮かれてピョンピョン跳ねてた私に、ナイフを突き立てる犀川氏。
「バカな子ほどかわいいって、ホントだな。」
高〜く高〜く持ち上げといて突き落としたよ。エロ親父め。そのセリフは親が子どもに言うときに使うんだよ。
でも、こんなバカみたいな会話が、何故か心地よかったんだ〜。なんでだろうね。
『バカ』だの『エロ』だの言い合っていたら、あっという間に車にたどり着いた。だらだらしてないで、サッサと歩けば良かったのに。ダラダラの原因が自分にあったことは棚に上げておこう。
「助手席のドア、手動だから。」
ニヤリと笑って、嫌味を言い放つ犀川氏。
「む。じゃあ、後ろに乗ろうっと。」
「前に乗れよ。」
手をひっぱられて助手席のドアに押さえつけられる。怖いくらいに真剣な顔。
駐車場には私達の他に人影はなく、まだ明るいのに静けさに包まれていた。
「犀川氏? どうしたんですか? 怖いですよ〜。冗談…」
唇をふさがれて、最後までは言えなかった。
『冗談ですよ?』言おうと思った言葉が、頭の中に木霊した。
このキスも冗談?
唇の熱さも、かかる息の近さも、うるさい程に打ち付ける鼓動も?
柔らかなその感触に捕らえられながら、その意味を必死に探していた。
評価までいただき、ありがとうございました。
ひとり乾杯しました。
前回に引き続き、諸事情で短くなってしまいました。
今回も、読んでくださってありがとうございました。