律の独り言
後ろ髪を引かれたが、美穂のアパートを出て、大通りへと向かった。
取り敢えず駅に向かえば、空車の一台も通るだろう。
足速に人通りのない道を通り抜けると、大きな交差点に出た。
信号が青になるのを待って、後ろを振り返り振り返り、空車を探しながら大通りを進んでいった。
美穂と思いを通い合わせたのは昨晩の事。
なのに早くも問題勃発か。
誠二も余計な事を美穂の耳に入れるなよ。
昨晩、偶然大町に会って、奴の嫁に美穂を紹介した。別にわざわざ紹介する義理もなかったが、瞬時に俺は計算した。
大町由香は、会社を辞めた今でも社内に広く情報網を持っている。
由香に美穂の存在をアピールする事で、社内に『犀川律には女がいる』と噂が広がればいいと企んだのだ。うるさい子雀どもを一掃できるチャンスだと。
目論見は成功し、女たちの鬱陶しい視線が、今朝は随分と減ったのを感じた。
恐るべし大町由香。
由香が余計な事を言ってくれたおかげで、思いもかけず、美穂を手に入れる事までできたしな。予想以上の収穫だった。
まさか誠二が俺と美穂の付き合いに、横やりを入れてくるとは思わなかったが。
何度目か後ろを振り返った時、ちょうど空車のタクシーが通りかかった。右手を上げ、タクシーを停めると、ずかずか乗り込んだ。
「お兄さん、どちらまで?」
愛想のいい年配の運転手に尋ねられ、家に程近い駅の名を告げた。
話し掛けられても面倒なので、
「近くまで行ったら起こしてください。」
と言って、目を瞑った。
これで20分、考えに没頭できる。
目を瞑ると、別れ際の、美穂の切ない顔が浮かぶ。
俺だって帰りたくなかったさ。
ただ、俺は時間が欲しかった。
状況を理解し、気持ちを整理する時間が。
だが、美穂と一緒にいては、あいつに夢中になりすぎて、考える事ができなくなってしまう。
ここ数日の彼女への執着ぶりは、自分でも呆れるほどだ。
誠二が中途半端に覗き見したメールは、美穂に話した通りヤツの勘違いだ。そんな事のために半年も悩み続けていた誠二が、気の毒に思える。
俺は亜美と寝たことなど一度もない。
これは誓って言える。
だが…
亜美の、猫のような瞳。
屈託なく笑う顔。
そんな彼女に惹かれていた時期が、なかったと言えば嘘になる。
例の秘密を共有しはじめた頃…もう随分前になるが。その頃、健気に運命に立ち向かう亜美に、心を奪われた時期があった。
想いはすぐに封印し、欠片さえも気どられる事はなかったはずだ。
もう、カビの生えたような、昔話のつもりだった。
なのに。亜美が、俺を好きだった?
一体いつの事なんだ?
大体あいつ、メールでは、誠二と別れたくないから、『秘密』の件では嘘をつくこともやぶさかでないと言っていただろ。
でも、美穂の言葉を信じれば、最近まで好きだったようなニュアンスだったな。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていき、後に残ったのは、いい知れぬ疲労感と誠二に対する後ろめたさだった。
何もなかったとはいえ、嫁が他の男を想っていたんじゃ、やさぐれたくもなるよな。
最近やたらと『亜美が、亜美が』って名前を連呼してたのも、当て付けだったのか。
それも、まあいい。
俺に礫を投げるなら、いくら投げても構わない。
誠二の気が済むならいくらだって受けてやる。
しかし、美穂に余計な事を吹き込んで、惑わすのは止めてくれ。
今夜どれ程の勇気で俺に挑んできたことだろう。
今日という一日が、どれ程長く感じただろう。
想像するだけで、愛しさが込み上げてくる。切なさに抱きしめたくなる。
「お兄さん、そろそろ着くけどどうします?」
運転手が、感情の渦に呑まれていた俺を現実に引き戻した。
「この辺で降ります。」
後は歩いて、頭を冷やそう。家に着く頃には冷静さも取り戻せるだろう。
そして帰ったら、美穂にメールをしよう。
『帰ったよ。』って。
あいつの事だ、今ごろグースカ寝てるんだろうな。
タクシーを降りて、歩きだす。
春とはいえ、今夜はとても肌寒い。
寒さに震えながらも、心は何故か温かかった。美穂の寝顔を思い出したせいか、それとも美穂への愛情に心が満たされているせいか…
フッと笑みがこぼれ、心の中で『お休み』と言った。
いかに嵐が吹き荒れようと、俺が守る。涙の雨にお前が濡れないように。