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作者: C.D

青春臭く青臭い。しかし心の何処かで憧れがある。正直こんな感じの小説は初めて手がけました。なのに意外とスラスラ書けたことに驚きでした。

作者C.Dが送る第二作目です。

 リビングに備えたテーブルの指定席に座って普段通りの朝食、トーストとブラックコーヒーを口に運ぶ。どうやらこの朝食は弟曰く、『ませた食事』らしく、弟自体はその食事法に納得がいっていないらしい。だからなのか、弟の朝食はイチゴジャムを塗りたくったトーストにミルクココア。こちらからすれば、その品書きを聞いただけで口の中がねっとりと甘味に侵されそうである。

 ふと眼を向けたテレビの中では、地方地図をバックに女性気象予報士が今日一日の天気を明るい笑顔で報せていた。

『今日の……地方は…曇りのち雨に…見込みです……』

 途切れ途切れに知らされる天気は、全てが聞き取れなくても良くないことが判る。ふと窓外を窺えば、予報以前に厚い雲が天上を覆っていた。そういう意味では気象予報を観なくても判る。

 しかし、雨なんだから笑顔で報せるような事でも無いのでは、などと思ってしまう辺り、俺は気象予報士に対する思いやりが無いらしい。彼女も好きで笑顔なワケじゃない。笑顔を作れといわれているに違いない。まぁ偏見だけど……。それに、予報はこの地方だけじゃない。他所の天気は曇りや晴れ。ならば笑顔も致し方ない。

「母さん! このテレビもう買い替え時だって! さすがに声が途切れてたらニュースもままならねぇよ! 大体なんで未だにブラウン管なんか使ってんだよ……」

 最後の愚痴は聞かれないように、背後の台所で弟と妹の朝食を作る母親に言い立てた。

 先にも言ったとおり、弟は放って置くと甘ったるい食事をする。それを良しとしない母が、最近は毎日のように朝食を作っている。

「そう? じゃあ今晩にでもお父さんと相談しなさい」

「俺が?」

「あんたが」

「マジで……?」

「マジで」

「めんどくせぇーな……まぁ別にいいけど……」

 母親は作業の手を休めることなく、背中越しに対応する。それだけ下の二人が大事なのだろう。……それにしてもこの対応の差はどうだろうか。俺は自分でトーストを焼き、コーヒーを淹れた。栄養バランスなど考えてもいない品書きである。しかし、いま母親がせっせとこしらえているサラダとハムエッグ、そしてコーンスープは我が配下である弟と妹の分だ。もう少し俺にも愛情を分けても罰は当たらんだろうに……。

 父親は大手ガス会社の下請け業を営む社長で、母親は専業主婦。繊細な性格で朝早くに自宅を出る父親と相反し、母親はマイペース且つ毎日うるさいぐらいに明るい。おそらく、そのお互いの穴を埋めるような、お互いの歯車が噛み合ったような、そんな絶妙な性格間だからこそ、この夫婦は成り立っているのだろう。

 食事も終わって食器類を洗い場に運び、日課である可愛い弟と妹を起こす為に、二階へと向かう。一軒家である自宅は、一階の和室に両親が眠り、二階にある二部屋の内の一方が俺の部屋で、もう片方が弟と妹の共同部屋である。

 まだ小学二年生というの双子は、おそらくまだベッドの上で夢の中を浮遊しているのだろう。文字通り夢心地だ。毎日ある朝練が日課の高校二年野球部の身分である自分にとって、そのスロースターターな朝は許し難くもある。しかしそこは九つ年の離れているコトを考慮し、歯を食い縛って黙認してやろう。

 扉を開いて中を覗きこむと、カーテンの締め切った部屋がほの暗く出迎える。フローリングの部屋の両端に備えられたベッドには、予想通りそれぞれに寝息を掻く二人。

「オイ、クソガキ共! 朝だぞッ!」

 大きく声を上げてカーテンを開き、掛け布団を剥ぎ取る。しかし幼い子供はなかなか強情。布団が無ければ体を丸める。だからいつも俺は次の手を打つ。

 二人の体に腕を回し、そのまま両脇に抱えて持ち上げる。

「さぶいぃぃ……さぶいぞかずみちー……」

 体を小刻みに震わせ、冬の朝の冷感に抗う弟。

「兄貴の事を呼び捨てにすんな、クソガキ」

「ならかずみちも『クソガキ』って言うなよ」

「俺はいいんだよ」

「なんで?」

「兄貴だから」

「あにきだから?」

「おう。だからお前が俺よりも兄貴になれたら、その時は俺がお前を兄貴って呼んでやるよ」

「ホントーか?」

「ああ、約束する」

「よし、忘れるなよ」

「おうよ」

 それで納得したらしく、弟は満足そうにして落ち着きを取り戻す。そこは生意気でも子供らしくて好し。

 二人を抱えて一階に戻り、リビングに連れて行くと母親が朝食を完成させて、テーブルの上に食事を並べていた。

 自分の代わりに幼い息子と娘を起こしてくれた長男に「ご苦労様」と謝辞して、母親はこちらに振り向く。そしてすぐに「あらら、寝ちゃってるじゃない」と呆れたように嘆息する。その意味が判らずに両脇に抱えた二人の顔を覗き込むと、どうも気持ち良さそうに夢の中へと再び逃避行していた。

 なるほど、抗議してきた後に落ち着いたなと思っていたのは、どうやら寝てしまったからか。……まぁ何だかんだと一度は起きた弟は良しとして、妹はおそらくずっと寝ていたのだろう。

 呆れて溜息を吐いて仕方が無い、と起こそうとする俺を見て、母親は「あんた、大丈夫なの? 早く行きなさいよ」と忠告する。

 その言葉にハッとして時計を見ると、普段自宅を出ている時刻を少しばかり過ぎていた。ここから学校まで自転車で約二十分。気付けばのんびりとし過ぎていたらしい。脇の二人を床に置いて母親に任せ、用意してあったエナメルのスポーツバッグを取って急いで自宅を出る。その際、母親の「傘を忘れないようにね」という配意の声がし、玄関脇に立て掛けてある群青色の傘を咄嗟に手に取った。

 きっと、あれらの配慮が母親の優しさなのだろう。



 玄関扉を開けて、笹原一道ささはらかずみちは改めて空を仰ぎ見た。どんよりと重たい天気は、気象予報士の宣言通りに『曇りのち雨』になるであろう。

 背は低くも無く高くも無い。野球部らしい黒の短髪、鼻筋は通っており、目は優しそうな垂れ目、輪郭はそんなパーツを凛々しく纏めている。

 一道は扉脇に置いてある自転車に跨って漕ぎ出す。基本は勉強道具を持って帰らない一道のバッグの中身は野球用品のみであった。故に教科書分の重みは無く、自転車の前カゴに押し込んだ。

 自転車を漕ぎ出してすぐ、ぱらぱらと小雨が降り出した。傘を差す必要のないほどの柔らかい雨。風に揺られるその様は、どこか雪のように軽く見える。……いや、今が冬だと言う季節感も、そう思わせる要因の一つか。

 一道は首に巻いたマフラーに顎まで埋め、より一層力を込めてペダルを踏み込んだ。

 住宅街を抜けると雑踏の賑わう駅前に着く。そんな人々の喧騒が絡み合う一帯を抜けて十分少々、ビニールハウスの広がるそんな場所の中心に一道の通う高校がある。

 コンクリートが剥き出しの古ぼけて地味な外観。しかし田畑の広がる光景には、そんな地味さ加減がちょうど良い。変に見栄えもせず、広々とした光景によく馴染んでいた。

 しばらく走らせていると、ようやく校門が見えた。その校門前では教員が門を閉める時間を見計らっており、現状が危うい事を報せている。

 一道は体を揺らして自転車を漕ぐ。駅前からずっと息は切れ切れ、心臓が痛いほど。ガス交換は間に合っておらず、ジンジンと焼けるような痛みが肺を締め付ける。脚の疲れなど言うまでもなくピーク間近。寒さの事もあり、住宅街を抜けるまでを普段通りの速度で走っていた“ツケ”が回ってきたらしい。しかし、そんなものを気にしていては到底間に合わない。

 一道はさらに力を込めて走った。

 瀬戸際の努力は実を結び、何とか間に合ったようで、一道はホット胸を撫で下ろして校門を抜け、校門脇の駐輪場に自転車を停め、スタンドを落としてバッグを肩に掛ける。そして手に取った群青の傘が父親の物であることに気付き、間違っちまったな、と苦笑。

 父はその昔にラグビーをしていたらしく、なかなか大きな体を持っている。その所為なのか、傘も少しばかり大きい物を使用している。

 校舎に向かって歩いていると、ふと視線を感じてすぐ側に聳える校舎を見上げた。すると二階の端に自分のクラスの教室が見える。そこの窓際で友人と仲良く話す女子生徒の姿が見え、一道は咄嗟に進行方向に向き直った。

 そして周囲にいる遅刻間際に駆け込んだ生徒達が教室へ向かう中、一道は独り何かを誤魔化すように頭を掻いた。



 教室へ入って見渡すと、自分の席は友人と仲良く駄弁る男子生徒に占領されていた。

 一道が近寄ると、その男子生徒は笑顔の余韻を残した表情で向き直り、気楽な挨拶を交わす。

「いいからそこを退けって」

「アハハハハ、わるい」

 中身の無い謝罪をして男子生徒は席を立ち、すぐに一道に声を掛けた。

「そういやー一道さ、あれ買ったか?」

「あれ?」

 あれって何だ?

 バッグを席の側に置いて椅子に腰を下ろす。そして気楽な語調で話し掛けてきた友人を見上げた。

 この学校は身嗜みに寛容である。髪の色や着崩した格好など許容の範囲内。とは言え、この友人の髪と服装は教員から難色を示されている。

 友人・瀬川雄介せがわゆうすけはキラキラに染められた金髪にパーマをかけ、カチューシャで後ろに撫で下ろした髪型、服装は赤のパーカーに制服のブレザーを羽織り、首元から垂らされたアクセサリー類は論ずるまでも無く教育施設には不必要。一道はそんな格好をする友人が教師から冷めた視線を向けられるのも致し方ないな、と思っている。しかし憎たらしいコトに、その友人の甘いマスクはそんな身嗜みがよく似合う。だから性質が悪いのだ。

「あれって何だよ」

「あれって言やー“あれ”だよ」

「はぁ? まどろっこしいんだよ。言えよ、何だよあれって」

 苛立ちを露にしても雄介はへらへらと微笑を浮かべる。

 そんな対応が実に腹立たしい。

「チッ――もういいや。お前向こう行けよ」

 舌打ちをしてそっぽを向くと、雄介は冗談交じりに笑って対応する。

「アハハハハ、ウソウソ、教えるって――」

「CDだよ。確か一道、お前集めてたろ? あのロックバンドの……」

 雄介が“あれ”について教えようとした時、一道が来るまで雄介と話していた男子生徒が、雄介の言葉を遮って代わりに答えた。

 自分が言いたかったコトを代わりに言われ、雄介が何やら不服そうに頬を引き攣らせているが、まぁ放っておいて問題は無い。

「CD?」

 一道は答えてくれた男子生徒の方へと体を向けた。

 見た目からそうだが、性格も大人な風格があり、実に落ち着いている男子生徒・鹿川大知かがわだいちである。

 耳がでる程の黒のショートカットの髪、気丈で強気な双眸、ほんのりと焼けた肌、厚い胸板に広い肩幅というガッチリとした体格、高校一年生時にはすでに一八○センチの長身であった。高校入学当初、その恵まれた体格から、運動部からは例外なく勧誘を受けた。

しかし、勉学に勤しみたいという本人の固い意志により、すべての運動部は渋々ながら諦めた過去がある。

「そう、CD」

「まさか……」

「そのまさか」

「ゲッ! マジか?」

「マジ……。なんだ? 金でも尽きたか?」

「いやーそうじゃねぇけど……一ファンとして新曲の発売日を忘れているとは……何たる不覚……」

 溜息を洩らして項垂れると、タイミング良くチャイムが鳴った。すると見計らっていたのか、担任教師がドアをスライドさせて入ってくる。教師の姿に気付くやすぐ、生徒達はそれぞれの席へと戻っていった。

 その中に、とある女子生徒の姿があった。校舎外から見た、窓際にいた女子生徒。

 背中まで下ろした漆黒の髪は櫛で梳かしたようにさらりと靡く。目は芯のある気丈さを含む切れ長で、瞳は黒色に輝く。細くて長い眉がそんな目を強調させる。唇は潤いと柔からさ、そして知的を内包する。肌はきめ細かくて、まるで箱入り娘みたく重宝された末にある白さ。背筋が真っ直ぐに伸び、細い手足が女子らしさを体現する。全体的な印象として、知的で冷ややか、そんな感覚を抱いてしまうのだが、彼女の友好的な性格は誰からも嫌われない。生徒会長などをやっていそうな、そんな女子生徒。

 噂によれば頭も良いらしく、たびたび友人に勉強を教えている様子を目撃する。

“噂”というのは、残念なコトに、俺こと笹原一道があまり接触を果たしていないからだ。故に彼女自身から個人情報を聞き出せた経験は無く、常に誰かを介して耳に入ってくる。

 そんな女子生徒が席に戻る途中にこちらを見た。明らかに視線が交差する。

 ギョッとして全身に戦慄が走る。ビクリと肩が上がり、冷や汗が噴出す。

 俺が今なにかしただろうか。いやいや、俺は何もしていない。おかしな事は何も……だから堂々としていればいいんだ。うんうん。

 そう言い聞かせて毅然としてみるが、その時にはその女子生徒はこちらを見ていなかった。

 はぁ~、と深刻な溜息を吐いて頭を落とす。すると後ろから雄介が刺々しい声質で「お前なにビクビクしてんだよ」と俺にだけ聞こえる音量で声を掛け、軽く肩を殴ってきた。

「いま確かに辻岡沙世つじおかさよがお前のほう見てただろ? 軽く手でも上げて挨拶ぐらいしろよ!」

 小さく発してはいるが、声は怒っている。無理もない。入学してから此の方、話し掛けられた経験など無かった。目が合っただけで驚嘆するほどに嬉しくなり、同時に全身に鳥肌が立つ。近くに彼女が居れば話し声に耳を傾け、声を聞きながら話題作りを模索する。しかし作り上げた話題を、今までに実行に移せた事実は無い。……自分でも言うのもなんだが……チキン野郎である。

 一道は言い返す言葉も無く、ただ溜息をついた。



 辻岡沙世との出会いは少し不思議であっさりしたものだった。

 それは高校の合格発表当日のことだった。俺は地元の友人と共に合格発表を学校まで見に行き、掲示板に合格発表が張り出されるのを待っていた。

 しばらくしてようやく張り出された。友人は自身の番号を見つけた途端に飛び跳ねて喜ぶ。俺も自分の番号を見つけて友人と喜ぼうとした時、「あったー!」そんな今までずっと溜め込んでいた感情を爆発させたような、そんな驚嘆の嬉々とした声がした。ハッとしてそちらを見た次の瞬間、端正な顔立ちをした少女が掲示板を見ながら、俺の肩を掴んで飛び跳ねた。

 その時、俺は言葉も無く唖然として瞠目していた。驚いたからじゃない。もっと別。

 憮然としているのが当然のような冷めた顔立ち。なのにそんな少女の表情が、実に柔らかく綻んでいた。その衝撃は全身に駆け巡り、ベタな表現ではあるが、電流が走ったような感があった。

 少女はゆっくりとこちらに振り向いてハッとした。どうやら反対側に立っていた友人と間違ったらしく、驚いて謝罪をし、すぐに顔を背けた。凄くあっさりした対応だった。

 ……しかしその後姿からはみ出た耳が真っ赤に染まっていた。

 その時に抱いた感情が何だったのかが判ったのは、帰り道にその出来事を友人に話し、ついでに自分に生じた異常な感覚を話した時であった。

 自分で口にして気付いた――それが一目惚れであったと……。



 一日の授業が修了し、さて部活に勤しもうと考えていた時だ。部活仲間が教室に入ってきて、「今日は部活は中止だとよ」と報せてきた。「なんで?」と問うと「雨が降ってるからだろ?」と、さも当然と言うように返してきた。確かに不安定であった雲は、今や雨雲として本領を発揮していたのだ。すでに窓越しですら雨音が聞こえてくるほど、雨脚は強かった。

 グランドも水溜りだらけでぐちゃぐちゃ。とても使えたものではない。

「だからって中止はねぇよな。校内で筋トレとか素振りとかさ、そんなモンなら出来んのにな」

「まぁ顧問がやる気ねぇからな。だから俺達は万年二回戦落ちなんだけど――」

「――だな」

 自嘲気味にそう言って互いに哄笑。

 まぁ、こうやって顧問に対する怒りを感じず、むしろ笑っていられるぐらい無関心だからこそ、我が野球部は二回戦の壁を越えられないのだろう。

 仕方が無く帰ろうと教室を出て、廊下を介して下駄箱へ。そして下駄箱脇にある傘立てから持ってきた群青の傘を手に取った時、その光景が目に入る。

 校舎の軒下に立ち往生している女子生徒――辻岡沙世。

 淡白いベールのカーテンのこちら側に、雨雲を儚そうに見詰める辻岡沙世。

 学校の鞄を両手に持つ辻岡沙世。

 はぁ~と白い息を吐く辻岡沙世。

 寒さにブルッと震える辻岡沙世。

 冷たくなった両手を擦り合わせる辻岡沙世。

 そんな一挙手一投足まで目に留まる。

 体が膠着する。

 前に進めない。

 足が前に進もうとするけど心が行かない。いや、逆かもしれない。

 どっちでもいいけど、とりあえず前に行けない。

 まるで見えない柔らかい壁……例えるならばゼラチン。バカデカいゼラチンの塊が目の前にあるかのように、足が、体が、心が、これ以上先に行けないと教えていた。

 むしろあって欲しいぐらいだ。そこに現実にあれば、俺はこれ以上先には行けないんだと、諦めていたのに……なんで無いんだよぉぉぉおおお!!!

 辻岡沙世の周りの空気は、まるで時間操作をしているみたいにのんびりと経過している。勝手ながら、俺を待っているのか、なんて思考はしてみるが、そんなワケが無い。

 一道は少しの間懊悩して、「あっ! そういえば宿題の提出忘れてたな。それどころかやってもねぇや。うん、ちょうど今日は部活も休みで時間もあるし、やって帰ろう」そんな心にも無いコトを言って、その場から教室に振り返った。

 一道は教室に戻る最中に後悔の念を心に叩きつける。

 ――バカ野郎! どんだけチキンっぷりを披露する気だ!――



 気付けば校舎内にはほとんど人が残っていなかった。せいぜい文科系の部活をしている生徒がいるぐらいで、外も雲の向こう側では薄らと翳り始める時間帯であった。

「この時間ならもう居ないだろうな……」

 安堵と後悔の混同した呟きを洩らし、一道は下駄箱に向かった。

 その道中、閑散とした廊下を歩く一道は怒鳴り声を聞く。

 怪訝に思ってそちらを見ると、そこには物静かそうな男子生徒。

 どうやら怒鳴っている相手は携帯電話の話し相手。

「だーかーらーネーミングの問題もそうですけど……いや、ネーミングは当然ダメですよ。当然変えた方が良いと思います……違ッ、このバカ! ……いや言ってませんよ。バカなんて言うわけ……ほんとバカじゃないの?」

 そんな会話……いや、会話ではないか……。

 あんな大人しそう奴でも怒るんだな、と思いつつ、一道は素っ気無くその場を去った。

 下駄箱に着くと思ったとおり彼女は居なくなっていた。

 一道は再び相反する感情の溜息を洩らす。

「やっぱり誘っとけば良かったかな……いや、俺は自転車だし……辻岡さんは歩き出し……誘うと迷惑だって。きっと気を遣うだろうし……」

 そんな自問自答をしてまた溜息。

「無意味だな。だってもう居ないし……」

 後の祭りだ。そんな葛藤はもう済ませとかなくちゃいけないだろ。

 一道は靴を履き替え、軒下に出て傘を広げた。思っていた通り傘は大きい。学生ならば二人は入る。いや、詰めれば三人は……そこまでは無理だな。せいぜい二人半。一人は体の半分を濡らしてもらわなくちゃな。 

 くくく、と独りで笑って歩みだそうとした時、「なに笑ってるの?」と、いつも掛けられることを羨望し続けた澄んだ声がした。

 条件反射みたくバッと振り返ると、そこには軒下の端で蹲っている辻岡沙世が居た。

「あ――いや、あの、あれ……ちょっとした思い出し笑い……」

 嘘の上に狼狽していてワケが解らない。

 しかし辻岡沙世は「ふ~ん、そっかぁ~」と微笑んだ。

 それだけで一道は体が縮こまる。

 言葉が思いつかない。

 頭が真っ白。

 そのくせに『ふ~ん、そっかぁ~』と、心の中と頭に録音した音声を繰り返し聞く。

 ……なんだかストーカー一歩手前みたいだな……

「今から帰るの?」

 辻岡沙世はこちらを見上げて尋ねる。

「あ、うん」

「そっかぁ~……傘、おっきいね」

「え、あ、これオヤジのやつ」

「へぇ~お父さん体おっきいの?」

「あ、うん。ラグビーしてたらしいから」

「ラグビーかぁ……でも笹原くんは野球なんだ」

 俺のこと知ってるんだ……、と一道は驚嘆。

『笹原くんは野球なんだ』

 頭の中で録音。

 やることが多いな。

「まぁね、オヤジほど体は大きくしたくないんだ」

「へぇ~そっかぁ~」

『へぇ~』『そっかぁ~』口癖なのかなぁ?

 思ってみても聞けるハートが無かったりする。

 そう言えば雄介が助言を残してくれていたな……確か――

『何事もぶつかってみないと判らないんだって。だから“ブロークンハート”の精神で行けよ』 

 今になって思う。

 それ、前提から壊れてるじゃん……。

 今度あいつに英語指導をしないといけないらしい。……いや、あいつの事だから判った上かもしれん。

 性質が悪いのかバカなのか、どちらにしても良くはないな。

「どうしたの?」

「え――?」

 我に返ってみると、目の前には辻岡沙世の顔。

 何をぼぅーとしているんだろ、と不思議に思ったらしく、辻岡沙世はこちらの表情を覗き込んで窺っていた。

 咄嗟に身を引いて距離を取る。心の中ではバカかお前、と自分に恫喝する。

 そんなあからさまに避けるような行動、相手に不快感を与えるだろうが!

 しかしそれを見ていた辻岡沙世は「おかしい」と笑う。

 やはり美人。笑った顔はさらに美人。これは偏見ではない。誰が見たってきっとそう思う。

 俺が辻岡沙世にそんな行動をされると、きっと俺は走り出す。一にも二にも無く、ただ走りながら泣くだろう。無様極まりない。

 しかし辻岡沙世は笑った。これは良いコトだよ、な?

 最低でも傷付けてはいないんだから……。

「ねぇ、どうしたの?」

「あ、いや、何も……」

 言葉が見付らず、堪らず黙する。

 二人の間に静寂が流れる。激しい雨音が他の雑音を掻き消し、雨粒が地面に弾けては心地よい音響を奏でる。視界が淡白いレースを掛けたように霞み、足元で跳ね返る雨滴が靴を濡らした。何か現実味を失くしそうな光景。

 ――きっとそれは、雨という事象に彩を失っているからであろう。

「……あぁ~と……傘、入る?」

 言い出したのは俺だった。同時に後悔の念が波頭のように押し寄せる。

 断られたらどうしよう。もしかしたら誰かを待ってたかもしれないのに……そしたら余計なお世話じゃないか?

 なんで言ってしまったのだろう――そんな言葉が脳内を駆け巡る。

 無意識な言動だったんだ!

 俺は言うつもりなんて無かったんだぁぁぁ!!!

 きっと雨の所為だ!

 アイツが俺に言わせたんだ!

 テメェの所為だ!

 断られたら――明日の昼休みに購買からコロッケパンかって来いよ!

 だいたい本来の彼女なら「ねぇ、入れてもらっても良い?」と訊ねて返事が返る前に「ありがとー!」と言い、いつの間に入ってきている、そんな少女。

 なのに何で今回は来ないんだよ!

 …………いや、それはあまりにも不細工な思考回路だ。今のは忘れよう。

 とりあえずは――今だ!

 この状況はどうしたらいい!?

 誰か! 誰か教えてくれ!

「えっ、いいの?」

「え、うん」

「そっか、ありがとー!」

「…………」

 うん?

 なんだか成立しちゃったんだが?

 茫然自失とする一道。

 そんな一道に辻岡沙世は言う。

「良かった~。友達はみんな自転車を置いて帰りたくないって言ってさ、押しながら帰ってったんだよね。だから傘に入れなくってさ、どうしよーって思ってたの。でも笹原くんの傘だったら大丈夫だね。二人プラス自転車ぐらい行けそうだね」

「え、あ、うん」

 俺が自転車通学だって知ってたのか……。

 いや、それ以前にそういうことだったのか。

 人脈があるはずの辻岡沙世が、何故途方に暮れていたのか……。

 しかし、そんな謎解きは後だ。まずは感謝を述べなければならない。

 オヤジありがとう、体を大きく作っていてくれて。

 ――俺はそこまで大きくなりたくないけど。

 オヤジ、ありがとう、大きな傘を買っていてくれて。

 ――こんな時以外は邪魔なだけだけど。

 オヤジ、ありがとう、傘を持って行かないでくれて。

 ――電車で通うオヤジは今頃は困ってるだろうけど。

 とりあえずは感謝したいと思うよ。

 あ、でもテレビの件は宜しく言わないと……。

 そうだ!

 母よ、あなた様にも感謝の言葉を――持って行けと言ってくれてありがとう。

 朝食は作ってくれないけど……。

 そうだ! 

 気象予報士のお姉さんもありがとう。

 文句言っちゃったけど……。

「じゃあ行こっか」

 そう言って辻岡沙世は歩みだす。

 俺はそれを追って側についた。



 駅までの距離――約十分と少し。

 普段なら何でこんなに遠いんだよ、と愚痴るところだが、今は怨めしいまでに短い距離だ。

 群青の大きな傘に雨粒が容赦なく注ぐ。雨音だけで雨粒の大きさが判るほど、激しい雨が降っていた。

 確かにこの中は帰られない。きっと駅に着く前にずぶ濡れだ。男子ならばいざ知らず、女性が濡れるわけにはいかないだろう。白のシャツが濡れて肌が見え…………止めておこう。それ以上は妄想だけに留めておけよ、俺!

 左手に傘を持ち、右手に自転車のハンドル。肩にはバッグ。左側に辻岡沙世。ちょっと体が揺れれば、すぐさまぶつかりそうな距離。

 二人の会話は一方的にであった。

「実はわたしね、朝の天気予報は観ないんだ。ほら、天気予報って外れたりしない?」

 そんなことを辻岡沙世は言った。

「そうだね……」

 内心は「いやいや、空を見ただけでも判ったって。実際俺も『ああこれは降るなぁ……』って思ってたくらいだしなと、そんなコトを思っていた。

 しかし言えなかったりしたのだ。

 まだまだ距離は遠いな……心の距離は。

 現実はこんなに近いのに……。

 笹原一道――――辻岡沙世。

 距離にして何メートル? さすがにキロではないよな?

 まぁとりあえずそんな感じだった。

 辻岡沙世が話しかけ、俺がそれに狼狽しながらも何とか返す。そんなやり取り。

 しかし俺が「辻岡さん」と言った時、「沙世でいいよ」と返された時は狼狽では済まなかった。混乱だ。混迷だ。頭の中で紛争が巻き起こったほどだ。

 ――言え! 言ってしまえ!

 そう叫喚するバカと、

 ――やめろ! 今のお前には早過ぎる! もしも冗談だったらどうするつもりだ!

 そう絶叫するアホ。

 アホの方が口数が多いコトを考えても、きっとそちらを望んでいる。

「あ、うん判った、沙世」

 しかし俺はバカになった。

 バカになったと言うよりは、あまりにも唐突過ぎて、あまりにも不意打ち過ぎて、俺には選択肢など無かったのだ。――今更ながら後悔した。

 そんな心配で苦闘する一道に「そうそう。やっぱり名前で呼ばないと距離感じない?」と気さくに沙世。それどころか――

「うん、じゃあわたしも一道って呼ぶね」

 駄目だな。俺は今日どうなってしまうのだろう――とりあえず死なないことを切に願う。

 まぁ何にしても、俺の心配など杞憂だと言うことか……。

 しかしこれで少しは距離が縮んだだろう。自信を持てよ俺。

「あのさ……!」

 気付くと声を掛けていた。

 沙世は「なに?」と興味有り気な表情でこちらを見ていた。

「あ、いやぁ~……」

 しかし、実のところノープランだったりした。

 自信を持たせようと声を掛けただけで、実は計画性ゼロ。話題もゼロ。沙世が「沙世でいいよ」と「そうそう。やっぱり名前で呼ばないと距離感じない?」と言ってくれた為だ。その為に俺は変な自信を付けた気分になっていただけ。なのに俺はバカか……!

 ……しかし、ここで話を切り出さないと、それこそバカじゃないか?

 と言うよりも、それ以前に今の俺スゲェーカッコ悪い。

 頭の中は思考回路が縦横無尽に絡まる。何を話すべきか、話題は何処か、そんな思考が脳内を駆け回る。

「なに?」

 沙世が問う。

 瞬間――一道の思考の端に、あの男子生徒が現れた。

「あのさ、さっき帰ろうと思ったときに廊下で見たんだけどさ」

「なにを?」

「男子。なんか大人しそうな奴なんだけど、電話の相手にすげぇキレてんの」

「へぇ~、キレ易い十代ってやつかな?」

「かもな」

 話は短かった。

 しかし一道からすれば途方も無い旅の末に行き着いた、決死の覚悟の上に立つ話題だった。

 だけど、それが短かった事実は変わらない。そこから話題を広げられなかった事実は変わらない。

 一道は不甲斐なさにガクリと肩を落とす。

 その一道が見ていない横で、沙世は先ほどの話題を反芻するように頷いていた。

 二人の歩調は不規則なリズムでゆっくり。

 でも女性のものではない。

 でも男性のものではない。

 それはぎくしゃくと互いに譲り合って出来る半端な歩調だった。



 とうとう駅前に着き、別れの時が来た。

 沙世は電車通学で、ここから三駅先の隣町に向けて電車に乗る。ここよりも少しばかり発展している町だ。一道もそちらには頻繁に行く。自転車で行ける距離で、スポーツ用品を買いに行ったり、遊びに行ったり、様々な用事で足を運ぶ。

 沙世は傘から外れ、駅の軒下に飛び移るように入った。そしてくるりと振り返り、にこやかに微笑んだ。

「ありがとうね、入れてくれて。ホントーに困ってたから助かっちゃった」

 腰の後ろに腕を回して艶かしく上目遣い。狙っているのだろうか。もしもそうならば、効果は絶大だ。いま、俺は心臓が止まりそうで怖い。

「あ……その……」

 一道は何かを言いたそうに頭を掻いて間を取る。

 どう致しまして……その言葉が出てこない。

 頭の中が混乱の極みに達しているからか?

 お礼を言われたんだぞ。応えるのが筋だろ! さぁ言え! 俺よ、そこは恥じる必要もねぇだろ! ただどう致しましてと言えばいいだけだ!

 ……でも――

「俺も今日はさ、隣町に行こうと思っててさ」

「え、そうなの?」

 ――でも、言ってしまったらここでお別れじゃないか?

 しかし隣町まで付いて行く気か? それはさすがに図々しくないか?

「へぇ~そうなんだ? ……でもなんで?」

 そう、まさにそれ。それが問題。なんで普段は考え過ぎるくせに、いまは考え無しに言葉を出すんだよ、俺? ちょっとは考える間を持とうぜ!

「あれだよあれ……あの~……」

 一道は人差し指を立て、上を見る。

 どんよりとした空から雨が降り注ぐ。

 ザァー、と激しい雨音が変わらず聞こえる。

 その為か、普段は買い物に奔走する主婦が見当たらない。こんな時ぐらいはサボりたいのだろうか。

「あの……CD! そうCD!」

 思い出したように言っているが、実際はいま思いついた。

「CD?」

「そうなんだよ! 俺が集めてるロックバンドの新曲がさ、最近出たらしいんだよ!」

「ああそうなんだ! え~と、確かあのバンドでしょ? あのいつもサングラス掛けてる三人組の――!」

「そうそれ!」

 一道は指を鳴らし、正解と言うように指を差す。

 ああ、ありがとう雄介。今は純粋にそう思ってるよ。素っ気無い対応して悪かったな。……いや、待てよ。礼を言うなら大知か。じゃあやっぱり無し。雄介への謝辞はノーカンで。代わりに……大知ありがとう!

「そうそれ。そのバンドのやつだけは全部集めてんだよ、俺」

「あはは。そうなんだ~」

「そうそう」

 沙世は口を掌で上品に隠して笑う。イチイチ仕草が女らしい。

 まぁ、そこが良いんだろうな、俺は。

「じゃあ一緒に行く? どうせ同じ駅でしょ? さすがに自転車じゃ行けないもんね」

「え、あ、うん」

 うん?

 ふと一道は疑問に思う。

 なんで同じ駅だって……いや、それ以前になんで俺の集めているバンドを知ってるんだ?

 小首を傾げる一道に「何してるの? 早くー」と、いつの間にか歩き出していた沙世が振り返って手招きをする。

 その仕草は女の子らしくて、実に良い。

 一道の今日一日の教訓として『考え過ぎて備え過ぎるな。武装が厚くて動けないぞ』を心に留める。

 とりあえずは前に進んでみるもんだ。そうしたら、相手の反応は予想を裏切ってくれるかもしれない。

 一道は自転車を置いて駆け出した、彼女の下へと。

 とりあえず――今日はここまでで十分に合格点だろ。

 そんなヘタレたコトを思いながら……。



 買い物を終えると、笹原くんは帰って行った。

 駅まで見送りをすると、彼は手を振って応えた。そこには普段教室で見ている笑顔があった。今日も彼が登校して来る所を窓際席にわざわざ移って眺めていた辺り、わたしはストーカー染みている。

「友達づてに調べといて良かった……好きなバンド。さてと――帰りますか」

 左手には笹原くんから預かった群青の傘。

『いいから使ってよ。やっぱり男として一度はやってみたいコトだしさ』

 悪いと思って断ったけど、そう言って貸してくれた。

「…………」

 本当は嬉しかったりした。

 雨に濡れないからじゃない。優しかったから……。

「なににやついてんの?」

 その声に咄嗟に振り返った。

 そこにはずぶ濡れになっている可愛らしい顔立ちをした少年。

謙太郎けんたろう!」

 わたしは不意打ちに驚いてしまった。

 ……いや、油断していたのだ。

 謙太郎と言われた少年は興味なさ気に頷く。

「そうだけど、謙太郎ですけど? それがそんなに驚くことか?」

「いや、そうじゃないけどね……」

「はぁ?」

 落ち着くように深呼吸して、沙世はふと少年の全身を見渡した。

「あんた、ずぶ濡れじゃない。傘は?」

「忘れた」

「あんたも?」

 さすが――同じように天気予報を観ていなかったなコイツ。そういう周到性が足りない所は、わたし達はバカなのかも……。

 しかし謙太郎は不審そうに沙世を見る。

「はぁ? あんたもって、そっちは持ってんじゃん、傘」

「えッ! あッ!」

 内心、「しまった!」と叫喚。

 謙太郎は手元の傘を凝視してうん? と気付き、怪訝に眉を顰めた。

「それ、家のじゃねぇよな?」

「まぁね。借りたの」

 とりあえず平静を装う。

「友達?」

「あ――うん」

「なに、いまの間?」

「あ~とね~……あはははは……」

 笑って誤魔化すと、初めは訝っていた謙太郎だったが、すぐに「……ふ~ん、まぁいいや」と興味無さそうに視線を外した。

 この時ばかりはそんな性格を称えてみる――心の中だけで。

「とりあえず、俺、こっちだから……」

「あっ、待ちなさい!」

 背を向けて去ろうとする謙太郎を呼び止め、沙世は駆け寄る。

「なに?」

 面倒臭そうに顔を顰め、謙太郎は沙世へと向く。

「あんた、今日ぐらいは帰ってきなさいよ。雨も降ってるし、傘に入れてあげるから」

「いらねぇよ。もうここまで濡れてんだから、今更傘の中に入っても意味ねぇじゃん」

「いいから! “お姉ちゃん”の言うことを聞きなさい!」

「――――――!」

 普段は強気に出ない沙世だったが、この時は不思議と強気に出ていた。

 だからだろう。謙太郎は奇襲染みた恫喝に屈し、「わかったよ」と相変わらずに面倒臭そうではあったが、自宅に帰るコトを了承した。

 謙太郎は自宅を飛び出し、現在独り暮らしをしている。理由は単純で馬鹿げていて、そして子供みたいな理由。

 謙太郎は甘いものを苦手としていた。しかしそれは反動である。その原因を作ったのは――父親。

 ある朝食時の事だった。

 謙太郎は言う――「トーストにジャムを塗りたくんなよ!」

 父親は言う――「人様の食事法に文句垂れんなよ!」

謙太郎は言う――「限度があんだよ! もっと量を減らせ! 量を! 幾らなんでも厚さ一センチはバカだろ! 糖尿になる気か!?」

 親父は言う――「バカとは何だ! バカとは!」

 謙太郎は言う――「ちょっ、ちょっと待て――それにココアを飲む気か?」

 父親は言う――「ぐだぐだうるせぇガキだなぁ……そんなに文句があるなら出て行きゃあいいだろうがよ。テメェで金も稼げねぇ分際でよ!」

 謙太郎は言う――「バカか。子供相手に経済力で争おうなんて思考回路に至る時点で、あんたの底が見えるよな。だってあれだろ、勝てる勝負しかしない派だろ、あんた」

 父親は言う――「はぁ~……やる前から降参宣言か……。我が息子ながら情けない限りだな」

 謙太郎は言う――「……なんだと?」

 父親は言う――「情けない」

 それが決め手だった。

 翌日、謙太郎は「クソオヤジ! テメェに吠え面かかせてやる! 見とけよ!」そう言って出て行った。

 母もわたしも呆れ果てたものだった。

 そんなくだらない言い合いをするあんた達が、真実のバカだ、と。

「しかし、この傘でかくないか? ホントに友達のか? 色も大きさも男用、それも体の大きい人用のだろ?」

「え――そう?」

 疑念の眼差しで傘を見上げる謙太郎。

 雨の中を進む二人。冬の雨は冷たく、慈悲が無い。

 誤魔化しの返しを聞いても謙太郎は懐疑的。

「いや、どう見てもそうだろ……まぁ二人が余裕を持って入れるからいいけど……」

 沙世はこのままではまた聞かれると思い、咄嗟に話題を切り出した。

「そう言えば聞いたわよ」

「なにが?」

「廊下で怒鳴ってたんだって? 電話相手に」

「……誰から聞いた?」

 謙太郎は憮然としてこちらを見る。その態度――やはりコイツか。

 怒ったように憮然としているが、男子にしては可愛らしい容貌が際立つ表情。まるで小動物だ。

「友達。……っで、相手は誰?」

 問うと、謙太郎はしばらく躊躇を見せた後、観念して言った。

「社長」

「社長? ――ああ! バイト先の?」

「そう――あのバカ社長」

「ああ、あれか……」

 謙太郎はアルバイトをしている。詳細は知らないが、どうやら社長には相当手を焼いているらしい。そして――

「あんたが偽名使ってるやつでしょ? なんだっけ……たしか……」

 う~ん、と唸って下唇の下に人差し指を添えた。

大道おおみち。母親の姓なんだから忘れんなよ」

「ああ! それそれ! それにしても母親の姓を名乗るとは、あんたマザコン?」

「何でだよ!」

「あはははは、冗談冗談」

 それにしても、偽名が許される職業って何だろう?

 すこし興味があるのだが、謙太郎に聞いても教えてくれない。

「知る必要はねぇよ。ってか、なんて言えばいいのか判らない」

 そんな理解不能なコトを言う。

 ――まっ、いっか、と沙世は嬉しそうに前を向き直した。

 右手に鞄、左手に傘。左側には辻岡謙太郎。体が揺れても、多少ならぶつからない距離。でも、そんな距離でも久しぶりに近くに弟がいる。

 距離はちょっとだけあるけど、心は前より近づいた。

 だから、貸してくれたコトにさらに感謝。

「ありがとう、笹原くん……」

 沙世は本当に小さくぼそりと呟いた。

 さすがにこれは恥ずかしくて、誰にも聞かれたくない。

 でも、口に出したくて仕方が無かった。

 でも――失態だ。

「笹原?」

 聞かれてたりした。

「……ああ、あのやる気の無い野球部の……」

「それは関係無いでしょ! 野球部は野球部! 笹原くんは笹原くん!」

 突然声を荒げたコトに謙太郎は面食らっていた。

「なに怒ってんだよ……」

「――――!」

 沙世は咄嗟に口を閉ざして俯いた。

 顔を赤らめ、耳が紅色にみるみる染まる。

 そんな姉を見下ろし、謙太郎は興味無さそうに言う。

「――って言うかよ、さっきまで一道って呼んでなかったか?」

「――――――ッな、なんで知ってんのよッ!!!」

 思わず顔が上がる。

 顔が赤いとかどうでもいい。

「そりゃー、後ろで見てたから――ずっと。学校から二人で並んでたもんな。って言っても、実際は学校から駅までの間だけどな。その後は俺も用事があったら見てない。だから『さっきまで』は間違いかな。安心したか?」

 ――するワケない。そこまで見られていたら十分過ぎるぐらいだ。

「あ――あんたねぇ……」

 あまりの恥ずかしさに声が震える。

「二人ともすげぇ初々しいよな。途中見てられなかったな。何て言うの? なんか、心臓の辺りから首にかけてムズムズする、そんな感じ」

 そう言って謙太郎は咽喉辺りを苛立たしそうに掻く仕草をした。

「あれでまだ付き合ってないんだろ? まっ、当の本人達がそれでいいなら俺がどうこう言うことでも無いけど……ピュアだよな~……」

 興味も無いくせにベラベラと……。

 沙世は恥ずかしさと苛立たしさと叫びだしたい気持ちを抑え、唸り声を出す。

「う――うぅぅぅぅ……変態!」

「はぁ?」

「シスコンストーカー!」

「はぁ~……なに言い出してんだか……」

 沙世は側に居る弟に、子供みたいに恥じらいの罵声を浴びせる。

 その隣で謙太郎は耳を塞ぎ、面倒臭そうに溜息をついた。

 雨は強く、風は弱い。

 足元で弾ける雨粒が靴を濡らし、湿った空気が肺を潤す。

 淡白いベールのカーテンは前方を霞ませ、現実色を希薄にさせる。

 その中で、二人の姉弟は自宅に向かう。

 予報を観ていたら、きっと現状は無かった。

 だって自分の物を持って行ってたから……。

 二人は一歩一歩に肩を揺らす。

 同時に傘が揺れる。

 二人は同じ歩調で歩いた。

 他人(好意)の傘を差して……。

『今日の……地方は…曇りのち雨に…見込みです……』

最後まで読んでくれた方――ありがとうございます!

尚且つ――前作を読んでからこちらを読んだ方――どうでしたでしょうか?

まぁどちらにしても楽しんで頂けたならば幸いです。

それでは次回作まで――ではまたッ!

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