夢幻戦役-5
帝国軍の尖兵は五千程の騎馬隊だった。特に優秀な騎士ばかりを集めた精鋭部隊だ。彼らは海岸線から進攻してシルフリアを制圧し、そこから南に向かってフェアリーラントを目指していた。
帝国軍首脳部は、この尖兵だけで決着がつくと踏んでいた。それも当然の事だ。これから攻めようとしているフェアリーラントには軍事力がないのだ。
帝国軍の侵略は特に邪魔も入らずにすんなりと進んだ。誰も抵抗はしない。無条件降伏に近い状態だ。少なくとも首都フェアリーラントまではそうだった。
フェアリーラントを目前にした五千の騎馬隊は、重厚な鎧に身を包み、立ちはだかる者全てを容赦なく打ち砕く悪魔の軍で、まったく抵抗しないシルフリアの人々を虐殺していた。
「おい、何だあれは?」
先頭の列をいっていた騎士の一人が遠くを見つめて言った。隣にいた騎士も釣られて額に手をかざす。
「鳥の群れか?」
「・・・違う、あれは鳥じゃない」
「じゃあ何なんだ?」
「わからないな、一応警戒を・・・」
先頭の騎士がそういいかけた時だった。前方に光が煌き、数瞬後には七色の波動が隊列の中央を貫いた。騎士たちはその光に飲まれて消滅した。
帝国軍は一瞬にして相当数の戦力を失った。いきなり謎の攻撃をしかけられて混乱する。隊列は乱れ、命令系統は迷走、もはや錯乱状態だった。
乱れる軍の上空に光が下りてくる。その姿を見た者は、神々しい姿に混乱を忘れた。
少女の背中にある透き通った蝶の形の翅は七色に煌き、見る角度によって色合いが変わる。黒い瞳にも同じような輝きが乗っていた。七色のフェアリー、エクレアの光臨だった。
「なんて美しい・・・」
騎士たちが感じている魅力は、男が女に感じるものとはまったく異質、例えるならこの世に二つとない至高の宝石を見ているような感覚だ。
「何で来たの? あなたたちが来なければ、こんなに苦しい思いをすることもなかったのに・・・」
四枚の翅が眩い光を放つ。すると、地面に巨大な魔方陣が浮かんだ。騎士たちは奇怪な現象に戸惑うばかりだった。
「地に雷帝、空に雷神、愚かなる者どもに裁きを与えよう!」
無垢な少女の声が響くと、魔方陣が帯電して、電気が弾けて音を立てる。魔方陣の上にいる騎士たちはわけが分からず眉を寄せた。
七色の少女が片手を天に掲げると、魔方陣から凄まじい電流がほとばしる。魔方陣の上は瞬時に地獄と化した。地上から空に幾筋もの電流が走る。言うなれば地から空へと逆行する稲妻だ。魔方陣の中にいた兵士はひとたまりもなかった。声を上げることも出来ずに消し炭になって倒れていく。
その後で小さな兵団が帝国軍に接近してきた。それは言うまでもなくフェアリーラントを守るフェアリーたちだ。
帝国軍五千の兵力に対して、フェアリーの数は百あまり。数の差は歴然としているが、フェアリーたちの力は常軌を逸していた。
火の玉や光線が矢継ぎ早に帝国軍に打ち込まれる。ある者は爆撃に巻き込まれ、ある者は閃光に貫かれて、帝国の騎士たちは次々と倒れていく。
「虫けらどもめ! 何をしている矢を持て! あんなものさっさと撃ち落としてしまえ!」
指揮官の檄が飛ぶ。フェアリーの一団に無数の矢が迫った。
その時、白い翼を持った天使の様な少女が出てきて両手を前にかざした。すると、微量の光を放つ膜がフェアリーたちを包み込む。矢は硬い音をたてて、光の膜の前に弾かれた。
「ばかな・・・」
指揮官は呆然とした。その視界に三人のフェアリーが飛び込んでくる。彼らは翅の色から服の色まで、赤、緑、橙と、一人一色に染まっていた。
指揮官はあっと声を出した。いきなり地面から蔓が伸びてきて、指揮官をがんじがらめにしたのだ。周りの部下たちも同じように捕まっていた。蔓はか細い割には恐ろしく頑丈で、もがくほどに体を締め付けた。さらに炎の嵐と大地の錐が追い討ちをかける。ある者は火達磨になって転がり、ある者は隆起した大地に貫かれた。指揮官も例外なく犠牲になった。
フェアリー部隊が帝国軍の上空にさしかかると、武具を持ったフェアリーたちが降下した。
帝国の騎士たちはチャンスだと思った。体も小さければ武器も小さいフェアリーだ。まともにやり合って負けるはずはないと誰もが信じたかった。しかし、勝算がなくて敵と戦うほどフェアリーたちは愚かではない。
突撃するフェアリーたちの先頭を行くのは、輝く翅を持つフレイアだった。左腕に光の盾を付け、右手には光の矛を持つ。彼女が地上につくと、帝国騎士が斬りかかってきた。それは造作もなくよけられ、騎士の背中を光の矛が袈裟斬りにする。騎士は血を噴出し、声もなく倒れた。
「かかってくると言うのならば容赦はしません」
フレイアは言った。それは騎士たちに対する警告だったが、逆に火をつけてしまった。
「このチビが! 調子に乗るなぁ!」
数人が同時にかかっていくが、フェアリーは体が小さい上にすばしこいので、捉えるのは容易ではない。どう斬り込んでも当たらない。フレイアはよけた後にカウンターで斬り返した。最初に斬りかかった騎士は頭部を兜ごと縦に割られ、次に攻撃してきた二人の騎士は、それぞれ首と胸を裂かれて、三人は血煙をあげて同時に倒れた。
フェアリーたちの持つ武器はミニサイズだが、魔力が宿っていて見た目とは相反する破壊力がある。それは騎士たちの鎧兜を難なく破壊して致命傷を与える。
騎士たちはフェアリーの戦士に次々と倒されていく。フェアリーの小さな体に秘められた力は絶大だった。帝国軍は途方に暮れた。
「撤退! 撤退ーっ!」
もうそうするしかない。まったく予想もしなかった敵に想像を絶する攻撃、混乱は頂点を極め、帝国軍は完全に決壊した。
この日の夜は満月だった。
白銀の月に写る影が二つあった。月に浮かぶシルエットは蝙蝠と鳥のようであるが、月光が照らし出すそれらの姿はまったく別のものだった。
薄明に浮かぶ者は、一人は黒い翼に猫のような瞳と自分の体よりも大きな鎌を持つ少女、もう一人は蝙蝠の翼と闇に光る赤紫の瞳を持つ少女、シルメラとニルヴァーナだった。
シルメラが羽ばたき止めて闇夜の空に静止する。ニルヴァーナもそれに習った。
シルメラは言った。
「本当にこれでいいのか?」
「・・・・・・」
「ニルヴァーナは何とも思わないのか? これから人間と戦うんだぞ」
「・・・マスターの命令だから・・・・・・」
ニルヴァーナは無表情で答える。まるで感情というものが感じられない。
「マスターだって、本当はわたしたちを戦わせたくないんだ」
「知ってる・・・」
「フェアリーは人を守るために生まれたはずだ。それなのになぜ人と戦わなければいけない」
「シルメラ・・・」
ニルヴァーナは、シルメラをじっと見つめた。シルメラはしかめ面のまま黙っている。
「・・・マスターの命令は絶対・・・」
「昼間の戦いでは、多くのフェアリーが心を失った」
「わたしたちはそうはならない・・・宝石の輝きが強いから・・・」
「・・・いまさら、うだうだ言っても仕方ないか」
シルメラは余計な事を考えるのを止めた。どの道もう後戻りする事は出来ないのだ。
ニルヴァーナは静かにシルメラを見つめていた。赤紫の瞳には、今にも叱咤されそうな凄みがある。
「・・・もう行く・・・」
ニルヴァーナが闇色の翼を広げて先へ行くと、シルメラは肩を落としてニルヴァーナの後を追った。
二人がいくらも飛ばないうちに森の中にいくつも光点が見えた。撤退した帝国軍の焚き火だ。
「見つけた・・・」
「行こう」
二人は漆黒の翼をばっと開いて急降下した。二人の降下速度はぐんぐん上がり、地上つく寸前で直角に曲がって地上と水平に飛ぶ。小さな体でありながら、周りの草木に風圧を撒き散らす程、凄まじい速度だった。そして、帝国軍の陣営が近づいてくるとまた急上昇する。
「二人だけで全滅させる。中途半端に潰すとまた攻めてくるからな」
「・・・了解・・・」
帝国軍を包み込む空気は疲れきっていた。その場にいるだけで気持ちが沈むような雰囲気だ。
数人の兵たちが焚き火を囲んで話をしている。
「昼間のありゃあ一体何だったんだ」
「俺には夢だったように思えるよ」
そう言った男が焚き火に薪を投げ込む。誰もが昼間の出来事を思っていた。途轍もなく恐ろしい、しかし神秘的な体験だった。
「このまま撤退するのか?」
「それはないな。あんなちっこいのにやられて撤退しましたなんて、認められるはずがないさ」
「明日には援軍が来て強力な弓を配給するらしい」
「弓なんて、まったく効かなかったじゃないか・・・」
何の予兆もなく焚き火の炎が激しく揺れた。兵士たちは訝しい顔をする。突然、真上から不自然な強風が吹いて焚き火を掻き消した。
「何だ?」
兵士たちは武器を取って立ち上がる。円陣の真ん中に気配が下りてきた。暗闇なので姿は見えないが、何人かは闇の中で光るキャッツアイを見た。
「人間たちよ! せめて安らかに眠れ!」
闇に閃光が走る。シルメラは大鎌を持ったまま三百六十度回転した。それに数瞬遅れて兵士たちの首が真上に吹き飛んだ。闇の中に血が勢い良く噴出す異様な音がする。シルメラはその身に血を浴びて立ち尽くした。
「ついに、やってしまった・・・」
シルメラの近くで複数の悲鳴が響いた。
ニルヴァーナは敵とすれ違う瞬間に急所を断った。喉を裂かれた兵士たちが血を吹きながら転がる。ニルヴァーナの攻撃があまりにも早いので、襲われた者は何も理解できずに沈んでいった。
辺りが騒がしくなった。誰一人何が起こっているのか理解できていない。次々と仲間が倒されていくのに敵の姿が見えないのだ。
「どうなっているんだ! 誰が、誰がこんなことを!」
惨状を見た帝国の騎士たちは震えた。残酷に切り刻まれた死体は、人間の仕業とは思えなかった。恐ろしい存在が森の中に紛れ込んでいる。彼らの脳裏に昼間の戦いがまざまざと蘇った。
「これも、フェアリーの仕業なのか・・・」
その時、木々の間から黒塗りの鎌が激しい回転をともなって飛んできた。騎士たちは迫ってくる鎌から散々に逃げ出した。だが、黒い鎌はまるで意思があるように正確に騎士たちを追い回す。一人、また一人と、後ろから胴を断たれて絶命していく。
夜の森は地獄と化していた。帝国兵は引くことも戦うことも出来ずに、見えない敵に命を奪われていった。
「もう嫌だ! 誰か俺を助けてくれーーーっ!」
男が一人、助けを求めるように焚き火の明かりの前に来て叫んだ。その男の前に雫が落ちた。男は雨かと思ったが、良く見るとそれは赤かった。
「血!」
見上げると、男が生まれて初めて目にするものがいた。背中合わせに浮いている漆黒の翼を持つ少女たち、一人は血染めを鎌を持ち、もう一人は両手から返り血を滴らせていた。焔に照らされる彼女たちの姿は、何よりも恐ろしく、そして幽玄だった。
「悪魔か・・・」
男は呆然と黒いフェアリーたちを見ていた。そこに仲間が集まってくる。すると、黒い存在から詩のような言葉が紡がれた。
「闇の王は羽ばたき」
「深淵に流るる風を起す・・・」
「命を吹き消す死の風は」
「生を砕く滅びの調・・・」
二人の黒い翼がより大きく広がり、急激に黒い竜巻が起こった。近くにいた人間たちはたちまち飲み込まれ、死の螺旋に巻き込まれた。竜巻はとどまるところをしらず巨大になっていく。ただの竜巻ではない。黒い風には命を砕く力がある。巻き込まれた瞬間に死が確定する。
「お母様、お許し下さい・・・」
シルメラは人々の叫びを聞きながら涙を流した。
全てが終わった後、ニルヴァーナとシルメラの周りは荒れ果て、散乱する帝国兵はもうだれも生きてはいなかった。多くの木々が折れて吹き飛び、命を奪う黒い風で草もすっかり枯れていた。動くものは自分たち以外に誰もいなかった。
「今にも意識が吹き飛びそうだ。神にでも祈った方がいいのか」
「・・・私たちは人間じゃない・・・祈るなら・・・」
ニルヴァーナは真上の星空を見上げた。
「お前は何ともないのか、あれだけの人間を殺したのに・・・」
シルメラが言うと、ニルヴァーナは血まみれの両手を見て目を細めた。
「・・・ニルヴァーナ、泣いているんだな。わたしにはわかる」
シルメラは夜空を見上げる。瞳から涙が溢れてきた。
「どうしてこんな事になる! 私たちは何のために生まれてきたんだ!」
シルメラの叫びが夜空に響き渡る。彼女たちを見下ろす満月と星々が、どことなく悲しげだった。
ノルンの村では、夢幻戦役から五十年たった今でも、語り継がれている叙事詩がある。
恐ろしい悪魔の群れがやってきた
村を消しにやってきた。
もうだめだ、逃げる、逃げる、村人達
もうだめだ、みんなが生きる事を諦めた
大丈夫、わたしが守るから
美しい人が言いました
村を守る為に美しい人は出ていった
可愛い妖精を連れて出ていった
恐ろしい悪魔達は青い炎に焼かれて死んだ
村を守った美しい女も死んだ
青き炎を纏いし少女が最後に残った
わたしたちは忘れない、あの美しい人を忘れない
それは、エリアノの妹であるリリーシャ・ミエルを称える詩だった。
夢幻戦役でノルンの村は消えるはずだった。村を救ったのは、たった一人の女性と、たった一人のフェアリーだった。
その時、バシュトール帝国軍二千の予備軍は、本隊からの連絡が途絶えたのをきっかけに、フェアリーラントに急行していた。まさかフェアリーに本隊が全滅させられたなど、誰も考えられるはずがなかった。
帝国の進軍経路上にはノルンの村があった。帝国軍は残虐な人間が多く、無抵抗の人々を無為に殺すなど当たり前のようにしていた。進軍の途上でノルンの村が滅ぼされるのは確実だったのだ。
それを知ったリリーシャは、相棒のテスラを連れて村を出た。しかし、テスラには何も言っていない。それは、テスラが極度に臆病な為に、今から戦いに行くなどと軽弾みに言えなかったのだ。
リリーシャは、姉のエリアノとは違って活発で物事をはっきり言う歯切れの良い性格だった。薄桃色の長い髪をポニーテールにまとめて、青い瞳は少し鋭い感じで、リリーシャの気の強さを語っていた。
リリーシャは、テスラを乳飲み子のように抱いて歩いていく。テスラは、急に出かけると言い出したリリーシャを不思議そうに見上げていた。
「ねえ、テスラ」
「にゅ?」
「姉さんが何でフラウディアの女王になったのか、あなたは知らないわよね」
テスラが首を横に振ると、リリーシャは言った。
「フラウディア王家の人たちが流行病で不幸にあったの」
「不幸?」
「みんな病気で死んじゃったのよ。王家不在になったシルフリアは、国民投票で国の指導者を決めた。そうして選ばれたのが、わたしの姉さんだった。姉さんは、フェアリーを生み出して有名人になっていたからね」
テスラは困惑した顔でリリーシャを見つめていた。
「何だかよく分からないって顔をしているわね。それでもいいのよ、ただ誰かに聞いて欲しいの、姉さんの話をね」
「聞くよぉ」
テスラは主人の望みににこやかに答える。リリーシャは満面の笑みを浮かべた。
「姉さんはね、皆の幸せの為に頑張りたいって言ってたの。でもね、お城には悪い人がいっぱいいるから、自分はいつかいなくなってしまうかもしれないって言っていたわ。それでも姉さんは頑張ったのよ。税金を軽くしたり、貧しい人に食べ物を与えたり、フェアリーも創った」
リリーシャは、変わらずに微笑のまま話をしていたが、話し方に妙な湿っぽさが混じってきた。テスラはそれを敏感に感じ取って、自分も何だか悲しい気持ちになった。
「姉さんは本当に頑張ったのよ。でも、いなくなってしまった」
「お母様いなくなっちゃったの?」
「ええ、姉妹だからかな、分かっちゃうんだよね。姉さんはもうこの世界にはいない」
「ふうぅ、そんなのやだぁ」
テスラがわあわあ泣き出すと、リリーシャは抱きしめて幼子をあやすように背中を叩いた。
「安心して、姉さんはいつかノルンに帰ってくるわ」
「帰ってくるぅ?」
「そうよ、姉妹だからわかるの」
「よかったぁ」
テスラは顔を上げて、またにっこり笑う。素直に信じるテスラが可愛くて、リリーシャは微笑むと同時に、どうしようと思った。この状態で一緒に戦ってほしいなど、言い難くてしょうがない。
しかし、もう時間がなかった。リリーシャは大きく息を吸い込むと、思い切って言った。
「わたしはノルンを守りたいのよ。ノルンがなくなったら、姉さん返ってこれなくなっちゃうもの。だから、テスラの力を貸して欲しいの」
テスラは、リリーシャの言ってる意味が分からなくて首を傾げた。
「もうすぐ帝国軍がここにやってくるわ。素直にノルンを避けて通ってくれるならいいんだけど、そうでなければわたしたちが戦って村を守る」
「ええーっ!」
テスラは驚くと飛び上がって、不安いっぱいの表情でリリーシャに言った。
「無理だよぉ、戦うの嫌だよぉ」
「お願い、あなたの力が必要なの。このままじゃノルンの人たちもみんな殺されて、姉さんの帰る場所もなくなっちゃう。どうしてもノルンを守らなきゃならないのよ」
「みんな、殺される?」
リリーシャが頷くと、テスラは、『ううーっ』と唸った。
「大丈夫、あなたなら出来るわ」
リリーシャにそういわれると、テスラは何でも出来そうな気がしてきて、勢いよく両手を挙げた。
「わかった、テスラ頑張るよ!」
「ありがとう」
リリーシャが曲げた右腕を出すと、テスラはその上に座った。
「わたしたちは村を守る正義の味方よ。いざ行かん、正義の戦いへ」
「ご~、ご~っ」
正義と言う言葉は、テスラを鼓舞するのに分かりやすい言語を選んだと言うだけの事だった。にもかかわらず、リリーシャは自分の言った正義という言葉に激しい嫌悪を感じた。
―正義ね・・・戦いに正義なんてないわ。わたし達は村を守る事が正義、帝国軍は侵略する事が正義、でもそれは正義じゃない。考え方や目的が違うからぶつかり合って戦うだけの話、戦争に正義も何もないって、よく姉さんも言っていたっけ。
リリーシャが視線を真直ぐ前に移すと、ずっと遠くの方に無数の影が見えた。
―戦う事が罪でもいい。例えそうであっても、そのせいで生まれ変わってもずっと苦しむ事になっても、それでもわたしはノルンを、姉さんの故郷を守りたい!
無数に響く蹄鉄の音は聴覚に重くのしかかり、銀の鎧兜を纏った騎馬兵たちは、隊列を組んで隊をなし、巨大な魔物を見るように圧巻だった。その前に立ちふさがる女が一人、彼女の存在感の大きさに、騎馬の大部隊はそれを蹴散らすことは出来なかった。たった一人の人間と、小さな群青のフェアリーが、大軍の進攻を止めた。
「何用だ、女」
先頭の将軍がリリーシャに問う。
「この先にある村を避けて通って頂きたいのです」
「そんな事を言う為に、我々の前に出てきたのか・・・」
「どうか、お聞き入れ願いますよう」
「その勇気に免じて、お前だけは助けてやろう」
「わたしなど、どうなってもかまいません。どうか村を助けて下さい」
リリーシャが訴えても、帝国の将軍はあざ笑うだけだった。
「それは出来んな。わたしの気が変わらないうちに、さっさと消え失せるがいい」
「そうよね。ま、最初から期待していなかったけどね」
リリーシャがころっと態度を変えたので、帝国将軍は兜の下で眉をひそめた。
「ここから先は通せんぼ、通れるものなら通ってみなさい!」
「なにぃ?」
「フェアリーの力は本来、戦いに使われるべきものではないわ。でも、あなた方には見せてあげましょう、フラウディアの英知の結晶、フェアリーの力をね」
リリーシャは懐からカシミールサファイアのペンダントを取り出し、それを両手で握りこんだ。そうすると、青い光が指の隙間から漏れ出し、足元に青い魔方陣が浮かんだ。そして、魔方陣から発生したドーム状の光がリリーシャを包み込む。
「テスラ、力をあげるわ。さあ、みんなを守るために戦うのよ!」
マスターの声に答えてテスラが飛び上がると、背中に四枚ある群青の翅が燃え上がり、青い炎に包まれた。
「地獄より出でたり冥府の炎、深き罪を焼き尽くす魔炎よ!」
テスラの紡ぐ呪文と共に、前方に向かって五つの魔方陣が現われ、呪文が終わると同時に闇色の炎が魔方陣から噴出した。黒い炎は巨大なうねりとなって、前方にあるものを瞬時に灰にする。
テスラの黒い炎は、魔炎と呼ばれる力で、どんなものでも焼き尽くす事が出来た。
魔炎のうねりは帝国軍の最前列から後尾まで突き抜け、帝国軍は縦に長く隊列を組んでいたので、この一撃で大ダメージをこうむった。
帝国軍は二千の兵力のうち、将軍も含めて千以上の騎士が跡形もなく消えた。
テスラは青い火の粉を散らし、炎の尾を引きながら上昇して、人差し指を空に向けた。辺りが薄暗くなり、上空に巨大な魔方陣が浮かび上がる。
殆どの敵兵が、逃げる事も忘れてそれを見上げた。
やがて、魔方陣から黒い炎の豪雨が降り注いだ。小さな火の玉は騎士たちの体を貫通して、無数の敵が蜂の巣になって倒れていった。
「女だ、女を狙え!」
誰かが言うと、数人の騎士がリリーシャに殺到した。マスターであるリリーシャを狙うのは当然の判断と言える。魔力の供給源であるマスターが倒れれば、フェアリーの力は半減してしまうのだ。
そんな事は当のリリーシャも分かっている。彼女は既に、最大の弱点を完璧にガードしている。
騎士たちが剣を振るおうが、矢を射ろうが、全ての攻撃はリリーシャを包む青い光の前に弾かれた。
「考えが甘いのよ。あんたたちは、テスラに焼き殺されるか、この場から逃げるか、二つに一つしかない」
騎士たちが戦慄して踵を返すと、目の前にテスラが浮いていた。テスラの周囲から黒炎が円状に広がり、騎士たちはそれに巻き込まれて蒸発した。
「テスラ、村に行こうとする者は必ず倒しなさい。逃げるのは放っておいていいわ」
「うん、わかった」
テスラは鬼神のごとく戦った。いつもは臆病で震えてばかりいるフェアリーだが、リリーシャと一緒にいるときだけは、勇気を出して戦う事が出来た。
帝国の騎士たちは、ほとんど逃げずに向かってきた。誇り高きバシュトール帝国軍が、虫けらの如き卑小なフェアリーなどに負けるなど、あってはならない事だった。彼らは死に物狂いでテスラとリリーシャに向かってくる。
テスラの体はいつの間にか青い光に包まれ、内は溢れんばかりの魔力に満たされて、いくらでも戦う事が出来るような気がした。だが、帝国軍もほとんど全滅近いという時に、魔力の供給が急に止まった。
同じ頃、リリーシャは胸を押さえて蹲り、今日明日にも死ぬような病人のように異常な喘ぎ方をした。地面の魔方陣は消滅して、守りの光も消えた。そこに、兜を脱いだ帝国騎士が近づいてきた。
リリーシャはゆっくり立ち上がり、騎士の前で両手を広げた。男はあっけに取られて硬直した。
「フェアリーの犯した罪は、マスターの罪でもあります・・・」
リリーシャの心臓に刃物を突き立てるような痛みが走った。リリーシャは言葉を切って左胸をわし掴みにすると、苦しい表情のままで言った。
「わたしは・・・あなたの仲間を、たくさん殺しました・・・だから、斬られても文句は言えない・・・」
リリーシャは騎士の瞳を見つめた。純粋で崇高な意思の溢れた瞳は、悲しげに揺れていた。まるで、斬って下さいと言っているようだった。
「いい覚悟だ」
騎士は剣を振り上げ、そして一瞬の躊躇もなく白刃が斜めに走った。リリーシャは、左肩から胸まで斜めに斬られて、ゆっくりと、仰向けに倒れた。
「うああああっ!!?」
後ろから聞こえたテスラの絶叫に、リリーシャを斬った騎士は体を振るわせた。振り向く間もなく、後ろからテスラに髪の毛を掴まれて、激しく左右に揺さぶられる。終いには頭が黒い炎に覆われて放り出された。騎士は苦しむ間もなく首から上が消失した。
「リリーシャぁーっ!!?」
テスラは上半身が血まみれになって変わり果てた主を見て泣き叫んだ。テスラの涙がリリーシャの顔に落ちると、リリーシャは目を開けて微笑した。
「しっかりしてよぅ、死なないでよぅ」
「テスラ・・・これを、お願い」
リリーシャは手を伸ばして、テスラと掌を重ねた。リリーシャの手が力なく落ちた後、テスラの小さな手の中には血のついたサファイアのペンダントが残されていた。
「あなたに、最後の、お願い・・・娘を守って」
テスラは不安と悲しみで顔をくしゃくしゃにして、もうどうしていいのか分からなかった。リリーシャはそれを安心させるように微笑して言った。
「大丈夫、あなたなら・・・出来るわ・・・」
それは、リリーシャ・ミエルとしての最後の言葉だった。
「ふうぅ、しっかりして、起きてよ、目あけてよぉ!」
テスラがいくら揺すっても、もうリリーシャが答えるはずもなかった。
「ふうぅ・・・」
テスラの目つきが変わった。生まれて一度も見せた事がない、憤怒に燃える青い瞳が、生き残っている帝国騎士たちを睨みつける。青い炎が宿る翅は、さらに燃え上がって大きくなった。
「ふああーーーーっ!」
例えリリーシャがいなくなっても、残りの魔力で十分に敵の残党を狩り尽すことが出来た。テスラは怒り狂い、もう帝国軍には生き残る術がなくなってしまった。
帝国軍七千の兵は、フェアリーたちの前に打ち砕かれ、フラウディアは侵略から逃れる事ができたのだった。
帝国の皇帝はあまりにも信じがたい報告にしばらく沈黙していた。白髪に白髭のいかつい顔が次第に歪んでいく。
「全てフェアリーにやられたというのか。生き残ったのはたったの一人、おまえだけだと・・・」
皇帝の前に跪いていた男は顔を上げて言った。
「あれは、夢です、幻です、あんな事があるはずがありません! わたしは悪い夢を見ていたんだ!」
男は錯乱していた。男が夢幻と言おうが、帝国軍七千の兵がほぼ全滅した事実は消えない。
「フェアリーは子供や老人の相手をするだけのちっぽけな存在ではなかったのか。噂とはあまりにも違いすぎる。これが事実だとすれば、人間は何と恐ろしいものを作ったのか・・・・・・」
その時、少女の笑い声が部屋にこだました。近衛騎士たちが声の主を探しつつ剣を抜いた。
「ここだよ」
声の主は突然真上から舞い降りてきた。どこから入ってきたのか、フェアリーが皇帝の目の前に浮いていた。
小さな少女は青みのある銀髪を黒いリボンでポニーテールにして、真紅の瞳には凶暴性が見え隠れしている。何よりも見るものを圧巻させたのは、ゆっくりと開いた六枚の翅だった。左右に三枚ずつ、闇色の翅がついている。闇色と言っても、向こう側が透けて見えるほど透明感があり、さらに赤や緑などオーロラのような輝きが乗っていた。闇以外の色が常に蠢いて変化し続けている。コッペリアだ。
「ひいぃぃっ! フェアリーっ!」
跪いていた男は、皇帝の前と言うことも忘れて恐れおののいた。
「何だ貴様は!」
近衛兵の一人がコッペリアを後ろから斬ろうとして剣を振り上げた。その瞬間、両腕の手首から上が飛んだ。
「う、うわああぁぁぁぁっ!!?」
その騎士は手のなくなった事に気づいて泣き叫んだ。他の近衛騎士が身構える。その時、コッペリアが三日月の笑みを浮かべた。
小さな体から白い波紋が広がって消える。それは一瞬の出来事だった。近衛騎士たちはほぼ同時に胴を切断され、墳穴泉のように血を撒き散らして床に崩れた。皇帝の前で萎びていた男も首から上が飛び、その頭が皇帝の足元に転る。生き残ったのは、皇帝と両手を切断された男だけだった。
「あ、あああ!!? 何だこれは、化け物だ!! 誰か、誰かーっ!!」
両手のない男はあまりの出来事に発狂した。男が背を向けて逃げ出そうとしたとき、すでに殺された同胞と同じ運命をたどった。体が二つに分かれ、胴から上は真後ろに転がり、下半身は何歩か前に歩いてから倒れた。
凶悪なるフェアリーは、薄笑いを消さずに言った。
「皇帝、わたしはわざわざシルフリアから出向いて来たんだよ。何か言っておくれよ」
「・・・まさに夢幻の力、フェアリーという存在を見誤った」
「それが死出の言葉かい」
皇帝の体に衝撃が走った。皇帝の額から真直ぐ縦に朱の線が浮いてくる。
「お前は何だ、神か、悪魔か」
「フェアリーだよ」
皇帝は鮮血を散らして座っていた椅子ごと真っ二つになった。辺りには無残な死体が転がり、血のに臭いが充満した。
「ククッ、アハハ、アハハハ、アーッハハハハハ!」
凶悪なフェアリーは両腕を広げて狂ったように笑った。
コッペリアの周りに光が集まってくる。莫大なエネルギーの収束。コッペリアは光に包まれ、極限まで高まったエネルギーがついに爆発した。光は部屋に転がっていた死体を塵と化し、ドーム状に広がり続けた。そして、城はあっという間に白い世界に埋没した。全てを無と化す死の光の中から、少女の楽しげな笑い声がいつまでも聞こえていた。
これが、今から五十年前に起こった夢幻戦役と呼ばれる戦いだった。
シャイアは全てを聞き終えて、コッペリアが何故これほどまでに悲しむのか知った。
コッペリアは今でもエリアノを母と呼び、心の底から愛していた。その母が望んだ世界は完膚なきまでに破壊され、最も望んでいなかった世界が大手を振るって座している。
シャイアは、最愛の父を目の前で殺された。そのせいかコッペリアの気持ちが分かった。
「こんな世界、壊してしまえばいいわ。そして、あなたのお母様が望んだ世界にすればいい」
シャイアに抱かれていたコッペリアは、上を向いて泣きはらした顔を見せた。
「わたしはお前の復讐の為に手を貸す。その代わりに、全てが終わったら、わたしに手を貸しておくれ」
「この世界を壊すのに、わたしの力が必要なのね」
「そうさ」
「いいわ、復讐さえ果たせれば、後はどうなったってかまわないもの」
「約束だよ」
コッペリアが小指を立てると、シャイアはそれに自分の小指を絡めて指きりした。
二人は固い約束を交わした。それはシルフリアに地獄を呼び込む魔の契りだった。
夢幻戦役・・・END